第5話 ブルーマンデーに赤色を⑤
30分後にはこの世界から消滅することになる清水寺は、普段通り多くの人でごった返していた。
「うひゃ~高い。人が多いわね~」
赤い赤い仁王門の階段の左裾に、彼女は金髪をたなびかせて腰かけていた。
「階段に座るのはあまりお行儀良いとは言えませんがね、お嬢さん」
あの運転手が、22歳のフランス人少女の背中にたしなめの言葉を投げかけた。
「嫌」
フランス人の少女(?)はにべもなく拒絶した。
「だって、本堂が修繕中でカバーかかってる寺院に澄まし顔で案内されたのよ。これで怒らない外国人観光客がいないわけないでしょう」
「面目ない……」
タクシー運転手のおっちゃんは頭をポリポリさせながらシュン、とする。
フランスから来た少女は、そんな憐れな中年には目も留めず、周囲の景色をぼんやり眺めてみる。
どこを見ても人だ。人しかいない。ザ・人口過密。吐きそう。
左を見れば、美しい赤い門の下を、「なんとなく来た」感が若干にじみ出た表情の観光客たちが絶え間なく、くぐり抜けてゆく。壮麗な建築とどこか生気の欠けた人々の行列という対比の栄える、あまりにもシュールな光景だ。
さらにその向こうでは、同じ制服を着た何十人もの少年少女たちが石段に並んでいた。運転手のおじさん曰く「シューガクリョコセー」という学生が記念写真を撮っているらしい。邪魔でしょ。
……こんなふうに、境内はもう既に人で溢れかえっている。あまりの観光客の多さに半ば呆れ、半ば感心しつつ、少女は、清水に至る坂道へ視線を移した。
うひゃあ。少女は驚いた。
清水に至るただ一条の坂道。その両側を、観光客向けのお店屋さんが、何件も何件も坂道を挟み込むようにして目の届く限りまで続いている。
その道を、えっちらおっちらと、数えきれないほど多くの人間が登ってくるのだ。
「ねえ、これみんなこのお寺に入るのかしら」
「まあ、そうでしょうね」
「人口過多で本堂が爆発したりしない?」
少女の本心だった。
運転手が、少女の後ろで腹を抱えた大笑いを始めたので、少女はほっぺたを膨らませて前の坂道を見ることにした。しばらくの間は、後ろを振り向かず、運転手さんの声を無視し続けてやろう……。
そう思いながら坂道を登ってくる人たちを見ていると、気になる影を見つけた。
世界遺産に観光に来るにはなかなか珍妙な格好の少女だった。ジャージのズボンにTシャツといった出で立ちで、隣にはこれまたいかにも怪しそうな男を連れてて、頭にかぶっているものは……?
「犬……?」
犬のぬいぐるみだ。
「運転手さん運転手さん。日本ではぬいぐるみを頭からかぶる文化が存在するのですか?」
「ンなわけないだろ嬢ちゃん……。ああいうのは稀に良くいる変な奴だ。社会の多様化の結果とでも思っていてくれ」
ふーん。
まああの少女は変人奇人の類だろう。私たち二人はそう断じた。
とはいえ、何かあの少女には惹かれるものを感じる。ばかばかしい。今日、初めて知り合う以前に、一方的に私がぼんやり眺めているだけなのに……。
私とぬいぐるみ少女の間に何の関係性もない。表情も読み取れない遠くから見てるだけ。なのになぜ、こんなにもあの少女のことが気になるのだろうか?
彼女の奇行のせい?
