第2話
思い切って扉を開くと鈴が鳴った。
屋内はその調度から古びた喫茶店といった印象を受けた。ボックス席がいくつかあり、その奥には黒レンガの暖炉や大きな振り子時計。そして――
「何か」
低い男の声が響いた。浮浪者の声かと思われたが、カウンター席の向こうで初老の男が立って、冷ややかに私を見つめている。
「この店は潰れたぞ」
「あ、いえ、私は客ではなくて」
初老の男はなめるように私の全身に視線を這わせてから、ふむ、と呟いた。
「ここに、汚い格好の男が来ませんでしたか?」
男はしばらく間を置いて、ああ、と答えた。
「ああ、って」
私は少し拍子抜けした。
「彼を知っているんですか」
男は真っ直ぐに背筋を伸ばし、軍人のようにきびきびとした動きで近づいてきた。
「知っているとも」
我の強そうな紳士然としたこの男に、私は以前出会ったことがあるのではないか、そんな思いが浮かんできた。
男は私の前まで来ると、どうぞ、と素っ気なく言って奥にあるボックス席を示した。
「だから客ではないと……彼はどこにいるんです」
「とりあえず、座りなさい」
ぴしゃりと言い切られて、私は逆らうのも億劫になってしまった。そして男と自分との温度差に、私は過剰に熱くなっている気がした。あの浮浪者は意味ありげな素振りをしたにすぎない、大事なのはやつではなく、私は一体どこに迷いこんでしまったのか、ではないか。
何にせよ話を聞いてみるのは悪くないので男の言う通りに席につく。レザーのソファは少し硬く感じたが、店全体がアンティーク調でまとまっているのをみればこれも年代物なのかもしれない、そう思った。男は厨房から戻ると大きなグラスに水を半分ほど満たして私の前に置き、自分も私の向かいに腰を掛けた。
「悪いが、私は店主ではなくてね。というよりこの店は妻のもので、私はほとんど関わっていなかったんだ。水を入れることぐらいしかできないよ」
「……おかまいなく」
よく見ると、男の格好は喫茶店の主人というよりはもっと固い職業のものに思えた。皺ひとつないカッターシャツとグレーのパンツ。物腰や細かな所作もまた、この男の社会的な地位の高さを感じさせた。
男は軽く身を乗り出して両手を組むと、淡々とした調子で始めた。
「経験とは――」
私は、この手の人間が苦手だ。
「――それによって自分に自分に生じる変化を実感できるものだ」
男は少し口元を歪めた。格下の相手にあえて分かりにくい表現を使って気取っているような、そんな印象を受けた。
「それは、どういう事でしょう」
「ああ。その経験によって何か技能的なものを獲得するでも、あるいはその恐怖によってそれ以降の同じような危機的状況からの回避を身につけるでもよい。失敗の経験なら、それはそれで成功への手がかりとなる。つまり経験とは、その経験が自分にとってどういうふうにプラスに働くか――時にマイナスにも――実感できるものだ。分かるかい」
「……ええ」
「では、今述べたような実感がない出来事はどうだろう。意識的にそうした効果を感じられない出来事だ。それは単に意味のない時間、出来事なのか?そうとも限らない。意識できていないだけで、自己に変化を与えているものはいくらもある――人間の脳が情報の取捨選択をするというのは、聞いたことはあるかい」
突然何を言い出すかと思ったが、フロイトやユングなんかに熱中していた友人のために、その辺りの知識は私にも多少あった。
「我々は目の前の出来事をありのままに受け取ることはできずに、自分の常識や過去に照らし合わせ、自分の脳が受け入れやすいように情報を歪めてから認識しているのだ。例えば自己肯定感の非常に強い人間は、自分への批判を真っ当に受け止めない。これはその人の性格というより、脳がその情報の処理を歪めてしまうからだ。脳は自分にとって都合の悪い事実をシャットアウトする……」
男はそこで話を止めると、懐から煙草を取り出して、私に了承を得るそぶりもなく火をつけた。
「これは、君のために話しているのだよ」
「私のため、ですか?」
「……抑圧された記憶、あるいは解離された記憶は、一体どうなると思う?」
しばらく、振り子時計の音がその場を支配していた。
何を、言っているのだろう、この男は……抑圧、解離、私には、そんなもの――
男はため息を吐くと、今までの会話を打ち切るように手を振ってみせた。
「まあそれはともかく」
