第三十四幕「フリークショウ」
ミシェル・マイヤーズの心は、当の本人ですら思いもよらぬほど凪いでいた。
周囲を飛び交う甲虫は夜闇の改造を受けた欺瞞装置。
よほど感知能力に優れたビショップ級でもない限り、樹上で息を潜めるミシェルを見つけることはできないだろう。
そしてミシェルが知るこの戦場において最も索敵に優れたオートマタ、夜闇は幸いにして彼女の味方だった。
「ま、落ち着いていられんのは所詮あたしがまだ処女切ってないから、ってだけの話かもな」
戦闘シミュレーション上では屍の山を築き、グランギニョールの内外では数体のオートマタを葬ってきたミシェルだったが、直接間接を問わず未だ人間の死者は出ていない。
フリークショウ、そして親会社たるPMCハングマンズファームの悪名に反して、ミシェルは戦場においても殺人を経験したことがなかった。
エディテッドのものであることを差し引いても、白く細い指は戦士というよりミュージシャンのそれだ。
ミシェルは自らの美しさが嫌いだった。まわりの大人たちが醜く恐ろしいと言うものほど、彼女の目には魅力的に映った。
裂いても裂いても治ってしまう肌に傷跡代わりのタトゥーを彫り、開けた穴にピアスを通し、歯を削り鮫のように尖らせた。獣のようにギターの弦を掻きむしり、狂った音律で怖気をふるうような歌を唄った。
だけどまだ美しい。この指はまだ作られたまま、そらぞらしいほど綺麗なままだ。
「あばよ、アルカード。ルークのお前を傍に置いてやれなくて悪かったな」
一番初めに消えたのは、アヴァロン拠点船 《モンストロ》へ向かったアルカードを示す光だった。
「やれやれさすがは“最速”ドロシー。仕事が速いねぇ。
……っておい、清姫まで死んでんじゃねぇか。
偉ぶっといてビショップと1:1交換じゃ割に合わねぇだろクソが。
せめて援軍が着くまで粘れよな……おい、クルーガー、聴こえてっか?
お前ひとりじゃイザナミは荷が重い。
作戦はハイエナに変更だ。《万神殿》はナシ、満身創痍の《モンストロ》を叩きな。
クルーガー? おい、クルーガー!? 腹から声出して応答しろ!!」
「ミ、ミシェル……っ!! 俺様ただいま交戦中……っ!!」
「あぁん交戦だァ!? そんな座標に誰がいる!!
どのブランドも拠点船の護りで手一杯、森に潜んで移動するあたしらを追える者は無し!
そういう手はずだったろうが!!」
「ああミシェル、あんたの読みは正しい。正しかった!!
だがこいつは、
「おいクルーガー!! 誰だ!! 答えろ、お前誰と戦ってやがる!!」
通信機の先から応答はなく、代わりに常人なら耳を塞ぎたくような音が聴こえてくる。
柔らかいものも硬いものも、全ての価値をまぜこぜにして台無しに握り固めるような破砕音。
ミシェルの背筋を恍惚に震わせる天上の音色だ。
『
通信機の向こうから聴こえる囀りに、ミシェルは総毛立った。
ひとりのようでいて、幾重にも折り重なるその声は。
初めて聴くはずなのに、ミシェルは確信せずにはいられなかった。
あらゆる状況、あらゆる直感が彼女の名を囁く。
「くるみ割り、人形……」
そう、全ての始まりはくるみ割り人形だった。
音楽の破壊者だったミシェルをグランギニョールへと駆り立てたのは。
絢爛たる美しさの祭典、高潔なる決闘の舞台を血と脂で呪う忌まわしき存在。
醜悪なりくるみ割り人形。悪逆なりくるみ割り人形。
ゆえにミシェルは憧れた。自分もそうなりたいと望んだ。
この世で最も多くの人間が賛美する象牙の細工に、血混じりの唾を吐きかける大偉業。
膿んだ傷のように今でもじくじくと人の心に残り続けるエンターテイメント。
ああ、それが成されるならきっと、ミシェルのこの渇きも癒やされるだろう。
くるみ割り人形と同じになった時、ミシェルは初めて孤独でなくなるだろう。
世界から爪弾きにされるものが“ふたつ”になるのだから。
「いるのか、くるみ割り人形。こんなにも近くに……!!
だけど足りない。あたしはまだ“彼女”に逢えない。
この程度じゃ、これっぽっちの罪業じゃ、まだまだ“彼女”に届かない。語り継がれやしないんだ。
こんな綺麗な指のままじゃ」
ミシェルにはまだ夜闇がいる。
惜しむらくはファーレンハイトの亡骸を見た彼女が心を閉ざし、架橋が途切れてしまったこと。
防衛ドローンのハッキングに成功した時点で架橋はその主たる役目を終えたが、夜闇もおそらくいずれかのオートマタと交戦することになるだろう。
今自由に動ける者で彼女を倒せる者いるとすれば、
R.U.R.のクイーン、アイゼンハート。あるいは……
「……消えたか、夜闇。ようやく楽になれたんだな」
ミシェルは夜闇を好ましく思っていた。
誰よりも可憐な姿を纏ろいながら、その内面は誰よりも醜悪で
その在り方がどれほど彼女を孤独にするか、ミシェルはよく知っていたから。
知っていてもなお、求められるのは共感ではないと理解していたから。
「さあ、これであたしに残された武器はあたしだけ、この綺麗な指だけだ」
全てのオートマタを失ったミシェルが勝利する条件が、まだひとつだけ残っている。
それはいずれかのブランドのマスターを捕獲し、直接敗北を認めさせること。
一人の少女を跪かせるだけで、彼女の親会社ハングマンズファームは世界第四位の軍事企業から第三位へと繰り上がる。
ミシェル自身はマネーゲームになど興味は無いが、そのパワーバランスが大きく変じる際にどれほどの阿鼻と叫喚が生まれるかはよく知っている。
今まさに、彼女の眼下を真っ直ぐに走り抜ける子鹿のような少女。
天性の女優はミシェルが両手の指で作ったフレームの中でも弾けるような生命を振りまいていた。
「血まみれの時間を始めようか、緒丘睦。ホラーショウのヒロインにはぴったりだ」
グランギニョール〜少女人形絢爛演武〜 雪丸仟 @yukimarusen
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