第7話

 傑王、崩御。

 天還祭の五年後の出来事だった。

 深酒の多かった傑の体は、酒に着実に蝕まれていた。痛風が現れてからも傑は日に何杯も女官も持ってこさせては痺れる手足をよそに飲み続けた。

 死の二三年前からは猛爾元の諌言が殆ど耳に入らなくなっていた。

 猛爾元は北伐や西伐に日々駆られ、やがて北方に不穏な動きがあることを知る。ただ、反乱の芽だと断定して摘み取るにはほんの噂でしかなく、ともすれば曄国に弾圧された異民族たちが微かなる希望を託してまことしやかに囁かれているだけとも取れた。

 しかし、それが北方であれ、南方であれ、西方であれ、どこかしらから近い将来、来るべくして来るものであろうと考えられた。その大きな山場が傑の崩御であることは王宮に勤めている者であれば誰しもが予測しえた。

 傑の生命は曄国全土の堰であった。崩御し、堰が崩れ去った今、不満の河川は容易に氾濫する。

 案の定、次王の践祚は非常な混乱をもたらした。

 酒や激昂によって傑は多くの皇子・公主を庶民に落し、命を奪った。王宮の生き残りの皇子たちは腐敗した官たちの駒となった。宮中では王位継承争いが起き、市中では偽王子事件が起きた。同時にそれまで鳴りを潜めていた北方の異民族たちが徐々に集まりはじめ、打倒曄を叫び始めた。

――宮中が分裂した今を北方は野生の嗅覚で嗅ぎ取っている。

 再び、まことしやかに囁かれ始めた。

 この幾つも芽生えた混沌の種は、やがて大きな枝葉を広げて曄の国土を暗雲で覆い始めた。私欲にまみれた今の王宮には、この大きなうねりを完全に止める機能が備わっていなかった。

 国が傾きつつある――。

 市街は相変わらず賑やかである。傑の存命時に輪をかけて賑わしい。微々たる変容であったが、猛爾元には見えない坂を滑り落ちている気がした。賑わしさが次第に狂気を孕むとしたならば、この国は終わるのかもしれない、とすら思えた。

(そうすれば俺は……)

 言い知れぬ不安を抱えた猛爾元はある日、西方からの文を文玲に手渡した。剛は別室で文官一族の程家から来た家庭教師に算術を習っているようだ。

「これは……?」

 文玲は緩慢な動きで文を開くと目を通した。顔色が変わった。

「嫌です」

 乱雑に文を握り、床に落とす。静かな部屋にかしゃんと木片の音が響いた。

「今しかないのです。分かってください」

 猛爾元は文玲の両肩に手を添えた。

「父が居らなくなって、混乱している今しかないのは分かります。ですが、嫌です」

 文玲は唇を噛んで首を左右に振った。声が震えている。結婚して九年になるが、彼女がこんなにも感情を露わにしたことはなかった。

 ぽろぽろと涙を零す文玲に、卑しくも心が満ちる。

「離縁なんて、絶対に、嫌です……」

 愛おしくなって猛爾元は強く抱きしめた。細い肩は婚礼時と変わりない。猛爾元にとっては彼女こそが一生の乙女だ。彼女に彼が必要なのではなく、彼にこそ彼女が必要だった。

 だけれども、猛爾元は文玲と剛を手放すと決めた。

「九年前、曄に恭順を示したブグラのラフマンの息子、アフザルがあなたがたを引き受けてくれます。第一夫人は子をなせぬ体のようですが、あなたは子を産んだ実績があるので再嫁を断られることはないでしょう。剛の容姿はヨルワスに似ているのでその伝手を頼っても良かったのですが、ヨルワス内部は昨今反曄勢力が勢いを増している。ブグラの地が戦火には最も遠いはずです」

 猛爾元は敢えて淡々と述べることに努めた。ここで共に感情を晒せば、手を放すのが嫌になるだろう。

 文玲は猛爾元の腕にしがみついた。

「嫌です。わたくしもあなたと凰都に残ります」

「だめです。剛はどうするのです。母親が傍にいてあげなさい」

「確かにそうですわ。でも、だからといって離縁は嫌です。わたくしはあなたに嫁いだのです。あなたに殉じたいのです。ドルジ、あなた以外の夫はいりません。わたくしにあなた以外の男に抱かれろというのですか」

「それは……。それは私も嫌です。しかしこのまま暴動が起き、万が一国がなくなりでもすれば、私は何らかの形で刑を下されるでしょう。その時にあなたと剛を連座させたくはありません。私が最も見たくない光景なのです。ウルヤ、理解してください」

