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「いやはや、まさかお前からお呼びが掛かるとは、想像もしていなかったぞ――カルディア」


 至極ご満悦という態度を隠そうともせず、今しがた到着したばかりのブランが、そう猫撫で声で言った。それと対峙するようにして立っているカルディアは、大きく肩をすくめたかと思うと、背後にいる千鶴とアンジエールを一瞥する。


「娘が助けを求めてきたら即時拘束、何を差し置いてでも連絡をしろと言ったのは、他ならぬあんただろ?」

「こちらのやり方が気に入らないんじゃなかったのか?」

「俺は考えさせろと言っただけだ。それに、背に腹は代えられない」

「飲んだくれて有り金全部すった挙句、女房子供に逃げられたんだったな。まあ、仕方がないか」


 そういえば、カルディアは昨夜も女房子供に逃げられたという話をしていたと、千鶴は思い出す。あまりに軽い調子で話をしていたので、ちょっとした家出のようなものだろうと考えていたが、実際は深く根ざした問題なのかもしれない。

 カルディアは、にやにやとほくそ笑んでいるブランを見て僅かに顔を顰めてから、乱暴に頭を掻いた。


「それで、約束の金は払ってくれるんだろうな?」

「ああ、もちろんだとも」


 あの後、決して考えを曲げようとしない千鶴に我慢がならなくなったらしいカルディアは、くるりと踵を返して納屋を出て行ったかと思うと、雲が重く垂れこめている空に向かって巨大な花火を打ち上げた。打ちあがった花火は雪雲の中で大爆発を起こし、しばらくの間光を滞留させていた。

 光はまるで自らの居場所を指し示すかのように留まり続け、今朝方になると、朝の光に飲まれるようにして消えてしまった。それから間もなくして、件のマントの集団を引き連れてブランがやって来たのだ。その頃には雪もちらつく程度に落ち着き、風もほとんどやんでしまっていた。


「だが、今は手持ちが少ない。だから、お前も一緒に来てもらうぞ」

「へいへい」

「ついでにこいつらのお守りも任せてやる」


 すた、すた、すた、と軽い足取りで近づいてきたかと思うと、ブランは柱に縛り付けられている千鶴の目の前で足を止めた。背負われている大剣が、ちゃき、と小さく音をたてる。


「よくも無駄な手間をかけさせてくれたな、小娘」


 千鶴がこちらの世界に足を踏み入れ、ルミエールの家で最初にこの男をやり過ごしてから、どれほどの日時が過ぎたのだろう。時間が止まってしまっているこちらの世界では、今更気にすることでもないのかもしれないが、千鶴は別だ。

 こうしている今も、あちらの世界では刻一刻と時間が過ぎている可能性は否めない。もし叶うなら、一度帰りたいとも思う。事を穏便に運ぶためには、ブランに対して口答えをしないことが得策だろう。できるかぎり従順であるべきだ。

 千鶴が黙したままそうしたことを考えていると、その顔をじっと見つめていたブランが、不意に視線を左右に動かした。


「……お前の騎士殿と犬はどこだ?」

「アンジエールなら、この奥で眠っています」

「寝てるだと!?」

「私のことを人質に取るのなら仕方がない、自分は大人しくしている、と」


 そうして平然と、何事もなさそうに話している千鶴だったが、置かれている状況は常軌を逸している。現代であれば、十六、七の女子高生が柱に縛り付けられるなどという経験は、なかなかできるものではない。貴重な体験をしているのだと思うことにしていた千鶴は、続く言葉を口にした。


「ノワールさんのことは分かりません」

「……分からないだと?」


 そんなわけがあるか、という顔で睨みつけられ、千鶴は小さく肩をすくめる。

 千鶴は本当にノワールの行方を知らなかった。うつらうつらとしているうちに、いつの間にか姿を消していたのだ。ノワールとセシリアの痕跡だけが、きれいに消えてしまっていた。


「おい、どういうことだ?」

「――ノワールとは少々意見が対立してしまってな」


 ブランはカルディアに問いかけたつもりだったのだろう。しかし、それに答えたのは、納屋の奥で休んでいるはずのアンジエールだった。のっそり、のっそり、とした足取りで現れたかと思うと、柱に縛り付けられている千鶴の隣に並び、すとんと腰を下ろす。


「あれはカルディアを信用すべきではないと言った。だが、私は信頼に足る男だと思った。それ以前に、我が女王をこれ以上あの吹雪の中に晒すべきではないと考えてのことだったが、この通り、ノワールの考えは正しかったと証明されている」

「お前らはあいつに見捨てられたってわけか」

「見限られたと言った方が正しそうだ」

「それで大人しく捕まってやることにしたとでも?」

「お前もよく知っていると思うが、私の力は限定的なものだ。彼女の身を護るためには小間使いが必要だったが、それも望めなくなってしまった。ならば、今は闇雲に逃げ回るよりも、大人しく捕えられた方が彼女の身の安全が保証される」

「随分と都合のいい考え方だな」

「我が女王に粗相のないよう、丁重にな、ブラン。彼女にかすり傷一つでも負わせれば、今度はそのか細い首をこの爪で掻き切ってやるぞ」


 アンジエールは本気とも冗談ともつかない曖昧な調子でそう言うと、宝石のような輝きを帯びている目を悪戯に細めた。それは釘を刺しているようであり、ただからかっているだけのようにも見受けられる。

