だ・かーぽ
可愛いうさぎ
だ・かーぽ
「……今日はごめん」
「ううん、仕方ないよ」
「そんな言い方すんな。あれは事故だったんだ。亜美が責められる理由はどこにもない。悪いのは、それをわからない、うちのお袋だよ」
「でも、お養母さんが反対するのも、亮介のことを考えればわかるから」
「そうは言っても、お袋のことを気にしてたら、いつまでも前に進めないじゃないか。大切なのは、俺たち二人がどうしたいか、だろ?」
「……うん、それはわかってる。……でも、私、お養母さんのことを無視して一緒になるのは、良くないと思うの。亮介をここまで立派に育ててくれた人なんだから」
「……わかった、亜美がそう言うなら、明日もう一度、俺一人で粘ってみるよ。お袋は必ず俺が説得するから。……また、連絡する。愛してるよ、おやすみ」
私も愛してる、そう電話口越しに伝え、私はスマホをテーブルに置いた。
どっと疲れが押し寄せてくる。
覚悟はしていたけど、今日は頭が痛くなる一日だった。
休日の土曜日、私は婚約者の亮介に連れられ、彼の実家に結婚の挨拶をしに行った。
でも、それは歓迎されるものではなかった。
私の過去には、決して消せない汚れがある。それは結婚して家族になるのなら、見過ごすことのできない大きな染みで、亮介もそのことを承知しているからこそ、事前にご両親に説明と根回しをしてくれていた。それでなんとか会うだけは会ってみるという話までこぎつけたのだけど、やはり二人は納得がいかないという様子だった。
ピリピリした雰囲気の中、私は緊張しながらご両親に自己紹介を始めた。二人はずっとムスっとしていた。そして、意を決して、あのことを告白しようとした時、お養母さんは私の言葉を遮るように、突然、でもはっきりと言った。
「関口さん、あなたと息子との結婚を認めることはできません」
――そこからは酷いものだった。呆然とする私を横に、亮介とお養母さんは、ほとんど罵詈雑言の口論を始めた。お養父さんの方は、積極的に私たちのことを否定しようとはしなかったけど、お養母さんと同じ思いでいるのは間違いないと思う。
結局、初めての顔合わせは最悪の結果に終わり、私は頭痛を抱えながら自宅にいる。
「辛いなぁ……」
これからのことを考えると、頭だけじゃなく胸も痛くなる。
「やっぱ、亮介とは別れなきゃ駄目なのかなぁ……」
婚約者の亮介とは、付き合ってちょうど一年になる。きっかけは、笑い話のような出来事だ。
ある日、近くの河川敷を歩いていると、ダンボールに入っている子猫が川に流されているのを見つけた。私は慌てて、その子猫を助けようとした。
でも、私より先に動いた男の人がいた。彼は川の中に入り、見事、子猫の救出に成功したけど、実はその子猫はただのぬいぐるみだった。たぶん誰かのイタズラだったんだと思う。まんまと騙され、びしょ濡れで肩を落としている彼の姿を見て、私は可哀想になり声をかけた。
「あの~大丈夫ですか?」
彼は少し顔を赤くして、頭を掻いた。
「いやぁ、本物だと思ったんですけどね。馬鹿だな俺」
怒る風でもなく、ただ失敗したと笑う彼に、申し訳ないと思いながらも、私も笑ってしまった。幸い、彼の家は私と同じで近くだった。ただ、びしょ濡れのまま一人で公衆の面前を通り抜けるのも心細く恥ずかしいだろうと考え、私は「よければ自宅までついていきましょうか?」と提案した。
「本当ですか? 助かります!」
彼は子どものように嬉しそうに笑った。それが亮介だった。
二十八歳、私より二つ年上の亮介は、優しいだけじゃなくて、真面目で頼りになる。彼の傍にずっといたいと思えるし、彼にずっと傍にいて欲しい。だから、亮介が私の過去を知っても、結婚しようと言ってくれた時は、死ぬほど嬉しかった。
でも、それだけに、私なんかが彼の傍にいるべきじゃないとも考えてしまう。
亮介のお母さんは正しい。彼は幸せになるべき人だ。――私とは違う。
ふいに、私は、彼女のことを思い出した。
彼女は、今、どこでなにをしているだろうか? 元気でやっているだろうか?
