-5-

 扉の向こう側の世界は、まるで宇宙空間のようだった。

 誰の手も触れていない両開きの扉が厳かに開かれ、その先に現れた世界は、そのほとんどが暗闇に支配されていた。床も壁も、そして天井も、視覚ではっきりと捉えることは不可能だった。そこにあるのは、どこまでも続く闇だ。果てが見えない。ただただ不吉な空気が辺りを漂い、足を踏み入れようとする者に、絶望感を植え付けようとしてくる。

 千鶴は嫌だと思った。入りたくないと、そう思った。位置について、用意――その状態のまま、身体が硬直してしまう。

 意思を持った酷く冷たい風が、足許から全身を絡め取り、自由を奪おうとしているかのようだった。暗闇の中に足を踏み入れた刹那、奈落の底まで落とされて、二度と戻って来られないのではないかという恐怖に襲われる。

 その時、先に立って歩いていたブランが、扉の向こう側の世界に降り立った。ともすれば、そのまま落ちていってしまいそうな闇の上を、ただまっすぐに進んでいく。それは一見、宙に浮いているかのような錯覚を千鶴に与えた。


「――大丈夫か?」


 隣に立っていたカルディアが、前を向いたまま千鶴に問いかけた。

 今更躊躇っている暇などありはしなかった。既に答えは決まっている。それを実行に移すだけなのだ。

 千鶴は正面を見据えたまま、小さくこくりと頷いた。そして、意を決して歩き出す。早鐘を打つ心臓に鞭を打ち、底がないように見える闇の上に足を置いた。

 しかしその瞬間、千鶴の世界は完全に光を失った。手を伸ばせば届く距離にいたはずのカルディアの気配も、一瞬にして消え失せる。前を歩いているはずのブランの姿さえなく、千鶴は頭から血の気が引いていくのを感じながら、必死で自分以外の存在を探そうと暗闇の中をまさぐった。

 精一杯手を伸ばし、恐る恐る足を進める。


「……カルディア、さん?」


 千鶴は助けを求めるようにその名を呼んだ。しかし、応える声はない。もう一度名前を呼んでみても、同じことだった。

 こんなはずではなかった――それが素直な気持ちだった。

 話を聞くかぎり、北の魔法使いは話の通じる相手だと、話せば分かり合える相手だと、千鶴は勝手に判断してしまっていた。だが、話し合いの余地があると、そう思っていたのは千鶴だけだったのだ。北の魔法使いには、はじめから対話をする気など毛頭なかったのだろう。平和的な解決など、求めてはいなかった。ただそれだけのことだったのだ。

 腹立たしさはなかった。ただ、自らの考えの甘さに、些かの失望は感じていた。自分が下した決断のせいで、信じてくれた人々に迷惑をかけ、裏切ることにもなってしまい、申し訳なさがつのる。

 今度ばかりは、自分の力で何とかできるだろうと思った。今回ばかりは、期待を裏切りたくないと、そう思ってしまったことが、運の尽きだったのかもしれない。

 自分は変われると思った。変わりたいと願った。もっと自分を好きになりさえすれば、変われるだろうと信じていた。だが、それはただの幻想だったのかもしれない。願望は叶うとは限らない。現実は残酷だ。夢を手に入れられる人間は、この世界に、ほんの一握りしか存在しないというのに。


「それはお前の中にある闇だ」


 一切聞き覚えのない、ぞっとするような低く冷たい声が、静かにそう告げた。

 反射的にびくりと肩を震わせると、相手にはそれが視えているのか、含み笑いのような声が聞こえてきた。


「稀に見る闇の深さだ。本来であれば王国の光となるべき要の存在が、こうも闇に囚われているとは、実に嘆かわしい」


 低く冷たい声は、驚くほど甘美に囁いた。氷のように冷たい手の平で、首筋を優しく愛撫されているかのような、相反する感覚を覚える。

 千鶴は全身に走る鳥肌を抑えつけるように、自らの腕をきつく抱いた。


「……あなたは誰?」


 絞り出すような声でかろうじてそう問うと、暗闇の向こう側から忍ぶような失笑が聞こえてきた。笑い声は不自然に反響している。前方から聞こえてきたかと思えば、後方からも聞こえてくるのだ。

