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 魔法というものが、千鶴にはまだよく分からない。

 漫画やゲーム、映画や小説などに登場する魔女や魔法使いは、それなりに呪文を唱えたり、杖などのマジックアイテムを振りかざしたりして、敵を攻撃する。攻撃魔法や治癒魔法など、魔法の使用目的は明確だ。

 しかし、この王国の女王が持つ核なる力は、そうした魔法とは一線を画している。核なる力という呼び名通り、魔法の源となる強大な力を維持し、王国全土に行き渡らせることが、主な役目なのだという。

 基本的に、女王は魔法を行使しないものなのだと、アンジエールは言った。

 いくら女王が強大な力を持ち合わせていても、その核なる力は有限だ。一分、一秒と命が削られていくように、核なる力も徐々に失われていく。女王が王国を維持し、魔女や魔法使いの才覚を目覚めさせた者らの力の根源として存在し続けるためには、自らの核なる力をいかに抑制し、長く保たせていくかが問題だった。

 これは、女王が魔法を使えない、ということではない。女王の魔法は強力だが、その分だけ核なる力の消費量が多くなり、結果的に王国の繁栄の妨げになる。故に、核なる力の消費量が少ない魔女や魔法使いに多くを任せ、自らは王国の繁栄のために玉座をあたためているべきだ、というのが定説だという説明を、千鶴はアンジエールから受けていた。


「自分ではよく分からなかったけれど、前に時間を止めたことがあったでしょう?」

「厳密には時間を止めたわけではない。周囲の動きを制限しただけだ」

「まあ、うん、それはそれとして――あれは、私が無意識に魔法を使ったということ?」

「そうだ」

「それは私自身の力を使って?」

「今現在のチヅルはただの魔女であって、女王ではない。魔女は女王の核なる力を用いて魔法を行使するが、それは君も同じだ。現行、この王国はチトセが残した石に宿る核なる力で、すべてが補われている。だから、もし君が魔法を使ったとしても影響はないだろう」


 死して尚も祖母の力は失われることなく、この王国をすっぽりと包み込むように覆いつくしている。しんしんと降り積もる雪のひとひらや、溶けた水の一滴や、炎から飛び散る小さな火の子にも、祖母の力は宿っているのだ。

 そう思うと、千鶴は得も言われぬ感情が心の中に沸き起こるのを感じた。幸福感と悲壮感が同時に漂うような、言葉に表すことのできない複雑な気持ちが、淡い光の珠になってふわふわと浮遊している。嬉しくもあり、悲しくもある。侘しくはあるが、虚しくはなかった。

 祖母は確かに死んでしまった。身体に触れた時の雪のように冷たい体温を、千鶴は今でも覚えている。だが、祖母がこの世を去っても、この王国はなくならなかった。こうして冬に閉じ込められてはいるが、世界は、人々は、生きようとしている。

 この魔女の王国を冬に閉じ込めてしまったのは祖母だ。しかし、生かしているのもまた、祖母だった。祖母の核なる力を用いて生き永らえている。春を待ちわびている。

 本当ならば、母が祖母の意思を継ぐはずだったのだろう。だが、そうはならなかった。それならば、孫の千鶴が春を取り戻す手助けをしなければならない。祖母と同じようにはできずとも、自分なりに、解決への道を模索し続けることはできるはずだと、もう何度も考えている。

 厩の中で一夜を過ごした二人と一匹は、日が昇るより前に戸を蹴破るようにして入ってきたブランに叩き起こされ、村を出発することになった。ルタにスープの礼をしようと辺りを見回すが、見送りに出てきている様子はない。


「あの、ルタくんは……?」


 寝起き特有の気怠さを全身から感じさせている後ろ姿に声をかけると、ブランは面倒臭そうに千鶴を振り返った。


「あいつが寝てる間に出発するんだよ。さもないと、荷物の中に忍び込んででもついて来ようとするからな」


 ふわあ、と憚りもせずに欠伸をしたかと思うと、ぐうっと大きく伸びをする。


「ルタがどうかしたのか?」

「スープのお礼を言いそびれてしまったので」

「そんなことか」


 気にするな、と言わんばかりに肩をすくめると、ブランはマントを翻して背中を向けた。

 千鶴はその後ろ姿に向かって昨夜のことを言及しそうになったが、少し離れた場所に立っているカルディアの咳払いを聞いて、咄嗟に口を噤んだ。無駄に相手の自尊心を傷つけることはない。優しさは優しさとしてありがたく受け取っておけばいいのだと、カルディアの眼差しが言っているような気がした。