目を閉じると、まぶたの裏に、あの日の光景が蘇る。
もう十年以上も前、私が――両親を殺した、あの日の記憶。
そして――彼女と出会った、あの日の記憶。
――右手に重い手応えを感じた後、私は必死に手足を動かし、そこから抜け出した。
私に圧し掛かっていた父は、わき腹を押さえてベッドの上で苦しんでいたけど、やがて動かなくなった。彼の傷口からは、血が溢れ出している。
我に返った私は、自分が硬く握っている折り畳み式ナイフに視線を落とした。
ナイフを離そうとしたけど、指が動かない。まるで、右手だけが凍りついたようだ。
そのナイフは、私が幼い頃に死んだ、本当の父の形見だった。私のベッドで死んでいる男は、母の再婚相手だ。
母が再婚したのは二年前のことだ。養父は最初は優しい人だった。母が一人で私を育てることに苦労していることは知っていたし、彼が父親になることに不満はなかった。
でも、一緒に暮らすようになり、私は養父の本性を知ることになった。
偶然を装って、着替えやお風呂に入っているのをのぞいてきたり、下着を盗ったりするようになったのだ。――それだけなら、まだ我慢はできた。でも、だんだんと行為はエスカレートしていき、体にも直接触ってくるようになった。
もう耐えられなかった。私は母に相談した。でも、まともに取り合ってもらえなかった。なにかの勘違いだろうと、私が過剰に反応しているだけだと、笑った。
母の心情には薄々感づいていた。きっと母は、養父が自分よりも私に興味を持っていることを認めたくないのだ。
この家に味方はいない。その真実に私は絶望し、いつの日からか、父のナイフを部屋に置くようになっていた。
――日曜のお昼。母は急な仕事でおらず、家の中には私と養父だけだった。不安はあったけど、高校受験を控えていた私は、部屋に鍵をかけて勉強をしていた。後からすれば、家ではなく、図書館にでもこもっておけばよかったのだ。
流石に襲われるようなことはないだろう、という油断があった。それが間違いだった。いや、どうにしろ、いずれはそういう結果になったのかもしれない。
のどが渇き、部屋から出ようとした時だった。ドアを開くと養父が立っていた。驚きながらも「なに?」と私はたずねた。養父は答えず、凄い力で私をベッドに押し飛ばし、馬乗りになった。ゴツゴツと節くれだった手が、私のパーカーを巻くり上げる。
怖かった。なにをされるかわかっていたから怖かった。助かりたくて無我夢中だった。私は枕の下に隠してあるナイフを掴んでいた。そして――。
「……これからどうしよう」
養父の死体を前に、そう考えていると、ふと背後に気配を感じた。
母だった。仕事で家にいないはずの母が、入り口に立っている。
「……お母さん、私」
どうしていいかわからず、母に縋ろうとした。――助けてくれる、そう信じたかった。
「あんた、よくも! 殺してやる!」
まさに鬼女だった。鬼の形相で母は掴みかかってきた。その両手が私の首を締め上げる。
やめて、と叫ぼうにも声を出せない。振りほどこうと揉み合っている内に、私のナイフが母の手を傷つけた。母が怯んだ隙に、強く突き飛ばす。
ごん、という音がした。母はバランスを崩し、後頭部を机の角にぶつけていた。うっ、と呻き、そのまま崩れ落ちる。
「お、かあ……さん?」
返事はない。傍に座って心音を確かめてみる。――音はしない。
頭の中が真っ白だった。なにかの悪い冗談にしか思えない。夢でも見ているのだろうか? 朝になれば目が覚めて、元の生活が待っているのだろうか?
「……救急車、呼ばなきゃ」
ひょっとしたら、まだ二人とも助かるかもしれない。――いや、駄目だ。二人とも完全に死んでいる。どんな名医でも、蘇生させることは無理だろう。
「……警察、呼ばなきゃ」
人を殺してしまった以上、罪は償わないといけない。――それで、私はどうなるんだろう? 殺したくて殺したんじゃない。犯されたくなかった。殺されたくなかった。
それは捕まっても正当防衛というやつの判断材料になるかもしれない。でも、私が二人も、それも自分の両親を殺したという事実は、永遠に私につきまとう。
理不尽だと思った。あまりにも不公平だと思った。なんで私だけが、こんなにも苦しまないといけないんだろう。
「……逃げなきゃ、どこか遠くへ」
あれだけ離れなかったナイフが、手から滑り落ちた。
私は家中のお金を掻き集め、マンションを出た。
行く当てもなく歩き続ける。
心細くなる度に、パーカーのポケットの中のナイフを握り締めた。この状況を招いた、忌々しくもあるはずのそれは、なぜだか手放すことはできなくて、握ると心が落ちつく。
どれだけ歩いただろう。気がつくと私は、隣街までやってきていた。季節はもう秋だったけど、外はまだ少しだけ暑い。
喉がカラカラだ。私はコンビニに入った。水を買って店の入り口の端でふたを開く。一口飲んで、それは砂にこぼしたように消え、二口目には一気に流し込む。500ミリペットボトル一本が、一瞬で空になってしまった。
口元を手で拭い、ゴミを捨て、私はまた歩き始めた。