そうじゃない、と思う。
「……本」
彼女が本を持っていることに気づいた。なぜか、こんな遠くから。
「なにか、気になる……」
よくわからないけど、漠然と。何かが、感覚的な何かが、私に働きかけてくる。
「うーん……」
もっと少女を観察しようと目を凝らした矢先のことだった。
──ノイズが走った。
少女の知覚が、書き換わる。
一瞬、視覚に消しゴムが走る。
一条の消去線。何かが消えた。
画用紙に砂消しを擦りつけたような音が、耳の奥に響いた。
……。
「……あれれ?」
犬のぬいぐるみをかぶった少女、その少女は一人で歩いている。
彼女の隣に、誰か並んで歩いていた気がするのだが……。
──雑音。
ザザザザ……という思考の砂嵐の音。
砂嵐の音は意味を持ち、砂嵐の声に、砂嵐の言葉になっていく……。
ミマチガイ。
そうか、見間違いなのか。あの子は最初から一人で犬のぬいぐるみと共に……。
本当にそうだろうか?
不安が浮かぶ。自分の感覚への、疑念。
『────────』
その疑念を打ち消そうとする、砂嵐。
私の疑念は、砂嵐に飲み込まれていって……。
「……さん。お嬢さん!」
自分を呼ぶ声で、我に返った。
「そろそろ、行きましょうや……」
運転手が暇そうにぼやいた。
考え込むあまり結構運転手さんのことを無視してしまったようだ。悪いことをした。返事をして、石段から立ち上がり、歩き出す。
立派なお寺だ。でも、少女はそんなことよりも、さっきの少女のことが気になっていた。
何の関係もない謎の少女。彼女のことをぼんやり考える。
もし、彼女に話しかけることがあれば、私はどんな言葉で語りかけるべきだろうか?
あの年頃の日本人にフランス語はわからないだろう。だから、英語かな。
『ハロー。マイネームイズ、マリー・クロカワ』
風で金髪を揺らしながら、彼女にそう言って微笑みかけるそのときが、なぜか楽しみだった。
犬のぬいぐるみをかぶった、不思議な本を持った少女に。
清水寺は、多くの人であふれていた。
そしてそれらは、全て死ぬ。
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清水寺は、多くの人であふれている。
黒川春風は、形容しがたい気味悪さに襲われていた。
人混みのせい?
夏のうだるような暑さ?
頭にかぶったぬいぐるみのせいで熱中症?
答えはどれも違う。
違和感。強烈な違和感が体の中を駆け巡る。
清水寺が近づくにつれて、いやというか何故私は清水に──
瞬間の頭痛。思考は中断される。
……。
清水寺に向かうのはトウゼンノコトデハアルガ、一歩一歩を踏み出すたびに、頭のフラつきが強まり、視野が狭まっていく感覚がする。
このままじゃ倒れる。物部さんに……。
物部に助けを求めようと、重い首を右に動かし、久方ぶりに唇開いて物部の名を呼ぶ。
「え……?」
しかし、出てきたのは疑問の声。
彼女の隣に、──はいなかった。
突然の事態に春風は驚くが、──はどこにもいない。
「──!?」
春風は、──の名を呼ぼうとして気づいた。
彼の名前を忘れてしまったのだ。
いや、忘れたのは──の名前だけではない。
──の顔を思い出そうとしたら知覚ノイズが走った。
──の声を思い出そうとしたらこれまでにないほどの耳鳴りに襲われた。
──に関する記憶が砂嵐に飲み込まれるように消えていく……。
謝ったこと。笑ったこと。怒ったこと。もみくちゃのケンカをしたこと。抹茶ソフトやチョコレートパフェの甘さ。
それらが全部理不尽な力で、消しゴムで下手な絵をごしごしと消し取るかのごとく、手の届かない所へかき消されていった。
消えていく。消えていく。消えていく……。
記憶を改竄される気持ち悪さのあまり、春風はその場で座り込んでしまった。
でも、誰もそこに彼女がいることを気に留めない。存在まで消されているとでも言うのだろうか。
おかしい。なによこれ。
この世界で何かが崩れ始めている。
私の記憶は私のもとから消されてゆき、道行く人は私に気づない。
私の『何か』が、消えていく。
絶対的消去の嵐の中で、彼女は、頭にかぶったぬいぐるみに手を伸ばした。
コイツまで消えていたら消えていたらどうしようかと、こわごわと……。
頭の上を触る。ぬいぐるみは変わりなくあった。もこもこだ。
このぬいぐるみには、何か大切な記憶があった。
どうして大切なのか、という問いの答えになる記憶は全部消えた。
でも、春風は強烈な不快感に耐えるためにぬいぐるみを胸に押し当て、ぎゅっ、と抱きしめた。
不安に飲み込まれそうなとき、もこもこのぬいぐるみを抱いて、ときにはそのまま泣いて、安心するまでやり過ごすのは慣れたものだ。
春風は、もこもこの犬を、強く、強く抱きしめる。
誰も春風を見つけられない雑踏の中、彼女は目を伏せた。
────怖い。怖い。怖い。怖い。
どうしてこんなに怖いの。どうして訳もなく不安なの?