男は、店内を見渡すように私に促した。
「この店は、妻の道楽のようなものだ。それなりに良い趣味をしていると思わないか?」
確かに私もそう感じていた。見る者の心が安らぐような壁や床の色調、客席の間隔、品の良い小物など、随所に拘りを感じる。
それに何より、どこか懐かしい香りがした。
「しかしそれも、当人が消えてしまえば虚しいだけだが」
男は懐かしむように奥の振り子時計を見た。静かに、規則的に揺れる振り子、その上の針がいくつの数字を指しているかは、私の弱い視力では分からなかった。
「妻は病気で死んださ。それも、最期は目も当てられないありさまだったね。命は儚い、なんて月並みな言葉を言いたい訳ではないが、私は時間の無常さを知ったよ。一日が過ぎる度、会う度会う度に彼女は醜くなっていった。美しい絵画の端に、小さな火がついたんだ。最初は気付かない程だったのが、一瞬で全てを灰に変える。そこには人の過去も尊厳も存在しない、ただの燃え滓しか残らないのさ」
彼の眼は悲しみというより、金属の鈍い色をたたえていた。
「そんな私に残された、美しい娘――」
ギィィィ……
振り子時計の右手の突き当り、その時になって初めて気付いたそのドアは、酷く軋みながらゆっくりと開いた。
やつだった。
浮浪者はのっそり扉から姿を現し、私たちの方に顔を向けた。醜く伸びきった髪と髭。薄汚い顔。ほとんど表情は分からない。
眼が、合う。
「――を彼が奪い去ったのだよ」
***
その日、ユイは時計台の下には現れなかった。
〝この町で一番綺麗な景色を見せてあげる〟町の中心の広場にある古い時計台を待ち合わせに指定したのはユイの方だったのに。私は蝉たちがどこか虚しく喚きたてる中、広場の木陰に座って何時間も彼女を待っていた。円形にタイルがしきつめられた広場に、あまり人は来ず、私に話しかける人はおろか、私の存在を認識する人さえほとんどいなかった。夏の暑さよりも喉の渇きよりも蝉の声よりも、そうした時間が続くことに私は酷く不安を覚え、耐え切れなくなってユイの家に向かうことにした。私はユイの家を既に知っていた。
多少遠回りになりながらも無事にユイの家に着いた頃には、時刻は正午をとうにまわっていた。ユイの家は、昔ながらの瓦屋根の家がほとんどだったこの町の中で、何というか凄く浮いていた。不自然な程に真っ白な、大きな洋館――周りを鉄柵で囲まれている。全体は立方体のように見え、角ばった印象が少し威圧的だった。右手奥には庭に面した小さなテラスがあった。呼び鈴を鳴らしても反応がないので、私は悪いとは思いながらも、周囲に人がいないのを確認して鉄柵をよじ登って中に入った。私の体が小さかったおかげで足場をうまく使えたため、あまり苦労はしなかった。
玄関の重厚なドアを叩いてもやはり反応がないので、私は右手の庭に回った。ユリやアジサイやその他私の知らない草花が鮮やかに咲き誇っていたが、よくみると所々萎れていた。テラスに足を踏み入れる。天板が大理石でできた高級そうなテーブルと、それを囲む椅子が三つ。あまり使っていないのか汚れが目立った。窓から室内を覗く。電気はついていなかったが、夏の昼間で暗いということはない。誰もいないように思われたが、左奥の方でぐったりと壁に背中を預けて座っている、あるいはへたり込んでいる影が一つ――ユイだった。
ユイを見つけた喜びと、彼女の様子がおかしい事への不安があいまって、私はどんどんとテラスから窓を叩いた。何度目かに私が彼女の名前を声に出し始めると、ようやくユイははっとしたように顔を上げ、辺りを見回してから窓を叩く私に気付いた。
ユイはテラスの扉を開いて私を中に招いた。髪は乱れ、服は汚れていた。前日までのユイからは想像もできないような姿だった。
「ごめんね、約束すっぽかしちゃって」
ユイは取り繕ったように微笑みながら言った。
「どうしたの、それ」
ユイは私の指摘を笑って誤魔化した。
彼女はそのまま私をキッチンまで連れて行き、背の高い椅子に座らせると、果物やらお菓子やらを取り出して「ちょっと準備するから、食べてて」と言って去って行った。私は昼食もまだだったので、モヤモヤとした思いを抱えつつもユイの用意したものにありついた。
しばらくしてユイは戻ってきた。
綺麗な髪、ほんのりと漂う優しい匂い。ユイは、やはりユイであったのだが、着替えてきた白いワンピースの丈の長さに「今日、暑いよ?」と私が言っても、「ううん、いいの」と素っ気なく返すだけだった。