その時、けたたましい音がした。驚いて音のする方に目を向けると、赤いランプがこちらに近づいてくる。白と黒の車。パトカーだ。
心臓が止まりそうになった。血の気が引いて、頭がクラクラする。
どこか隠れられる場所を探すため、コンビニを振り返った。店の中に駆け込もうとしたけど、サイレンの音はすぐそこにまで迫っている。
このままだと店に入るよりも先に見つかる。
――駄目だ。間に合わない。
私は咄嗟に、駐車場に停まっている一台の空車に近づき、後部座席のドアに手をかけた。幸運にも鍵はかかっていなかった。
中へ飛び込み、ドアを閉めると同時に、座席の下へ潜り込む。
サイレンの音はもう、耳元で鳴っているみたいにうるさい。なのに、心臓がドクンドクン脈を打っているのが鮮明に聞こえる。奥歯がカチカチと鳴って、震えが止まらない。
「助けて、助けて、助けて、お願い、助けて!」
吐き気を抑えながら、「助けて」と念仏のように唱える。
「――そこの車、止まりなさい!」
サイレンに負けじと大きな怒声がして――私は、はっとなった。
「…………私じゃなかったんだ」
どうやらパトカーは、交通違反をした車を追いかけていたみたいだ。
考えてみれば、当たり前のことだった。誰かが家のことに気がつき、通報を受けた警察が事件として扱うまで、まだ時間はあるはずだ。
「……本当に馬鹿」
混乱していて、なんの思考も働かなかった。ただの勘違いだった。なのに、助かったと心から安心する自分がいて、それがまた私をみじめにした。
とにかく、ここから早く出ないと。持ち主が帰ってきて通報されたら、それこそお終いだ。私は体を起こし――そして、またすぐにうずくまった。
買い物袋を持った、若い女の人が近づいてくる。
車の持ち主だろうか? それにしては若い。今時キーレスじゃない車に乗っているぐらいだから、おじいちゃんが持ち主だと思っていた。
いや、また勘違いかもしれない。でも、この車内の香り――煙草のにおいに混じるこれは、芳香剤だけじゃなくて、香水のものだ。
――まずい、どうしよう。
迷っている内に、ドアが開く音がした。やっぱり、彼女が持ち主だった。彼女は鼻歌交じりに乗り込んでくる。――私は、ばれるのを覚悟で外に飛び出そうとし、止めた。
エンジンがかかり、車が動き出す。彼女は私に気がついていない。
ポケットに突っ込んだ右手の中には、冷たく硬質な感触があった。
「騒がないで。言うことを聞いて」
私はナイフを運転席の後ろから彼女の首に当てた。バックミラー越しに目が合って、彼女が心底驚いているのがわかる。
車は街を出るところだった。このルートは北陸自動車に繋がる。インターチェンジに入る前の交差点で信号に捕まると、この機会しかないと決心し、ナイフを取り出した。通りには警察署もあるので、我ながら大胆なことをしたものだ。
「……なにが、目的? お金?」
運転席の彼女は、震える声で質問してきた。バックミラーで彼女の姿を見る。長い髪は軽薄そうな茶色。化粧は濃いし香水もきつい。服装はジャケットと派手なマーブル柄のワンピース。夜の仕事をしている人のようだ。
「あなた、高速に乗るんでしょ? だったら、そのまま県を出て、行けるところまで行って。ずっと車を走らせて」
「……は? ……行けるところまでって言われても、困るんですけど」
それもその通りだ。ただ走らせろと言われても困るだろう。
「……宗谷岬。北海道の宗谷岬に行って」
「はぁっ!? 北海道の宗谷岬!? あんなとこまで車で行くっての!?」
彼女は信じられないという様子だ。自分でも無茶な要求だとわかっている。宗谷岬という行先は、日本最北端であることから思いついたもので、そもそも車で行ける場所かもわからない。でも、今の私には、他に思いつく場所がなかった。
「……いいから行って。刺すよ」
「わ、わかったって! 乗せてけばいいんでしょ! 乗せてけば!」
信号が青になり前の車が動き出した。「変な真似しないでね」と釘を刺してから、後部座席に座る。彼女は頷き、ギアを操作しアクセルを踏んだ。
そのまま走り、ETCを通って新潟へ繋がる高速に乗る。
――三十分ぐらい走った頃だった。
「ねえ、煙草吸っていい?」
彼女は唐突に、そうお願いをしてきた。最初の動揺はもう見られない。
この人は自分の立場がわかっているんだろうか?
たぶん、脳みそが軽いせいだろう。私は呆れながら、「勝手にすれば」と応えた。
「あんがと! ちょっとケムいかもだけど、窓は開けられないから勘弁してね」
彼女は軽い調子で謝って、片手だけで器用にジャケットから煙草とライターを取り出し、吸い始めた。
「しっかしさ、びっくりしたよ~。こんなこともあるもんなんだね~」
冷静というより、すっかりリラックスしている彼女に、私はカチンときた。
「余計なことは言わないで。黙って運転して」
なるべく声を低くして威圧しようとした。でも、彼女は図太い性格なのか、もう動じる様子はなく、煙草を吸い続けている。
「そんなつんけんすることないじゃん。宗谷岬に行きたいんでしょ? ちゃんと連れて行ってあげるからさ」
「……刺されたいの?」