 足の裏には確かに地面を感じているが、一切の光が届かない暗闇の中に立たされていると、自分がどちらを向いて立っているのかさえ分からなくなってくる。ぐるぐる、ぐるぐる、と目が回ってくるようだった。


「今更名乗る必要などあろうか。お前はこの私に会いに来たのであろう?」

「会いに……?」

「我は女を捕えてくるよう命じたが、我が配下は無能故、お前たちに利用されたのだ。我に会いたいと、そう話していたのはお前ではないか。願いは叶えてやったぞ」


 千鶴は思わず愕然とした。確かに、千鶴は北の魔法使いに会いたいと、会ってみたいと、そう口にしたことがあった。だがしかし、それはアンジエールしか知らないことだ。他の者の前ではただの一度も口にしたことはない。

 一瞬のうちに、自らの中で不信感が大きく膨れ上がるのを、千鶴は感じていた。

 まさか、そのようなことはあるはずがないと自らの思考を否定し、千鶴は大きく頭を振る。アンジエールが裏切るはずなどない。北の魔法使いが疑心暗鬼にさせようとしているだけなのだと、そう言い聞かせる。

 だがしかし、それでも疑問は残った。北の魔法使いはなぜ、その事実を知っているのだろう。アンジエールしか知り得ないことを、なぜこの魔法使いは知っているのか。

 不思議なことに、そうした疑問が少しずつ大きくなっていくにつれて、千鶴の中の恐怖心は小さくなっていった。不安な時ほど何の関係もないことに没頭したくなる感覚と似ている。

 千鶴はアンジエールを信じると決めていた。だからこそ、最も早く思い描いた思考を除外し、可能性を考える。

 例えば、魔法の力だ。何か千鶴の知り得ない方法で――いうなれば、千里眼や地獄耳のような能力で、盗み見ることや聞くことができるのではないだろうか。もしくは、千鶴がこちらの世界にやって来た当初から、何かに監視させていた可能性もある。ブラン以外にも使者を放ち、尾行をさせていたとしたらどうだろう。

 いや、アンジエールは常に注意を払っていたはずだ。それはノワールも同じだろう。何かが千鶴を尾行していれば、すぐ察知したに違いない。だが、ビビアンという前例がある――そこまで考えた時、千鶴はふとあることに気づいた。

 冷静になり、よく目を凝らして見れば、最初から見て取ることはできたはずだ。

 その場所は、完全な暗闇ではなかった。まるで星が煌くように、砂塵のような光がきらきらと輝いている。それが何を意味するのかは千鶴にも分からない。しかし、千鶴にはそれが希望のように思え、僅かに勇気づけられるのを感じた。

 入口があったのだ、必ずどこかに出口もある。

 北の魔法使いは、これを千鶴自身の中にある闇だと称した。ならば、方法さえ分かれば、闇を光に変えることも、出口を出現させることも叶うのではないか。

 だが、何を成すにも両手を拘束している縄を解くことが最優先事項だが、それが最も困難なことのようにも思える。どうせなら解けやすいよう緩く結んでくれればいいものを、カルディアはその辺りの融通が利かない男のようだった。変に真面目なのだ。

 千鶴は妙な腹立たしさが湧き上がってくるのを感じながら、暗闇の中で視線を素早く動かした。いずれにせよ、北の魔法使いは千鶴と同じものを見ている。


「……あなただって、私に用があったのでしょう?」

「いかにも」

「私は北の魔法使い――ネイジュという人に会いたいと思った。会って、話をしてみたいと思った。あなたは私を連れて来させて、何をしたかったの?」

「無論、お前の排除が目的だ。この王国を手中に収めるためには、必要不可欠なことらしいのでな」

「その、排除というのはどういう意味? 私を元の世界に追い返すということ? それとも――」


 千鶴はとにかく時間を稼がなくてはと考えていた。

 この内なる暗闇の世界は、千鶴を捕えるために用意されたものなのだろう。それは、どんなに堅牢な牢獄に投獄されることよりも、酷く効果的に思える。たとえ牢獄に閉じ込められたとしても、そこでじっとしていれば、いずれ助けが現れる可能性は皆無ではない。そうでなくても、希望を持つことはできる。

