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 今日も今日とて硬いパンと干し肉を齧るだけの味気ない食事で一日を終えるのか――千鶴がそう考えはじめた時だった。口の中で唾液に浸してやわらかくし、奥歯で噛みしめるように干し肉を咀嚼していると、外から軽快な足音が聞こえてきたのだ。

 アンジエールが音の聞こえる方向に耳を傾け、自らの前足に伏せていた顔を上げると、間もなくしてその人物は姿を現した。


「こんばんは、お邪魔します」


 礼儀正しく挨拶をしてから厩の中に入ってきたのは、ブランからルタと呼ばれていた少年だった。ルタは厚手の布に包まれた何かを重たそうに抱えている。


「あつあつのスープを持ってきたので、飲んであたたまってください」


 機嫌が良さそうににこにこと笑っているルタを見ていると、千鶴の脳裏には弟の悠と森の小屋に置き去りにしてしまったプティの姿が浮かんだ。


「おっ、そいつはありがたい」


 素直に嬉しそうな声を上げたカルディアは、地面に直接下ろしていた腰を上げ、ルタの傍まで歩いていく。


「わざわざ悪いな」

「ううん、これはブラ――」


 ルタはついうっかり口が滑りそうになったようで、そこまで言ってしまってから、慌てたように口を噤んだ。その様子を見たカルディアは、はは、と笑いながら包みを受け取り、元の場所まで戻ってくる。


「彼から黙っているように言われたの?」


 ごそごそと荷物をあさっているカルディアの隣で千鶴がそう声を上げると、ルタは少し困ったように眉を顰めてから、縦でも横でもなく、曖昧に頭を振った。その様子を見れば答えは明白だったが、これ以上追及するのは野暮というものだろう。

 千鶴は手に持っていたパンを膝に掛けた布の上に置くと、扉の前に立っているルタを見て、にこりと微笑みかけた。


「どうもありがとう、ルタくん」


 そうして名前を呼ぶと、ルタはびっくりしたように目を丸くし、千鶴の顔をまじまじと眺めた。


「お姉さん、どうしてぼくの名前を知っているの?」

「ブランさんから聞いたから」


 少し離れた場所から二人の話を盗み聞きしていたからだとは言えず、千鶴はあたかも真実かのようにそう言ってのけた。ルタもそれを疑わず、ふうん、と声を漏らしている。しかし、あることに気づいたのだろう、ルタは不思議そうに首を傾げ、千鶴の手元をじっと見つめた。


「お姉さんは悪い人?」

「どうして?」

「だって、手に縄をかけられているし、それに、獣に見張られているもの」


 獣、と言いながら、ルタはしっかりとアンジエールを指差した。濡れた鼻をひくひくと動かしながら少年の匂いを嗅いでいたアンジエールは、ふふ、と優しげに笑う。


「私は見張り役ではない」

「わっ、しゃべった!」

「私は彼女のしもべだ」


 誰でもこの獣の存在を知っているわけではないのだろう。それとも、何らかの都合上、故意に知らされていないのだろうか。

 アンジエールは行く先々で人目を引いてはいたが、ビビアンがそうしていたように、敬意をもった待遇を受けることはなかった。おそらく、こうした大型の獣は珍しいというだけで、存在しないわけではないのだ。それが、黙っていれば他の獣と何ら変わらないという証拠だった。


「君は獣僕を見たことがあるのか?」

「う、うん。前に、一度だけ」


 ルタは酷く物珍しそうにアンジエールのことを眺めていた。


「この村に北の魔法使いが来てくれたとき、真っ黒な獣を連れていたんだ」

「ほう」

「あなたと同じか、少し小さいくらいだったかなぁ。首輪に鎖が繋がれていたけど、とっても大人しくて、お行儀の良い子だったよ。ぼく、お願いして触らせてもらったんだ」


 その獣の手触りを思い出しているのか、ルタは見えない獣の毛並みを撫でるように、手の平を左右に動かしている。アンジエールは何の気なしにその話を聞いているようにも見えたが、実際には、僅かに細められた目が何かを思慮深く考え込んでいることを想像させた。


