第4話

 猛爾元が夜闇に紛れて文玲を迎えたのは二日後のことだった。

 婚儀における複雑な儀式はすべて省略された。傑を除いて婚前の礼を交わす親が共に他界しているためだ。婚儀の伝統で守ったことといえば、曄風に花飾りのつけられた馬車に乗って夕刻に花嫁を迎えに行ったことと、婿の家に帰るまで花嫁の顔に覆いをかけた点だけである。

 いつもは馬を走らせているほうだったが、今宵はしきたりに則って馬車の中に座った。傑の手配した馬車の車内は、座席から天井に至るまで牡丹や芍薬、胡蝶に鳳凰など様々な吉祥の花鳥画が施されている。繊細で、絵師はきっと楽園を想像して描いたのであろう。

 猛爾元にはこれらの絵が過剰に綺羅綺羅しく感じられ、馬車がより一層窮屈に感じられた。それでなくとも、慣れぬ盛装をして、花嫁を迎えるのに身が縮む思いでいるのだ。戦のほうが気楽だった。戦のほうが国を背負っているはずなのに、不安も緊張もこんな風に胸を押しつぶしはしない。

 猛爾元は鮮やかな刺繍が施された着なれぬ赤色の曄服の上で、ぐっと拳に力を入れた。



 婚姻を結ばないと文玲に伝えたのが数日前。であるのに、自分でも驚くほど嘘のような心変わりであった。

 家憩園かけいえんを共に歩いた次の日、文玲が遠沙に帰る日取りが決まったと挨拶に来た。

 聞いた瞬間、時が止まった。

 横っ面を叩かれたかのような衝撃が猛爾元を襲った。

 別れの挨拶は想像以上に猛爾元を空虚にさせたが、婚姻を拒否した猛爾元自身が何故と問うことは許されるはずもない。文玲が自分の部屋を訪うことはもうないのかと考えるとやるせない気持ちがじんわりとにじみ出てきた。すると、思いもよらない台詞が口をついていた。

「新居の予定を立てているのですが、宮外東北はどうお考えですか。移民街なのですが」

 思いつきでほら話を喋ったわけではなかった。

 以前から将軍を拝したのだから立派な邸宅を宮外に構えるべきだと四方から言われていたのだ。しかし、度々の遠征や身の丈、それに頻繁に傑に呼び立てられることを理由に長らく考えずに放っていた。

 文玲は首をかしげた。

「東北は主だった移民が八部族連合セッキズ・カビーレからでしたか。もしそうでしたら南北の要人邸宅街よりも猛爾元様には馴染みやすいかもしれませんね」

「そうですか。いくつか目星をつけているのですが、その、私ではなく、あなたがどう思われるかお尋ねしたいのです」

 己は何を聞いているのだろう。不思議そうな表情の文玲を目の前に、猛爾元は突拍子のない会話を止めることができなかった。

「わたくしですか? わたくしはむしろ移民の方々が多いほうが落ち着きます。遠沙の村では半数が定住ブグラの方々だったのです」

 猛爾元はほっと胸をなでおろした。そして、胸をなでおろした己に気付いた。

(ああ、俺は……)

 文玲が部屋にいるひと時は確かに居心地が悪かった。公主の前では例え自室であっても自由がきかないし緊張もする。加えて妙齢の女性が己と同じ空間にいるというのは何ともむず痒くもあった。

 けれど、彼女が嫌いかと聞かれればそういうことはなかった。

 彼女がいれば猛爾元は決まって居心地が悪かったが、同時に、彼女がいるだけでどこか心が落ち着いた。異民族であることの後ろめたさや孤独の影は営舎の仲間には癒せなかったが、文玲と共にいると、何故だか異民族であっても許された心地がした。それだけでなく、常に付きまとういくさに備えなければならぬという独特の緊迫からも解放された。

(とっくにこの人が好きなのに、どこかで彼女に失望されるのではないかと恐れていたのか)

 振り返れば文玲は何も恐れていなかった――少なくとも、そう振る舞っていたように思えた。

 ただ、もしも己と婚姻を結ぶのであれば彼女が可哀相に思えた。

 本来は王家に連なる名門の子息の元に嫁入りし、教養溢れる男を主人としたはずだ。そういう星の元に生まれている。だのに、彼女の父は曄で蔑まれている“北戎ほくじゅう”に嫁げと言う。将軍職にあっても曄人から見れば北戎は北戎なのだ。

「文玲様」

 猛爾元は膝をついて、強張った唇を開いた。

「私はビュレ族――曄風に言えば“北戎ほくじゅう”です。肌の色も髪の色も目の色も信じる神も違います。公主もご存じのとおり、皇上との関係もあります。きっと皇上が望まれる限りこの関係は続くでしょう。それに、いかなる地位にあっても私は軍人で、いつ死ぬとも限りません。家を長く開け、帰れない日が続きます。あなたはたったひとりで家を守らなければなりませんし、故郷の遠沙にも帰れません。私が影響するすべての不名誉をあなたは背負う羽目になります。それでも私の妻になって頂けるでしょうか」

