第3話

 しばらくの間、文玲は妃たちの住む長慶宮ちょうけいきゅうの一室を借り、杏鈴と寝泊まりした。

 彼女は毎朝猛爾元もうじげんが鍛錬に出る前に白湯を汲んでよこし、鍛錬が終わる時間にまた来ては背中の汗を拭くのを手伝う。食事が運ばれてくると退席し、膳が下げられると再び室に入って音楽を奏でたり、緋鮒に餌をやったりする。

 傍に宮女であるはずの杏鈴がついていながら、彼女よりも宮女のようなことをする。公主であるのに猛爾元など目下に過ぎない人間に奉仕する。風変わりというよりも、宮中の公主の行動としてはありえない。

 猛爾元にとって文玲の行動は不可思議であったし、また、自身が女の扱いに慣れていないため非常に気まずい。これが男であれば弟のように接するのだが、どうにも妹のように接することはできない。

「文玲様、御手を煩わせずとも私は一通りのことはできます。それに公主様に手ずからこのへやの管理をしていただくのは恐縮至極です。どうかお控えください」

 文玲は手箒で窓の格子を掃き清めていた。手は止まろうとせず、微かに埃を巻き上げた。昼下がりの白い光が文玲の顔と微小な塵をきらきらと照らす。

「わたくし遠沙では遠くの井戸まで水を汲みに行ったり、家の横の小さな畑を耕したりしていましたのよ。母は動けませんでしたので」

「杏鈴殿がいらっしゃったのでは?」

「いいえ、杏鈴は勅をいただいたのち、はるばるみやこからわたくしのもとにきてくださいました。色々と手助けしてくださってとても助かりましたの」

 猛爾元には何が言いたいのかさっぱり分からなかった。

(先日は遠沙に帰ると言っていたが、帰ると不便なのでやはりここに居たいということだろうか)

 凰都の暮らしが遠沙に比べて非常に容易い点に関しては否定のしようはない。現に猛爾元自身、北方の遊牧・掠奪生活に比べて、凰都の暮らしぶりが豊かで便利であると十数年の生活で身に染みている。此度も西方から帰還し、王都の営舎の簡便さの何たることかと感動したものだ。遠沙では、どれだけ戸締りをしても砂埃が戸の隙間を縫ってさざ波のように忍び込んでいる。生活にかける手間は遠沙のほうが圧倒的にかかる。

「ご迷惑ですか」

「えっ」

 手を止めて文玲がこっちを向いた。

「もし、いかばかりかご不快とお感じになられましたならおっしゃってください」

「いや、そうは思っていませんが自分のへやを、あまりよく知らぬ女性で、しかも公主であらせられるあなたに掃除していただくのは気が引けるのです。あなた方が私の室を管理なさらなくても掃除係はおりますし、私たちは夫婦の契りをしないのですから、公主が毎日この室へわざわざいらっしゃらなくてもかまわないのです。じきに長慶宮か別の宮が正式に住まいと認められることでしょう」

 猛爾元の困惑の色をよそに、文玲は小さな唇を緩ませた。おおよそ無表情な彼女の顔からはじめて見て取れた感情らしきものだった。

みやこに長くいるつもりはありません。ただ、今は手持無沙汰なのです。遠沙に帰るまでの数日だけこちらに通わせていただいてもよろしいでしょうか」

「……あなたが掃除をしてしまうと、掃除夫が公主に掃除をさせたと叱られるかもしれません」

「そうですか」

 文玲は手箒を窓枠に寝かせると、庭園と鹿の描かれた箪笥の上から木札を取り、猛爾元に手渡した。

「昼食の際、盆に載っておりました」

「えっ……。ああ、お手を煩わせます」

 手早く受け取ると木札に書かれた文字を伏せて文机に置く。

(こういうことがあるから他人をへやに入れたくないのだ)

 恐らく、文玲は木札――召しの札――の意味を理解していないだろうが、それでも女性にこの札を手渡されるのはきまりが悪い。己の部屋であるのにひどく居心地悪く感じてしまう。

「お聞きしても良いですか?」

「何をです」

 語気がひとりでに強くなったが文玲は気に留めなかった。

「緋鯉と対に置かれた鉢は何が入っているのですか」

 何を聞くかと思えばそんなことかと胸をなでおろし、

花蓮はなはすですよ」

「そうですか。夏が楽しみですね」

 また唇を緩めると幽鬼のように音もなく部屋を立ち去った。



 文玲は次の日も飽きずに営舎にやって来た。

 猛爾元は部屋に近づいてくる小さな足音を耳にした時、意外にも己が心の底から安堵したことに気付いた。明言を避けたとはいえ、暗にもうここには来てくれるなという言葉を投げたのだから。にも関わらず、変わらぬ足取りで彼女は部屋を訪れた。

「それはどうなさったのですか」

 文玲は手桶を抱きかかえていた。水の張られた手桶を愛おしそうに覗き込み、「後宮のかたにめだかをわけて頂きました」と笑った。

「花蓮の鉢に逃がしてもよろしいですか」

「え、ええ……」

 彼女の腕の中を覗く。透き通った身がこげ茶色の木目に紛れているので、よく目を凝らさねば分からないが、めだかが数尾泳いでいる。

 許可を得た文玲はめだかを優しく鉢に逃す。

「これからの季節、ぼうふらがわくこともございます。この魚たちが花蓮を害から守りますわ」

 そう言って、彼女は部屋の入口に置かれている花蓮の鉢を欄干のほうへ押し始めた。花蓮は日の光を養分とするので影になっている部屋の真横よりも良いと言う。袖をまくった腕はさながら公主らしく細かったが、大きな鉢を動かす手や足腰は慣れたものだった。本人の言の通り遠沙では身動きの取れぬ母親の代わりに様々な仕事をしていたのであろう。

