私の左手
四見はじめ
第1話
私は私の左手をとても大事にしています。
爪の手入れは勿論肌に染み一つでないよう高級な美容品を一切合切費やして肌のケアにこれまでいそしんできました。一時期は肌が汚れないようにと手袋を一日中つけていたほどでしたが、それは逆に左手の健康上よろしくないだろうと、たまには日にさらしたり適度な負荷をかけてあげた方が左手のためになるんじゃないかと思って、毎日新しい手袋を4時間程度装着させることにしました。
自分で言うのもなんですが、私の左手は誰の左手よりも綺麗なんじゃないかと思います。
時々私は私の左手に見惚れてしまいまして、電車の中とか道路の上で左手を眺めて2時間以上立ち尽くしている人間がいたとしたら、それは私なんだと思います。
この前私の不注意で左手にけがをさせてしまって、その時は狂わんばかりに悲しかったですが、その後一生懸命傷をいやして、元通りに治しました。
中学生のころからでしょうか?
滅多に私を褒めない母が、興味なさげに私の左手を見ながら、「あんた、手だけは綺麗よね」と、喋りかけてくれたのが思い出に残っています。なんとなく、その日から私は私の左手を気にし始めたのだと思います。そのころからの癖で、私は寒いときにふうふうと左手に息を当てます。だから私は歯磨きをちゃんとするようにしました。はーっと体の奥から虚空に息を吐きだして、すーっと新鮮な空気を体に取り入れて、ほっと優しく私の左手に息を吹きかけるんです。それは15年間くらいずっと続けられてきた私の日課です。
私は身も心も疲れ果てたとき、左手を見ると心が安らぐんです。
寝る前の最終手当の後、私はたっぷりいろんな角度から左手を見てほうと息を漏らします。
そうしないと、なかなか寝付けないのです。
爪の淡い輪郭線、細やかにしてきた白い肌、ツンと伸びる人差し指。全体的にはうっすらとした透明感のある印象ですが、でもそれは弱弱しいものではなく、病弱を表すものではなく、淡く輝く宝石のような、厳しい荒れ地に咲く花のつぼみのような、尊い感じのする手なんです。自分で言うのも恥ずかしいのですが、でも私は、この左手に対しては、正直でいたいんです。嘘を言うのは、左手に悪いんです。
おやすみなさいと私は左手に声をかけて、布団の上に左手をそっと置いて、その上に薄い清潔な布を被せます。そして私は寝返りをしないように気を付けて寝ます。
その日、私は夢を見ました。
黒いローブをまとった、しわくちゃの手をしたおばあちゃんです。
「お前さんの左手を人間にしてやろう」
おばあちゃんはキヒキヒと笑いながら壊れたファービー人形のようにつぶやきます。
「お前さんの左手を人間にしてやろう」
「お前さんの左手を人間にしてやろう」
「お前さんの左手を人間にしてやろう」
目が覚めると、私の左手が無くなっていました。
私の左腕はコブラのサイコガンのようになっていました。
私は驚いて焦りのあまり心臓がバクバクと音を立てているのを感じました。
「私の左手どこ? 左手、左手……」
泣きそうになりながら辺りを見回すと、私を見下ろす形で、枕元に人間が立っていました。
それは大変な美少女でした。
こんなに綺麗という形容詞が似合う美少女がいるのでしょうか?
氷、水晶、宝石、琥珀、万華鏡、山奥に流れる川のせせらぎ。どれもこの美少女には敵いません。
どうして人間の形をしながら、これだけの清潔感をだせるのでしょうか? どうしてただただ美しいという透明感のある印象しか抱けないのでしょうか?
具体的に表現することはできません。だから、抽象的な表現でしか言えません。綺麗です。とても綺麗なんです。
綺麗な肌、綺麗な目、綺麗な肌、そして綺麗な手、手、手。
美少女はお姫様のような豪華な衣装を身に着けていました。まるで物語の中のお姫様のようです。
私は、「お姫様か~そうきたか~」とつぶやきました。
これは私の左手だと直感しました。そして左手の人間の姿は私の漠然としたイメージと少し違いましたが、おおむね問題ないように思えたのです。
美少女は突っ立ったままです。
こんな奇跡が起こるだなんてと驚きながら、私はワクワクして左手の動作を期待しました。どんなことをするのだろう? まるで想像ができません。
しかし美少女は壊れたロボットのように動きません。
私は眉をひそめて、おそるおそる、左手を挙げてと念じました。
すると、左手は左手を挙げました。
「……ああ」
私はがっくりとしました。いえ、これは当然のことなのでしょう。だって、こんなに綺麗な左手の中身など、誰に決定させることができるでしょうか?
左手は、自我のない私の左手のままなのです。左手は私を何もない表情で見つめています。
「……どうしたものかな」
私は寝っ転がりながら、左手を眺めていました。左手は初登場時から立ち位置も変化せず、私をただずっと見つめています。
私も強いて左手に触ろうとは思いません。触ったらその箇所から汚れてしまいそうに思ったからです。
ごろりとした状態で、私は左腕を上げて、サイコガンを眺めました。
「……気持ち悪いなあ」
今までこんな気持ち悪いものに左手がくっつていただなんて信じられません。
仕事は最近辞めました。辞めたというか、まあ辞めたんです。今思えば仕事というほどのものでもありませんでした。石を積むような苦行でした。
だから、人に出くわす心配はありません。私の姿を見られて気持ち悪がられる心配もありません。
私はもともと気持ち悪がられていました。きっと私の容姿のせいでしょう。奇行もあるかもしれません。私を好きになってくれる人は人生において皆無でした。納得はしています。そういうものでしょう。母も私をよく不細工だと詰りました。そうなのでしょう。
こんな醜い私が、どうして左手の中身を決められるでしょうか?