 それからまた数日間、旅の一団は変わり映えのない雪景色の中を進み続けた。

 しかし、町や村を一つずつ通り抜けていく度に、雪は明らかに密度を減らし、気温もあたたかく感じられるようになってくる。つい少し前、補給のために立ち寄った町には、緑の葉を生やした木があった。真っ赤に熟れた実を馬たちが美味しそうに食んでいるのを見て、千鶴まで嬉しくなってしまったほどだ。

 何せ、植物を見たのは人も馬たちも久しぶりのことだ。しかし、それを見て嬉しげに声を上げる千鶴を一瞥したブランの眼差しは、どこか冷ややかなものだった。


「チヅル」


 常緑樹の森に香る匂いを満喫していると、カルディアが手綱を操る馬の前を歩いていたアンジエールが声をかけてくる。カルディアの背後からひょっこりと顔を覗かせると、アンジエールは馬に道を譲り、いつも通り隣までやってきた。


「この森を抜けると北の魔法使いの居城だ」

「アンジエールは行ったことがあるの?」

「チトセがいた頃に何度かな」


 アンジエールは一見何ともない顔をしているが、内心では複雑な気持ちを抱えているのだろうと千鶴は思っていた。長年の断絶は互いの間にある溝を、深く掘り下げるばかりだったはずだが、それでも、かつては友人同士だったのだ。国の理によって記憶が失われているのだとしても、そうした記録は残されている。

 一人の魔法使いと、一匹の女王の核なる力によって生かされている獣とでは、考え方に相違が表れて当然だろう。自らの存在が消滅すると分かっていても尚、女王を敵に回すことができる者など、そう多くはいない。たとえ王国を存続させるためであったとしても、女王を亡き者にすることなど、アンジエールにできようはずがないのだ。

 あわよくば、アンジエールとネイジュが遥か以前の間柄にまで復縁してはくれないだろうかと、千鶴はそう期待している。元の関係に戻ることができれば、様々なことが良い方向へ進むような気がしているからだった。

 何か大きな問題に直面しているような気がしていても、掘り返してみれば、実際にはそうたいしたことでもなかったと、そう思える瞬間が訪れることだってあるかもしれない。話し合えば分かり合える可能性が少しでも残されているのなら、それに賭けてみたいとも思うのだ。


「――チヅル、大丈夫か?」


 急に黙り込んだ千鶴を不思議に思ったのか、アンジエールが顔を覗き込みながら声をかけてくる。その呼び声で我に返った千鶴は、何でもないというふうに首を横に振った。


「心の準備をしなければと思って」

「緊張しているのか?」

「あなたはしていないの?」


 千鶴がまっすぐにそう問うと、アンジエールは美しい目を丸くしてから、耳を僅かに倒した。


「そうだな。実は、少しだけ怖いような気もする」


 困ったような、どこか頼りない声でいうアンジエールを見て、千鶴はその大きな身体を力一杯抱き締めてあげたいと思った。しかし、両手が拘束されたままでは馬の背から降りることも、首に両腕を回すこともできない。

 思わず言葉に詰まっていると、二人が話しているのを黙って聞いていたカルディアが、不意に森の中に目を向けるのが分かった。手綱を引いて馬の足を止めるので、千鶴は首を傾げる。


「どうしたんです?」

「今、視線が――」

「視線?」


 カルディアがほんの少しだけ手綱を繰ると、馬は指示された方向にゆっくりと歩いていった。馬車道を斜めに横切るようにして反対側まで進み、馬の背からすとんと降りると、カルディアは手綱を握り締めたまま森の中を覗き込む。