「嫌です……!」

「私の心はウルヤ、あなたのものです。傑王でも誰でもなくあなたの」

「ずるいです……」

「あなたを愛しています。剛も。これからもずっと」

 母親の啜り泣きを聞いたのか、剛が顔を出す。教師がそっと部屋に戻るよう剛を促すが、猛爾元は彼を手招きした。すっかり少年のような手足になった、しかしまだ幼さの残る頬を、猛爾元は片手で包んだ。

「剛、これから遠くへ勉強に行ってもらうことになる。母上を頼んだよ」

「はい! 父上」

 訳のわからぬ剛は、やんちゃそうに歯を見せて笑った。教師に呼ばれて再び部屋に戻る。きっとこれが最後の幸せな時だろう。

「ウルヤ、あなたをはじめて見た時、私はあなたを蓮の花の化身だと思ったんです。あなたの香りはとても甘くて、あなたの半眼の目はとても慈しみに溢れている。離れるのがこんなにも辛い」

 二人は互いの熱を体に刻みつけるように、ずっと腕を放そうとしなかった。



 結局西へ帰ってきてしまった。

 少なからずとも、文玲はそういった憂いを抱いていた。

 納得してブグラの集落に再嫁しにきたわけではない。

 だが、乗り合った隊商の幌馬車がいくつもの山々と河川を越えて、緑の点在する砂地に来た時、文玲は息子のために覚悟を決めねばならぬと思った。猛爾元の託してくれた一粒種なのだから。或いは、そう気丈に振る舞うことによって悲しさを紛らわせようとしたのかもしれない。

 アフザル・ビン・ラフマン・ビン・アル=ナーシルは二人を快く迎え入れた。

 マドハルという再嫁先の村は古くは砦だったものが廃されたのもあり、規模が小さいながらも城壁都市のような体裁をとっていた。隊商はマドハル村の砦跡の一部を隊商宿として開放してもらっているようで、定期的に訪れているのだという。故に、小さな村ながらも人々の暮らしぶりが貧しくないのだろう。

 小さな村落の人々は文玲と剛を紅色の花弁の散華で迎え入れ、隊商は楽器で祝福を表した。隊長が「神の定めし祝福の日に」と言って文玲の頭に金糸の刺繍が施された白い覆い布を被せる。ふと、猛爾元に嫁す直前、長慶宮の控え部屋で深紅の覆いを女官に被された記憶が蘇った。

「わあ、綺麗だね! 母上、こんなに歓迎してもらって嬉しいですね!」

 剛が笑ってアフザルの元に駆け寄った。何故歓待されているのか、彼には分かっていない。別れの際の猛爾元の言葉をそのまま信じているのだろう。

「はじめまして!」

 文玲は剛に新しい父親をどう紹介すればよいのか分からなかった。事情を知っているアフザルが挨拶をする。

「はじめまして、ボルド。私はアフザル。君のマドハルでの父となるよ」

「この度は深くお礼申し上げます、アフザル様」

 文玲が頭を下げる。

「大変な旅でしたね、文玲殿。さ、顔をあげて」

 アフザルは精悍で活発そうな顔をしていた。瞳の力強さは燃え盛る炎のようで、泉のような瞳の猛爾元とは対照的であった。整えた顎鬚で年がいって見えるが、顎鬚を剃った顔を想像すると文玲とごく近い年齢にも見えた。子供時代、さぞかし腕白で人懐っこかったのであろうと想像を掻き立てる。人情味のありそうに見えるこの男が、しかし、父親を引き渡して曄に恭順を示したと思えないほどだ。

 アフザルは文玲と剛を連れて家に向かった。

 アフザルが文玲の右手を取って前を歩き、剛は文玲の真後ろを歩く。重なった手の色が猛爾元のそれを似ているのに、大きさも形も全く知らない男のものだった。

 菱、丸、三角と漆喰で装飾された土塀をくぐると剛は男たちの部屋に、文玲は新婦の部屋に案内された。

 外からは祝福の音楽と人々が遊びに興じる声が聞こえる。もしかすると踊っているのかもしれない、と文玲は思った。

「さて、文玲殿」

 アフザルは文玲に向き合って胡坐をかいた。

「アフザル様、わたくしのことはウルヤとお呼びください。昔、アクサ村ではそう呼ばれていました」

 結婚式用の豪華な刺繍が施された銀の椅子に文玲は座らされていた。脇には中年の女や老女が文玲の腕を取って何かを確かめたり、布を当てて顔を見比べたり、或いは紅色の筆を持ち上げては顔の横に据えてみたりしている。初めて目にする花嫁のために衣装や化粧を整えてくれているのだろう。