 だがしかし、一度自らの中に閉じ込められてしまえば、それを救うことができるのは他でもない、自分自身にかぎられるのだ。己から逃げ出すという行為は、考える以上に難しい。


「異世界への追放など生ぬるい。過去、大罪を犯して追放された魔女の末裔が易々と現れ、この王国の在り様に口を挟むなど、到底許されるべきことではないのだ。その証拠に、上王は即位後数年で消息を絶ち、国を棄て、二度と戻らなかった。お前も見ただろう、この王国の惨憺たる現状を。この王国は冬に閉ざされ、時を止めている」


 過去は過去だと、そう言い切ることができたらいいのにと、千鶴は思った。自分には関係のないことだ、責任を押し付けるのはやめてほしい――そう啖呵を切ることができたなら、今よりずっと楽に生きられるに違いない。

 けれど、千鶴には北の魔法使いが尤もなことを言っているように聞こえていた。たとえここで反論をしたとしても、千鶴の中にはこの王国を裏切ったと言われている者の血が流れている。それは、否定しようのない事実だ。いくら説得を試みたところで、聞く耳を持つとも思えない。

 それならば、アプローチの方法を変えるのが無難だが、残念ながら今の千鶴には、この窮地を脱することができるだけの手札がなかった。今はとにかく会話を長引かせ、相手の隙を探すしかない。

 千鶴は大きく息を吐き出した。

 万事休すだと、そう思っていた。この魔法使いは、異世界に追放するだけでは生ぬるいという。だとすれば、千鶴に用意されるであろう未来など目に見えていた。良くて一生涯の幽閉、悪くすれば、このまま殺される。

 その可能性を一度も考えなかったわけではない。しかし、頭の片隅で注意を促すように鳴り続けていた警笛を、気づかぬふりをして無視していたことは確かだった。何とかなる、どうにかできると、何の根拠もない自信を振りかざして、ここまでやって来てしまった。

 もうこうなってしまえば、何が起ころうと自業自得――自己責任だ。そう、自分で蒔いた種は、自分の手で刈り取らなければならない。何もせず、ただじっとして、誰かが助けに来てくれるのを待っていることなど、今の千鶴にはできようはずもなかった。

 変わりたい。変わるのだ。そのためには、下を向いてなどいられない。前を向き、毅然と頭を上げて、立ち向かうのだ。敵は目の前にいる誰かではなく、自分自身に他ならない。


「異世界に追放された魔女のことは何も知らない。でも、多分、私の身体の中にはその魔女の血が流れていて、祖母もそれは同じで――だから、私には、あなたの言葉を否定することはできない」


 暗闇の中を闇雲に動き回ることはせず、ただまっすぐに正面を見据えたまま、千鶴はそう口にした。北の魔法使いがどこにいるのかは分からない。だが、千鶴は自分の目の前にいると、そう信じて話していた。


「祖母のことも、どのような理由があったにせよ、大勢の命を見捨てて国を離れたことは事実だから、それは擁護のしようもない。素直に申し訳ないと思う。ごめんなさい。私が謝っても仕方のないことだけれど、それでも、謝罪します」

「口先だけの謝罪など造作もないことだろう。お前たちのような薄汚い魔女にとってはな」


 蔑むような嘲笑が滲む声で、北の魔法使いは言う。その声の端々にはそれ以外にも、怒りや苛立ち、憎しみのようなものが含まれているのを、千鶴は何となく感じ取っていた。感情が表に飛び出さないよう、わざと抑揚を抑えているような印象を受けたのだ。