家を出てから、ユイはしばらく口を開かなかった。ぼんやりと遠い所を見ながらただ歩いている。いつものように――うるさいくらいに構ってくれないのが何だか寂しくて、私は取り留めのない話題を振ってみるのだが、彼女の返事はやはり素っ気ないものだった。
どれくらい歩いただろうか。高い建物の少ない、つまり日陰の少ない道で、太陽は容赦なく私たちを照り付けていた。ぼんやりとしていたユイの首筋にもうっすらと汗が滲み――私に至ってはうっすらどころではなかったが――その表情も少し険しくなっていた。
「大丈夫、ちょっと休む?」
「ううん、平気」
一休みしたかったのは、本当は私の方だったが、ユイは全く気付かないようだった。
「そういえば、ちゃんとご飯食べたの?」
「ううん……」
沈黙。
じりじりと、暑い。
どこに向かっているんだろう、それすら聞いていなかった。あとどれくらくらいかかるのだろう。そんな事を考えていると、
「大きくなったら、何になりたい?」
ユイはそう聞いてきた。
酷く唐突ではあったが、私はユイから話しかけてくれたのが嬉しくて、少し大げさに考えるそぶりをしてから答えた。
「やっぱり、小説家かな。本読むの、好きだから。面白い本を読み終える度に、僕もこんな話を創って、いろんな人を感動させれたらなって思う。例えばね、この前の――」
そこまで言ってから、ユイが可笑しそうに私が演説する様を眺めているのに気付き、酷く照れ臭くなった。
「……変かな」
「ううん……」
彼女は再び前を向いた。
「素敵だなって思って」
それだけでユイは口を閉ざしてしまったので、私は肩透かしを食らったような気分になった。
「ユイはどうなの。大人になった
ら、何になりたいの」
「今でも君より、大人だよ」
ユイは冗談っぽく言った。
「そうじゃなくって」
「分かってるよ。うん――」
ユイは少し先を指さした。元々何だったのかも良く分からない店。道沿いに屋根が突き出ていて、日陰になっている場所におあつらえ向きにベンチがおいてある。
座って話そう、ということらしかった。
「とりあえず、この町を出たい。出来るだけ早く」
「ユイはここが嫌いなの?」
「嫌いっていうか――」
隣に座っていると、歩いている時よりもユイの優しい匂いが感じられた。長袖のワンピースはやはり暑いようで、手首や手の甲にも汗のあとが見えた。
私はその時初めて、ユイの腕の、袖が覆うか覆わないかぐらいのところが赤紫っぽくなっていることに気付いた。
「ここにいると、私は死んでしまうから」
ユイの表情は、とても冗談を言っているようには思えなかった。
私の不審そうな視線に気付くと、ユイは〝大丈夫だよ〟と言って私の手を軽く握った。何が大丈夫なのか、私にはわからなかったが、ユイは、今度は明るい調子で言った。
「その後は、そうだな。たくさん勉強して、たくさん本を読んで、うん。君みたいに小説に携わるのもいいかな。作家じゃなくても、編集者とかね。あるいは絵を勉強して、本の装丁をしてみたり」
「じゃあ、僕と一緒に仕事ができるね」
ユイは少し驚いたように私を見て、ふっ、と笑った。
「そうだね」
ユイは私を握る手を強めた。
いつの間にか、潮の匂いが強くなっていた。
「ここだよ。この町で一番綺麗な景色が見られる場所」
林を抜けた先に広がっていたのは、開放的な地面、その先に見える海と空、そして中心に聳え立つ青白い灯台だった。その頂上付近を、海鳥の群れが通り過ぎていく。
灯台のふもとまで来ると、遠くから見えた印象よりもずっと、それは高く聳え立っていた。小さな窓が縦に四つ、その上に回廊や灯室がある。二十メートル、いやもっとあるだろう。灯台の先は僅かな地面を挟んで崖になっていた。恐る恐る崖の先まで歩いて下を覗くと、波が大きく水しぶきをあげて岩に当たっていくのが見えた。
ユイが私を呼ぶので、振り返ってみると彼女は灯台の入り口で私を手招いていた。私が向かおうとすると、彼女は追いかけっこでもするように、悪戯っぽく微笑んでから灯台の内部へ――螺旋階段を上って行った。私も急ぎ彼女を追う。灯台の中で、二人の足音が反響する。
そして、ユイは忽然と姿を消した。
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