「お前も一緒に食べていくか?」


 荷物の中から大小いくつかの木の器を探り出したかと思うと、カルディアがルタに向かってそう声をかけた。返事に困っている様子を尻目に、千鶴の傍らに膝をつき、両手を拘束している縄をするりと解いてしまう。

 縄は固く結ばれていたはずだった。馬の背に揺られている間中、縄抜けできないものかと画策していたので、それは間違いない。


「……いいの?」

「パンや干し肉じゃないんだ、縛られたままじゃ食えねぇだろ。後で何か言われたら適当に謝っときゃいいのさ」


 千鶴に向かって、ぱちん、と片目を瞑ってから、カルディアは未だ扉の前に立っているルタに目を向ける。


「食うなら食う、帰るなら帰る。はっきりしてくれよ、チビ助」

「ぼく、チビ助じゃない。ルタだ」

「おっと、悪かったな、ルタ坊」


 直接座れとは言われなかったが、カルディアが軽く顎をしゃくり上げると、ルタはやたらゆったりとした動きで、開け放したままだった扉を閉め、二人と一匹の近くまでやって来た。カルディアが何も言わずにスープで満たした器を差し出すと、ルタはありがとうと言ってそれを受け取る。


「さあ、私の隣に座るといい」


 アンジエールは機嫌良くそう言い、場所を占領していた豊かな尻尾をふわりと移動させた。


「私の名はアンジエール。彼女はチヅル、彼はカルディアだ」

「チヅル? 変わった名前だね」

「そう?」


 久しぶりに自由になった両手首を回しながら、千鶴は僅かに首を傾げた。


「私の国ではあまり珍しくもないのだけれど、少し古臭い感じはするのかもね。鶴は千年、亀は万年という言葉は――知らないかな。とても縁起のいい名前なの」

「ふうん、そうなんだ」

「ルタという名前はどういう意味?」

「うーんとね、確か古い言葉で、素直っていう意味じゃなかったかな。母さんがそう教えてくれたから、間違いないと思うよ」


 名は最初の願いだと祖母は言った。しかし同時に、一生を付きまとう呪いでもあると千鶴は思う。

 母の美優という名前は、祖父が付けたものであると千鶴は聞いている。美しく、優しい子に育つようにという願いを込めて名付けられたのだろう。美優は確かに美しいが、誰にとっても優しい人物かと問われれば、それは違うと断言することができる。

 千鶴という名前は、祖母が名付けたものだ。そして、千の鶴という名前を、千鶴はとても気に入っている。

 ルタは観察するように千鶴たちのことを眺めながら、スープを口に運んでいた。ここで油を売っていて大丈夫なのだろうかと心配になるが、当人に急いでいる様子は見られない。何かと口煩いブランのことだ、すぐにでも戻って来るようにといわれているはずだった。

 しかし、そうした千鶴の心配をよそに、ルタはカルディアやアンジエールと話を続けている。一瞬、ルタに自分たちをスパイさせているのではと千鶴は疑うが、楽しそうに話をしている横顔を眺めていると、自らの邪な考えに嫌気がさしてくるのを感じていた。


「そういえば、先ほどは北の魔法使いがこの村を訪れたことがあると話していたが――」


 ルタが上機嫌になり、当初は重たかった口がくるくると気前良く回りはじめると、アンジーエルが酷く自然な口振りでそう切り出した。ルタにも怪しんでいるふうはなく、その名の通り素直に、アンジエールの言葉に耳を傾けている。


「魔法使いはなぜこの村に?」

「なぜって、この村をずっと住みよくしてくれるためだよ。村を囲っている石垣に魔法を込めて、ここの人たちが寒さで凍えることがないようにしてくれたんだ。この村は中央の都からも、北の国からも離れすぎているから、魔法の恩恵が届きにくくて、雪が降り積もるばかりだったんだ」

「魔法使いは自ら足を運んできたのか?」

「ううん、ブランが連れてきてくれたんだよ」

「ブランが?」

「このままでは村が雪に閉ざされて、全員でどこかに避難しなきゃならないってことになった時、ブランが一人で北の魔法使いのところへ行って、助けてくださいって進言したの。それから少し経った頃に魔法使いがやって来て、ぼくたちの村を救ってくれたんだよ」