ねえ、そこのあなた。私を見て。私に気づいて。
見知らぬ人の脚をつつく。気づかない。
しがみつく。その人は転んだ。でも、気づかない。
なんで。
吐き気がした。『何か』が流れ込んでくる。
──清水へ行かなきゃ
理由なく、そう思った。
身体をがんじがらめに縛りつける、見えない糸が私を引き寄せる。
清水へ、清水へ──
怖いのに、苦しいのに、行きたくないのに……。
──『カンケイナイ。』
ああ、理不尽の声がする。
これは意思の声だ。でも、私の意思じゃない。
外から私の中へ入ってくる意志の声だ。
外来の意思は、私に理不尽を強いる。
そしてそれに、私は逆らえない……。
──『オマエニ、トナリヲアルクモノハ、ナイ。サダメラレタページヲ、オマエヒトリデ、アユンデコイ』
瞬間、世界が暗転する。
私の周りに人はなく、あるのは暗黒のみ。
そして、見えるのは、私の、目の前に光るただ一筋の道。
まっすぐ清水に続いている。
まるで、モーセの割った海のよう。
光が、闇を割って一本道を作り出していた。
ああ、そうか、私はこの道を歩まねばならないのか。
でも、この道をこのまま進んだら死ぬ。
直観だが、確信があった。
「……助けて」
誰にも聞こえない。
「助けて!!」
叫んでも、響くだけ。
誰にも届かない声が闇に吸い込まれていった。
どうやら、このまま私はあの不吉な光の道を進まないといけないらしい。
身体を引っ張る意思の糸が、私にそれを急き立てる。
「……?」
そんな時だった。胸のあたりに堅いものが触れていることに気づいた。
「ほん……」
願いを叶える本。どうやら、犬のぬいぐるみと一緒に抱きしめていたらしい。
私は、震える手でそれを開く。
本当なら、使っちゃいけないはずだけど、何よりもまず安心が欲しかった。
「ごめんなさい。──さん」
この本を嫌っていた誰かに謝りながら。
ポケットから、ボールペンを取り出した。
『ナニヲシテイル!ハヤク!ハヤク!キヨミズヘ!!』
がんがんと、頭蓋の中で反響する外なる意思の声。
見えない力が、私を歩ませようと力場を生む。
でも。
「嫌だよ……。だって、だって『私は死にたくない』もん!!」
そうだ、こんな良くわからないところで、良くわからない力に引き摺られていたくはない。こんなところで私は死にたくないんだ。
真っ白な『本』のページに、『死にたくない』と書かれていた。
そして、そのページは、ただ一枚、光りながら本から離れて宙に浮く。
「え……?」
足元に伸びている光の道とは違う、温かさを持った光だった。
「助けて、くれるの……?」
そして、一枚のページは、犬のぬいぐるみの中へ吸い込まれていく。
「ありがとう……」
春風は、ぬいぐるみを抱きしめる。
刹那の後、黒川春風の意識は掻き消された……。
七日間連載紀 おしり @NakamuraFumikaz
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