第5話
*
二年後に天還祭を執り行う、という勅を傑が出したのは猛爾元と文玲が夫婦になった次の年だった。勅は瞬く間に凰都に広がり、彼らが居を構えた
天還祭では猛爾元にも役割が与えられた。――
天還祭は五穀豊穣と天地平安を願う曄の重要な大祭であるため、この祭りの担い手に選出されることは大変な名誉とされている。祭りに必要な動植物を献上する家に選ばれたり、祭具を発注を受けたりすれば、数代に渡って周囲から尊敬される。まるで担い手たちそのものが選ばれし神の使徒であるかのように。
にもかかわらず、猛爾元にとって天還祭は気の進まない任であった。
(またあの大祭をやるのか。あれからもう九年が過ぎたとは……)
敢えて己を指名しなくとも良いはずだ、と猛爾元は考えていた。
傑は国家の一大祭祀において猛爾元を指名すれば、猛爾元は曄人だけでなく曄内外の異民族からも名声を得られるだろうと件の任を与えた。こういった場面で傑は露骨な寵を内外に隠さない。それに、前回の大祭では猛爾元の師でもある趙大将軍が守護役を務めたので順当な配役と言える。
だが、趙大将軍に扈従した天還祭で見た光景は猛爾元にとって思いもよらず許しがたいものだった。
天還祭は非常に原始的な形態の祭祀を古代から今に受け継いでおり、神への祈りの核心は生贄によって購われる。その生贄を曄は自国の民からではなく
というのも、天還祭は単に神に豊穣や平安を願うだけでなく、曄と
二人は曄の王宮、或いは祭祀の行われる郊外の禳州で神仕えの者として長い年月を過ごし、しかるべき祭祀が来れば、一年の神仕えを終えた後、祭祀の終盤に儀礼の名の通り「天に還」される。
仮に「天に還」し損ねた時、守護の出番が来る。
守護はつつがなく祭祀を進めるために、王の名代――即ち、天の名代として生贄を自らの手で還さねばならない。
猛爾元の出自であるビュレ族は
曄のいう「北戎」は広義には
広義の北戎は互いに同盟もしておらず、敵対関係は部族によってまちまちだったが、曄が関市を開く前から細々とした交易がなされていた。時に小さな集団が混乱や金品目的で諍いを起こすこともあったが、交易のある部族同士の関係性は概ね悪くない。そういった部族は、故に互いを遠戚と思っており、各部族の口承にも別の部族同士が共通の母神を持つといった神話がしばしば登場する。例えば、ビュレ族、ヨルワス族、ブグラ族は同じ母から生まれた兄弟で、故に肌の色を同じくすると神話では語られている。
遠戚を斬りたくない。斬られるのを見るのも嫌だった。
戦ではどれだけ人を殺しても、人が死ぬのを見ても平気だった。兵となって、兵として訓練し、兵として戦に出て、死ぬ。兵となった時点で死を覚悟する。ぼんやりとした輪郭でしかないが、確実に死が己の影を踏んでいることを自覚する。ふとした時にいつか唐突に己を襲う死を想う。戦場ではいつ来るかもしれぬ死になど思いは馳せられない。気付いた時には己の横に積み重なった死体は己自身なのだから。
猛爾元は己一人がそう考えているだけではないはずだと信じている。だから戦において兵の死を体感しても心を大きく揺さぶられることはない。
はじめ、猛爾元は任を固辞した。人が死ぬ点では一緒だ、と猛爾元に傑は冷ややかだった。
確かに人が死ぬという事実だけを見れば一緒だろう。だが、猛爾元にとって戦争と祭祀は全く別物だ。
まず、神官たちには生贄であることは伝えられない。神官教育の過程で死の概念は消され、神の懐に還る素晴らしい奇跡だと脳に刷り込まれる。過程では幻覚作用のある香も使われ、次第に、当たり前のように曄の賜った死を天への昇華と信じて受け入れるようになる。
だまし討ちのようで受け入れがたかった。
前回の天還祭で語らいあった遊牧民の弓の名手が真実を知って逃走し、趙将軍の放った部下によって斬られるのを目の当たりにした。
猛爾元は、表皮がいくら曄国に浸ろうとも、己を形作る血肉がまごうことなき“北戎”であると思い知らされた。そして、曄人は一欠けらの躊躇もなく北戎を殺すのだということも。
(何故俺をこの任に命じなさった。俺は“北戎”――まつろわぬ民で我が忠誠は疑わしいと皇上、あなたはご存じのはずだ!)