 徐に歩み寄ってきたアンジエールはカルディアの隣に並び、森の中から吹いてくる風の匂いを嗅いでいるようだった。


「まだ何か感じるか?」

「いや」


 カルディアはそう言って首を横に振るが、その横顔には微かな鋭さが宿る。それを見ていた千鶴は、背筋がひんやりと冷たくなるのを感じていた。


「そこで何をしている!」


 千鶴がカルディアの横顔に釘付けになっていると、後方が足を止めていることに気づいたブランが、先頭から怒鳴り声を飛ばしてきた。巧みに手綱を操って馬に方向転換をさせ、粒の揃った蹄の音を響かせながら駆け寄ってくる。


「よもや妙な気を起こしたのではあるまいな」


 しかし、カルディアは答えない。隣にいるアンジエールは既に興味が削がれた様子で、大きな欠伸を漏らしている。その態度を横目に見たカルディアは、呆れたように息を吐いたかと思うと、小さく肩をすくめてブランを振り返った。


「悪い、俺の気のせいだ」

「気のせい?」

「別に何でもねぇってことだよ」


 ひらりと手を振ってみせたカルディアは、何事かをぶつぶつと呟きながら馬の背に戻ってくる。その声は千鶴の耳まで届かなかったが、もしかしたら、アンジエールの耳には聞こえていたのかもしれない。だが、アンジエールは素知らぬ顔で三人に背を向け、北に向かって歩き出した。先端の白い尻尾が機嫌良く揺れるさまをぼんやりと眺めていると、カルディアが鐙に掛けた足で馬の脇腹を軽く蹴り、その姿を追いかけさせる。


「おい、女」


 ブランは未だに千鶴を名前で呼ぼうとしない。女と呼ばれるくらいなら、まだお嬢ちゃんと呼ばれる方がましだろう。そう思いながら、千鶴は後ろをついてきたブランを振り返った。


「そこで何を話していた?」

「そんなこと、私に聞かれても……」


 千鶴は思わず眉を顰め、前に座っているカルディアの背中をちらりと見る。

 未だにアンジエールを恐れているきらいがあるブランは、滅多なことで自分から声掛けすることはない。カルディアは当初からブランのことが気に入らないと公言していたので、何か思うところがあったとしても、そう易々と口を開くことはないだろう。

 要は、千鶴からならば容易く話を聞き出すことができると、ブランはそう考えているということだ。


「動物でもいたんじゃないですか」

「動物?」


 ブランはあからさまに訝しげな顔をする。


「その男が動物の気配くらいで足を止めるものか」

「そんな言い方をするなら、自分の目の前にいるんですから、本人に直接聞いてください。私は何も知りません」


 多少の苛立ちを覚えながら千鶴がそう言えば、ブランは僅かに面食らった様子で口を噤む。しかし、すぐさま憤りを覚えたかのような態度を見せたかと思うと、馬の脇腹を蹴って駆けていってしまった。

 カルディアはそれを眺めながら頭を掻き、力なく笑っている。


「分かりやすいやつだな」

「カルディアさんはどうしてブランさんを嫌っているんですか?」

「うん?」


 後ろから問いかける千鶴を肩越しに振り返り、カルディアはなぜかばつが悪そうな表情を浮かべた。


「嫌いだとは言ってねぇよ。ただ少し気にくわないってだけだ」

「どうして気にくわないんです?」

「そうやって知りたがってばかりいると、そのうち墓穴を掘ることになりかねないぞ、お嬢ちゃん」


 カルディアは茶化すような声音でそう言うと、千鶴の頭を乱暴に掻き撫で、再び前に向き直ってしまった。

 どうやら話してくれるつもりは微塵もないようだと思いながら、千鶴は頭を振って睫毛に絡まった前髪を解く。とはいえ、ブラン自身には思い当たる節はないようなので、カルディアの個人的な問題が原因なのだろう。

 鬱蒼とした森の中をまっすぐに伸びる道は、どこまでも続いているかに思えた。しかし、その終わりは唐突に訪れる。道のずっと先に見えていた小さな光が徐々に大きくなり、急に視界が開けたのだ。

