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「――そうですか、カルディアが」


 大方のことは説明し終え、最後に魔法陣から姿を消してしまったカルディアのことを伝えると、ルミエールは薬を煎じる手は動かしたまま、少しの間だけ黙り込んだ。

 薬を煎じる道具は古めかしいものだが、こちらの世界では一般的なものらしい。楕円形で深い溝のある皿の上に薬草を乗せ、取っ手のついた車輪状の器具を転がして、細かく切り刻んでいる。薬研と呼ばれるものだ。薬草を擦り混ぜる乳鉢は千鶴にも馴染みはあったが、理科の実験以外では触れることのないものだ。

 千鶴が口を噤んだまま手元を眺めていると、ルミエールが言った。


「あなたがそのような顔をされる必要はないのです、チヅル」

「でも――」

「あなたに咎はありません。彼がそうすることを望んだのです。自ら重荷を背負おうとする必要はないのですよ」


 ルミエールの物言いに、千鶴は思わずはっとした。セシリアの時の一件を思い出したからだ。ノワールも、今のルミエールと同じようなことを言っていた。

 そうすることを選んだのは、他の誰でもない、自分自身なのだ。他者の選択を否定する権利は誰にもない。セシリアやカルディアは、そうしたいと思った。だから、自らの身を挺してでも千鶴を護ろうとした。救われた側ができることは、すべてを受け入れ、信じて待つことなのだろう。

 だがしかし、それでも心配に思ってしまうのが、人の常というものだった。


「カルディアのことです、そのうちひょっこり戻ってきます。彼はそういう男ですから」

「そう、でしょうか……」

「カルディアはカルディアのすべきことをする。私たちも、今できるかぎりの最善を尽くしましょう」


 所詮、こうして心配をしていたところで、それがカルディアの助けになるわけではない。それは千鶴も理解している。確かに、ルミエールの言う通り、ここは自らのやるべきことに集中することが、何よりも大切なのだろう。

 そのまま殺されていてもおかしくない状況だったが、一時的でも魔法使いの傍を離れることができた。牢獄に入れられてしまったが、獣の助力を得て、ルミエールと再会し、今まさに脱出しようとしている。ならば次にすべきことは、アンジエールとの合流だ。それに、アンジエールならば、何か良い知恵を貸してくれるかもしれない。

 そう思い直すことで心を入れ替えた千鶴は、自らの頬を張って表情を引き締めると、気合を入れるように拳を握り締めた。

 その間、黒い獣はその場を動こうともせず、千鶴とルミエールの動向をじっと見つめ続けていた。監視されているような状態だ。

 ルミエールは心を許しているようではあるものの、千鶴はどうにも信用ならないと感じている。

 まず引っかかるのは、北の魔法使いと揃いの水晶だ。玉座の脇にあった台座の上には、大きな水晶玉が置かれていた。そして、額の玉飾りにも水晶が用いられていたのを、千鶴はその目に見ている。それと同じ水晶が獣の首から下げられていることが、千鶴に妙な違和感を覚えさせていた。

 しかし、それについて問いただそうにも、会話は常に一方通行だ。何かを問いかけたところで、返事は得られない。つんとすましたような顔をして、どこか小ばかにするような眼差しを向けてくるだけだった。

 沈黙を貫いたまま、一人と一匹が互いに見つめ合っていると、ふふ、とおかしそうにルミエールが笑った。


「疑い深いのは悪いことではありませんので、お互いの気が済むまでそうしていてください」

「わ、私は別に、疑っているわけではなくて……」

「ええ、そうでしょうとも」


 ルミエールはそう言って頷いているが、くすくすと笑うばかりで、千鶴の物言いを真面目に聞き入れてはいない。獣はそうした様子のルミエールを横目に一瞥すると、再び千鶴に目を向けた。

 言いたいことがあるなら言え、とでも言われているようだ――千鶴はそう感じるものの、困ったように首筋を撫でると、ごまかすように視線を逃がす。


「……ルミエールさんが信じているのなら、私も信じようと思います」

「強要しているわけではないのですよ」

「強要されているとは思っていません。ただ――」

「ただ?」

「少しだけ、引っかかるというか」


 千鶴はそう言うと、四つん這いになって扉の前まで戻り、黒い獣と向かい合った。すると、獣は黒曜石のような目を細め、物言いたげな眼差しを向けてくる。


「アンジエールと一緒にいると、ああ、犬らしいなと、そう思うんです。でも、この子からはそれを感じない。表情や仕草が、人のようだと思うんです。それに、この水晶が――」


