第七章 魂の目の深淵を見た時
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悪に染まりきれないという人は、少なからず存在するものだ。自らを悪であると自負しておきながら、どこか詰めが甘く、どうしても憎めない人物は昨今にかぎらず、昔ながらの物語にも必ずと言ってもいいほど登場する。本人は精一杯悪人として振る舞おうとしているのだろうが、滲み出る人の良さが、すべてを台無しにしてしまっているのだ。
ブランという男はその典型だと、千鶴はそう確信していた。
「大丈夫か?」
カルディアが手綱を握っている馬の背に揺られていると、その足許に歩み寄ってきたアンジエールが声をかけてくる。後ろ手にではなく、身体の前で拘束されている両手をじっと見下ろしていた千鶴は、視線だけをそちらに向けた。
「疲れているのではないか?」
「ううん、平気」
「休みたくなったら、そう言ってくれて構わない。私からブランに話をつける」
「分かった」
魔法が織り込まれているという縄は、一見するだけでは一般的なものと何一つ変わらない。しかし、千鶴は身体の中心に何かがぶら下がって、重石をされているような心地を常に感じていた。おまけの倦怠感は、まるで風邪の引きはじめのような微熱を思わせる。思考にぼんやりと霞が掛かっているようで、遠くの方にはいつも、眠気のようなものが居座っていた。
明らかに普通ではないものの、かといって異常とも言い切れない奇妙な状態が、ここ三日間続いている。
旅の道のりは酷く単調なものだ。それはそうだろう、この王国は行けども行けども雪景色で、まったく代わり映えがしない。見渡すかぎりの銀世界は美しいが、延々と見せられては、さすがの千鶴も飽きてしまう。
「寒くはねぇか?」
今度は頭上の高い場所を飛んでいるアンジエールの姿を眺めていると、肩越しに振り返ったカルディアが声をかけてきた。千鶴は、自分が鼻の頭を真っ赤にさせている自覚はあったが、頭を軽く左右に振ってから、すぐに顔を逸らした。それを目の当たりにしたカルディアは、髭面の顔に苦笑いを浮かべた。
「いつまで怒ってるんだよ、お嬢ちゃん」
「別に怒っていません」
「へえ、そうは見えないがな」
「ただ少し腹を立てているだけです」
「そりゃ俺が勝手をしたからか?」
「あなたがそう思うのなら、そうなのかもしれませんね」
千鶴はそうとだけ答えると、再び頭上に目を向けた。ちょうどこちらを見下ろしていたアンジエールは、その眼差しに気づくと、翼を上下させながら僅かに降下してくる。
「今夜は野宿をせずに済むだろう」
「そうなの?」
「少し先に村が見える」
「またどこかで納屋を貸してもらう?」
千鶴がそう言うと、二人分の視線が一気に向けられた。
「今度は誰にも告げ口をされなければいいけれど」
「やっぱり怒ってるんじゃねぇかよ」
皮肉っぽく言った千鶴を振り返って苦笑いを見せたカルディアは、少し困ったような顔をしてぼさぼさの頭を掻いた。
ちらちらと粉雪が降る中をしばらく進んでいくと、千鶴の目にも村の外観が見えてきた。かろうじて馬車が通れるほどの幅の道の先に、二メートル以上はあろうかという石の壁が立ちはだかっている。出入口はアーチ状の木の門構えだ。
アンジエールのように、空から見下ろせば村の様子を垣間見ることは可能だろうが、地上からではそれも不可能だ。まるで要塞か何かのようだと千鶴が思っていると、先頭に立っていたブランが門扉の前で馬の足を止めた。
「俺だ、開けてくれ」
声を張り上げるでもなくそうとだけ言うと、何本もの丸太を使った見るからに重たそうな扉が、ずずず、という鈍い音をたてながら上へと昇っていく。十分な高さまでそれが持ち上げられると、ブランは再び馬の歩みを進ませた。マントの集団とカルディアもそれに続き、村の中へと足を踏み入れる。
「――え?」
カルディアが手綱を操る馬の背に揺られながら入村を果たした千鶴は、不意に違和感を覚えた。何件か石造りの建物も見えるが、ほとんどが木造の小ぢんまりとした家ばかりだ。夕食の支度をはじめる時間帯だからだろう、多くの家の煙突からは、もくもくと煙が立ち上っている。
