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 アンジエールが言っていた通り、北の外れにある城の陰鬱さは否定のしようもなかった。それは外観だけに留まらず、城の内装までもが酷く悪趣味で、薄気味悪さが空気に溶け込んで辺りに漂っているかのようだった。

 城の中は薄暗く、明かりは転々としか灯っていない。死人を描いたような肖像画や、地獄を写し取ったかのような絵画は、千鶴にとって見るに堪えないものだ。あまりの恐ろしさに顔から血の気が引いていくのを感じ、それらから慌てて目を逸らす。先程とは別の意味で心臓の鼓動が速まり、まともに呼吸をすることさえ難しく思われるほどだった。

 サルヴァドール・ダリの顔の戦争に酷似した画の目が、千鶴の歩みに合わせてゆっくりと動く。ギュスターヴ・モローが描いたソドムの天使のような、一際巨大な画はぞっとするほど美しいが、それ以上に見る者に恐怖心を植え付けた。

 見てはいけないと思うのに、どうしてもその画から目を逸らすことができずに足を止めると、前を歩いていたブランが振り返った。


「足を止めるな」

 

そう言うブランの声からは、どういうわけか気迫が感じられない。

 かつん、こつん、と足音を立てながら引き返してくるものの、その表情は暗く、沈んでいるようにも見えた。心なしか顔色も悪いようだ。千鶴は思わず大丈夫かと声をかけてしまいそうになった。それほど具合が悪そうに見えたのだ。

 千鶴がぎょっとしながらその横顔を見上げていると、ブランは目の前の絵画を冷ややかに一瞥してから、再び歩き出した。


「お世辞にも趣味が良いとは言えねぇな」


 隣に立って同じ画を見上げていたカルディアが、顔を顰めながら不快そうに言った。

 目立った醜悪さは何一つ描かれていないのにもかかわらず、どこかこの世の終わりのような、終末の匂いが薫ってくる。淡い色合いの中に滲む黒よりも深い黒が不安を煽るのだろう。


「ほら、行くぞ」


 じっと絵画に魅入っている千鶴の細い腕を掴み、カルディアはブランを追いかけていく。

 半ば引きずられるようにして足を進めながらも、千鶴はもう一度だけ後ろを振り返り、その絵画を眺めた。

 何かがおかしいと思った。しかし、何がおかしいのかが分からないのだ。

 それでも、その絵画からは言葉では言い表せない何かが、ずるり、ずるり、と押し寄せてくるのを、千鶴は確かに感じ取っていた。何やらおどろおどろしいものが、ぬかるんだ道を這って進んでくるかのように、少しずつ近づいてくるような気がする。

 更に不気味だったのは、誰にも悟られることなく、マントの者たちが揃って姿を消していたことだ。アンジエールを牢獄へと連行し、仕事を終えた馬たちを厩舎へと連れていった者の他にも、まだ数名が残っていた。しかし、後ろをついて来ていたはずの黒い影は、カルディアにさえ気づかれることなく姿をくらましていたのだ。

 今の千鶴に逃げるという選択肢はなかったが、もしそれをするならば、今がチャンスなのかもしれない。それとも、監視の目を減らしても構わないほど、この城の守備は万全ということなのだろうか。

 真夜中の美術館を想像すれば、千鶴の置かれている状況を推しはかることは容易なはずだ。

 絵画の中で微動だにしないはずの人々の数十、数百の目が、こちらを監視しているかのような錯覚を覚え、背中には冷や汗が伝い落ちる。自らが歩くことによって生じる衣擦れの音が、絵画の中の住人が囁き合う声のように聞こえ、全身に悪寒が走った。

 まるで悪夢のようだと思いながら歩調を速めた千鶴は、前を歩くカルディアの後ろにぴたりと張りついた。ひらひらと揺れるマントを踏まないよう気をつけながら、意味もなく息を殺して歩く。カルディアは僅かに後ろを振り返ったが、何も言わずに前へ向き直った。

 天井の高い廊下に三人分の足音を響かせながら、数え切れないほどの扉の前を通り過ぎた。しばらく進んだところで幅の広い豪奢な階段を上がり、二階部分へと足を踏み入れる。三階に上がるためには、また同じだけの距離を歩かなくてはならなかった。