流石に我慢の限界がきて、私はまたナイフを取り出し、彼女の顔の横でちらつかせた。
「口だけだと思ってるなら、それは間違いだから」
「……別にさ、あんたを舐めてるんじゃないよ。でも、わかってる? ここであたしを刺したら、あんたも死ぬよ?」
そう言って、彼女は速度計を目線で示した。針は120を指している。
私がなにも言えず黙っていると、彼女は煙草を取り付けの灰皿に押し付け、「秘密教えてあげよっか」と悪戯っぽく笑った。
「……なんの話?」
「実はね――あたし、最初から宗谷岬に向かっていたんだな~、これが」
は? と私は口を大きく開けた。彼女は笑顔のまま続ける。
「だからね、こんなこともあるもんなんだな~、って。神様って信じてないけど、こういうのを運命って言うんだろうね」
――ケラケラと笑う彼女の声が、私には外国の歌のように聞こえていた。
「……嘘なんでしょ?」
なにが? と聞き返してくる彼女に、私は「だから!」と声を荒げた。
「あなたも宗谷岬に行くつもりだったって話! 私を油断させるために、そんな都合の良いこと言ってるだけでしょ!」
「嘘なんかじゃないよ~。ほんとだってば」
「……ありえない。車で旅行する人はいるけど、だからって、こんな偶然……」
「ね! ありえないよね! だから、あたしもずっと驚いてんの!」
驚いているというよりは楽しんでいる様子で、彼女は私に同意する。――同意はしているけど、気持ちはちっとも噛み合っていない。
「……だいたい、なんで、宗谷岬に車で行くの? ただの旅行?」
こちらを棚上げにした質問だとはわかっていたけど、聞かずにはいられなかった。彼女は、それを指摘せず、「そいつが理由」と後ろ――私の隣あたりに指を向ける。
「そいつって、これ?」
隣には、白い布に包まれた、一抱えほどの箱があった。
「なにこれ?」
「それね、骨壷の箱。あたしの死んだ彼氏の骨」
え? と私はお尻を浮かした。そんな私の反応が面白かったのか、また彼女はケラケラ笑い出す。私はなにか叫ぼうとして、でも、なにを言えばいいかわからないから、席に深く座って頭を抱えた。
――一時間ぐらい走り続けただろうか。彼女はまたお願いをしてきた。
「ねえ、トイレ行っていい?」
私はそれを認めた。正直、私もトイレに行きたかった。
車はサービスエリアに入った。駐車場に停め、すぐに出ようとする彼女を、「待って!」と呼び止める。
「わかっていると思うけど……」
「はいはい、逃げないってば。心配なら、そいつを人質にでもしたら?」
彼女は骨壷が入っているという箱を指さす。私は顔をしかめた。
「あなたね――」
「ああ、もう、そういうの今はいいから! とにかくトイレ行かせて!」
漏れる漏れる、と彼女は車の鍵もかけず走り出した。
「あ、ちょっと! 待って!」
一瞬、逃げるかと思ったけど、彼女はまっすぐにトイレへ向かっていく。慌てて私もその後を追い――個室へと駆け込んだ。
二人して用を済ませた後、私は車へ戻ろうとしたけど、彼女に「こっちこっち」と袖を引っ張られる。連れて行かれたのはフードコートだった。
「お腹空いちゃってさ。あんたも食べるでしょ?」
「……私は、いらない。食べたくない」
「食べたくないの? でも、あたしだけ食べているってのも、見た目が悪いんだけど……。てか、育ち盛りなお年頃っぽいんだし、いくらでも入るでしょ」
ほらほら、と彼女は私の言い分も聞かず、カウンターの前まで背中を押していく。仕方なく私は、シーフードカレーを頼むことにした。
なぜだか、「おごるよ~」と言う彼女を無視して、サイフを開く。
「わおっ! お金持ち!」
サイフをのぞきこんでくる彼女に、「うっさい!」と体当たりして黙らせた。
席に着き、私はテーブルの上のカレーをじっと見つめている。それは二つあって、一つは彼女のものだ。彼女も同じものを頼んでいた。
「それでは、いただきます!」
「……いただきます」
私と彼女は、同時にカレーを口に運ぶ。
「「あ、美味しい」」
感想も同じタイミングだった。「これ美味しいね。美味しい」と彼女は繰り返し、私も「うん、美味しい」と頷く。
口に入れる度に、濃厚な魚介の旨みが広がって、鼻の奥にスパイスと潮の香りが通り抜けていく。サービスエリアの料理なんて、まずいものしかないと思っていたけど、これは本当に美味しい。凄く丁寧な味がする。
カレーが美味しいせいか、私は食欲なんてなかったのに、気がつくとスプーンを忙しく動かしていた。思えば、今日は水しか飲んでいなかったのだ。
あっという間にたいらげ、お腹が満たされると、だいぶ気分が良くなってきた。あんなことがあったのに、つくづく単純な奴だと自分でも思う。
ねえ、と私から、まだ食事中の彼女に話しかけたのは、疑問を聞くためだ。
「なんで、宗谷岬まで彼氏の骨を持っていくの? 彼氏って北海道が地元?」
ううん、と彼女はカレーを食べながら応える。
「違うよ。あたしと同じで福岡」
「福岡が地元なの? じゃあ、なんで北海道まで?」
「アイツね、海が好きだったの。だから、もし死んだら身寄りもないし海に骨を流してくれ、って頼まれてて。ま、車使っての旅行も目的だけどね。あたし車好きだから」