「ではウルヤ、嫁いできて突然で申し訳ないが、一つしきたりがあるので早急に決めてほしい」

 中年の女がアフザルに構うことなく文玲の服を脱がせ、新しい真っ赤な服に着替えさせた。また、赤い婚礼衣装だ、と文玲は思った。けれど、今回はブグラ族の好みそうなゆったりとした婚礼衣装で、何重にも帯を締められることはなかった。これも金糸の刺繍が美しい。

「何でしょうか」

 次に老女が手を取った。婚礼衣装広い袖をたくし上げて皿に溶いた赤色の絵の具で、文玲の肘から指先まで巧みな絵を施していく。

「ブグラは嫁入りの時に女の額に刺青を彫るんだ。何人目の妻でもそれは変わらない。本来なら婚礼の日に合わせて腫れが引くように彫るんだが、今回は間に合わないので婆ちゃんに描いてもらうことにする。絵柄はあんたの好きにできるのだが何にする?」

 用事を終えたもう一人の中年の女が、文玲の反対の手を取って老女――アフザルの祖母と同様に模様を描きいれていく。

 そういえば、ブグラの妙齢の女性はよく額に模様を入れていた。刺青は誰かの持ち物である証しだ。今でこそ女たちは家の財産だとか、家具だとは言われぬが、古くからの習わしが残っているのだろう。文玲は古い記憶を呼び起こした。

 そして、すぐに一つのものを思い浮かべた。

「では蓮の花をお願いします」

「蓮の花?」

 アフザルは文玲の即答に驚いた様子だったが、老女が「いいじゃないか」と朗らかに頷いた。

「花は生命、永遠の象徴。蓮の花になると清らかの象徴。絵柄も綺麗だよ」

 皺枯れた声は優しかった。文玲は意外に思った。

 大切な孫の第二夫人になる女が曄人で、離縁されてからの再婚で、しかも八歳にもなる連れ子までいるのだ。恋愛の果ての婚姻ならば良かったのだが、実際はそうではない。文玲は疎まれても仕方がないと覚悟していた。

「そうか。婆ちゃんも喜んでるし、そうするか」

「ありがとうございます」

 アフザルが顎鬚を撫でた。彼も嬉しそうにしている。どことなく照れくさそうだ。

「感謝、いたします……」

 老女が額の隅に赤色の絵の具を施していく。以前に小さな花鈿を描いたよりも、広範囲に装飾を入れる。中央の蓮の絵を残して。

 文玲は奥歯をぎゅっと噛みしめた。

 ここは素朴な優しさと幸せに溢れている。まるで凰都での日々が昔日の思い出のようで今、この場所が恐ろしい。猛爾元が亡き者になったようで恐ろしい。そう思った。

 やがて動乱に巻き込まれていくであろう猛爾元を想うと心の臓を掴まれるかのようだった。動乱が起きた時、己は遠く離れたこの村で何を思うのだろうか。諸色街しょしょくがいの自宅で手折ろうとして止められた蓮はどうなるのだろうか。

 忘れたくないと強く念じているのに、いつかはあの顔を、声を、腕を、忘れてしまうのだろうか。当たり前のように新しい夫や子供たちのことばかりを考えて、孤独に沈んでいく彼を思い出せなくなるのだろうか。

 朝露がつうと蓮の葉の輪郭をなぞるように、文玲の目からひとりでに涙が零れ落ちた。

 一人の女性が衣嚢から布を取り出して顔を拭ってくれた。

「緊張しなくて良い。花嫁にはよくあるもんさ。あたしもここに嫁いできた時は同じだったわよ」

 外見から、彼女がアフザルの第一夫人なのだろう。

「はい、すみません。お心遣い、ありがとうございます」

 曄国に起こりうる恐ろしい未来から文玲は身を離した。

 猛爾元と文玲の世界は断絶し、もう別々の道を歩んでいる。

 かくして文玲の額には蓮の花が彩られた。



 文玲は再婚後、剛の他に三人の子を産んだ。肌は日の光と熱によって浅黒くなり、言葉もすっかりブグラ族のものだった。彼女は夫と家族によく尽くし、穏やかで幸せな日々を過ごした。

 だが、時折東の方角を眺めながら瞑想する。神に聖典の句を捧げるように。そして再び目を開けると必ず額の蓮花の刺青を愛おしそうに撫でるのだった。

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弥終の蓮 にっこ @idaten2

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