(そういえば鉢の水も文玲様が替えてくださっていたようだったな)

 文玲の運んだ鉢の水面が揺れる。陽の光を浴びてゆらゆらと白い波紋が反射する。

 だが、今日の活動はそれっきりで、掃除も給仕も身支度の手伝いも彼女は手を出さなかった。それぞれの担当官が部屋に来ると邪魔にならぬよう場所をあけたが、いかにも肩身が狭そうだったので、猛爾元は彼女を誘って営舎周辺を散歩した。

 家憩園かけいえんという庭が営舎の南にある。

 もとは華陽園と言って、二代前の曄帝が築いた名園である。

 二代に渡り贅の尽くされた宴が催された場所であったが、傑の父母の代には乱痴気騒ぎのために使われ、曄皇家の汚点を代表する庭になってしまった。故に、父母を嫌った傑が営舎に住まう兵の家族のためにと下賜した経緯があり、名を家が憩う園と改めたのだった。

 この庭は往時のような細心の手入れはなされてはいなかったが、皇家の物であった過去を今に忍ばせている。皇家の者たちが人を招いて中央の乾乃宮から渡った通路は今や禁軍が有事の際、速やかに王宮内に渡る場となっている。また、小高い丘になっているため、王宮やみやこのようすを眺望することができる。隅に監視台が新たに築かれていた。だが、いくら眺めが良いからといって、女性を誘って監視台を勧めるのはさすがに不粋なので憚られた。

 二人で連れ立っていると、婚姻の噂が広がったせいであろう。しきりに視線を感じたが、はやし立てるような人物は現れなかった。

「こちらには軍の方々のご家族が住んでいらっしゃるのですね。わたくしはてっきり宮外に住んでいるのだと思っていました」

 回遊式の庭園の四阿あずまやから文玲はあたりを見渡した。

 家憩園かけいえんの迎賓館は営舎に改造されてから久しい。内装は往時を思わせるものはほとんどなくなり、外観と比べると質素である。

「王宮の外に居を構える者もおります。ですがそういった者はおおかた広めの屋敷を、王宮から比較的近い場所に構えています」

「長慶宮にはたくさんのご側室と公主がいらっしゃいました。父は皇帝ですので渡られぬ限り……、寵愛を受けぬ限り家族がともに過ごすことは少ないでしょうが、こちらでは軍役で遠くに行かない限りは家族がともに過ごせるのですね」

「そうとも限りません。ずっと詰めている者も少なくはありませんから。折角王宮内にへやが割り当てられても、近いけれど帰れないことだってよくあります。……文玲様は帰れなくて困りませんか」

「遠沙にですか?」

「はい。ご母堂を残されて来られたのでしょう」

「心配はありません」

「私も母を残して曄にやってきました。妹たちも。祖父と父が曄への叛逆罪で処断されましたが、私は皇上にお目こぼしいただきここにいます。故郷へ帰ったことはありません。母が生きているのか混乱のさなかに殺されたのか、それとも病を得て亡くなったのか、或るいは妹たちが生きているのかすらわかりません。今でも時たま、急に家族は健在かと思い出すのです。卑怯にもいつもは忘れているのに、です」

 文玲は直立していた猛爾元の右手を二つの手で包み、かぶりを振った。

「卑怯ではありませんわ。時勢は時に人を翻弄いたします。あなたも、あなたのご家族も、わたくしの母もただ翻弄されてしまっただけなのです。抗いきれない流れに逆らいきれなければ卑怯となりましょうか」

 卑怯だと認めてもらったほうが、猛爾元の心は傷つかなかったかもしれない。運命にされるがまま、抗わずに甘んじても良いというのは、一見励ましているようでいて憐憫ではないだろうか。

「哀れまないでいただきたい」

「哀れみません」

 だが、右手に落された視線が交わった時、彼女が全く猛爾元を傷つけてはいないのだと悟った。それどころか、添えられた両の手のように、彼女は寄り添おうとしている。彼女もまた、抗えぬ運命のもと遠い遠沙から凰都まで来たのだろうか。

「どこにその必要がありましょうか。人が懸命に生きてきて、それを卑怯だとか哀れだとか、ましてや不幸だとか、文字の通りの意味にのみ規定することはできません。白か朱かと決めつけることはできませんわ」

 文玲が微笑む。下弦の月のような目元が細められる。

 彼女は自身の半月の眼窩が不気味で人に不快を感じさせてしまうと言っていた。猛爾元は不気味とは思わなかったが、そう思う人もいるかもしれないと思っていた。

 けれど、それは彼女という人間からずっと目を逸らしているためなのだと分かった。彼女はその柔和な物腰やおっとりとした話し方とは対照的に鋭く観察している。その上で一切を許す。人は深く心や思考を切りこまれたり、大赦されることに慣れていない。

(そうか。廟に安置された曄の女神像に似ているのだ)

 砂漠の砦に現れた時、文玲が歩くたびに蓮の葉と花に囲まれたような錯覚に陥ったのはそういうことだったのだ。思慮深そうな眼窩は慈しみを湛えている。

 その晩、猛爾元は傑から文玲の母が既にこの世の者ではないことを聞いたのだった。

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