「それでわざわざ北海道まで? 死んだ彼氏のために北海道まで行くんだ……。本当に好きだったんだね……」
違う違う! と彼女は顔の前で手を振った。
「そういうんじゃないの!」
「北海道の海が好きだったんじゃないの? ほら、旅行先で感動したとか」
「旅行で感動したのは沖縄の海。さっきの台詞も、そん時に言われた」
首を傾げる私に、彼女は困ったように笑う。
「だって、素直に沖縄の海に流したらムカつくじゃん。せっかくなら、真逆の北海道、それも日本最北端の海に流してやろうって思ったの。アイツ、寒いの大嫌いだったし」
「……彼氏のこと嫌いだったの?」
「う~ん、どうだろう? 嫌いっちゃあ嫌いなのかもしれないし、そうじゃないかもしれないし……、ははは、よくわかんないや」
そういや、と今度は彼女から話を振ってきた。
「あんたの名前、まだ聞いてなかったね。あたしは、真壁樹里」
そういえばそうだった、と私も今更ながらに思う。
「私は、関口亜美」
「亜美ちゃんね。あたしのことは、樹里って名前で呼んでいいから」
「呼び捨て?」
「そ、呼び捨てでお願い。なにごとも、シンプルが一番!」
「やっぱ、この車、ボロくない?」
駐車場に停めてある樹里の車は、改めて見ると古臭い。ホワイトカラーの車体は角ばっていて、ヘッドライトも長方形。眼鏡をかけた真面目なサラリーマンのオッサンみたいな形だ。ところどころに細かい疵もあって年季を感じる。
そう私が言うと、樹里は細い眉を逆立てた。
「古いのは認めるけど、これ結構な名車なんだよ? トヨタのソアラ2800GTって言ってね……まあ、子どもには説明してもピンとこないか」
申し訳ない。ちっともピンとこない。――ふと、樹里が視線を外した。
「あ、見て、光の橋ができてる」
樹里が見ている方に私も目を向けると、たしかに光の橋があった。
このサービスエリアは海に面していて、ちょうど沈みかけの真っ赤な夕日が、静かな日本海の水面に、長い光の道を映しているのが見えるのだ。
じーんと心が痺れる光景だった。しばらくの間、私たちは言葉もなく見入っていた。サービスエリアを後にする頃には、もう月が昇っていた。
ほんとはね、と樹里は車を走らせながら言う。
「昨日の内に新潟に着いていたはずなんだ。でも、体調がどうしても悪くて、富山で休んでいくことにしたの」
「病気?」
「……病気、みたいなもんかな」
含みのある言い方だったので気にはなったけど、今はもう大丈夫そうなので、私はあれこれ聞こうとはしなかった。
新潟に着いたのは、夜の八時過ぎだ。今晩は市内のビジネスホテルで泊ることになった。二人部屋を借りて荷物を置くと、樹里は私を大浴場に誘った。でも、私は疲れていたから、「部屋のシャワーで済ませる」と断った。着替えは樹里が貸してくれた。
シャワーからあがり、体を拭いた私は、それを広げて途方に暮れてしまった。
「これ、本当に下着?」
樹里が貸してくれたのは、下着というには申し訳程度の面積しかない布だった。しかも透け透けの紫。どう履けばいいか迷った挙句、私は直接スウェットに足を通した。そもそも、洗濯済みとはいえ、他人の下着を履くことに抵抗がある。
シャワー室から出ると、樹里はまだ帰ってきていなかった。
私はベッドに倒れこむ。ふかふかの布団に埋もれると、意識が離れそうになった。それを堪えて、テレビのリモコンに手を伸ばし、観たかった番組にチャンネルを合わせる。
それはゾンビをテーマにしたアクション映画だ。
長く続いているシリーズの割りに、話は大したことがなく、携帯のメールを打ちながら観れるようなものだけど、私はこの作品の主人公が好きだった。だから、テレビで放映されると、映画館やDVDで観たものであっても、欠かさず視聴することにしていた。
主人公はアクションものには珍しく女性で、強く格好良く描かれている。
その姿は、私の理想だった。
映画を観ながら彼女になっているところを妄想することもある。
妄想の中で、私はゾンビや怪物をばったばったと薙ぎ倒していく。どれだけ倒しても、無限に沸いてくるが、これっぽちも負ける気がしない。銃で頭を打ち抜き、ナイフで切り裂く。私は無敵だ。誰にも負けない。自分の万能感に笑みが漏れる。
――でも、ある時、私はまじまじと見てしまった。ゾンビたちの顔。――それは、私の母と養父のものだった。
どこからか新たに沸いた何百人もの彼らが、口を合わせて叫ぶ。
「なぜ、殺した!」
――私は、悲鳴をあげて起き上がった。
ヒューヒューと息をし、額の汗を拭う。
酷い悪夢だった。テレビの番組は朝のニュースに変わっている。映画を観ている途中で眠ってしまい、そのまま朝になったようだ。
顔を洗おうと立ち上がり、そこで肝心なことに気がついた。
部屋の中を見渡し、「そんな」と呻く。
朝起きても、樹里の姿はどこにもなかったのだ。
――裏切られた。
ここに居ないということは、そうとしか考えられない。安全な場所から警察を呼んでいるはずだ。いや、もう呼んだに決まっている。すぐに警察官たちが乗り込んでくるに違いない。
