第3話
静かな喫茶店の中、私たちを向いた汚れた黒い顔、その浮浪者を睨む男。
私はここで、ぼんやりと、しかし確かな答えに当たった。
これは、夢だ。
「お前が、私の愛する娘を、ユイを奪い去ったのだ」
男は立ち上がり、それまでの淡々とした調子を捨て、声を荒げて言い放った。
私は確かに、この男を知っている。この男と会っている。三十年前に、今と同じ姿の彼を。
〝ユイが消えてしまった〟夜遅くに宿に戻った私を叱りつけようとした父に、子供ながらに深刻な表情でそう言うと、事態は動き始めた。私の――支離滅裂だったらしい――話しぶりにただならぬ予感を受けて、父は警察を呼んだ。ユイの母親はその半年前に亡くなっており、またユイの父親は重要な仕事で出張していてすぐに駆け付けることはできなかった。しばらくして警察がやってきて、私への聞き取りが始まったのだが、普通じゃない精神状態だった私はほとんど意味のある返答ができずに、ただ、〝灯台でユイが消えた〟という言葉をずっと繰り返していたらしい。
何人かの警察官がユイの捜索に駆り出されたが、ユイが自宅にいなかったのはもちろんの事、彼女が普段どんなところに立ち寄っているかといった情報が極端に少なかったため、捜査は手間取った。とりあえずは灯台の周辺を捜索することになったのだが、最悪なことに、その夜は土砂降りの雨が降った。
そうして何の手がかりもなく一日が過ぎて、ユイの父親が戻ってきた。私はその日以前に、自宅の門の前でユイと会話をする彼を見かけていたのだが、その日、事件の次の日に私に迫ってきた彼は、静かにユイに語り掛けていた時の厳めしい印象とはうって変わって、何というかそう――
「ユイを返せ」
浮浪者は両手に抱えた深紅の風呂敷を高々と掲げた。その動作に男は身体を震わせ、風呂敷に吸い込まれるようにふらふらと浮浪者に近づいて行った。
「そうだ、それだ」
風呂敷から小さな滴が垂れ落ちていく。中身は酷く濡れているらしかった。よく見れば浮浪者の着ている服も、ところどころ赤く滲んでいるようだった。
「それを、よこせ」
浮浪者はしかし、男の呼びかけには答えず、じっと私の眼を見つめている。
「よこせ」
男は短く叫ぶと、浮浪者に飛びついた。二人の体は勢いよく床に倒れて、深紅の風呂敷は後方に投げ飛ばされたが、男はそれに気付かず興奮した様子で浮浪者の胸倉
を掴み、何事か叫んでいる。
「あれは、ユイは、――の**なんだ!私に残された……なんだ!」
そう同じだ。
三十年前の、封印した記憶を見ているようだった。
ユイの父親は私の姿を認めた途端、激しい憎しみの眼を向けて、私に罵詈雑言を浴びせた。当時の私は、大人に――それも社会的地位の認められた大人に――純粋な敵意を向けられた経験などなく、怯え切って何の反応も起こせなかった。ついに、彼は私に手をあげようとしたが、それは周りの警察官と私の父親によって止められた。
その時と、まるで同じなのだ。
娘を返せと咆哮し、相手に飛び掛かる男。
では、あの浮浪者は一体……?
状況を整理しよう。
まず、私は酷く酔った状態で歩いていた。いつの間にか見覚えのない道に迷い込み、あの浮浪者に誘われるように喫茶店に入った。
喫茶店には三十年前と同じ姿の人物がいて、彼は三十年前に消えた少女の名前を叫んでいる。
これらの事を踏まえれば、単純に考えて私は今夢の中にいる。そして夢である以上、この場に在るもの、この目に映るものは全て私が元々持っていた情報を頼りに構成されていることになる。例えば、ユイの家――あの豪邸の横には確かに喫茶店があったし、あのおかしな袋小路も十字路も、きっとユイの町のものなのだ。実際に喫茶店に入ったことはなかったが、その内装についてはユイから聞いていた気がする。
では、あの浮浪者はどうだ……?
