第6話

 二年前のあの日から、文玲は何かを察知すると、猛爾元を遠乗りに誘った。誘えば猛爾元は困った笑顔を見せて愛馬に跨った。

 はじめて遠乗りに誘った時は、猛爾元は文玲の乗馬術を疑心暗鬼にしていたが、文玲はその不安をすぐに拭った。

「驚きました。少し乗れる程度だと見くびっていましたが、その分だと草原の奥方たちに引けを取りませんね」

「ふふ、わたくしは草原の奥方でございますもの。昔、ブグラの小父上たちに裸馬を訓練させられたのです。遠沙へ帰ると言った際もわたくしは一人で馬を駆ろうと考えていたのですよ」

「道理で。しかし無茶をなさる」

 猛爾元の笑顔は同志を得たように明るかった。

 文玲は猛爾元が心の底はやはり遊牧民族なのだと思った。馬を駆ける主人は苦悩を胸の裡に抱えながらも喜んでいる。馬の鬣と身体が、まるで一本の線、否、一陣の風となったかのようである。

 疾駆させる時に見せる笑顔は、王宮でも自宅でも見たことのない少年のような瑞々しさを湛えていて、美しいと文玲は思った。馬に乗っている時の主人は、もしかすると曄に来る前の、ビュレ族の支配する草原を駆けていた時代の魂のままなのではないだろうか。とても輝いて見えるのだった。

 だから、此度のように乗馬でも気の晴れない主人を文玲ははじめて目の当たりにした。と同時に、言いようのない怨嗟が己の中から這い上るのを感じた。

(あのような命令を父は何故ドルジ様にくだしたのでしょう。つくづく容赦のない方。あの方はそうまでしてドルジ様がご自分の手中にいると知らしめたいのでしょうか。そうであってもなくても残酷な方……)

 文玲は、己は感情の起伏が他人と比べれば、穏やかで、むしろ平坦過ぎるほうだと思っていた。己の父親が誰なのか知った時も、己を見返ることのない父に恨みを抱いたことはなかった。母が亡くなった時も身を欠いた悲しみはあれど、日がな慟哭して暮さねばならぬほどではなかった。

 けれど、この時ばかりは父への――傑への怒りが身の内側でとぐろを巻き、暗雲のように立ち込めて心に冷たい雨を降らせた。

 馬に乗るだけで心が晴れるはずもない。きっと一生涯晴れることなどないのだ。――ビュレ族を傑に滅ぼさせられた猛爾元が、今度は傑の臣下として他の部族を滅ぼさなければならないなど、どうして心に傷を負わずに済むというのか。

(愛があれば何事も許されるわけではございませんのに。間違っていらっしゃる)

 猛爾元はこの先の人生全てで傑の命じた大罪を背負わねばならない。文玲は傍に侍ることはできるが、真に苦悩を分かち合い、罪の半分を肩代わりすることは不可能なのだ。とても歯痒かった。



 結果からいうと、天還祭はうまく運ばなかった。否、祭祀自体は若干の乱れを見せたが、最終的にはうまくいった。

――問題はその後だ。

 天還祭は儀式が終わったのち、次の天還祭に向けて新たな神官を欲する。即ち、一人は祭祀を執り行う神官。もう一人は神に祈りを届ける姫神子である。

 神官は天還祭に招かれた功労者のうち、最高の貢物をした一番手と、次に素晴らしい貢物をした二番手の身内から選ばれる。

 一番手は祭祀の執行役の神官となる。姫神子は二番手の身内の少女から獲得される。だが、あろうことか一番手の少年は儀式の最中に逃走。怪異が襲い、少年を捕えることはできなかった。

 更に、最も重要とされる姫神子候補を二番手の部族・ブルキュット族は何者かに掠奪されてしまった。つまり、次の天還祭を担うはずの重要な神官――生贄が全て失われてしまったのだ。

 烈火のごとく怒った傑に、ブルキュット族は別の少女をあてがって許しを請おうとしたが、少女がブルキュット族の血脈ではなく、人売りから買った身寄りのない少女であることが露見すると怒りは一層強まった。

「ブルキュットは曄に従属するのが余程嫌と見える。ならば殲滅せよ!」

 近頃の傑は一度頭に血が上ると誰にも抑えられなかった。破壊しつくし、粉砕された瓦礫を燃やし尽くして、砂に帰した現実を自ら赴いて、己の目で見るまで納得しなかった。そうするまで感情の昂ぶりを止められなくなっていた。

「皇上、殲滅は罰が過ぎるのではないでしょうか」

 傑は傍の衛兵から無言で槍を奪い取り、猛爾元の肩をしたたかに打ち付けた。

「貴様が口出ししていいことではない! 国家の儀礼のため、ひいては国家全土のためぞ? 余が命じたのだ。矮小な罪ではなく、大将軍隊にみなごろされるほどの重罪であると蛮族どもを戒めよ!」