中身がないのは案外悪い事態ではないのかもしれません。左手は確かに私から生まれた左手ですが、私と一緒のカテゴリーに分けてもらいたくはありません。左手がかわいそうなんです。
でも、そう考えると私は深い悲しみを感じます。どうしようもなく深い体の奥底から痛みが湧いてくるんです。痛くて痛くて、慣れてしまいました。私はよくけがをさせられるのですが、あまり痛みを感じません。
私は不安定に泣きじゃくって、左手はそんな私を無表情に見て、結局私はそのまま眠りに落ちました。
しわくちゃおばあちゃんです。魔女さんです。
「うっかりだねえ。心を入れ忘れてしまったねえ」
おばあちゃんはぼそぼそとつぶやきだします。
「心を持たせたかったら、お前さんがそいつに食べられることだねえ」
おばあちゃんは、とんでもないことを言って、そのまま黙りこくりました。
私はたまらず声をあげます。
「おばあちゃん! 私なんか食べたらおなか壊しちゃうよ! お腹から広がって体が全部腐っちゃうよ!」
おばあちゃんは私をちらりと見ます。
「念じることだねえ。いいと思うのを深く念じることだねえ」
私は目を見開いて、ゆっくりと起き上がります。
左を見ると、左手が私の寝る前と同じ体勢で突っ立っていました。
相変わらず心が無いようです。
私は、噴き出る汗を、拭いながら、じっと左手を観察します。
表情の無いこの子に相応しい心を想像します。
突然、玄関の扉から汚らわしい暴力的な騒音が鳴り響きます。
「○○○○! 出てこい! おい!」
意味のない言葉の連なりと衝撃音が、私の耳から耳を通り過ぎていきます。
「借りたもんはちゃんと払え! なあ! おい! 払わねえでいられると思ってんのか! ○○○○!」
ご近所様に筒抜けです。何回か繰り返してわかったのですが、わざと大きな声を出しているのでしょう。そうやって近所に私のことを触れ回るのが目的なのでしょう。
いつまでそうしていたでしょうか。やっと静かになりました。
私の体の上を、汗がだらだらと流れて、止まりませんでした。
私はカラカラの喉から、言葉を、絞り出しました。
「そうだ。そういえば、私にはあこがれのお姫様がいました」
学校の図書室の隅っこで見たことがあるんです。
ファンタジー小説でした。
元気で高貴なお姫様が主人公です。
登場人物はみんな、お姫様が大好きなんです。
みんなに愛されて、お姫様は幸せそうでした。
「お姫様はすごいんだよ」
お姫様は城下町をよくうろついて、困った人を見つけると、自分で助けに行くんです。
誰かに命じてもいいのに、そもそも気にしなくていいことなのに、お姫様は、困った人を自分で助けるんです。
どうしてでしょうか? それは、お姫様がお姫様たる所以です。
とっても優しいんです。とっても勇気があるんです。とっても綺麗な人なんです。
どんなに醜い人でも、姫様は偏見を持ちません。分け隔てなく、手を差し伸べてくれるのです。そうして、どんな困難も解決していくのです。
「そんなお姫様だから、周りから愛されるんでしょう。私も、好きでした。来る日も来る日もその小説を読み耽りました。飽きることなんてありませんでした。本が私の手でボロボロに黒ずんで汚れるまで、ずっと読んでいたんです。読んでいるとき、私はとても心安らかな気持ちでいられました……」
そう言い切って、ため息をついたタイミングで、煙が私を包み込みました。
煙が晴れると、お肉が一切れ布団の上に転がります。
肉から垂れる汁が布団を汚しています。ああ、汚い。
左手は肉をひょいとつまみます。ああ、汚いよ。でも、私は声を出せません。
左手が躊躇なくかぶりつきます。小さなお口なので、リスのようにちょっとずつお肉を口に含んで飲み込んでいきます。
汚い、汚い、汚いよ。
半分くらい食べたころに、左手はいつの間にか涙を流していました。頬に水滴を滑らせながら、黙々と肉を食い千切って体内に取り込みます。
どうして泣いているのでしょうか? どうして左手は泣いているのでしょうか?
わかりませんが、でも私は、不思議と暖かく穏やかな気持ちになれました。同時に、申し訳ない気持ちにもなります。
左手は肉を食べきりました。
すると左手はくるりと体の向きを変えて、何も持たずに玄関から外に出ようとします。
私は見送ることしかできません。
扉を開けて、外に出ようとしたところで、左手が部屋の中を振り返ります。
外の光に照らされて、凛々しい表情でした。それでいて、優し気だったかもしれません。
まるで、記憶にあるお姫様のようです。
私は、手を振れませんが、振っている気分で、彼女を見送りました。
やがて彼女は出て行って、部屋の中は薄暗いです。
私は、ぼんやりとしていました。
そして漠然とした、少しだけ満ち足りた気分の中で、私は意識を無くしました。
私の左手 四見はじめ @shajime
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