 そう言いながら腕を伸ばした千鶴は、柵の間から右手を出し、獣の胸元を飾っている水晶に触れた。雫のような形をした水晶は、とても滑らかな手触りだ。硬質な鉱石であるのにもかかわらず、やわらかい印象を覚える。不純物が一切入っていない、純度の高い水晶であることが、千鶴にも分かるほどだ。


「――何となく、違和感があるというか、興味が惹かれるというか」


 千鶴が水晶に触れている間、獣は微動だにせず、ただされるがままになっていた。あまりにじっとしているのを奇妙に思い、顔を上げると、不快そうな面持ちで千鶴を睨んでいる。


「ご、ごめんなさい」


 艶やかな毛の間から慌てて右手を引き抜いた千鶴は、すぐさま謝ると、背中を丸めて薬を煎じているルミエールの影まで避難した。

 一瞬だけ噛まれるのではないかと焦ったが、そう思われることすら心外とばかりに、その獣は不快そうに千鶴のことを見ている。何か酷く敵視されているようだとは感じるものの、何の心当たりもない千鶴にしてみれば、あまりの不可思議さに首を捻るばかりだ。

 千鶴が困惑しているのを見て取ったルミエールは、獣を宥めるように声を上げる。


「まあまあ、そう怖い顔をしないでください」


 すると、ますます嫌そうな顔をした獣は、鼻の頭に僅かばかりの皴を寄せてみせると、威嚇をするように微かな唸り声を上げた。おやおや、と呆れた声で言ったルミエールは、そのまま傍らにいる千鶴を見下ろす。


「大丈夫ですよ、チヅル。彼は少しばかり偏屈なところはありますが、理不尽に噛みついたりはしないはずです」


 先程からのルミエールの物言いを聞いていると、まるでこの獣が以前からの知り合いであるかのような口振りだ。千鶴は二人の関係性が酷く気になっていた。

 それなのにもかかわらず、その獣について何かを訊ねようとするたびに、千鶴は自分の喉が詰まるような感覚を覚えている。何度も獣の名を聞こうとしたが、唇が言葉を紡げない。それどころか、何を問いかけようとしていたのかさえ思い出せなくなり、同じ問いを繰り返そうとした時にようやく、その事実を思い出した。

 やはり、何かがおかしい――千鶴は獣の姿を横目に見てから、意を決してルミエールに声をかけた。


「ルミエールさん」

「はい、なんでしょう」

「この犬は、何なんですか?」


 千鶴がそう問うと、ルミエールは初めて作業の手を止めた。千鶴には名前も分からない、見たこともない薬草を刻み、混ぜ合わせ、すり潰して、奇妙な粘性のある液体を取り出そうとしていたが、その格好のまま顔だけを向けてくる。


「この黒い犬の姿をした獣は、何なんです?」


 唯一、その疑問だけが鮮明に、千鶴の頭の中に居座っていた。ルミエールはなぜか酷く驚いた顔をしていたが、手にしていた道具を置くと、膝を詰めるようにして座り直した。


「残念ながら、彼が何者であるかを知らぬ者の前で、何かを明かすことは呪いによって禁じられています」

「それは、あの魔法使いの呪いですか?」

「はい」

「明かせないのは名前だけ」

「いいえ」


 ルミエールは首を横に振る。


「正確には、何を明かせないのかも、明かすことはできません」

「もし明かしてしまったら、どうなるんです?」

「明かせないのです」


 おそらく、それ以上の返答は得られないのだろうと、千鶴は瞬時に察した。

 これ以降は何を訊ねても、明かせない、という答えが返ってくるだけだろう。だが、それは口にすることができないというだけで、思考をする自由はある。千鶴が今こうして、獣について考えを巡らせることができているのが、その証拠だ。

 しかし、何かのはずみにその思考さえ奪われる瞬間がある。自分でもそれに気づくことなく、頭の中で形にした言葉を口にしようとしたその瞬間、消滅するのだ。


「分かりました」


 千鶴はそう言うと、再び獣に目を向けた。その獣は相変わらず、千鶴を注視している。そのどことなく不服そうな面持ちを見つめ返し、僅かに口角を持ち上げた。

 この獣が何か特別な存在であるということが顕著ならば、その正体などは些細な問題だろう。

 千鶴は、北の魔法使いの企みを阻止したいと考えている。そしてこの獣は、己にかけられた呪いを解きたがっているからこそ、ルミエールと協力関係を結んでいる。

 利害が一致していれば、今は敵も味方も関係がなかった。いずれにせよ、北の魔法使いを敗北させることができれば、問題は解決するのだ。正体を知ろうとするのは、それからでも遅くはない。