 千鶴は、たいして興味がなさそうに二人の様子を眺めているカルディアを横目で窺ってから、もぞもぞと肩を動かした。思いの外きつく締め付けられているらしく、手首が縄で擦れ、指先が微かに痺れを感じはじめている。

 カルディアもそれに気づいたのだろう、千鶴に一瞥をくれた後、アンジエールと睨み合いを続けているブランに声をかけた。


「なあ、おい、このお嬢ちゃんの縄、もう解いてやってもいいか? 暴れ出す心配もないみてぇだし」

「ん? あ、ああ、そうだな」


 一度はそう答えたブランだったが、切れ長の目に鋭い光を宿したかと思うと、思い直したように頭を振った。


「ああ、いや、だめだ。その娘は拘束したまま連れて行く」

「どうしてまた」

「また余計なことをされては困るからな」


 余計なこととは、昨日のビビアンの家でのことを言っているのだろう。千鶴がそう思っていると、ブランは腰から下げていた縄を取り外し、それをカルディアに向かって差し出した。


「あの女に作らせた縄だ。魔法を縒り合わせてある。これで縛り直せ」

「そこまでする必要が――」

「いいから早くしろ」


 有無を言わせぬブランの物言いに、カルディアは僅かに不満そうな表情を浮かべるが、逆らうことはしなかった。

 カルディアは千鶴の背後に回り込むと、柱に縛り付けていた縄を解き、代わりにブランから受け取った縄で両手を縛り直そうとする。

 しかし次の瞬間、千鶴は全身に倦怠感のようなものを覚え、縛られることを拒むべくカルディアの手を振り払おうとした。だが、カルディアは千鶴の両手首をいとも容易く片手で拘束すると、慣れた様子でするすると縄を結んだ。


「頼むから、大人しくしていてくれよ、お嬢ちゃん」


 気持ちの悪い違和感に眉を顰めていると、背後から耳元に顔を寄せたカルディアが、囁き声で釘を刺してくる。生温かい息が吹きかけられ、それに不快感を露にすると、微かに笑ったような吐息を漏らしてから、カルディアはすぐに離れていった。


「――どうやら、あの野郎は本当にいないらしいな」


 周辺の見回りを終えて戻ってきたマントの人物が耳元で何事かを囁きかけると、ふん、と不満そうに鼻で息を吐きながら、ブランがそのように言った。

 千鶴もノワールがいつ出て行ったのかは知らない。アンジエールは知っているのだろうが、我関せずという面構えだ。アンジエールに対して何らかのトラウマを抱えているらしいブランには、ノワールについて問いただすだけの勇敢さを持ち合わせてはいなかったらしい。


「女王直属の近衛騎士がいの一番に尻尾を巻いて逃げ出すとは、後世まで語り継がれる笑い草だな」

「違いない」


 そう同意の言葉を口にしたのはカルディアではなく、千鶴の傍らに鎮座しているアンジエールだ。目を丸くしてその様子を見ていると、アンジエールは身体を掻きながら千鶴を見上げた。


「忠義は果たされるべきだ。しかしながら、女王の騎士はそれを果たさず立ち去った。その報いは必ずや受けることになるだろう」


 千鶴はノワールに報いを受けさせたいわけではない。ただ、二人は道を違えてしまっただけなのだ。一緒に歩むことができれば心強かったが、無理強いすることはできない。だが、それでいいのだ。

 自らの下す決断に納得ができないまま、無下に捕らえられるべきではない――各々が最善だと思うことに尽力すべきだと、そう千鶴は考えていた。

 今の千鶴にとっての最善は、誰かに保護を求め、助けを乞うことではない。自ら行動を起こし、最善策を見い出すことだ。そのためには、もはや手段など選んではいられなかった。


「――おい、お前」


 千鶴が物思いに耽っていると、ブランがそう声を上げた。自分が呼び掛けられているとは露ほども思わずに口を噤んでいると、苛立たしげに舌を打ちながら視界の中に入り込んでくる。


「お前を呼んでいるんだが?」

「え? あ、ごめんなさい」


 千鶴が素直に謝ると、ブランはそれが不満だとでもいうふうに顔を顰めた。


「これよりお前を我が王の下へ連行する。分かっているとは思うが、無駄な抵抗は止せよ。こちらもこれ以上はいらん手間をかけたくないからな」


 ほんの一瞬だけ、この逃走劇は無駄だったのではないかという考えが頭をよぎるが、千鶴はすぐに思い直した。これは自分にとって必要な時間だったのだ。この時間があったからこそ、すべてのことから目を背けず、こうして向き合う決心を固められた。この時間がなければ、これまでと変化のない自分のまま、己を嫌い続ける人生を歩み続けていたことだろう。

 千鶴は自分が心底嫌いだった。それでも、ほんの少しでも自分のことを好きでいるためには、これ以上自分を嫌悪するような選択をするべきではない。たとえ誰と袂を分かつことになろうとも、自分に正直であるべきなのだ。もう、自分の心をごまかすことはできない。


「大人しく従っていれば、北の魔法使いに会わせてもらえるんですよね?」


 千鶴はほとんど独白するような声音で問う。すると、ブランは不可解そうに眉を顰めるものの、千鶴の目を見つめてしっかりと頷いてみせた。

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