 相変わらず、きら、きら、と星のような光が瞬いている。それがほんの少しずつ、強さを増しているように見えた。


「信じてはもらえないかもしれない。でも、祖母は最期の瞬間まで、この世界を忘れたことはなかった。祖母は毎日、私にこの世界のお話をして聞かせてくれた。私はすぐに、この世界のことが大好きになった。いつか行ってみたいと思うようになった。祖母は――お祖母ちゃんは、いつか連れて行ってあげると、そう言ってくれた」


 祖母は千鶴にそう告げた矢先に命を落としたのだ。

 自分が死ぬとは露ほども思っていなかったのだろう。それとも、自らの死期を悟り、その日が訪れる前にもう一度だけでも、昔懐かしい世界を見ておきたいと、そう思ったのだろうか。しかし、結局は見ることが叶わなかった。

 こちらの世界のことを嫌っていれば、わざわざ既存のおとぎ話の代わりに、自分自身の昔話など語って聞かせるだろうか。酷く優しげで、懐かしむような面差しを浮かべながら、穏やかに語ることなどできるだろうか。嬉しそうに話す祖母の顔が、とても幸せそうだったことを、千鶴は確かに覚えている。


「お祖母ちゃんは二度と戻らなかったかもしれない。国を棄てたように思えたかもしれない。でも、帰りたくても、帰れなかったのだと思う」


 きっと怖かったのだ。どのような理由があったにせよ、一度離れてしまった場所へ戻るには、相当な勇気が要る。この世界を、人々を愛しているからこそ、恐ろしかったに違いない。たとえ罪を償おうとしても、受け入れてもらえなければ意味がないのだ。受け入れられたとしても、自らの罪を許すことができなければ、最期の瞬間まで苦しみ続けることになっただろう。

 いっそのこと忘れてしまえば楽だったろうにと、千鶴は思った。

 だが、懐かしまずにはいられなかった。思い出さずにはいられなかったのだ。だからこそ、自分は戻れずとも後世に託そうと考えたが、娘の美優に拒絶されてしまった。それ故に、孫の千鶴にすべてを委ねようと考えたのかもしれない。

 もちろん、それが許されないことなのだということは、千鶴も理解している。それでも、分かりたいと思うのだ。そう思うことで自分自身にも言い訳をしている。

 いつか自分にも祖母と同じように、この国を棄て、逃げ出そうとする瞬間が訪れるかもしれない。もし今、祖母のすべてを否定した挙句、将来自らも同じ決断を下したとしたら、千鶴は未来永劫自らを呪い続けることになるだろう。祖母も、自分のことも許せず、そのまま年老いて朽ちていく。

 そう、老いだ。祖母は美しい人だった。それでも、老いから逃れることはできない。だがしかし、女王を失い、時を止めてしまった国の住人は、老いることを忘れている。祖母は老いた自分の姿を晒したくはなかったのだ。若く、美しい自分のまま、同じように時を止めていたかったのだろう。

 自分勝手だと思う。それでも同じ女として、千鶴にも理解はできた。理解をしてあげたかった。


「あなたがもし私の思っているような人だったら、すべてを明け渡すつもりでいた。この国のことを託すつもりだった」


 輝きがますます強くなる。ちかちかと煌いて眩しいほどだ。光は少しずつ大きくなり、それが届く範囲を広げていった。向こう側の空間が、透けて見える。


「でも、あなたは私が思っていたような人じゃなかった。だから、この国は渡さない。何があっても、絶対に」


 ぱりん、と薄い硝子が弾けるような、繊細で儚い音が連続して聞こえた。各々の光を起点にして、暗闇に次々と亀裂が走る。まるで凍ったしゃぼん玉が割れるように、闇の壁は崩壊していこうとしていた。裂け目から差し込んだ限りなく透明に近い光は、千鶴の両手を拘束している縄を焦がし、灰に還す。


「……余計なことを」


 低い声が吐き捨てるように言った。先ほどまでの余裕を感じさせる声音とは違い、焦りのようなものを孕ませているようだ。千鶴は自由になった両手の手首をかわるがわるに撫でながら、辺りを見回した。

 千鶴を閉じ込めていた暗闇はもう、どこにもない。

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