 再び振り回された槍の穂先が頬に当たり、紅色の房飾りのついた銀兜が床に落ちる。さざめきあっていた百官たちが水を打ったように静かになった。

 猛爾元は口の中を切った。唇の端から赤が流れる。近年では諫言は聞き入れられなくなってきた。昔から諫言をするならば斬られる覚悟でしなければならなかったが、猛爾元だけはその場で斬り捨てられることはなかった。だが、ここ数年はもしかすると戦場で傷を負うよりも、王座の間で傷を賜るほうが多いのかもしれない。

「女も子供も老人も容赦するな! 村も畑も焼き尽くせ! 二度と祖先の土地に住めぬよう破壊しつくせ! 天の意志を周りの北戎たちにもとくと見せよ!」

 傑の怒声だけが響く。誰もが沈黙する。

 この場にいる文官も武官も多くが傑の命令を受け入れられずにいた。過剰な処罰であるのは明らかだ。

 しかし、傑は王である。天の神の意志が宿る王なのだ。何人なんぴとたりとも神の命令には逆らえぬ。大将軍を拝した猛爾元でさえ例外ではない。

 これ以上は何を言っても聞き届けられぬだろう。今や傑の癇癪の虫は留まるところを知らない。

「天命であらば」

 猛爾元は流れる血を拭いもせずに拱手した。観念したかのように麾下の兵が続けて礼を取る。さざ波のように傑への礼が続くが、中には白々しい顔を隠さぬ者も居た。彼らは傑や猛爾元、それに従う日和見の将や兵を内心嘲笑っているのだろうか。もしくは侮蔑しただろうか。

 殲滅は速やかに行われた。

 ブルキュット族は鷹匠の一族だ。鷹を飼い、躾け、献上する。鷹を飼う以外はありきたりな定住型の農耕民である。馬こそ乗りこなすが、農耕の大地を抱える彼らは掠奪はしない。狩りのうまい人間が少しばかり居たところで戦に向くはずもない。命乞いもむなしく兵たちは剣や矛を振り下ろす。爽やかな青空に鮮やかな血の飛沫が舞う。

 平野に広がった瓦礫と焦げ跡、積み重なる死体を猛爾元は馬上から目に焼き付けた。草原の積み石オボーのようだったが、しかし、この死体の山に天の神が降臨することはないだろう。

(ビュレ族が殲滅させられた時もこのようだったのだろうか)

 傑が命じた過去の虐殺を思い返す。

 祖父と父たちの率いる一群が曄国の仕掛けた罠にはまり、少年だった猛爾元は掠奪民の一人として父共々捕まえられた。傑は掠奪を繰り返し、国境を侵し続けるビュレ族を見せしめにみなごろしにした。

(男たちが王宮で処刑される傍ら、草原ではこうやって女子供や老人が殺されたのだろうか)

 猛爾元の心の臓が早鐘を打った。呼吸が苦しくなって手綱から手を放し、口を覆った。

(俺は、俺が恨んでいたそのもの自体になってしまった)

 曄の反逆者の名を背負い、命を賭して同じ境遇の部族を救おうとは思わなかった。

 何よりも傑の気性を理解している猛爾元は、家族の身の危険を考えると徹底的に逆らいきれなかった。何をしでかすか分からぬ傑が恐ろしい。

(俺は己の守りたい二つの命と引き換えに、悪鬼に魂を渡したのだ……)

 子供が死んでいる。二歳そこらだろうか。手縫いの赤子の人形がすぐ傍に落ちていた。だが、猛爾元は拾って子供の手に戻そうとは思わなかった。そういった行為が傑の耳に入って責められる可能性があったし、何よりもこれ以上ブルキュットに感情移入してはならなかった。人形を拾い上げて子供の亡骸に抱かせてやれば、きっと己の子と重なり、途端に武人とし振る舞えなくなるだろう。

 心の中で祈りの章句を呟いた。一欠けらの意味もない行為だ。

 訳も分からず殺された幼子の魂が、例え魂が純粋だとしても、善き祖霊になれるはずがなかった。亡霊になって父や母を求め草原や砂原をさ迷い歩くに違いない。

 猛爾元は目を逸らした。手綱を牽いて叫ぶ。

「これより鳳都に帰投す!」

 兵たちの顔は、だが、全ての者が猛爾元のように無表情で、たった一日の一方的な戦いに憔悴している訳ではなかった。帰投ののちに見た傑の表情のように、反乱者・ブルキュットの見せしめに、正当な正義を遂行できたと輝くような眼差しをしている者さえいた。

(そうだ、俺は曄の将軍でビュレの将でも遊牧八部族連盟セッキズ・カビーレの将でもない。曄人から見れば未だ北戎は未開で支配されるべき野蛮な部族の集まりなのだ……)

 虐殺という名の戦勝報告に傑は満足してこう言った。

「たったひとりのために余に逆らえば如何なる末路が用意されているか、北戎の獣の頭でもしかと理解できたであろう」

 傑が猛爾元に皮肉を言った気はなかっただろう。だが、背後に控える文武百官は皮肉と捕えたようで、薄ら笑いが背に刺さった。

 いくら曄国に勝利を貢献しようが、王より大将軍を授かろうが、彼らにとっては獣の仲間なのだ。

 だが、傑の処罰を恐れてブルキュット族を殲滅する指揮を執ったのも、実際に弓を射たのも他でもない猛爾元自身だった。直接人を斬る剣ではなく、遠くから弓を射たのは少しでも罪の意識を遠ざけたいがための保身であった。