「どうぞ、よろしく」


 そう言った千鶴が柵越しに右手を差し伸べると、獣はそれを厭わしそうに見た。しかし、千鶴の後ろでルミエールが軽く咳払いをすれば、至極面倒臭そうな様子を窺わせながらも、お手をするように前足を手の平に乗せてきた。

 その獣が空になったかごを銜えて出て行ったのは、間もなくしてからのことだった。

 小さくなる薬を完成させるためには、まだいくつかの手順を踏まなければならないらしい。効果を高めるためには、満月の光を一晩中浴びた水が必要なのだという。しかも、それはイチイの木で作った桶に満たされた水でなければならない。ルミエールがそれを用意できるかと問うと、獣は頷くようにゆっくりと瞬いてみせていた。

 だがしかし、この世界が冬に覆われてしまってからは、満月が雲間から顔を出すことなど、そう滅多にあることではないだろう。千鶴は、件の水がそう容易く手に入るものかと疑問に思ったが、比較的多くの薬に使用される材料のようで、多少値は張るが、取引は頻繁に行われているということだった。

 そうした考えを巡らせている間中、千鶴はずっと高い位置にある小さな窓を見上げていた。

 ごつごつとした石の壁に寄り掛かり、膝を抱えた格好のままじっとしていると、少し離れた場所に座っているルミエールが声をかけてくる。


「寒くはありませんか?」

「毛布を貸していただいたので、大丈夫です」


 荷物は取り上げられてしまったらしく、目を覚ましたときにはもうなくなっていた。ルミエールも見ていないという。

 千鶴が嘘を吐いている可能性を考慮し、気を失っている隙に荷物を奪って、中身を検めようと考えたのだろう。だが、千鶴が指輪を持っていないのは事実だ。たとえ足首を掴んでひっくり返されたところで、出てくるのは埃くらいのものだった。


「ルミエールさんこそ、寒くないですか?」

「大丈夫です」

「すみません、毛布を取り上げてしまって」

「いいえ」


 ルミエールは言葉少なに応じて首を横に振ると、千鶴がそうしていたように、自らも天井近くにある窓を見上げた。

 燃料を節約するためにランプの灯りは消していたので、牢獄の中を照らしているのは、その小さな窓から入り込んでくる僅かな光だけだった。


「あんなに高いところにあるように見えますが、実際には地表近くにある空気穴なんですよ」

「そうなんですか?」

「ここは地中にあります。ですから、夜でも外よりは幾分あたたかいのです」

「そういえば、アンジエールも牢屋に入れられてしまったはずなのですけれど――」

「私は姿を見ていないので、おそらくは西塔の牢獄に連れて行かれたのでしょう。こちらは東棟で、西塔からは最も離れた場所にあります」

「そうだったんですね」

「彼の場合は魔法薬などなくとも、自在に身体の大きさを変化させられるので、脱獄など容易なはずですが」


 千鶴はルミエールの言葉を聞いて目を丸くする。だが、言われてみれば確かに、自在に大きくなれるのなら、同じように小さくなることができても、何らおかしくはない。

 この世界は、まだまだ自分の知らないことだらけだ――千鶴は思わず苦笑いを浮かべてしまった。


「存外、あなたが迎えに現れるのを待っているのかもしれませんよ」

「まさか」


 千鶴はそう言って大きく頭を振る。


「私の方が迎えに来てほしいくらいです」

「ですが、私のことは迎えに来てくださったではありませんか」

「……え?」


 思ってもいなかった言葉が返ってきたことに驚き、千鶴はつい素っ頓狂な声を上げてしまった。

 もちろん、当初は攫われてしまったルミエールを取り戻すための旅に出たつもりだった。しかし、多くを見て、多くを知り、多くを聞いていくうちに、いつの間にかそれだけが目的ではなくなってしまっていた。