三十年前、私はやつを知っていただろうか。いやそれよりも男の言う、あの浮浪者がユイを奪ったとはどういう事だ。やつがユイを攫った――攫ったのか?――犯人なのであれば、私の夢である以上、私はそのことを知っていた事になる。はっきりとその犯行を目撃していなくても、潜在的に「あの浮浪者が犯人である」という結論に至る情報を得ていたはずだ。
しかし、あの灯台の中には、私以外に生き物の影すらなかった。あるのは回廊へと開かれたドアと、灯質の中のほこりっぽい空気と、潮の匂いだけだった。そこにはあんな浮浪者の、いや人の入り込む余地など決して無かった。
どうやってユイは消えたのか。根本的な問題はそれだ。ユイが灯台に入ってから、私が灯台の頂上につくまでの時間、つまりユイの姿を見ていなかった時間は、長く見積もっても一分程度だろう。彼女が螺旋階段を上る音が聞こえていた時間も含めれば、それはさらに短くなる。そんな中でユイはどうやって消えたというのだ?
物理的に不可能とは言わない。灯台の回廊から勢いよく飛び降りれば、ぎりぎりで崖を超えてそのまま海に落ちていたかもしれない。しかし灯台の頂上について僅か数十秒の間に、それを思い立つ理由が有るだろうか。ユイは私に追いかけっこに誘うような悪戯っぽい視線を送っていたのだ。そんな人間が……
あるいは、突き落とされたか。
例えば、浮浪者は頂上の灯室に隠れていて、やってきたユイを思い切り突き飛ばして海に落とす。その後自分も灯台から海に飛び降りる……
意味がわからない。ユイが殺されなければならない理由も、その犯人があんなタイミングで実行をし、瞬時に自害までする、そんな事は常識的には考えられない。
いや、少なくともユイが殺された可能性は、ある。
彼女の着ていたワンピースは、今思えば明らかに暴行を受けた痣を隠すためのものたった。加えて、あの言葉、
「ここにいると、私は死んでしまうから」これは自らが何者かに殺されることを示唆していたのではないか。そうならば、私はあそこでユイを引き止めていれば、少なくともあの日ユイが消えることは無かったのではないか。
暴行……あの日、ユイは家でぐったりとへたりこんでいた。浮浪者があの家に侵入して、ユイに暴行を加え去っていき、それから私がやってきたという事なのか。真っ昼間からあんな浮浪者がただでさえ目を引く豪邸に侵入するなんて、そんな目立ちすぎる事をするだろうか。いや、暴行が朝である必要はないし、あの家の中で行われたという保証もない。何より私は家の中に入ったが、目立つような乱れはどこにも見えなかった。例えば、前日の夜にユイがふらっと家を出たところを、あの浮浪者が襲って……嫌な光景ではあるが可能性の一つとしては捨てきれない。
いや駄目だ。ユイの父親はあの日の朝に出張で家を出た。ならば暴行が行われたのは朝から昼の間という事になる。
待てよ、暴行に関しては、ユイの父親によるものとする方が簡潔かつ論理的ではないだろうか。父親ならば、あの日の朝――もしくは前日の夜に自宅でユイを暴行することは容易なはずだ。ユイの父親は娘に熱烈な愛情を注いでいたことが伺えるが、その激しい感情が暴力というベクトルに変換されるというのは、可能性として十分にある。父親からの虐待が原因で、ユイは灯台から身を投げた。それはあり得る。
しかしそうなるとまた、これが私の夢の中であるという第一条件が引っかかってくる。浮浪者が登場してこないのだ。ユイの父親が責め立てる、やつは一体何者なのだ……?