私はサイフを手に取ると、部屋から逃げ出そうとした。
そして、ドアを開けた瞬間、正面から誰かとぶつかった。私は尻餅をつき、相手は私のおでこがぶつかった鼻を押さえて呻いている。――樹里だった。
「いったぁ~っ! 目から火ぃ出た! なに!? なんで急に飛び出してくんの!」
怒る樹里の顔を見上げながら、私は荒々しく息をする。
「だって、樹里がいなかったから……それで……」
「もしかして、あたしが逃げたと思った?」
頷くと、樹里は右手で頭をかきながら、ため息を吐いた。
「馬鹿だなぁ。そんなことするわけないじゃん……。朝風呂に行ってただけだって」
そう言った樹里の髪は、よく見ると水分を含んでいる。私も長い息を吐き、それから「そうだね、馬鹿だった」と苦く笑った。
――ホテルで朝食を済ませ、私たちは青森に向かった。
青森までの道は、平日の日中だと高速よりも国道を通った方が早いらしく、樹里はカーナビを頼りに、煙草を吸いながらハンドルを操作している。
私は助手席に座り、彼女と流行の俳優や歌、漫画、それに最近やっているテレビ番組などについて話した。少し前に深夜からゴールデンに移って方向性が変わったバラエティ番組への不満は、すごく盛り上がった。
「亜美ちゃんはさ、なんの部活に入ってんの?」
話は私の学校生活に変わっていた。向こうから振ってきたんじゃなくて、私が友だちや勉強の愚痴を言ったのが始まりだ。
「陸上。短距離専門」
「走るのが好きなんだ」
「うん、もう引退しちゃったけどね」
飽きっぽい性格の私だけど、走ることだけは三年間ずっと続けられてきた。
全力で走っている最中の、あの無心だけど高まる感じは、上手く言い表すことができないほど気持ち良い。特に、大会の張り詰めた緊張の中で走るのは最高だ。他の部員が大会では記録を落とす一方、私だけが練習の時よりも速かった。
また走りたいな。私は心から、そう思った。
車は新潟を抜け、山形に入っていた。窓の外では、青い日本海が清々しく広がっている。樹里が「海沿いを走ると気持ち良いね」と言ったので、笑って頷いた。
窓を開けると、潮風が髪を揺らし頬を撫でる。今日も暖かい日だったので、塩気は濃く感じた。でも、嫌いな臭いじゃない。生臭いけど、生きているって感じの臭いだ。穏やかな波の音が体に流れる血の音に似ているせいで、余計にそう思える。
更に車を走らせ、秋田に着くと、ちょうど道の駅があったので、ここで遅めの昼食をとることになった。
食べたのはホルモンラーメン。醤油スープに茹でたホルモンともやしが乗っている。さっぱりとしたスープとホルモンの甘い油がよく合っていて美味しかった。
でも、樹里はあまり気に入らなかった様子で、店を出ると「やっぱラーメンは、豚骨やないと駄目ばい」と博多弁で不満を口にした。
福岡人らしい感想と唐突な博多弁が変にツボに刺さって、私は声をあげて笑った。
腹ごなしに、私たちは隣にあるハーブガーデンを歩く。色とりどりの秋の花が咲く庭園の中、鮮やかな紫のセージが目につき、その色で昨日のことを思い出した。
紫の、あの布だ。
「貸してくれるって言った下着だけど、樹里はいつもあんなの履いているの?」
「そだよ。ああ、ちょっと派手だった?」
ちょっとじゃない、と突っ込もうとしたけど、やめておいた。相手の感性を否定することほど無駄で不毛なことはない。
三十分ほどぶらぶらと歩いて、私たちは駐車場に戻った。
車に乗り込み、樹里がエンジンをかけると、カーラジオが鳴り出した。それを止めて音楽を流そうとした樹里の腕を、私は素早く掴む。
「待って。このまま聞かせて」
流れてくるのは富山県であった事件を伝えるニュースだ。男性のキャスターが淀みなく詳細を読み上げていく。
「――富山県魚津市のマンションの一室で、男女二人の遺体が発見されました。亡くなられていた二人は、蒲生義武さん(四十二歳)と蒲生明子さん(四十四歳)です。金銭が奪い去られていることから、県警は押し込み強盗の可能性があると発表しています。発見したのは義武さんの同僚で、義武さんが仕事を無断欠勤し連絡がつかないことを不審に思い、自宅を訪れた際のことでした。なお、明子さんの連れ子である十五歳の長女が行方不明になっており――」
「ひょっとして、これって亜美ちゃん?」
ラジオを聞いている私の反応から察したのだろう、樹里からたずねられ、私は正直に「そう」と応えた。彼女は「そっか、まいったな~」と頭を掻く。困ったことがあると頭を掻くのが樹里の癖のようだ。
「……わけわりなのは察していたんだけど。てか、関口って、ひょっとして前のお父さんの苗字だったりする?」
「……うん」
「なるほど。……ねえ、無理にとは言わないけど、良ければ事情を話してくれない?」
うん、とまた小さく頷き、私は昨日の樹里と出会うまでの出来事を話した。
「――なにそれ! 完全な事故じゃん!」
話終えると、樹里は怒り出す。私の怒りを代弁してくれるようで少し嬉しかった。
