第2話
だが、乾乃宮の長い回廊を抜けて営舎に戻った時、それが己の一時的な逃亡に過ぎなかったことを悟った。
「どうしてこちらにいらっしゃるのです」
禁軍であてがわれた部屋の前に文玲と傍付の宮女・杏鈴がいたのだ。廊下に椅子を出し、二人して甕の緋鮒を物珍しげに眺めている。杏鈴は彼に気付くと頭を垂れた。
「城に入った際に武官にここを案内されたのです。ですが、勝手に
「そうですか……」
武官も勝手な真似をしてくれる。誰だか知らぬが、文玲のことは遠沙で沙汰がなかったため、ただ王命によって
もしかすると文玲自身が武官に自分は傑王の娘であり、猛爾元に嫁すため同行していると喋ったのかもしれない。或いは、杏鈴が説明した可能性も考えられる。
「
幸い整頓は得意なほうで、度重なる遠征もあって部屋は片付いている。西方将軍を拝命してからは四人部屋から一人部屋に移ったため、同輩によって散らかされる不満もなくなった。ただ寝に帰るだけの部屋だが、質素で清潔感があるほうが猛爾元には好ましい。
猛爾元は外套と剣を外すと、二人に席を進めた。藍で唐草が描かれた陶製の円卓に、紫檀の椅子。背には葡萄を食もうと頭を上げる鹿が白玉で見事に透かし彫りされている。
猛爾元は水瓶から冷めた湯を注ぎ二人に出す。文玲は礼を言って一口飲んだが、杏鈴は再三勧められたにも関わらず、椅子に座らなければ湯にも口をつけなかった。
「単刀直入に申し上げますが、私はあなたを娶るつもりはありません。元々生涯妻帯のつもりはないのです。遠沙からはるばる凰都へお連れして申し訳ないが、婚姻は無効とさせてください」
「皇上に真偽は確かめられましたか」
是とも非ともいわずに文玲は口元を袖で隠しながら湯に口をつけた。
「ええ。あなたは公主で間違いはないと。官に探させたのだと仰っていました」
「官が公主が見つからない故、別の人間を見繕ったのだとは思いませんか」
猛爾元は文玲の言葉に眉をひそめた。
「まさか――!」
可能性はある。猛爾元はじっと文玲を見つめる。
「正直なところを申し上げまして」
こと、と杯を置く音がした。
「わたくしにもわたくしが何者かは分かりません。ただ、母は昔この城の女官であったと言っていました。皇上のお戯れで一夜を過ごして授かったのがわたくしであったと。身籠った母は権力の渦に巻き込まれるのが苦痛で逃げだしましたが、男児であった場合を配慮されて城に連れ戻されました。ですが生まれたのが女と分かり、周囲は母への興味を失いました。母は官を辞し、やがて遠沙の地に辿り着いたそうです。ですから、わたくしは恐らく父とは一度も顔を合わせたことがありません。母は心を病んでおりましたので妄言かもしれないのですよ」
見つめ返された瞳には傑に対する怨嗟の色も悲愴の色も含まれてはいなかった。ただ淡々と事実を見つめる冷静さがあり、その奥にどこか同情じみた感情が昼下がりの木漏れ日のように揺らめいて見えた。
「どうしてそのようなご自分が不利益を被られるお話をされるのです。私があなたを娶らないと言っているだけでもあなたがたは十分に困ることでしょう」
「行軍で見たあなたはとても実直でした。ですから、もしも騙すことになったらさぞがっかりされると思ったのです」
「それは買い被りです。私はビュレ族ですから、曄人の兵から信頼を得るにはそう振る舞うのが妥当と考えているのです」
「けれどわたくしにはとても真面目そうに見えました」
文玲は猛爾元の言葉に頷くことも否定することもなかった。須臾の沈黙ののち、文玲はゆっくりと立ち上がる。
「どちらへ行かれるのです」