 しかも、こうして今ここにいるのは、一種の成り行きの末の結果だと、そう千鶴は考えている。


「……せっかく迎えに来ても、この体たらくでは何の示しもつきませんね」

「いいえ、そのようなことはありませんよ」


 ルミエールの声は朗らかだ。木の葉についた朝露が滴り落ち、それが土の中に染み渡っていくような、じんわりとした心地良さを感じさせる。アンジエールの傍にいる時とはまた違った、包み込んでくれるかのような安心感があった。


「この旅はあなたを成長させてくれたはずです」

「成長、ですか?」

「あの森の奥深くにある小屋にあなたが訪ねて来た時、私の目にはあなたが心許なく感じられていました。確かに、容姿は上王陛下によく似ていらっしゃいます。ですが、それだけだと思いました。この国をお預けするにはまだ若すぎると、そう考えたのです」


 半ば唖然としている千鶴を尻目に、ルミエールは先を続ける。


「私はあなたを元の世界へ帰すべきだと思いました。ここに来るまでの車中、あなたを招き入れず、そのまま帰していればと悔やんでいたほどです。こうしてあなたに無理を強いる結果になってしまったことを、申し訳なく思っています」

「……違うんです」


 それは違うと繰り返して、千鶴はまっすぐに見つめてくるルミエールの顔に目を向けた。


「ルミエールさんが連れ去られてしまったあと、みんなは私に元の世界へ帰るように言ったんです。でも、私は嫌だった。お祖母ちゃんのこととか、これからのこととか、そういうことは一切関係なく、あなたを助けに行きたいと強く思いました。私がみんなを巻き込んでしまったんです。ルミエールさんも、アンジエールやカルディアさん、それに、ノワールさんのことも……」


 千鶴の決断を最も否定し続けていたのは、他ならぬノワールだった。否定される度に我を通してきた千鶴だったが、ついに堪忍袋の緒が切れてしまったのだろう、ノワールは姿を消し、今に至る。

 千鶴は自らの選択を後悔しているわけではなかった。だがしかし、ノワールの言葉にも耳を傾けるべきだったとは思うのだ。その点においては、心底反省している。もし、今もまだノワールが傍にいてくれたとしたら、事態は別の方向へと動き出していたかもしれない。


「だから、なんとかしたい――ううん、なんとかしないとって思います。迷惑をかけてしまった分を、どうにかして取り返したいんです。そのためには何をしたらいいのか、何ができるのかを考えているのですけれど、全然分からなくて」


 今更になって考えてみたところで、もう遅いのかもしれない。それでも、考えずにはいられなかった。

 もし自分という人間をやり直す機会に恵まれたとしたら、人は自分自身をどこまでも見つめ直し、新たなスタートを切るために努力をするはずだ。そして、そのチャンスは今、千鶴の目の前にある。

 千鶴は毛布を剥ぐと、冷たい床の上で、膝を揃えて座り直した。ノワールの姿を正面から見据え、しっかりと目を合わせてから、ゆっくり頭を下げる。


「だからどうか、私に力を貸してください」


 それと同じ言葉を、なぜノワールにも伝えることができなかったのか。そう思うと、返す返すも悔やまれた。


「私には、みんなの力が必要なんです。お願いします」


 助けに来たはずが、その相手に助けを求めるとは、何という笑い種だろう。

 だが、千鶴はもう、自分自身が無力であるということを十分に自覚している。平和的な解決を求めることは不可能だ。千鶴の言葉は、魔法使いの心まで届かない。しかし、千鶴には不可能でも、他の誰かには可能かもしれないのだ。北の魔法使いを討つ手段があるのなら、大切な人たちの笑顔のために、そのすべてを試したいと思う。

 頭を下げたままじっと動かずにいると、ルミエールの立ち上がる気配があった。徐々に近づいてくる足音が目の前で止まり、視界の端にその爪先が入り込む。

 ルミエールはその場で膝を折ると、千鶴の細い腕にそっと触れた。


「顔を上げてください、チヅル」


 その声に促されるようにして見を起こすと、自分を見下ろしているルミエールの顔が目と鼻の先にあった。真剣で真摯な面差しを目の当たりにし、千鶴は思わず言葉を失う。


「我々は、あなたの剣となり、盾となることを厭いません」


 その瞬間、千鶴は背筋がそくりと震えるのを感じた。なぜかは分からない。ただ、アンジエールが爪先に口付けた時と同じ衝撃が、身体全体をびりびりと痺れさせていた。

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魔女の後継者は惑う 一色一葉 @shiki-666

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