「……でもさ、逃げたのはちょっとまずかったかもね。亜美ちゃんのイメージが悪くなって、ほら、ええと、なんだっけ? 仕方なく相手を傷つけたってやつ」
「正当防衛?」
「そう、それ! 正当防衛! それが駄目になるんじゃない?」
「……どうだろう。そこらへん、詳しくないからわかんないや」
ただ、と私は続ける。
「あのまま警察に自首しても、なんだか一生納得ができない気がして……」
「納得?」
「だって、やったことは消えないでしょ?」
ああ、と樹里は頷く。
「そうだね。許されるってのは、悪いことをしたって判子を押された後のことでもあるからね。やりきれないよね、そんなの……」
「……うん。でも、やっぱり人を殺すのはいけないことだし、自分がどうとかじゃなくて、すぐに警察の人を呼ぶべきだったんだと思う。なのに、私は逃げ出した。自分のことだけを考えて。……私ってサイコパスなのかなぁ」
「サイコパスってなに?」
「えっと、悪いことをしてもなんにも思わない人を指す心理学用語」
へぇ~、と樹里は言葉の意味を飲み込むように頭を揺らし、「でも」と首を傾げた。
「亜美ちゃんは、そういうタイプには見えないな」
「……そうかな」
「そうだよ。そんな子だったら、あたしだってとっくに逃げているもん」
そうかな、と私が俯くと、樹里は「そうだって」と肩を叩いてくる。
「そうだ! 思いついた!」
「なにが?」
「あたし、友だちにはニックネームつけることにしてんの。で、亜美ちゃんのニックネームを今思いついた。亜美ちゃんのことは、これからハカセって呼ぶね! うん、決定!」
はしゃぐ樹里に、私は何度もまばたきをした。そして、サイドミラーで自分の顔を見てみる。よく気が強そうと言われる顔がそこにあった。ハカセっぽくはない。
「なんで、ハカセなの?」
私がたずねると、樹里は「だって」と笑った。
「亜美ちゃんって、あたしより年下なのに難しい言葉も知っているし、それに思い込んだら一途ってあたりが、すごくハカセっぽい」
よくわからない理由で、あんまり良いイメージのないニックネームをつけられ、私は顔をしかめてしまう。
「……それ、他にはないの?」
「ない。ま、諦めてハカセでいてくれたまえ。人生、配られたカードで勝負するしかないのさ」
「なにそれ?」
「あれ、知らない? スヌーピーの名言の一つなんだけど。……あ、やった! スヌーピーに関しては、あたしの方がハカセだ!」
ガッツポーズを取る樹里に、私は不意を突かれて噴き出した。
「なにそれ! 変なの!」
「変じゃないぞよ? ワガハイはスヌーピーハカセじゃ」
樹里の変な芝居がかった台詞に、いよいよ耐えられなくなって、私はお腹を抱えて笑い始めた。彼女の方も、大笑いしている。
二人して笑って、笑い疲れて、それから樹里は「よし!」と気合を入れるように両手で自分の頬を叩いた。
「そんじゃま、行きますか! 宗谷岬!」
叫ぶ樹里に、私は「うん! 行こう!」と合わせた。
「樹里はさ、福岡ではなんの仕事をしてるの?」
「美容師だよ~」
「え、美容師なの!?」
「……そんな驚くことかなぁ。てか、この風呂熱くない?」
「そう? 私はちょうどいいけど」
青森の市内にあるホテルの大浴場。私と樹里は温泉につかっていた。
天然温泉つきということで、宿泊費はビジネスホテルに比べると断然高い。でも、樹里の「フェリーに乗るんだからパワー溜めなきゃ!」と毎度のよくわからないノリで、ここに泊ることになった。
「ハカセって、彼氏いんの?」
「……いないよ」
「え、まじ? 可愛い顔してるから、モテるのかと思ってた。ふ~ん、じゃあ、好きな人はいるの?」
少し間を置いて、「前はいた」と応える。
「一つ上の先輩。同じ陸上部。顔は良くなかったけど、走っている時のフォームが洗練されていて、でもダイナミックで、獲物を捕らえるチーターみたいだったんだ」
「チーター?」
「そう、チーター。格好良くない? チーターって」
「う~ん、あたしにはよくわからない世界。でも、たしかに、スポーツできる男の子って格好良いもんね。告白はしなかったの?」
「してない。先輩には彼女いたし」
あらま、と樹里は、口元に手を当てた。
「そりゃ残念だったね。恋愛って上手くいかないもんだ」
樹里は、と話を返そうとして少しためらい、でも言葉を続けた。
「彼氏とは上手くいってたの?」
あの時うやむやに流れた質問を、私はもう一度する。樹里は「上手くいってなかったよ」と、ぶっきらぼうに応えた。
「あたしの彼氏って、ろくでもない奴だったの。ほら、九州男児って最近よく言われるでしょ? まさにあれ」
「殴られたりしたの?」
「……たまにね。まあ、あたしも殴り返してやったけど! ただ、それも限界だったからさ、もう別れてやるって思ってたんだよね。なのに、あたしが言い出す前に、あいつ死んじゃったの。トラックにはねられて。それもさ、その理由がまた腹立つの。なにあったかわかる?」
ううん、と私は首を横に振る。
「道路に飛び出した子どもを助けるため、だって。それを警察の人から聞かされて、びっくりしちゃった。あとで、助かった子どものお母さんが泣いて謝りにくるしさ。ろくでなしの癖に体張って格好つけて、それで死んじゃったら世話ないよ」