猛爾元は咄嗟に文玲の腕を掴んだ。裾の広がった袖の中に細い棒切れのような腕が潜んでいると誰が考えられただろうか。力尽くで引っ張れば壊れてしまいそうな感触に心が揺れ動いた。
「遠沙へ帰ろうと思います。馬をご用意いただけませんか」
「待ってください。皇上よりあなた方の処遇は私が仰せつかっているのです。せめて今晩は宿を用意します。それに――」
掴んでいた腕を放し、彼は言い淀んだ。
「遠い遠沙でも私は……、俺のことは有名でしょう? 聞いたことはありませんか。王の愛人だと。そんな男に妻を娶る資格など――」
ふいにほのかな温もりが頬に触れる。文玲の白い掌だった。
「わたくしの出生と同じであなたにも瑕疵があるのですね」
「おやめください」
文玲の小さな手を掴んで下ろす。二つの手を見れば白い手の上に、己の褐色の肌が重なっていた。似ても似つかぬ色の違いに猛爾元はより一層不釣り合いに思えた。
蝋燭の火が養心殿の格子を照らすのをもう何年眺めてきただろうか。
王の寝所で透かし彫りの水仙が壁面に大きな影を落とす。ゆらゆらと小刻みに揺れる花の影の横で、蝋燭の光は黒漆の衝立も螺鈿の家具も艶やかに色を撫でた。
猛爾元と傑の同衾は今や公然たるものであった。
はじめこそ異民族がのし上がるために皇上に色目を使ったのだと噂されたが、激情の、誰の諫言も聞き入れぬ王の心が唯一平安を得るのは彼が傍にいる時だけだった。周囲から見て明らかなる故、また、猛爾元は政は得手とせず、介入の余地がないと知れてからは誰もが二人の関係を許容した。
「
褥に寝そべりながら傑が尋ねた。「小宝」と幼子のように呼ばれたことにむっとしながら猛爾元は答える。
「二十八になります。皇上、もういい加減“小宝”と呼ぶのはおやめください。私はもう子供ではありませんよ」
床の脇に置いた白湯に布を浸す。絞って四つに畳むと彼は寝台の上の傑の腹を拭った。乾いた体液の跡が肌とは別の艶を帯びて照らされる。傑は腹や太腿を丁寧に拭き取る猛爾元を眺め、殊勝な笑みを作った。
「二十八の時、余にはもう数え切れぬほどの子女がおったぞ。貴様もそろそろ所帯を持て」
顎を持ち上げられ、猛爾元は手を止めた。
「それで漸く私との関係を清算される気になりましたか」
「健気なことを言うな。余と離れがたくなったか」
「ご冗談を。皇上の寝首をかく機会を逸するのかと思い、気になっただけにございます」
「ほう」
傑の眼差しに愉悦の色が混じる。
当時、曄に一族を滅ぼされた猛爾元――当時は真名であるドルジを名乗っていた――は傑の寝首をかこうと養心殿に忍び込んだ。だが、禁軍に入って間もない、細腕の少年だった彼は、傑に返り討ちにされた。それから同衾が始まった。
同衾を命じるかわりに首を取る機会をやる。そういうことで猛爾元は不承不承ながら夜伽に応えたのだった。
だが、傑の首を取れたためしはない。それどころかずるずるとこの関係は今に続く。
「その割には貴様は余の首を久しく取りに来ておらぬではないか。心変わりしたか」
「いいえ」
猛爾元の否定の語に、傑はどこか見透かしたように鼻で笑う。
「ならば貴様が所帯を持ったとしても、余の誘いには自ずと応じねばなるまい。機会を逸するは千年の悔いなるぞ」
「御心のままに」
「ふん、白々しいことだ」
傑が手を放すと猛爾元は再び布で腹や太腿を拭いはじめた。拭うという行為に戻ることができて内心安堵したのだ。刹那の間、傑と視線を交わすのが辛いと感じてしまった浅ましさごと拭き取ってしまいたかった。
乾ききった体液の残滓が白い肌色の上に仮漆のように膜を張り、布の下でぎゅっと引っかかった。
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