 斯様な夜にも傑は平気で召しの札を託してきた。気持ちを踏み弄られた気がして猛爾元は初めて召し出しを断った。

 拒否の返答に傑が激昂するならばまだ救いがあったのかもしれない。しかし、傑は何事もないかのように戦の疲弊だろう、と猛爾元の不敬を問う文官を退けた。



 藍を水で溶いたような影に町は染まっていた。

 諸色街しょしょくがいの自宅への帰宅は、部下の配慮に甘んじて馬車に乗り込んだ。

 いつもなら少数の護衛を連れて馬に騎乗して帰るのだが、今回ばかりは諸色街しょしょくがいの民の目をまともに見ることができない。

 既にブルキュット族討伐の噂は諸色街しょしょくがいの隅々に知れ渡っている。好きで選んだ邸宅の場所だが、留守中それが裏目に出ぬか心配であった。

「おかえりなさいませ」

 文玲が手提げ燈籠を持って邸宅の門前まで出迎えてくれた。

「遅くなりました。留守中不便はありませんでしたか」

「ええ、ございませんよ。ボルドは寂しがっておりましたが」

 猛爾元はほっと胸をなでおろした。妻の顔を見て、やっと身体を縛り付けた見えない縄が解けたような気がした。

「今はどこに?」

「寝台で寝ておりますわ。今日は肉売りの家の子たちとここでよく遊びましたので、夕食を頂いてすぐに眠ってしまいました」

「そうですか」

 邸宅は何事も起きていないかのように掃き清められ、閉じた箱庭の涅槃のようにすら感じられた。

 家の中に入ると、やはりここも何事も起きていないかのように出立前と殆ど変化がなかった。黄色い燈が燭台に灯り、白壁を照らしている。

 文玲に案内され、奥の寝台を見るとすやすやと規律正しい寝息を立てている剛の背が見えた。剛はぐっすりと眠っているようで、背中を撫でる侍女が猛爾元を認めて立ち上がろうとしたが、彼は人差し指を唇に当てて制した。

「女二人でよく留守を守ってくれた」

 侍女に声をかけると、侍女は畏まって手を組んだ。文玲が侍女に礼を言って今日はこれまでで良いと下がらせた。

 猛爾元と文玲は剛を挟むように寝台に腰を下ろした。猛爾元が剛を起こさぬよう恐る恐る背中を撫でる。成人と違って弾力があって柔らかい。細い背骨を掌でなぞってうなじまで撫でると、肌艶の滑らかなこと。何より生命の塊のように熱い。

「明日また顔を見せてあげてください」

 我が子を揺籃に運んだあと、寝台の敷物を整える文玲を眺めていると、猛爾元はふと彼女を抱きしめたくなった。

「ウルヤ」

 腕を掴むと剣の柄よりも細くて脆いような気がした。子供とはまた違った脆さだ。実際にはそんなはずはないがどうしてか不安になるほど細い。

「留守の間、俺がブルキュットの討滅に行ったことによって、不利益を被りませんでしたか」

 文玲は少し驚いた顔をした後で、優しく微笑んだ。

「心配してくださっていたのですね。でも何事も起こっておりません。旦那様が思っているほどこの街の方々はわたくしたちに冷たくはありません。勿論、万人がとはいきませんが、わたくしたちに危害を加えようと実行するまでの方もいらっしゃいません」

 それに、と彼女は付け足した。

「ドルジ、わたくし以外にもあなたがこの度の件を気に病んでいるとを知らないわけでもございませんわ。――お辛かったでしょう、昔を思い出すようで」

 文玲が自ずと近づいた。猛爾元は槌で胸を叩かれたかのように息ができなかった。文玲が猛爾元の頭を抱いた。すると、胸の内の様々な感情が堰を切って流れてきた。

 猛爾元は呼応するように文玲の腰にきつく手を回した。

「……抱いてもいいですか」

「いいですよ。あなたがわたくしを抱いて、わたくしがあなたを抱きしめて、少しでも心の傷に瘡蓋をはれるのでしたら。好きなだけ抱いてください。あなたの悲しみや恐れをわたくしは本当の意味で分かち合うことはできませんが、体と心だけはずっとあなたのそばにいますから」

 肩が温かく濡れた。文玲は慰めるように優しく撫でる。

 斯様な理由で妻を抱いていいものかと逡巡したが、文玲が髪を解き、つややかな絹に触れると、次の瞬間には彼女を下に敷いていた。今や猛爾元には彼女がこの世で一等たおやかな乙女に見えていた。

 文玲の腕が伸び、首元に頭を埋めると、また蓮花の甘い香りがした。蓮花の茎をつまんだ曄の女神のように、文玲は猛爾元の一切を許すのだった。

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