「……雪が、ない」
不思議なことに、村の中はあたたかかった。雪がないのだ。春の陽気とまではいかないが、氷点下の村の外に比べれば、それこそ天と地ほどの差があるといっても過言ではない。
村の中に雪がないことを安堵した様子で地上に降りてきたアンジエールは、至極興味深そうに辺りを見回している。
「ほう、よく護られているな」
「護られているって?」
そう言って首を傾げると、井戸で水汲みをしている少年を見ていたアンジエールが、千鶴を見上げた。
「この村には魔法の力が隅々にまで行き届いている。だから、村はあたたかく、雪も積もらない」
おそらく、村の周囲をぐるりと取り囲んでいる石垣の壁を境に、何らかの力が働いているのだろう。千鶴にはまだまだ分からないことの方が多いが、この世界の魔法と呼ばれる力は、様々なことに応用が利くようだった。
「――あ、ブランだ!」
その時、透き通るようなかわいらしい声が、先頭を進んでいたブランに掛けられた。井戸で水を汲み上げていた少年だ。少年は目をきらきらと輝かせながら、一軒の石造りの家の前で馬から降りたブランに駆け寄っていった。
「おかえり、ブラン」
「ああ、ルタか」
「今日はお客様をたくさん連れているんだね」
「え? あ、いや、こいつらは――」
ブランは何かを言いかけてやめ、少年の頭に手を乗せると、首を僅かに横に振る。
「俺は村長に用向きがある。お前は早く家に帰れ。いくら村の中でも、日暮れ後は冷える」
「今夜は泊っていくんでしょ?」
「ん? あ、ああ、そのつもりだが」
「だったら、母さんに知らせなきゃ。ちょうど夕飯の支度をしているところだから、挨拶が済んだら食べにおいでよ。他のお客様たちも一緒にさ」
「何だって? いや、いいや、それはだな――」
「それは是非ともご相伴に預かりたいものだ」
少年に向かって狼狽したような様子を窺わせるブランを尻目に、アンジエールは邪魔をする気満々という態度で言う。すると、少年はますます嬉しそうに目を輝かせ、絶対だよ、と言って井戸水を組んだ木製の桶を抱え、家々の間に姿を消した。
この時ばかりは苛立ちを隠そうともせずに、睨みを利かせたブランだったが、当のアンジエールは素知らぬふりだ。これ以上余計なことを言われてはたまらないと思ったのか、ブランは全員をその場に留まらせると、たった一人で石造りの屋敷の中に入っていってしまった。
カルディアの手を借りて馬の背から降りた千鶴は、すぐ横にまでやって来たアンジエールを一瞥してから、村の中をぐるりと見回した。
「どうしてこの村は魔法で護られているの? ビビアンさんのいた村や、他の村落は、どこも雪に埋もれてしまっていたのに」
「この村はブランの故郷だ」
「それなら、ブランさんが魔法を?」
「いや、ネイジュだろう。あれに魔法は使えない」
「この辺りはもう北の魔法使いの領地内だからな」
そう言ってカルディアが口を挟んでくるので、千鶴は思わず顔を顰めてしまう。それを目の当たりにしたカルディアは呆れた様子で肩をすくめ、アンジエールは愉快そうに笑った。
ブランが石造りの屋敷から出てきたのは、それから十五分ほど経ってからのことだ。気を紛らわすためにアンジエールと取り留めのない話をしていると、ブランはすぐ近くにまでやってくる。
「許可は下りた。今日はこの村で一泊して、明朝に出発だ。お前らにはすぐそこにある厩を貸してやるそうだから、ありがたく使わせてもらえ」
にやりと意地が悪そうにほくそ笑んだブランだったが、壁と屋根さえあればどこでも構わないと思いはじめている千鶴にしてみれば、たいした問題ではない。表情一つ変えない千鶴を見て、少々不満げに顔を顰めてから、ブランは先を続けた。
「厩の外には見張りを立てておく。逃げようなんていう妙な気は起こすんじゃないぞ」
「分かっています」
「――おい、そこのお前」
ブランは一見従順そうにも感じられる千鶴を疑わし気に見てから、直立不動で立ち尽くしているマントの人物に声をかける。すると、マントの人物はフードの下に隠れている顔を、ゆっくりとブランに向けた。
「こいつらをそこの厩に――」
「いたいけな少年との約束を反故にするつもりか、ブラン?」
土の地面に行儀よく腰を下ろしていたアンジエールが、不思議そうに首を傾げながらそう問いかけた。ブランはチッとこれ見よがしに舌を打ち、顔の片側だけを神経質そうに歪める。ひくりと痙攣するように動いた頬を、千鶴は見逃さなかった。
「あの少年は我々のことも招こうとしてくれていたようだが、それは私の勘違いだったか」
「図々しいにも程がある。お前らは捕虜だ、とりこだ、囚われの身だ。それを分かっているのか?」
「もちろん、それは理解しているとも」
「だったら大人しくしていろ。失念しているようなら改めて忠告しておいてやるが、俺の命令は絶対だということを、今夜中に肝に銘じておけ」
「子供との約束さえ果たせないとは、見下げ果てた男だな」
「何とでも言えばいい」
ふん、とせせら笑ったブランは、二人の後ろで馬に寄り掛かり、黙って話を聞いていたカルディアに視線を走らせた。
「しっかり見張れよ、騎士団長殿」
「へいへい」
厩には三頭の馬と二頭ずつの羊と山羊が住んでいた。家畜は千鶴たちがぞろぞろと連なって入ってくると、大きく見開いた目をぎろりと向けてくる。ぴたりと動きをとめて警戒心を露にしたが、アンジエールが歩み寄って意思の疎通を図ると、それらの目から警戒の色が薄れていくのが分かった。
千鶴は家畜たちを刺激しないよう静かに歩み寄り、それぞれの目を代わる代わるに眺めた。
「騒がしくしてしまって、ごめんなさい。迷惑でしょうけれど、今夜はあなたたちと一緒に眠らせてね。日が昇る頃には、みんな出て行くから」
自分の話す言葉が通じているとは思わなかった。しかし、この人間は脅威ではないと感じ取ってはくれたのか、千鶴たちから視線を逸らすと、もくもくと干し草を食みはじめる。どうやら、ちょうど食事の時間帯だったらしい。
「そら、お前らも一緒に食わせてもらえよ」
自分とブランの馬を引き連れてきたカルディアは、二頭の馬を空いていた仕切りの中に入れると、鞍と手綱を手早く外してやっていた。汲み置きの水の匂いを確かめてから、手桶で汲んだものを木製のバケツの中に移し、それを馬たちのところまで運んでいる。
この数日の旅で理解したことは、カルディアは自らを含む人間よりも、馬を優先するということだった。長旅に馬は必要不可欠だ。重い荷を運ぶ手段にもなる。だが、元騎士団長だったカルディアにとっては、命を預ける相棒でもあった。まずは何よりも、信頼関係の構築に勤しもうとする行為は、至極当たり前のことに思えた。
「腹を空かせているだろう?」
切り株の椅子に腰を下ろし、カルディアの様子をぼんやりと眺めている千鶴に向かって、アンジエールがそう声をかけてきた。千鶴は傍らで伏せているアンジエールを横目に見てから、再び馬の手入れをしているカルディアに目を向ける。
「ねえ、ノワールさんはどうしていると思う?」
千鶴が何の気なしにそう問いかけると、アンジエールはくるりと耳を動かし、予想外の言葉に驚いているような様子を窺わせた。カルディアは千鶴を一瞥するだけで、今のところは横槍を入れてくるつもりはないらしい。
「さあな。だが、雪深い森の中で野垂れ死んでいないことを願おう」
「報いを受けるべきなのではなかった?」
「君にとっては死ぬことが報いだと?」
「私にはよく分からないけれど」
ノワールの所在は明らかになっていない。だが、ブランはどうやら捜索を続けさせているようだ。当初は六人いたマントの者たちが、今は四人に数を減らしているのがその証拠だろう。真夜中を過ぎた頃になると、夜の闇に溶け込むような大鷲が飛んできては、手紙のようなものをブランに届けていることを、千鶴は知っていた。
だが、ノワールのことだ。千鶴という足枷が外れてしまえば、一切の不安要素はなくなる。見つかることも、捕らえられることもないだろうと、そう千鶴は考えていた。
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