 千鶴は言い知れぬ恐怖心を携えながらも、今はそうした頼りない感情に左右されている場合ではないと、心の中で自らを鼓舞する。

 西塔にあるという牢獄に連れて行かれたアンジエールのことも、この世界へやって来た当初に連れ去られてしまったルミエールのことも、千鶴は酷く心配していた。北の魔法使いの目的が千鶴を捕えることならば、二人はすぐに解放されて然るべきだ。しかし、そうした考え方は虫が良すぎるのだろうと、千鶴自身も理解はしている。

 もし北の魔法使いとの間で対話が成り立てば、千鶴からの要求はそう多くない。無理難題を吹っ掛けることもしないつもりだった。だが、その提案をするのは、北の魔法使いが見込んだ通りの人物だったらの話だ。

 少しでも想像と違っていれば、千鶴の読みが間違っていれば、この人は駄目だと直感が告げれば――その時は、自分自身の心の声に従うことになるだろう。


『――どうして勝手なことをするんですか!』


 数日前、大雪が降る曇天の空に花火が打ち上げられたすぐ後、千鶴はカルディアに向かってそう怒鳴りつけていた。カルディアは千鶴の計画を一つも聞こうとせず、聞くだけ無駄とばかりに、先にブランから受け取っていた花火を空へと打ち上げたのだ。


『私は誰にも指図されず、私自身の意思で、北の魔法使いに会いに行く必要があったのに!』


 そう言って怒鳴る千鶴に向かって、カルディアは呆れ顔を見せていた。

 自らの意思で足を運ぼうが、ブランに連行されようが、どちらも大差ないとカルディアは言う。しかし、千鶴の考えは違っていた。誰かに引きずられながら仕方なく足を運ぶのと、毅然と頭を上げ、自らの意思で足を運ぶのとでは、雲泥の差があることは明白だった。

 だが、自分には自分のやり方があると言った千鶴に、カルディアは同じ言葉を返した。

 お嬢ちゃんの考えは理解できないが、どうしても自分の手を借りたいというのであれば、これが最大限の譲歩だ。それを受け入れられないのなら、手を貸すことはできない――そう続けたカルディアに、千鶴は渋々ながら頷くしかなかった。

 結局のところ、カルディアの決断は正しかったのだ。

 闇雲に逃げ回りながら目的地を目指すより、早い段階で敵の手中に収まってしまった方が、逃走し続けるという手間も、怪我を負うリスクも回避することができる。その都度、食料や寝泊まりの心配をすることもない。ただ言われるがままに後ろをついていけば、北の魔法使いの居城まではすんなり辿り着くことができると、カルディアはそう言っていた。


『あいつが信じる、信じないは別として、俺は連中に与する立場でいた方が都合がいい。そうすれば、あいつはお嬢ちゃんの面倒を俺に押し付けるだろうしな』


 どうしてそう言い切れるのだと乱暴に問いかける千鶴に向かって、カルディアは少し悪戯っぽく笑った。


『そりゃ分かるさ。あいつはそういう男なんだよ』


 カルディアの言い様は要領を得ないものだったが、かなりの勢いで腹を立てていた千鶴は、もうそれ以上の会話を続けようと思わなかった。

 いずれにせよ、花火は打ち上げられてしまったのだ。何を言っても、既に後の祭りだった。千鶴にはもう、自分に可能な範囲で最善を尽くすしか、道は残されていなかった。


「王はこの奥にいらせられる」


 最上階に続く階段を上りきったところで足を止め、こちらを振り返ったブランがそう口にした。

 両手首を縛られていると想像以上にバランスがとりづらく、若干もたついた足取りで一段ずつ階段を上っていると、苛立たしげな舌打ちが聞こえてくる。文句があるのなら手伝ってくれと内心でうそぶいていると、気を利かせたカルディアが背中に手を添え、軽く押し上げるようにして力を加えてくれた。


「ありがとう」


 千鶴が言うと、何でもないことだとでもいうふうに、カルディアは肩をすくめてみせた。


「王がお会いになるのはこの女とだけだ。お前は外で待て」

「はあ? 待てよ、そりゃねぇだろ。俺にだって王様ってやつにお目通り願う資格はあると思うがね。このお嬢ちゃんをとっ捕まえた手柄がある。まさか、お前一人で全部の手柄を横取りするつもりか?」