 両手を握られた文玲は相変わらず無表情に見えた。が、一拍ののち瞳を潤わせた。

「どうして不名誉なのですか。あなたを想い、待つことを許される幸せが」

 そう言って、猛爾元の手を握り返す。

「わたくしのほうこそずっとお尋ねしたかったのです。わたくしは名ばかりの公主で、容姿も華やかでありません。垢抜けもせず、社交の場であなたに華を持たせることもできません。歳も公主の婚期をゆうに六七年は過ぎております。わたくしにできることは家事や繕い、それに掃除だけです。詩も歌も楽器も触れてきませんでしたから。わたくしは父親が曄の今上皇帝であるだけで、本当の姿は遠沙の田舎娘なのですよ。田舎娘が曄国の将の妻で良いのでしょうか。張門の別の王族の公主のほうが血筋しかないわたくしよりもずっとあなたに見合うのではないでしょうかと考えるのです」

 はじめて見る不安の色を映した顔だった。彼女は彼女なりに不安を押し隠していたのであろうかと思うと、細い肩を抱き寄せてしまいたかった。

「十分です。それ以上何を望みましょう。……私たちは似ているのかもしれませんね」

 猛爾元は口元に微かな笑みを浮かべた。互いに孤独の影を背負っている。帰るところも寄る辺もない二人が一緒になるのは必然であったのかもしれない。

「ふふっ、似ていませんわ」

 だが、一笑ののち、すぐに否定される。

「もし似ていましたら、わたくしはあなたをこんなにも想わなかったでしょう」

 猛爾元は文玲のいる場所がきっとすぐに居心地の良い場所に変わるだろうと予感した。互いの心が氷解し、距離が近付くにつれ。まるで固く閉じた蕾が温もりとともに花びらを覗かせるように。



 斯様にして今、花飾りの馬車が長慶宮から一番近い桃花門で文玲を迎え、外壁をぐるりと回り、王宮の正門である朱雀門をくぐる。

 曄では婚礼には赤を用いることが多いため、文玲も全身を真紅で包んでいた。

 上衣うわぎの襟の一部だけが白色で、全体に渡って金糸で刺繍と縁取りがなされている。首や耳には大ぶりな金の飾りをつけており、随所に紅玉髄、白玉、黒瑪瑙や翡翠があしらわれていた。馬車が揺れるたびに小さな飾り同士がぶつかり合って可憐な音を立てるが、肝心の文玲の表情は隣に座っているにも関わらず、真っ赤な覆いが被さって知ることはできなかった。文玲に付き添う杏鈴だけが神妙な顔つきで彼女を見つめている。

 婚姻の儀礼では覆いを外すまで一言も喋らないのが習わしであった。

 喋ると幽鬼に捕まるという伝説もあれば、嫉妬した女神が仲を裂きに来るという伝説もある。他にも音を発することで互いに一つの輪になろうとしている夫婦の縁に傷がつくという話もあり、どれも言い伝えの枠をでない。

 だが、巷では決められた婚姻が嫌で花嫁が別の人間があてがい逃げる事件が稀に起きるため、一言も声が聞けないと真に本人か心配になる。

 馬車は王宮を正面から一直線に走った。

 二人は婚姻を儀礼一般の執り行われる坤乃宮に入る。猛爾元が中で待つ傑に無事花嫁を迎い入れたことを報告する。傑は新たに誕生した娘夫婦が叩頭するのを満足げに見届け、祝いの宴を催した。

 宴は明け方まで続くが、猛爾元と文玲はしきたりによって途中で退席し、慣れた営舎のに向かった。

 急な婚姻の為、案の定新居は準備が間に合わなかった。

 故に、今しばらくは営舎を間借りするのだが、婚姻の夜は新郎の家に戻ってはいけないしきたりがあったので、特別に営舎の使われていない一部屋が空けられた。

 貴賓室のようなもので、通常皇帝や太子、或いは同盟軍の将が営舎に宿泊する際に使われる一室だった。門をくぐるとここで妻は夫に三度お辞儀をしてこれから家庭を共にする挨拶をした。

 猛爾元はやっと文玲の顔の覆いを取り、一日ぶりに視線を交わした。

 宴の際、儀礼で酒を交互に酌み交わしたせいだろうか。或いは、婚礼用の赤い曄服や薄化粧のせいだろうか。文玲の頬には朱がさし、伏せがちな瞼がぎこちなく猛爾元を仰ぎ見た。眼差しは熱く、素朴ないつもの姿からは想像がつかないほど妖しく色香を放っていた。額の花鈿がより一層強く思わせているのかもしれない。

「新婚の夜だというのに、いつもの営舎で申し訳ありません」

「いいえ。猛爾元様に断られることなく隣にいられるのですから、どこでも良いのです」

 猛爾元が剥ぎ取った婚礼用の覆いを衝立にかける。

「文玲様、猛爾元というのは皇上が名付けた曄での通り名なのです。私の元の名はナツァグドルジと申します。二人の時はドルジと呼んでもらえませんか」

「それでは、わたくしのことはウルヤとお呼びください。ブグラの方々が“文玲”を聞き間違えてつけた名前なのですが、わたくしはこの名のほうが気に入っているのです」

 微笑んだのが愛らしくて、猛爾元はまとめ上げた髪に差された花蝶の簪を解く。するりと細い肩に垂れた髪は絹のように艶やかだった。

「ウルヤ、これから末永くよろしくお願いします」

「はい。ドルジ様」

 髪をひと房、手に取って口づけした。

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