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 千鶴はすっくと立ち上がる北の魔法使いの姿を見ていた。

 全身を濃紺の衣装で身を包んでいた魔法使いは、同色のマントを優雅に揺らしながら、重々しい足取りで階段を降りてくる。髪は腰に届くほど長く、銀糸のように輝いている。青白い肌は酷く病的で、一見すると儚い、壊れ物のような印象を覚えた。

 見た目と性格がそぐわないものは少なからずいるが、北の魔法使いはその最たる存在なのではないかと、千鶴はそう思う。ため息が出るほど美しいというのは、まさにこの魔法使いのためにある言葉だ。

 その存在が近づいてくるにつれて、まるで香るような美貌が、暴力を振るわれるように襲い掛かってきた。灰色の目は大きくもなく、小さくもない。完璧な形をしている。すうっと通った鼻筋に、薄く形の良い唇――無表情なことも相まって、人形のように作り物めいている。額には水晶の玉飾りを下げ、それが歩く度に煌く様は、先ほど目にした砂塵の輝きを思い出させた。

 ただそこに佇んでいるだけでは、男か女かも分からないだろう。それほどまでに中性的で、神秘的な容姿をしていた。だが、不思議と魅力的とは感じない。むしろ、恐ろしさすら覚える。自身の美貌を自覚するが故に、それに固執し、更なる完璧を求めようとしているようにも見受けられた。

 一歩、また一歩と、魔法使いは千鶴に近づいてくる。その足音には微塵の迷いもない。明確な目的をもって、一歩ずつ確実に、足を進めているのが分かった。

 かつん、こつん、という足音が、かち、こち、という時計の秒針のように、千鶴の最後の瞬間が差し迫っていることを、知らせようとしているかのようだった。


「さあ」


 千鶴の目と鼻の先で、北の魔法使いが足を止めた。感情を押し殺したような低い声で言い、右手を差し出してくる。千鶴を見下ろしている灰色の目は、ガラス玉を嵌め込んだだけなのではないかと疑うほど、気持ちを読み取らせない。


「それを渡したまえ」


 無意識だった。千鶴は擦るように右足を引いていた。魔法使いから感じられる、目に見えない気配のようなものが、千鶴に命令を下していた。可能なかぎり距離を取れ、近づくな、できることなら、その場から少しでも遠くに離れるのだ――本能はそう告げている。

 だがしかし、千鶴は自らの意志に従った。逃げないと決めたからには、その信念を曲げることはできない。最後の最後まで、自分が下した決断を信じ、毅然と頭を上げているのだ。そうすれば、少なくとも自分で自分を恥じることはないだろう。

 千鶴は拳を握り締めたまま、右手を身体の前に突き出した。そして、魔法使いが差し出している手の上に、ほとんど重ねるようにしてかざしてみせると、握り締めていた拳を開く。

 ぽとり――と、落ちるものはなかった。その瞬間、北の魔法使いの表情が引きつり、周囲の温度が急激に低下するような感覚に見舞われた。


「残念でした」


 千鶴は両手を開いて顔の両脇に掲げ、軽く振ってみせる。


「あなたが欲しがっているものを、私は持っていないの」


 最も大切なものを、最も危うい場所に預けておくわけがない。

 にこりともせず、取り繕いもせずに、淡々と言う千鶴を見る魔法使いの目は、氷のように冷たかった。


「……我を謀ったか」

「あなたは明確に何を渡せとは言わなかった」

「核なる者の指輪だ。分かっていたはずであろう」

「だから、あなたが欲しがっているものを、私は持っていない。そう言ったでしょう?」


 千鶴の言葉に他意はなかった。だがしかし、魔法使いは揶揄されたと感じたようだ。行き場をなくしていた右手を振り上げたかと思うと、千鶴の細い首に掴みかかり、焦らすように締め付けてくる。

 その時、不意によみがえったのは、夜更け過ぎに返ってきた母親が、酔った勢いで自分に襲い掛かってきた瞬間のことだった。


『あんたさえいなければ――』


 美優はそう言って、自らの身体ごと千鶴を床に押し倒し、首を絞めた。いや、正確には、首を絞めようとしただけだった。相当に酔いが回っていたのだろう、美優は千鶴に覆い被さった格好のまま、眠りに落ちたのだ。

 その時の絶望に比べれば、他人から向けられる敵意など、千鶴にとっては些末なものだった。


「指輪はどこだ? どこにある?」


 千鶴は答えなかった。すると、首を絞めつける力が僅かに強くなる。


「あの憎き獣の下か? 我が術中に落ちた愚かな騎士の下か?」

「好きに探してみればいい。でも、もしここで私を殺せば、あの指輪は絶対に手に入らない」


 真実はさておき、自分にはまだ人質としての価値があると、交換条件の材料として使えるのだと、そう思わせておく必要があった。少しでも多くの時間を稼ぎ、活路を見い出す。

 だが、説得は失敗かに思われた。魔法使いの目が一瞬だけ獣のように赤く光り、千鶴の首を一層強く締め付けたからだ。その細腕のどこに、これほどまでの力が秘められているというのか。痛みと苦しみで顔を顰めながら、千鶴は両手で魔法使いの腕に掴みかかった。しかし、どれだけの力を込めて引き剥がそうと試みても、千鶴の微々たる力ではびくともしない。

 呻きのような声にならない声が、締め付けられた喉の微かな隙間から漏れた。少しでも空気を求めようと開いた口の端からは唾液が伝い落ち、大理石の床を汚す。視界が転々と黒く染まり、ぼやけ、何も見えなくなった。徐々に耳も遠くなっていく。


「――アーテル」


 千鶴が意識を手放す間際に聞いたのは、そう言う魔法使いの声だった。



 それからしばらくの記憶は曖昧だ。途中で何かの夢を見たような気もするが、千鶴は何も覚えていない。どれほどの時間が、月日が、年月か経過したのかも定かでない状態のまま意識を取り戻すと、最初に聞こえてきたのは酷く朗らかな声だった。


「ああ、よかった。目を覚まされましたね」


 ぼやけた視界の中で人影が動き、何者かの顔がすぐ近くにまで迫ってくるのが分かった。


「ご気分はいかがですか?」


 千鶴は酷い頭痛がしていた。それに、どういうわけか身体のあちこちも痛む。うう、と呻き声を上げながら腕を持ち上げると、何者かが千鶴の手を優しく握った。


「喉が渇いてはいませんか? お水はいかがです?」


 それは聞き覚えのある声だった。感覚的には遠い昔、ほんの少しの間だけ、優しさを分け与えてくれた人の声だ。ああ、なんだ、無事だったのか――そう思い、ほっとしたのも束の間、急激に現実を理解した千鶴は、飛び上がるようにしてその場に起き上がった。


「ルミエールさん――! あっ、いたたた……」

「おやおや」


 少し笑ったような、驚いたような声で、その人は言った。


「あまり無理はされませんように」


 慌てて身を起こした千鶴は、痛む頭を手の平で支えながら、目の前にいる者の顔を見上げた。すると、少しずつ鮮明になってきた視界の中に、妙に懐かしく感じられる者の顔が現れる。

 ああ、確かにルミエールだ――自分はこの人を連れ戻すために、旅をはじめたのだと思い出しながら、千鶴はルミエールの顔を真っ直ぐに見つめた。


「はい、ルミエールです。遠路はるばるお疲れさまでした、チヅル」


 千鶴は自分が泣きたいのか、笑いたいのか、怒りたいのかも分からなかった。頭が真っ白になり、何も考えられなくなっている。唖然とした面持ちを浮かべている千鶴を見て、ルミエールはそっと目を細めた。

 しかし次の瞬間、思考が復活すると同時に千鶴が覚えたのは、言い知れぬ申し訳なさだった。

 何もかもが自らの不用意の末にある。弁明のしようもないことだと千鶴は思った。そのようなことをつらつらと述べると、ルミエールはふっと息を吐くように笑ってから、首を左右に振った。


「遅かれ早かれ、いずれ運命は動き出すものです。そしてそれは、早いに越したことはありません。むしろ、遅すぎるくらいでした。我々は、ただもう、待ちくたびれてしまっていたのですから」


 すっと伸びてきた手が、千鶴の乱れた髪を、梳くようにして撫でつける。ルミエールの指先は僅かに緑色に染まり、草の香りがするようだった。

 千鶴はルミエールが差し出してくれた木製の器を受け取ると、注がれていた水を一気に飲み干した。からからだった喉が潤うと同時に、指や足の先までにも心地良さが行き渡り、千鶴は大きく息を吐き出す。全身の強張りが消え、心臓の鼓動が落ち着いてくると、ようやく辺りを見回すだけの余裕が出てきた。

 意識を失う前、千鶴は玉座の間にいたはずだ。巨大な空洞のような部屋が、青白い光で満たされていたのを思い出す。それは美しく、不気味でもあったが、それ以上に寒々しい場所だった。

 だが今は、いつの間に連れて来られたのか、酷く薄暗い空間に身を置いていた。壁の少し高いところにランプが一つ灯っている以外には、その更にずっと上――体感では十メートルほど上に小さな窓があるだけで、他に光源はない。

 ぐるりと見回した室内は筒状になっていて、天井が高い場所にある。鉄柵の頑丈そうな扉が唯一の出入り口のようだ。おそらく、ここは牢獄の一つなのだろう。

 こちらの世界にやって来てからというもの、本当に様々な、あり得ないようなことばかりを経験している。苦笑いを浮かべた千鶴は、再びルミエールに目を向けた。


「あなたはずっとここに?」

「慣れてしまえば存外快適なものです」


 ルミエールは何でもないことのようにそう言った。自分に気を使っているのだろうと考えた千鶴は、それ以上は言及せず、話を別の方へと向ける。


「あの、私はどのくらい眠って――?」

「丸一日近くです」

「どうやってここまで来たのか、まったく覚えていないのですけれど」

「それは――ああ、彼が運んで来てくれたのですよ」


 何かを言いかけたルミエールだったが、扉の向こう側から物音が聞こえてきたかと思うと、そちらに目を向けた。千鶴は思わず警戒しそうになるが、ルミエールが手を挙げてそれを制する。


「彼は大丈夫です。私が請け負います」


 少し遠い場所で扉が開いたかと思うと、眩いばかりの光が廊下に差し込んだ。開いた扉の隙間から、黒い影のようなものがぬるりと入ってきたような気がして、千鶴は目を凝らす。ちゃき、ちゃき、と鋭い爪が石の床を擦るような音は、アンジエールの足音によく似ていたが、こちらはもっと軽い印象だ。

 廊下を進み、こちらまでやって来たそれは、扉の前で足を止めると、その場にぺたりと座り込んだ。傍らにいたルミエールは立ち上がると、壁にかかっていたランプを手に取り、扉に近づいていく。


「チヅルが目を覚ましました」


 ルミエールはそう言いながら、扉の前で膝をついた。すると、その向こう側に、黒い影がくっきりと浮かび上がる。輪郭が掴めず、曖昧な感じがしてしまうのは、それが完全な黒色をしているからだろう。ベンタブラックを見つめているような、微かな不安感が千鶴に襲い掛かった。

 その黒い影は、アンジエールよりも小柄な姿をした獣だった。前に写真で見たことのある、メラニズムの狼と似ていると千鶴は思う。ランプの灯りに反射して輝かなければ、目がどこにあるのかも分からない。


「この大きな――ええと、犬、ですか? この子が私を?」

「ええ、そうです」


 当たり前だというふうにルミエールは言うが、いくら大きいとはいえ、千鶴を抱えて運ぶことは不可能だ。身体中の痛みを踏まえて考えて見れば、自ずと答えは出る。どれほどの距離かは分からないが、千鶴は玉座の間からこの牢獄まで、ずるずると地面を引きずられてきたのだろう。

 千鶴は遅れて立ち上がると、ルミエールと並んで扉の前にしゃがみ込んだ。


「ここまで運んでくれて、ありがとうございます」


 そうは言ってみたものの、礼を述べるべきなのかどうかは、甚だ疑問だった。

 この獣が、立ち寄った村でルタが話していた、北の魔法使いの使い魔なのだろう。

 一見すると、よく躾けられた猟犬のような鋭さを感じた。しかし、見れば見るほど、手入れの行き届いた、酷く気品のある高貴な印象を受ける。時折間の抜けたような雰囲気を醸し出しているアンジエールとは違い、隙がないのだ。座る姿勢も凛々しく、すっと背筋が伸び、濡れた鼻をつんと僅かに上向けている様は、強い誇りすら感じさせた。

 黒い獣は礼の言葉を述べる千鶴を一瞥すると、自らの足許を見下ろした。釣られるようにそちらを見やると、そこには布で覆いをかけられたかごが置かれている。どうやら、その獣が銜えて持ってきたものらしい。人間一人をずるずると引きずって来られるのだ、かごを銜えて運ぶくらい造作もないことなのだろう。

 千鶴がそのようなことを考えていると、獣は鼻先でそのかごを押しやろうとしてくる。受け取れということなのだろうが、鉄柵はびくともしそうにない。困っている様子の千鶴を横目に見たルミエールは、手にしていたランプを置くと、鉄柵に向かって両手を伸ばした。

 その時になって初めて、ルミエールの指先が触れた場所に、猫の通り道ほどの小さな扉が存在していたことに、千鶴は気づいた。牢獄の中に何かを差し入れるための扉なのだろう。とてもではないが、小さすぎて出入りをすることは不可能だ。

 かごを引き寄せたルミエールは、被せてあった布を取り外すと、思わずというふうに声を上げた。


「ああ、そうです、これです。ありがとうございます。これだけのものを揃えるのは、大変なご苦労だったでしょう?」


 ルミエールが問いかけても獣は答えない。しかし、ルミエールにそれを気にしている様子はなかった。この獣は、アンジエールのように言葉を操る能力がないのかもしれない。だが、人間の言葉を理解してはいるようだ。


「あ、あの、ルミエールさん……?」

「はい」

「この人――というか、この犬は、その、あの魔法使いの使い魔だと聞いているのですけれど……」

「使い魔とは随分聞こえの良い呼称ですね」

「違うんですか?」

「小間使いの間違いかと」


 千鶴がどちらも同じようなものだろうと思っていると、獣はまるで人間のように鼻で息を吐き、ルミエールを睨むように見た。当のルミエールは気づいていないのか、その振りを装っているだけなのか、酷く機嫌が良さそうにかごの中を覗き込んでいた。

 二人の間で少しだけ視線を彷徨わせてから、千鶴は困ったようにルミエールの横顔を見る。アンジエールやカルディアたちのように気安く接することができそうにないのは、未だルミエールの人となりを理解することができていないからだ。事件は出会いと同時に起った。

 まずは、その時の謝罪をしなければ――そう考えた千鶴が口を開こうとすると、まるでそれを察したかのように、ルミエールは自身の唇に指先を立てた。


「目覚めたばかりでお疲れのところを申し訳がないのですが、これより脱獄の準備に取り掛かります」

「……え?」

「この扉は魔法で護られています。文字通り押しても引いても開きません。それどころか、いかなる手段を用いても、感知されず開けることは不可能に近いでしょう。唯一開くのは、この扉だけです」


 この、と言いながら、ルミエールは到底通り抜けられそうにもない、小さな扉を指した。


「本気で言っています?」

「もちろんです」

「こんなに小さな扉から、どうやって外に出るっていうんですか? 不思議の国のアリスでもあるまいし、身体を小さくする薬なんてあるわけが――」


 ないだろうと続けようとしたが、千鶴は不意に思い出す。

 そうだ、ここは不思議の国と比べても何ら遜色のない、魔女の王国だ。人間の身体を小さくする薬の一つや二つ、ないわけがなかった。

 半ば呆れたような面持ちを浮かべ、自らの前言を撤回しようと頭を振る千鶴を見下ろし、ルミエールは優しく微笑んだ。そして、千鶴と向かい合うようにして座り直すと、跪いた格好のまま、小さな傷が目立つようになった手をそっと取り上げる。


「王国一の薬草師が、我が王をお助けします」


 顔を僅かに伏せ、千鶴を上目遣いで見やりながら、ルミエールは言った。取り上げた手の甲、丁度右手の薬指の辺りに、恭しく口付けをする。

 経験のない事態に頭が真っ白になってしまった千鶴は、ようやく理解が追いつきはじめると、ぎょっとすると同時に酷く狼狽えてしまった。恋愛経験すらなく、まともな初恋さえまだだというのに、あまりに刺激が強すぎる。


「あ、ああ、あの、ええと、そういうのは、ちょっと――」


 かといってその手を叩き落すことも、振り払うこともできず、挙動不審に陥っていると、ルミエールはどこか慈しむような眼差しで千鶴を見た。指先をそっと握り締めていた手を離すと、しゃんと身を起こす。


「ご無礼をお許しください」

「い、いいえ、そんな、謝らないでください。ただ、私は王とか、そういう大それた肩書きが欲しいわけではないので」

「では、今はこの場を脱することだけを考えましょう。その後のことは追々――ですが、もし可能であれば、これまでの旅の話をお聞かせ願えますか?」

「はい」


 未だ心臓の鼓動が変に粗ぶり、落ち着かない。千鶴は胸に手を当てながら、大きく深呼吸をした。しかし、既に薬を煎じるための準備をはじめているルミエールを眺めていると、千鶴は別の方向から視線を感じ、獣を見る。

 その美しい獣は、千鶴をまっすぐに凝視していた。鋭い眼差しで値踏みをされているようだと感じる。つやつやとした光沢のある体毛に触れてみたくなるが、アンジエールとは違うのだ、よしておいた方がいいのだろう。


「チヅル」


 そう名前を呼ばれて獣から視線を外す間際、きらりと輝くものが目に留まり、千鶴は視線を戻した。毛足の長い体毛に隠れて見えなかった首輪が、ちらりと覗いている。その首輪から、滴るように飾られている雫型の水晶を目にして、千鶴は心が微かにざわつくのを感じていた。

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