 空の眩しさにくらんだ目が少しずつ明るさに慣れてくると、ちょうど正面にアーチ状の鈍色の門が浮かび上がってくる。先が霞んで見えない石の塀に囲われた敷地の中には、広々とした庭と大きな城があった。

 その城はどこかくすんだ色をした、要塞のような外観をしていた。尖塔の多い煌びやかな洋館というふうではなく、全体に壁と窓とで覆われた、どちらかといえば地味な印象の城だ。日本でも有名なドイツのノイシュバンシュタイン城とは違い、アイルランドにあるキルケニー城に近い。雪は降っていないものの、曇天の空の下では、まるで幽霊でも出そうな呪われた洋館を思わせる雰囲気だった。


「……少し見ない間に、陰鬱な城になったものだな」


 アンジエールはぽつりと漏らすように呟いた。

 その言い様から察することができるのは、以前まではもう少し明るい雰囲気の城だったということだ。

 ただ広いだけの庭の芝生は枯れ果て、花壇には霜が下りたと分かる土が僅かに盛り上がっている。立派な噴水があることにはあるが、水は止められているようだ。中央の台座の上には、翼のある大きな龍と、その足許で円を描くように鎮座している大蛇の彫像が置かれていた。

 全員が門前に揃うと、ぴたりと閉じていた鈍色の鉄の門扉が、徐に軋みながら開く。門には誰も触れていない。それが半分ほど開いた頃、相変わらず先頭に立っていたブランがアンジエールとカルディア、そして千鶴を順番に眺めた。


「これより先は我が王が住まう居城だ。私語は慎み、神妙に振る舞え。特に、そこの獣と女――ああ、そうだ、獣と共謀して妙な気を起こされてはかなわない。そこのお前、その汚らしい獣を西棟の牢獄に放り込んでおけ」


 そこのお前と指を差されたのは、旅の間中ずっと一緒だったマントの人物の中の一人だ。

 もう何日も一緒に旅を続けてきたが、千鶴はその素顔を見たことがなく、はっきりとした肉声を聞いたこともなかった。ブランの指示に従い、何かを報告している時以外は、微動だにせず立ち尽くしているだけだ。見れば見るほど、生きているという確証が得られず、千鶴は不気味な気持ちにさせられていた。


「アンジエール」


 反抗する素振りさえ見せず、ただ従順について行こうとしている獣の後ろ姿を見て、千鶴は思わず呼び止めるように声をかけていた。足をくじくかもしれなかったが、身体をよじるようにして馬の背中から滑り降りると、そのままアンジエールの傍まで駆け寄っていく。


「大丈夫なの?」

「癪かもしれないが、ブランの言うことに従っていれば、君に危害が及ぶことは――」

「私のことではなくて」


 千鶴が怒ったようにそう言って言葉を遮ると、アンジエールの酷く優しげな眼差しがまっすぐに向けられた。それは見る者を慈しむような、驚くほどの慈悲深さを感じさせた。


「私のことならば心配はいらない。私の命を刈り取ることができるのは、この国の女王以外にはいないのだから」


 アンジエールはそう言ってから、ゆっくりと千鶴に向き直った。そして、徐に顔を伏せたかと思うと、千鶴の靴の爪先にそっと口付ける。

 その刹那、千鶴は爪先から頭のてっぺんに向かって、ぞくぞくと悪寒のようなものが駆け上がるのを感じた。全身に鳥肌が立ち、一瞬だけ止まった心臓の鼓動が、一気に早鐘を打つように動き出す。


「自らの心の声によく耳を傾け、そして、対話をするのだ、チヅル」

「……え?」

「我々は君の判断に従おう――我が王よ」


 それは、千鶴にしか聞こえない、衣擦れにさえ掻き消されそうな囁き声だった。だが、千鶴の耳には確かに、まるで耳元で囁かれたかのように、鮮明に届く。


「ではな」


 最後にそう言ったアンジエールの様子は普段通りだった。宝石よりも美しい目をきらきらと輝かせ、機嫌が良さそうにゆらゆらと尻尾を揺らし、マントの人物についていく。

 それを見送る千鶴の心臓は未だ、どくどくと波打つように、激しい鼓動を続けていた。

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