傑の命を猛爾元が一蹴するすべはなかった。
傑の指名が寵であるのは間違えないだろう。箔をつけようとしている節すらある。異民族でありながら若き将軍を大将軍の地位にまで上り詰めさせ、誰もが疑わざる人間にしようとしているのだ。
しかしながら、傑の寵は猛爾元にしかなく、彼を取り巻く人間は傑にとって道端の小石以下でしかない。それは娘の文玲に対してもそうだったし、きっともうすぐ生まれてくる彼女との子に対しても同様だろう。
固辞は認めぬ、との返答に対して、今の猛爾元は任を請け負わざるを得なかった。気性の荒い傑の反感を買って文玲と子に危害が及ぶのは何としても避けたかったのだ。
そんな彼の憂いを文玲は尋ねこそしないが、夜になるとそっとコタズ族の店で買った薬草を湯に入れて持ってくる。
「ドルジ様、一緒に飲みませんか」
薬と花の香りを混ぜたような、爽やかで甘い香りが鼻をかすめた。
顔をあげると黒々とした
「そうですね」
猛爾元は白磁の碗に手を伸ばした。同じ碗であるのに、己が持てば片手に足る小ささで、文玲が持てば細い両腕で支えねばならぬほど大きな碗に見えた。
薄緑の茶を一口飲めば、文玲は安堵したように微笑んだ。薬効のせいか、それとも彼女のお蔭か。今まで泥水に浸かっていたような心地が嘘のように消えた。
「今年も蓮花の蕾から薄紅色が見えてまいりましたわ」
「そうですか。楽しみですね。でもウルヤ、そろそろ甕を運ぶのは侍女にさせたほうが良い」
「できれば今年もわたくしがお世話したいのです。わたくしがお世話した花をこの子にも見て欲しいのです」
“ウルヤ”とブグラ族での名で呼ばれた文玲が愛おしそうに腹を撫でた。文玲の華奢な体に不釣り合いなほど前に突出している。まるで蓮の甕を腹に抱え込んでいるかのようだ。
「世話は充分になさったのでは? それよりもあなたがひっくり返りでもしたら大事です」
文玲はひと時、逡巡した。
「ならば別の願いをお聞き届けいただけますか?」
「いかなることでしょう」
「ドルジ様、遠乗りをしませんか」
「いけません」
猛爾元は呆れて即答した。
「気晴らしになりますよ」
微笑んだ妻に猛爾元ははっとした。
(俺はそんなにも暗い顔で日々を過ごしていたのか)
身重の妻が傍にいるにも関わらず、心はずっと二年後の天還祭と兵馬の調練のことを考えている。否、兵の男というのはそういうものではないか。曄の男もビュレの男も兵であれば変わらないはずだ。
そう思って再び否定した。
以前は相手の思いもよらぬ戦法で勝ち、戦果をあげるのが単純に痛快で楽しかった。北方や西方の敵に対し歩兵が主軸の曄で敢えて騎馬隊を率いているのはそういった面からだった。国を守るとか傑の期待に応えるとかそういう考えは今も昔もあまり考えていなかった。曄は己の国ではない、と思っていたからだ。
だが、己は今守りたいものがあった。目の前の女だ。国も地位も金品も何をなげうってでも文玲だけは守りたい。だのに、静かに寄り添い癒しをくれる妻を傍に置きながら、その実自分のことしか考えていなかった。
「身重で落馬しては大変です」
「わたくしの乗馬をご覧になったことはございませんでしょう。旦那様が想像しているよりもずっと上手に乗りますよ」
なかなか引き下がらぬ文玲に猛爾元は苦笑した。こういう性質は傑譲りなのかもしれない。それほど己を心配しているということでもある。
「ウルヤが何事も人より長けているのは知っています。だけど今はやめてください。私は子が生まれるのを楽しみにしているんです。子が生まれたら折を見て侍女に預けて必ず遠乗りしましょう。それまで安静に」
文玲が破顔した。出会った頃は表情に乏しい人だと思っていたが、ただ我慢強く落ち着きのある性格なだけで、本当は情感豊かな人なのだ。
「はい。わたくしも赤子を抱いたドルジ様を見るのが楽しみなのです」
くすぐったい言葉を躊躇せずに語る文玲に猛爾元は表情を緩めた。
蓮の花が黄金色のはちすを見せる頃、文玲は一人の男児を産んだ。
ボルド、或いは曄名・剛と名付けられた子は黒髪に褐色肌と両親の姿を半分ずつ授かった、足の力の強い子供だった。
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