〝抑圧された記憶、あるいは解離された記憶は、一体どうなると思う?〟
ユイの父親の言葉――この夢の中での、だが。これはつまり、私が認識している記憶にはどこかに歪みがあるという事だろうか――この夢の中での言葉である以上、私は無意識にその歪みを認識しているのだ。あの夏の、ユイとの記憶において歪んでいる部分……
――そういえば。
私は長い思考を止めた。
――やけに静かだ。
いつの間にか、ユイの父親は立って浮浪者を羽交い絞めにしていた。首を強く絞める左腕、胴体を押さえつける右腕、そしてその先には浮浪者の胸元に突き付けられた鈍い銀色の輝き……
浮浪者は声を上げることも、抵抗することもなく、自らの心臓に向けられたナイフをじっと見ている。二つの眼以外は黒っぽい汚れと醜く伸びきった髪と髭に覆われていて表情を読むことができなかった。父親は狂気の色を顔面に纏って、その姿勢を崩さない。
「あなた、何を」
私は思わず近づこうとしたが父親はナイフを私の方向に向け威嚇した。私が怯むとすぐにまた浮浪者の胸に押し当てる。
「動くな」
父親は浮浪者を引きずるようにしてゆっくりと後ずさっていく。振り子時計の音がやけに響いた。二人のすぐ後ろにあるのは浮浪者が抱えていた深紅の風呂敷。あれは、あの中身は――
浮浪者の体が風呂敷の真上に来たところで、父親は足を止めた。
「今からこいつを殺す」
「……!」
「お前も知っているはずだ。この男がユイを殺したのだと」
私は知らない。こんな男は決して知らない……
「もう分かっているはずだ」
父親はげらげらと卑俗に笑い出した。
「これは、お前自身が作り出した幻影だ。この店も、私も、この男も。お前が私たちを知らないはずがないんだよ」
父親が右腕に力を込める筋肉の動きが見えた。ゆっくりと銀色の鋭い刃先が浮浪者の胸の中に埋まっていく。浮浪者の薄汚れたシャツが、ナイフの先を中心に少しずつ赤に染まる……
これは夢だ。夢の中なのだ。それは分かっているはずなのに、ナイフの刃先が少しずつ隠れる度、私は酷い焦燥感に駆られた。あの浮浪者に危害が与えられるのを私は恐れている。なのに、彼を殺そうとしているのもまた私が作り出した人物なのだ。
「私は今、ユイを取り返した!」
父親は高らかに叫んだ。浮浪者の肉を貫いているナイフを引き抜き、鮮血が溢れる。零れ落ちる血液に、深紅の風呂敷が更に赤黒く染まる。
「この男の血と引き換えに」
父親は高らかとナイフを掲げた。天井の照明に金属と痛烈な赤が反射される。父親はそれを勢いよく振り下ろして、私の耳にはっきりと聞こえるくらいの鈍い音が生まれた。
「……ァ……ウァァ……ァァァ」
その呻き声は、浮浪者が初めて喉を震わせて発した音だった。父親がナイフをぐりぐりとほじくるように動かすと浮浪者の呻き声は波打つように強まった。血液は勢いよく飛び散り父親の綺麗なシャツを、床を、レザーのソファを汚していく。浮浪者の真下にある風呂敷は、もう元の色が分からないくらいにべっとりと血に染まっていた。
「はははははは!ユイよ!ユイよ!」
父親が叫ぶと同時に風呂敷の中にあるナニカはもぞもぞと動き出した。内側から風呂敷を突き破るように、ぽこっ、ぽこっとナニカの手足のようなナニカが蠢いている。
ああ……あれの中身は……あの風呂敷を開けたならば……
「ユイ!もうどこにも放しはしないぞ!」
父親は用済みと言わんばかりに浮浪者の身体を後方に突き飛ばし、床に跪いて顔面を真っ赤な風呂敷にくっつくほどに近づけた。
「お前は母さんとは違う……お前は私を裏切らない、裏切ってはならないんだ!そしてそう、お前は永遠に美しい……」
そこに、ユイがいるのか。あの夏のユイがいるのか。三十年前と同じ輝きを持って私を見つめ、微笑んでくれるのだろうか。もしそうならば。ユイが私を再び抱きしめてくれるというならば――
あれを開くのは私だ。
「うわあああああああ」
私は半狂乱になって父親に体当たりをした。父親は勢いよく後方に倒れる。私は風呂敷を奪って立ち上がった。もぞもぞと動く、生の感触。風呂敷は浮浪者の血でずぶずぶに染まっていたが、私は自分の手が赤く染まっていくことには何の関心もなかった。ただ、この風呂敷の中にある生命……その確かな感触に私は酷く興奮していた。
「貴様ァァァ……」
父親はよろよろと立ち上がり、おぼつかない足取りで私に近づいてきた。私は彼には目もくれず、ついにその布に手をかける。風呂敷は何重かに巻かれていて、一度布を捲る度にその中の鼓動が強くなっていくのを感じた。
「ユイ……」
これで、最後だ――最後の布に、手をかける……
刹那。
風呂敷の中身は勢いよく飛び出した。
私と父親は呆然と音のする方を見上げた。
鮮血にまみれた喫茶店には、振り子時計の他に翼をはためかせる音が響いていた。
可憐な海鳥は、私たちの頭上をしばらく飛び回った後、開いていた扉――浮浪者が入ってきた裏口に向かい、そのまま店内から消えて行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます