第八章 砂塵の煌きが真実へと導かん

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 その部屋は玉座の間と呼ばれる空間だった。全体的に薄暗い城内に対して、この玉座の間だけは明るく、青白い光で満たされていた。灯り自体はほとんど存在しなかったが、床や壁、天井そのものが淡く発光しているのだと、千鶴にはすぐに分かった。旅の当初に立ち寄った山の洞窟の中で、同じものを見ていたからだ。おそらく、この玉座の間には、あの山の石と同一の鉱物が使われているのだろう。

 窓一つない閉ざされた空間なのにもかかわらず、閉塞感がないのは、天井が呆れるほど高いからに違いない。中央を真っ直ぐに伸びる黒い大理石の床の脇には、素材の太い柱が等間隔で何本も立っている。柱の間には今にも動き出しそうな騎馬隊の彫像がずらりと並んでいた。

 そして、千鶴の足許――扉を入ったすぐのところの床には、所謂魔方陣のような模様が描かれている。千鶴はただ漠然と、自分はこの魔法陣の中に囚われていたのだろうと、そう感じた。両手を拘束していた縄が細かな灰になり、緻密な魔法陣の模様を台無しにしていた。


「お前は自らの置かれている状況というものを理解していないようだ」

「窮地に陥っているということは理解しているつもりだけれど」


 千鶴は自分でも驚いていた。身をすくませ、慄き、恐怖を前に敗北していてもおかしくないこの状況下で、なぜか平静を保つことができている。それは達観だろうか。もしかしたら、諦めに近い感情なのかもしれない。

 北の魔法使いは、部屋の最奥にある玉座に、威容を誇るようにして腰を据えていた。白銀の玉座は、大理石の階段を数段上った、千鶴の身の丈ほど高い場所に置かれている。威厳と権威を誇示するように鎮座するその姿は、千鶴の目には尊敬を集める王ではなく、自らの権力と自尊心に溺れた男のようにしか見えなかった。

 随分話が違うではないか――千鶴は北の魔法使いを見つめながら、そう思う。

 北の魔法使いもまた、千鶴の立ち姿を、真っ直ぐに見据えていた。玉座の背後には、外の噴水で見かけた翼のある大きな龍と大蛇が描かれた旗が掲げられている。そして、傍らには背の高い台座があり、その上には大きな水晶玉が置かれていた。

 ブランの姿はどこを探しても見当たらない。だがしかし、カルディアはすぐ近くにいた。意識を失っていなければ、どれだけ心強かったことだろう。

 カルディアはその手に剣の柄を握り締めたまま、うつぶせの状態で倒れ込んでいた。千鶴が見ていない間に、何か大変なことが起こっていたらしい。

 かつては騎士団長としてその名を思うままにしていた男が、無力にも横たわっていると思うか、それほどまでに北の魔法使いの力が強いのかと思うかは、人それぞれだ。少なくとも千鶴には、そこまでのことを考えている余裕などありはしなかった。


「あなたはこの王国に春を取り戻そうとしているのでしょう? だから反旗を翻して、王国の理に逆らってまで、苦しんでいる人々を救おうとしている――そうではないの?」

「さてな」

「行く先々の町や村で、あなたの話を聞いた。誰もが口を揃えて素晴らしい魔法使いだと言っていたから、私はあなたに会うのを楽しみにしていたの。でも、あなたに仕えているはずのブランさんの顔が、この城が近づくにつれて、少しずつ曇っていくのが分かった。言葉ではあなたのことを称賛しているのに、それが態度に現れてはいないように感じられた」


 奇妙だと思うことは多々あった。だが、それは奉仕すべき王に対しての憚りなのかもしれないと、そう思うようにしていた。

 主従関係というものが千鶴にはよく分からない。それでも、自ら好んで仕えているか、そうでないかということくらいは、判断することができた。ブランのそれは後者であると、そう確信したのはほんの少し前のことだが、疑念はずっと抱いていた。

 当人がいない場面でも、ブランが徹底して忠実であったのは、常に監視の目が近くにあったからだ。おそらくではあるが、あのマントの者たちはブランを手伝うためではなく、その振る舞いを見定めるために遣わされた者たちだったのだろう。人質は、故郷の村の人々であり、広く捉えればこの王国の民草たちだ。

 目的は、この王国を手に入れ、我がものにすること。だが、分からないのは、なぜそこまでして王国を手に入れようとするかだった。

 アンジエールの話では、北の魔法使いは、この魔女の王国の行く末を案じているようだった。自ら悪役を買って出てでも、人々を苦しみから救い出すのだと、そうした信念を掲げている賢人だと思っていた。しかし、実際のところはどうだ。千鶴が思い描いていた人物像とは、あまりにかけ離れてしまっている。それはまるで、別人なのではないかと、そう疑ってしまうほどだった。


「私には、あなたがブランさんを恐怖で従わせているように見える。それは多分、畏怖とは違う。誰よりもこの国と人々の幸せを思っていたはずの人が、誰かを強制的に使役しているなんて、私には信じられない」

「何かを成し遂げるためには多少の犠牲はつきものなのだ」

「自分自身を犠牲にしても、その偉大さが損なわれないのと同じように、誰かを犠牲にして築いた地位の上に胡坐を掻いていても、それであなたの偉大さが証明されるわけではない」


 なぜこんなにも強気な言葉が自分の口から紡ぎ出されるのか、それは千鶴自身にも説明ができない。ただ、何かが味方に付いてくれているかのような、酷く懐かしい感覚がすぐ近くから感じられるような、そんな気がしていた。

 それはほんの微かなもので、ともすれば目の前にある強大な存在感にかき消されてしまいそうではあったが、間違いなくそこにある。その微かな感覚が、千鶴の背中を力強く支え、押してくれているようだった。しかし、その実態は掴めない。


「あなたは誰のためでもなく、ただ自分のためにすべてを手に入れたいだけ。この王国も、人々からの信頼も。何かを成し遂げるためには犠牲はつきものだと言うのなら、手段も選ばないのでしょう?」

「減らず口を叩くではないか」

「私を排除して、その次はどうするの? 国のために悪しき魔女を滅ぼしたと御触書でも出す? 核なる力が失われれば、あなただって遠からず魔法の力を失うことになる。たとえ春を取り戻したって、ここはもう魔法の王国ではなくなるのに」

「その言葉は女王となるべくして生まれた者の驕りか?」

「いいえ」


 千鶴は考えることさえせずに、首を横に振った。そのように分不相応な驕りなど、持ち合わせているわけがなかった。


「私はここへ来て、大切な友人と出会えた。多くの人に助けられて、ここまで来ることができた。だから、この国が彼らにとって住みよい国になればいいと思う。彼らには幸せになってほしい。そのためには、より良い統治者が必要になる。そしてそれは、私やあなたのような人間には務まらない」

「その言こそが分不相応な驕りと思うが、いかがか」

「そうかもしれない。でも、私やあなたが王の器でないことだけは分かるの」


 他者を力尽くで退け、それで何かを手に入れようとする者に、玉座は似合わない。王位というものは、力で手に入れるものではないと千鶴は思うからだ。

 例えば、言葉を話す小さな虫でも、山よりも大きな身体の亀でも構わない。一人でも多くの国民を幸せにできる者が、玉座に腰を据えればいい。それが千鶴自身や、北の魔法使いである必要はないのだ。


「自分に歯向かうものをすべて排除していたら、あなたはいずれ、誰も存在しなくなった国の王になる。今は聞こえがよくても、そのうち綻びが出る。取り繕われた人格は、知らず知らずのうちに破綻するものだから」


 扉の前に立っている千鶴と、玉座に腰を据えている魔法使いの間には距離があり、本来であればその表情を読み取ることは叶わない。だがしかし、千鶴は魔法使いの猛々しい怒りを、その肌で感じ取っていた。空気中に微弱な電気が漂い、それが肌の産毛に触れる度に、ちりちりとした軽い痛みを感じるかのようだ。

 千鶴はもっとだと思った。怒りには爆発的なエネルギーが必要だ。その怒りを持続させるためには、更なるエネルギーが必要になるだろう。怒りに任せて我を失えば、少なからず隙が生まれる。そこに勝機へと繋がる可能性があるのなら、それに賭けてみるしかない。


「あなたが国を統治しても、得られるのは一時的なかりそめの平和だけ。あなたの本性を知れば、いずれ反旗を翻す人も出てくる。今のあなたと同じように、必要のないものを排除しようと、多くの人が立ち上がる。そうなれば、もう誰にも止められない。あなたが玉座という椅子から引きずり降ろされるまで――」


 しかし、北の魔法使いの沸点は、思っていたよりも低かった。

 千鶴が挑発的な言葉を言い終えるより早く、傍らにある台座の水晶玉に手を乗せると、耳慣れない呪文のような言葉を吐き出す。それとほぼ同時に、正面から強い風が吹くと、魔法陣から灰が吹き飛ばされた。

 咄嗟に嫌な予感を覚えたが、既に遅い。正常な模様を取り戻した魔法陣は鋭い光を放ち、千鶴をその内側に閉じ込めようとした。だが次の瞬間、千鶴は強い力で突き飛ばされる。

 千鶴は自分の身に何が起こっているのか分からないまま、視線を魔法陣の方へと向けた。すると、そこには剣を杖のように床に突き立て、光の中に閉じ込められているカルディアの姿があった。苦しげな面持ちを浮かべながらも、千鶴を見て片頬を歪めるようにしてにやりと笑い、何事かを口にしようとする。

 しかしながら、カルディアの声が千鶴の耳に届くことはなかった。唇が何かの言葉を形作る前に、その身体が一瞬にして、跡形もなく消失してしまったからだ。

 そのあまりの衝撃に、自らの身体が背中から大理石の床に打ち付けられても、千鶴は痛みを感じなかった。

 その名前を呼ぼうにも、喉からは酷く掠れた、空気のような声しか漏れてこない。何かとても恐ろしいことが目の前で起きたのだと思った。千鶴がそれ以外のことを考えられなくなっていると、玉座の方向から大きな舌打ちが聞こえてきた。

 北の魔法使いは間違いなく千鶴を狙っていた。本当であれば、自分が消されるはずだったのだ――そう思うと同時に、千鶴は消えたカルディアの身を案じる。ただ目には見えていないだけで、あの魔法陣の上に立っているのか、どこか別の場所に転送されてしまったのかは、いずれにしても千鶴には分からないことだ。

 カルディアの勇姿を無駄にすることはできない。自らを犠牲にしたカルディアのためにも――そう気持ちを奮い立たせながら、千鶴はその場に立ち上がろうとする。しかし、あまりのことに腰を抜かしていた千鶴には、その場に立ち上がることさえ困難だった。

 膝を立てて何度も挑戦するものの、足の裏が大理石の床の上を滑り、逃げることさえ叶わない。


「無様な姿だ」


 北の魔法使いは嘲笑まじりに言う。


「豪胆なところは認めてやろう。だが、だからといってどうということはない。少々順番が狂っただけのことだ」

「……彼をどうしたの?」

「それを知ってどうする? お前もすぐに消えるのだ、関係がなかろう」

「彼は無事なの?」


 まるで生まれたての小鹿のように震える足でなんとか立ち上がりながら、千鶴は詰め寄るように言った。玉座から一歩も動こうとしない姿を睨むように見ると、魔法使いは目を細める。


「無事でいられるかどうかは、あの男次第だ」

「どういう意味?」

「我も殺しが趣味というわけではない。誰にでも挑戦する権利は与える。それはお前に対しても同じことだ――最悪の血を受け継ぐ異世界の娘よ」


 千鶴は両足を肩幅まで開き、足の裏で床を踏みしめるようにして立った。そうしていなければ、今にも膝から崩れ落ちてしまいそうだったからだ。本当は受け答えをする余裕さえない。それでも、なけなしの意地を張る程度の矜持は残されていた。

 未知の恐怖というものは多くの人を尻込みさせる。それは千鶴も例外ではない。


「お前の気概は見せてもらった。だが、もう充分だ」


 うんざりしている様子を隠そうともせず、魔法使いは言った。

 たとえ付け焼刃であったとしても、アンジエールから魔法の手ほどきを受けておくべきだった――そう思いながら奥歯を噛みしめると、僅かに血の味が滲む。口の中を噛んでしまったようだが、不思議と痛みは感じなかった。恐怖のあまり、身体の感覚が上手く機能していないのかもしれない。

 しかし、そうでもなければ上辺だけでも平気な顔をして、こうして魔法使いと正面から対峙することなどできはしないだろう。


「あの男を助けたいと思うのなら、お前が持っているものを我に渡せ。そうすれば、今すぐにあの男を呼び戻すと約束してやっても構わない」

「私の、持っているもの……?」

「お前は持っているはずだ」


 何の話をしているのだろうと千鶴は思った。

 北の魔法使いに求められるほど価値のあるものなど、何も持っていないはずだと、一瞬だけ思う。こちらへやって来てからは何かを与えてもらうばかりで、しかしそれらは、魔法使いが欲しがるようなものではないはずだ。

 だが、一つだけ、たった一つだけ、千鶴には心当たりがあった。祖母のダイアモンドの指輪だ。それを所持している者がこの王国を統治する資格を得られるといわれている、あの指輪のことを言っているのだ。

 千鶴は咄嗟に、自らの右手を左手で覆い隠した。北の魔法使いはその様子を注視している。

 この指輪が王国の将来を左右する重要なものであることは分かっている。だがそれ以前に、千鶴にとっては祖母の大切な形見なのだ。そう易々と渡すわけにはいかない。


「渡すつもりはない、と。そう捉えて構わぬのだな?」


 千鶴の顔色を窺いながら魔法使いは言う。

 この申し出を断れば、カルディアを取り戻すことはできなくなるだろう。しかし、応じたところでカルディアが戻ってくる保証はない。どちらを選択しても、千鶴にとっては不利にしか働かないのだ。


「お前にあの男を見捨てられるのか?」


 苦渋の表情を浮かべながら、祖母ならばどうするだろうかと、そう千鶴は考えていた。カルディアのために何の躊躇もなく指輪を渡すだろうか。そもそも、こうした選択を迫る窮地に立たされるような愚行を、犯すこと自体がなかったに違いない。

 けれど、もし祖母が自分と同じ選択を迫られたとしたら、そうするだろうと――やはり、ダイアモンドの指輪を渡すだろうという確信が、千鶴にはある。

 千鶴は、ふう、と大きく息を吐き出した。そして、未だ水晶玉に手を乗せている魔法使いを、決意を持って睨むように見た。


「これがそんなに欲しければ、自分の足でここまで取りにきたらどう?」


 千鶴は右手を背中に回し、魔法使いから見えないように隠した。


「それとも、お尻から根っこでも生えて、その玉座から動けなくなってしまったの?」


 一歩、また一歩と踏みしめるように歩き、千鶴は黒い大理石の床の中央に立った。正面には北の魔法使い、背後には魔法陣――もう逃げ道はない。

 背中で握り締めた拳が震えていても、両方の膝が笑っていても、意味もなく叫びたい衝動に駆られていても、逃げ出すわけにはいかなかった。

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