第1話
繁華街を抜けた少し先、この道を進むにつれて夜の喧騒はだんだんと薄らいでいく。時刻はもう零時を回ろうとしていたが、背の高い街灯が立ち並び、人や物が闇に埋もれることはなかった。ただ、やけに白いその光は、どことなく不審な、つまり不自然な感覚を与えていた。不自然さは、照らし出す周囲のものも巻き込んでいて、例えばビルの壁や、反射鏡や、不動産の広告などにも、私は違和感を覚えていた。言い知れぬ、違和感。普段通りの帰り道なのに。うんざりするほど見慣れたはずのこの道で。
それもまあ、酔いのせいなのだろう。
生ぬるい風が吹いて、私のすぐ前でビニール袋が小さな音を立てた。
普段と違う事をするといけないな、と私は思った。大きな仕事が終わっただとか、職場での鬱憤を晴らすだとか。そうした理由らしい理由があったわけでもないのに、私は知らない店のドアを開け、少し味の薄い料理を食べ、私にしてはそれなりの量を飲んだ。目的もなく、独りで、静かに。私にとってそういった事は稀だった。あまり強くはないし、好きでもない。職場の人間とは飲んだりもするが、自ら酒場に行くなんてことは今までにも数える程しかなかった。
今夜の行動は何かと聞かれれば、そうしようと思っただけ、としか言えないだろう。
したかったのではなく、しようと思ったのだ。
何にせよ私は頭の中に質量を感じながら、俯いて歩いている。そして不安でいる。幼い頃に旅先で迷子になってしまった、あの時。あの感覚に似ている、私はそう思った。
靴がアスファルトを叩く軽い音。それにすらも、こんな音だっただろうかと疑ってしまう。コツコツコツ……先程の店の主人が、タイルの床を似合わない尖がった靴で歩くときも、確かこんな音がした。彼の顔がぼんやりと浮かんでくる。丸くて広い、温厚そうな顔。それ以上の細かい部分は記憶に不鮮明だった。バーテンダーの格好はお世辞にも似合っているとは言えず、随分間抜けな印象を受けたのを思い出す。
彼と何を話したのだったか。
カウンダ―で黙々と飲んでいるところに、彼の方から話しかけてきた。〝うちは、初めてですよね〟それから他愛ない自己紹介のようなものが始まって、その後は――その後は、少し特別な会話をしたような気がする。そして、湧きあがった不思議な感情……思い出せない。記憶の海から無理に引っ張ろうとすると頭の中で擦れるような痛みを感じた。気になるが、まあいい、放っておくことにする。
くらくらする。歩いていれば自然と酔いもさめるだろうと思っていたが、時間とともに酷くなっている気さえする。覚束ない足が小石に当たり、転びそうになる。おかしい。今日はおかしい。十字路に入る。私は辺りを見回して、こんな事を考えてみる。これは夢の中なのではないかと。あるいはおとぎ話のように、いつのまにか妖しい世界に迷いこんでしまったのではないか、と。
しかし、それにしては風景はありきたりすぎるものだった。
民家の壁に貼られた政治家のポスター。子供向けの個人塾。古い家を囲む塀、アパート。道沿いに置かれた背の高い街灯。〝止まれ〟の標識、反射鏡……
――足音
私は強烈な悪寒に襲われた――ぺた、ぺた、ぺた……引きづるような、重そうな足音。濡れている?水が跳ねるような質感がある。――ぺた、ぺた、ぺた……それは例えば、水辺の魔物。夜に潜み、大きな口を開けて、私を待っている――そんなまさか。何に怯えているんだ。怖い?怖がっている?違う、これは酔いのせいだ……そう、これは――ぺた、ぺた、ぺた……どこからだ?私は十字路の左手の道を見た。
白い影。
汚れきった、ぼろぼろのシャツを着たそれは、俯きながら重そうに足を運んでいた。それは裸足で、やはり全身が濡れているようだった。
――ただの、浮浪者か。
醜く伸びきった髪と髭。目元が隠れていてその視線は定かではないが、それは俯いたままこの十字路の真ん中までやってきて、何事もなかったように私の前を通り過ぎて行った。
少し、におった。
私はほっとすると同時に、全身に重りをつけられたような疲労感に襲われた。なんなんだ、まったく。何をそんなに怖がっているんだ。私はもうあの時のような――旅先で迷子になった――子供ではないのだ。目眩を感じながらも、前に進もうと脚を働かせる。早く帰ろう。家に帰ろう。走ろうとすると足がもつれてしまうので、できるだけ速い歩調を保ってひたすら道を進む。街灯の不自然な白い光。私を追い詰めるスポットライト、道沿いに無限に置かれた……。
正面で何かに思い切り体をぶつけた。思わず後ろに倒れこむと、私の視界にはごく単純な、しかし理解し難いものが立ちはだかっていた。
コンクリートの壁。
行き止まり。
袋小路。
「ああ……あああ……」
立ち上がるのも上手くいかず、私は這うようして必死に道を引き返した。道を間違えただって……?そんな馬鹿な事があるか、いつ間違えたというのだ、数え切れない程歩いてきたあの道を……。
生ぬるい風に運ばれた――潮の匂い。
まさか。
初めから……?
