「え、女子大生好きでしょ? おじさんは好きだよ」
劇中に出てくるこの台詞が、この小説の全てであると言っても過言ではない。
おそらく作者は、女子大生が好きだ。
それと同じくらい、日本酒が好きだ。
ならば――その二つを一つにしてしまえばいい。
その発想が生まれた時点で、既にこの小説は“勝っている”。
────上代先輩は日本酒になった。
まるで文章自動生成プログラムが手当たり次第に文章記号を順列組み合わせした結果出力されたような冒頭の一文が、まさに字義通りの意味であることに読者は徐々に気づかされることになるだろう。
その一文から紡がれる物語は、「女子大生」という記号が我々に喚起させるフェティシズムと、人類のアルコールに対する希求とが絶妙に混ざり合って、一種独特なエロティシズムを生み出す。
それは究極のフェティシズムか――あるいは酩酊の生み出す幻覚か?
上代先輩とは酒である以前に人間であり、
また人間である以前に――酒なのである。
果たしてこの感情(リビドー)が求めるものは酒か、それとも上代先輩か。
それすらも曖昧な宙づり状態のまま、読者は不思議な酩酊感を彷徨うことになる。
まずは飲み――そして酔われよ。私は十分酔わされた。
玉箒(たまばはき)とは酒の異名のことである。酒による気分高揚を、憂いを掃くとなぞらえ、玉箒は酒を意味する言葉ともなった。
登場人物の殆どが飲酒しているか、酒そのものかのどちらかである。酒そのものと言われてもわからないかもしれないが、酒そのものなのだから仕方がない。
そんな彼らは玉箒とも呼ばれる酒を原因としてある事態に巻き込まれる。
素直に酒を愛し楽しんでいた彼らは、その憂いを如何にして解決したのか。人が人たる所以はなんなのかは、ある種の解決を見ない難題の一つであるが、それに対する一つの回答としてこの物語は決着を見る。
人と酒。往々にしてそれら2つを語るときは相互の関係性から語られるものであるが、擬人化というプロセスを経ることにより、この物語に於いてはマージナルなものとなった。人と酒を分かつもの。それが最後に示された答えである。
人にとっての本当の玉箒。
月並みで、手垢が付くほど語られてきたそれは、しかしこの物語でもそうであるように、今もなお人を酔わせている。
ところで粘膜吸収って結構やべー筈なんだけどそれを鑑みると主人公めちゃめちゃ酒豪やんけ!
『酔う』、そして『素面』。
化かし合うかのように境目を曖昧に、上手に、卑怯に使い分ける小気味よい会話で展開されている。
これは酔っているかのような素面。
これは素面に見せかけた酔い、みたいな。
アウト寄りのセーフみたいなところを責め続ける会話。
読んだ私の心中がセウト、と叫ぶ気持ちをわかってほしい。
この中に審判が居たらビデオ判定は必須だし、チャレンジ制度でインかアウトを確認したくなる。
そんな感じ。
この2つの状態を限りなく細分化したものと思った
だが、本来はきっとアナログでラジオのチューニングをするように境目などないのかもしれない。
素面と酩酊の境がわからなくなるから。
この作品を読んだら、きっと貴方は酔っている。