 やはりこうして聞く限り、北の魔法使いに対しては悪い感情を抱きようがないと、そう千鶴は思った。どう考えても善人だ。ルミエールを連れ去ったことにも、こうして自分を捕えようとすることにも、何か大きな理由があるに違いない――そう考えるのは、あまりに時期尚早すぎるだろうか。


「それ以来ブランは北の魔法使いの側近として召し上げられて、騎士としてお仕えしているんだ」

「ふむ、そうだったのか」


 心得たと言わんばかりに、アンジエールは大きく頷いてみせた。

 着々と情報収集は進んでいるようだが、純粋な子供を騙しているようで、千鶴の良心は咎められる。尖った針で突かれるように心は痛むが、その気持ちはアンジエールも同じだろうと思いたかった。


「ブランが以前は女王陛下に仕えていたことを知っているか?」

「うん、知ってるよ。でも、ブランは女王様のことは早く忘れろって。北の魔法使いが新しい王様になれば、この国にもまた春がやってくるから。この村の人たちはブランが言うように、北の魔法使いが王様になればいいのにって思っているよ」

「魔法使いがこの村を訪れたのはその一度きりか?」

「そうだよ」

「魔法使いが連れていたという獣は、彼の傍を片時も離れなかった?」

「使い魔だと言っていたから、そうだと思うけど――ねえ、どうしてあの魔法使いの話ばかり聞きたがるの?」


 何度も繰り返される問いを、とうとう訝しみはじめたようだ。ルタは顔を顰めてアンジエールを見てから、千鶴とカルディアにも視線を走らせる。しかし、千鶴は余計な口を挟まなかった。アンジエールならば上手く話を聞き出してくれるだろうと、そう信じていたからだ。


「やっぱり、みんなは悪い人たちなの?」

「悪い人の定義にもよるが」


 アンジエールは変に生真面目な表情でそう言ってから、気を紛らわすように、尻尾を大きく左右に振った。


「心配するな。私と北の魔法使いは昔からの顔なじみだ。長らく会っていなかったので、どのような暮らしぶりなのかを知っておきたかった。この村の人々からは快く思われているようで、私は嬉しい」

「そんなの当たり前だよ。北の魔法使いはぼくたちの命の恩人だもの」

「そうだろうな」


 アンジエールは優しく肯定する。決してルタの言葉を否定することはしない。反論もしなかった。すべてを受け入れているようにも見受けられるが、実際にはそうではない。受け流しているといった方が正しいだろう。自らに必要な事柄だけを丁寧にすくい上げて、残りは水に流すかのように。

 それから程なくすると、ルタはそろそろ帰ると言って、厩を出て行った。出て行く間際、扉の前で足を止めたかと思うと、不意に肩越しに振り返り――。


「お姉ちゃんたちが何を考えているのかは知らないけど、北の魔法使いは本当に良い人だよ。あの人のことを悪く言ったり、邪魔をしたりするつもりなら、お姉ちゃんたちはぼくにとって悪い人ってことになるんだからね」


 念を押すようにそう言った少年の足音が、少しずつ遠ざかっていくのが聞こえる。

 北の魔法使いは良い人――千鶴もその通りなのだろうと思っていた。おそらく、この村にいる他の者たちから話を聞いても、同じ言葉を口にするはずだ。北の魔法使いは良い人だ、悪く言う者は許さない、と。

 その思いを素直に受け取れば、北の魔法使いは王国一の賢人と考えて然るべきだ。しかし、多少邪な心で耳を傾ければ、誰からも善人であるという評価を得ようと、細心の注意を払って振る舞っているとも考えられた。


「何かが引っかかるって顔をしてるな」


 まだ鍋に残っているスープを器に取り分けながらカルディアが言うと、ぼんやりと宙を眺めていたアンジエールの目に光が戻ってくる。長い髭をそよがせながら顔を上げ、宝石のような双眸を瞬かせた。


「我々を売ったお前に聞かせてやる話はない」

「おいおい、お前まで人聞きの悪いことを言うなよ、アンジエール」

「事実は事実だ」


 アンジエールはくっくっと笑いながら、二人の様子を窺っていた千鶴に目を向ける。


「何か引っかかることでもあるの?」


 そうカルディアと同じことを千鶴が問うと、アンジエールは面白そうに目を細めてみせた。カルディアはその様子を目に止めると、ふん、と鼻で息を吐いて不満そうにする。


「私は確かにネイジュという魔法使いを知っている。だが、それは記録としてだ。そのことについては前にも話したが――」

「大丈夫、ちゃんと覚えてる」


 そうだろうとも、と言って頷いてから、アンジエールは先を続ける。


「あの男がこの国でも有数の魔法使いであることは間違いない。それは誰もが認めるところだ。だがしかし、どのような魔女や魔法使いでも、冒してはならない禁忌がある」

「禁忌?」


 千鶴はオウム返しにして首を傾げた。


「時間の操作とは違うの?」

「それは第一級の禁忌だ。それに準ずる禁忌として、領土の侵食というものがある」

「領土の、侵食?」

「王国のすべての領土を支配するのは女王だ。女王の意向により領地が分け与えられた者でも、いずれは領地を王国へ変換するものと自覚せねばならない。ネイジュには北の領地が与えられた。それはいい。だが、本来であればチトセの失脚と共に、領地は一度返還されなければならないのだ。新たな女王の許しなく領地の所有権を主張すれば、それは女王の領土を侵食したという禁忌を冒したことになる」

「でも、ネイジュさんは国の人たちのことを思って――」

「禁忌に善悪はない。ならぬものはならぬ、ということだ。女王が不在の今、あれを罰する者はいないが、女王が登極した暁には相応の罰を受けることになるだろう」


 自らが王になってやろうと目論んでいる者が、王国の禁忌で頭を悩ませているとは思えない――千鶴がそう考えたが、それをあえて口にしようとは思わなかった。ここにいる誰もが、同じ考えであることが分かるからだ。


「北の魔法使いはここまでが自らの領地であると主張している」

「今のところはな」


 そう言ってから残りのスープを掻き込むカルディアの顔を、千鶴は非難がましく睨みつけた。すると、カルディアは口の端から滴ったスープを手の甲で拭いながら、再び口を開いた。


「相手はいずれこの国全土を統一してやろうって考えているようなやつだぞ」

「あなたはそれを悪いことだと思っているんですか?」

「悪いも何も、禁忌は禁忌だろうが」

「いつまでも現れない女王に痺れを切らして奮起した人を非難する言葉なんて、私には思いつきません。ましてや、禁忌を冒してまで何かをなそうとする人なら、周囲から尊敬されて然るべきでしょう?」


 半ば怒ったように言う千鶴を目の当たりにして、カルディアはアンジエールを一瞥してから、酷く呆れたようにため息を吐いた。そして、胡坐を掻いた自らの足に頬杖をつくと、上目遣いに千鶴を見る。


「甘っちょろいな、お嬢ちゃん」

「そんなことは――」

「言われなくても分かってる、ってか? まあ、そうだろうよ。だが、お嬢ちゃんが北の魔法使いを肯定しちまったら、こいつは立場どころか、存在意義すら失うことになる」


 こいつ、と言いながら、カルディアはアンジエールを指差した。しかし、名指しをされたアンジエールはいつも通り朗らかそうに、優しい目で千鶴を見つめている。


「連綿と受け継がれてきた魔女の力があればこそ、こうして憎たらしい説教を垂れることもできるが、それがなければただの獣だ。北の魔法使いがどれだけ優れていたとしても、王国の誓約を反故にすれば、理は崩壊する。よぉく考えろよ、お嬢ちゃん。さもないと、あんたの祖母さんが愛した世界を、自分自身の手で滅ぼすことにもなりかねないんだからな」


 そんなことは分かっていた。いや、分かったつもりになっていただけなのだろうか。

 アンジエール自身の口から同じ話を聞かされても、現実味を感じなかったことは事実だ。しかし、ここへ来てカルディアの口から聞かされた言葉は、どういうわけか心に深く突き刺さってくる。

 祖母が愛した世界を滅ぼすことは、千鶴の本意ではない。とはいえ、この王国を救わんとする北の魔法使いの行く手を阻み、自らがそれ以上の支持を得て王国を統治することができるかといえば、それは不可能だろうと考えている。

 千鶴が引いているのは、一度と言わず二度までも、この王国を棄てた女王の血筋だ。二度あることは三度あるという。自分自身が三度目の正直となれるかどうか、千鶴にはまるで自信がなかった。

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