先程の十字路まで辿り着き、立ち止まって辺りを見回してみる。ポスター、塾、標識……。
こんな場所は知らない。
ありふれた景色。しかし、ここはありふれているだけの、私の知らない場所だ――潮の匂い……?そして、初めから――あの繁華街でさえも?――私の知っている土地ではなかったというのか?それでは、酔いのせいで違和感を覚えていたのではなく、酔いのせいで明確な差異が違和感としか受け止められなかったというのだろうか。
なら、あの店はどこだ。
私はいつから惑わされている?
反射鏡に映る、白い影。
ぱっと横を見る。
浮浪者は真っ直ぐに私を見つめていた。無造作に伸びた前髪の下に、鈍い輝きが二つ。先程はなかった真っ赤な風呂敷を気怠そうに抱えている。
「……」
浮浪者は呻くような掠れ声をしぼり出して、顎を上下させた。その動作は「ついて来い」というメッセージのように思えた。
「なんなんだよ」
浮浪者はゆっくりと背を向けて歩き出した。
「用があるなら言えよ!」
浮浪者はぺたり、ぺたりと重そうに足を運ぶ。私の言葉には何の注意も向けない。浮浪者はしばらく歩いた先の角で、街灯とは別の薄明かりが見える路地の方へ曲がった。
私は引き寄せられるようにして浮浪者について行った。角を曲がった先に浮浪者の姿は見えなかったが、すぐそこに朱っぽい光を漏らしている建物があった。
こんな寂れた路地には似合わない、レンガ造りの建物。異国の民家のような外観だった。古びた木のドアには
〝scala a chiocciola〟
と、流れるような文字が書いてある。意味は分からない。店名だろうか。
木製の取っ手を握ると、ひどくざらざらとした感触だった。そのまま前腕にわずかに力を入れ手前に引くと、扉は抵抗なくゆっくりと動きだす。
朱い光――
***
ユイと名乗った少女は、私たちの宿の近くに住んでいた。ユイは私より幾分年上で、滞在中は何かと私の面倒を見たがった。恐らく、姉になったような気分でいたのだろう。町を案内すると言っては私の手を引いて走り回り、それで私が転んで膝を擦りむくと酷く心配しすぐに処置をした。そんなユイは少し煩わしくもあったが、母親を亡くしていた私にとって、彼女は私の知らない温もりを与えてくれる存在だった。
その半島に来たのは父の仕事のためだった。一人で放っておくにはまだ幼かった私を預けられるような親戚はおらず、夏の間私は父とともに海の綺麗なその半島で過ごした。
海鳥たちの鳴き声が、私とユイとを包んでいた。町からずっと歩いてきて、今は海に向かって突き出ている土地の先端にいる。ここが岬?と尋ねると、ユイは遠く海の向こうを見ながら頷いた。
「ここにいるとね」
おもむろにユイは始めた。私たちは真夏の太陽に背を向けていた。
「潮風が私を連れてってくれる気がするの」
ユイの影の中に海鳥が止まった。私の影はちょうど岬にすっぽりはまっていたが、私より背の高いユイの影は頭の部分が陸地に収まりきらず海の波にゆらめいていた。
「どこに?」
私の間の抜けた調子が可笑しかったのか、ユイは微笑んだ。
「どこかに、ね」
さ、帰りましょう。夕飯の支度、もうできてるんじゃないかしら。ユイはそう言って私の手を取った。私はもう少し岬に立って海を眺めていたかったが、ユイが繋いでくれた手を離すのが嫌で、彼女について行った。
「あんなふうに飛べたら」
すぐ目の前を通り過ぎていった海鳥を見て、ユイは小さく呟いた。
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