「我が王は私にもお会いにはならない」


 隣に並んだブランの顔は、見れば見るほど蒼白だった。明らかに何かに怯え、恐怖しているのが窺える。そう思いながら千鶴がカルディアを見上げると、軽い一瞥だけが返ってきた。

 黙っていろと言いたいのだろう――そう察した千鶴は、口を噤んで僅かに身を引く。


「女だけを通すようにというご命令だ」

「命令? いつそんな命令を受けた?」

「お前には関係――いえ、はい、分かりました」


 千鶴たちには聞こえない声が、ブランには聞こえているようだった。

 最初はあからさまな敵意を剥き出しにしていたが、その表情はすぐに影を潜め、従順な声音と面差しになる。千鶴は確かに、ブランの双眸から光が失われるのを見た。まるで生気が吸い上げられるかのように、目の色が暗く沈んでいく。そして、ぞっとするような冷たい表情を浮かべたかと思うと、その目を千鶴に向けた。


「王は全員とお会いになる」


 目と目が合った瞬間、千鶴は得も言われぬ嫌悪感を覚えた。

 ブランから少なからず感じられていた人の良さが一瞬にして消滅し、ぞっとするような冷淡さが顔を覗かせていたのだ。目には見えないが、黒い靄のようなものが周囲を漂い、全員をその中に引きずり込もうとしているような、強い執念のようなものを感じる。


「さあ、来い」


 千鶴は瞬間的に、自らの選択は誤りだったのかもしれないと、そう思った。考えが甘かったのかもしれない。ノワールとカルディアからあれだけの反対を受け、それでも自らの我を通したことは、間違いだったのかもしれない――そう思わずにはいられなかった。

 ずずず、と暗闇の中に引きずり込まれるような心地がしていた。床が波立っているような不安定感を覚え、近くに縋れる場所はないかと探してしまう。

 空気が重く、重たく沈んでいく。足を一歩前へと進める度に、一つずつ後悔が募っていくようだった。対話など無意味だ。平和的な話し合いなど、不可能に思えた。そこにいるのは良くないものだと、千鶴の直感がそう告げていた。

 だから言っただろうが――そう言うカルディアの叱咤の声が、千鶴には聞こえてくるようだった。己の不甲斐なさを痛感し、伏せた顔を上げることもできない。

 まるで処刑場にでも連れて行かれるかのような思いでいると、斜め後ろを歩いていたカルディアが、千鶴の後頭部を覆うようにしてそっと触れてくる。はっとして顔を上げそうになると、カルディアは僅かに身を屈め、千鶴の耳元に顔を寄せた。


「危なくなったら俺の影に入れ。護ってやる」


 カルディアは千鶴の返事を待たず、すぐさま身を引いて姿勢を正した。何かを感じ取ったらしいブランが肩越しに振り返った時にはもう、何食わぬ顔をして歩いている。そもそも、顔の大部分が髭で覆われているので、遠くからでは表情を読み取ることも難しい。

 それは瞬間的なできごとだったが、恐怖に押し潰されそうになっていた千鶴を奮い立たせるには、十分な励ましだった。何よりも一人ではないのだという心強さが、失いかけた決意を取り戻させる。

 千鶴は歩みを進めながら、自らの心臓の音にだけ耳を傾け、そっと目を伏せた。大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐き出し、気持ちを落ち着かせる。

 途端に、千鶴は自分の中で、懐かしい感覚がよみがえってくるのを感じた。

 心地の良い緊張の最中、スタートラインに立つ。喧騒に包まれていた世界が一瞬にして無音になり、自らが駆け抜けようとしているレーンだけが、浮かび上がるように光り輝いて見えた。

 その場所に立たされた瞬間、千鶴は言い知れぬ心細さを感じると同時に、勇み立つような興奮も覚えていた。風を切るように走る十数秒間だけは、まるで別世界にいるかのような孤独を感じていたのだ。しかし、ゴールをしたその瞬間、割れるような歓声が千鶴に世界を取り戻させる。

 緊張感が全身を覆い、身体を硬くさせていく。それでも、駆け抜けていかなければならない。千鶴は、ゴールテープの向こう側にある世界を知っている。

 オンユアマーク、ゲットセット――機械的な声が、千鶴の頭の中に響き渡った。

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