やってらんないよね、と樹里は吐き捨てるみたいに言って、顔半分をお湯につけた。ぶくぶく息を吐いて、それからざばっと勢いよく立ち上がる。
「熱い! のぼせた! あたし、もう上がるね。ハカセはどうする?」
「私はもう少し入ってく」
「そ、じゃあ、おっさき~!」
ひらひら手を振る樹里を見送ると、私はゆっくり数字を数え始めた。
――お風呂から上がって、私は市内の衣服店で買った服に着替える。肩までの長さの髪は、ドライヤーですぐに乾いた。そして一緒に買ったベースボールキャップを深く被る。
あのニュースがあってから、私は外を歩くのが少し怖くなった。未成年だから顔写真はまだ公開されないだろうし、写真が回ってきた警察の人にしても簡単には見つけられないはずだ。でも、どうしても他人の目が気になってしまう。
この帽子は、そんな不安を和らげるためのものだ。
部屋に戻る途中、私はゲームコーナーに寄った。
特になにかがしたいわけじゃないけど、ぶらぶら見て回る。
「あ、これ」
目についたのは、一台のガシャコロだった。お金を入れてレバーを回し、出てきたカプセルを開く。その中身をつまんで取り出した。
サングラスをかけたスヌーピーが、私の顔の前で揺れている。
デッキの上では風がごうごうと鳴っている。
あいにくの曇り空だったけど、フェリーに乗ること自体が初めてだったので、私は気分が良かった。その横で、樹里が「うへぇ~!」と声を上げる。
「潮風で髪がばっさばさ!」
「やっぱ、美容師だから気になる?」
「美容師じゃなくても気になるでしょ。ハカセは短いし染めてないから痛みも少ないかもだけど」
「それに若いしね」
言ったなこいつ、と樹里が私の頭を両手でわしゃわしゃしてくる。
「ちょ、やめてやめて!」
「お、良い髪してんね。久しぶりにこんな髪に触ったよ」
私は樹里の手を払って、髪を撫でつけながら「ほんと?」と聞いた。
「ほんとほんと。伸ばせばいいのにもったいない。その方がモテそうだし」
「長いの邪魔だからやだ。それより、一回、樹里に切ってもらいたいかも」
「あたしに? いいよ。これでも腕は良いんだから」
むん、と力こぶをつくるポーズをする樹里を、私は笑った。
青森から出たフェリーは、私たちと車を乗せて、函館まで運んでくれる。だいたい四時間ぐらいで着くとのことだ。ちょうどお昼時になるので、樹里は「着いたら本場の海鮮丼でも食べますか!」と張り切っていた。
海鮮丼か、楽しみだな――そう思う一方で、いつまでも逃げ続けることなんてできるわけがない、と私の理性が冷たく笑っているのを、無視することはできなかった。
一度意識すると、さっきまでの楽しい気分が嘘みたいに消えて、憂鬱になる。
私は不安定な空と同じ気持ちになってきた。フェンスにつかまって下を見ると、暗く冷たそうな濁った海がある。
「……樹里は、宗谷岬に行ったら、それからどうするの? 福岡に帰るんでしょ?」
「ん? ……さぁ、どうしよっか。仕事は辞めたし」
「そうなの?」
「うん。部屋も引き払って、家財全部処理したの。で、それを旅費の足しにした」
「……それ、大丈夫なの?」
「だいじょぶだいじょぶ! なるようになるでしょ!」
そう言い切って、豪快に笑う樹里を見ていると、なんだか本当に大丈夫な気がしてくるから不思議だ。そんな彼女のおかげで、私のもやもやも、少し楽になる。
「樹里ってさ、なんか、格好良いね」
「え? チーター?」
「そっちじゃなくて! そういう自由な生き方が格好良いなって思ったの!」
言って恥ずかしくなってしまったから、私は樹里から顔を背ける。すると、彼女は後ろから私の頭をまたわしゃわしゃ撫で始めた。
「こいつ、嬉しいこと言ってくれるじゃんか!」
私はさっきみたいに樹里の手を払おうとはせず、撫でられるままにしている。――知り合って二日しか経っていないけど、私は彼女のことが好きだった。
私の話をちゃんと聞いてくれるし、頭ごなしに否定したりしない。初めこそ嫌いなタイプだと思っていたけど、今では彼女の快活さが心地良かった。
「……私のお母さんも、樹里みたいに優しかったら良かったのに」
――ふと、樹里の手が頭から離れた。
振り返ると、彼女は「ほんと嬉しいことばっか言ってくれるね」と陽気に笑う。
でも、一瞬だけ――たしかに樹里は、痛みに耐えるような表情を見せていた。
函館に着くと、予定通り、美味しい海鮮丼を出してくれる店を車で探した。
飲食店街で見つけたその店は、ちょっとボロかったけど、客の入りも良かったし、老舗っぽい雰囲気があったので、ここで食べることになった。
しばらく待って出てきたのは、海老にいくらに蟹にホタテと、たくさんの海の幸がこれでもかと乗っている丼だ。メニューを見ると、こんなに豪華なのに千五百円だったので、やっぱり本場は凄いな、と感心してしまう。
さっそく食べようと丼をつかみ――そこで樹里の異変に気がついた。
彼女は真っ青な顔に汗をたらして俯いている。
「……どうかしたの?」
「え? ああ――」
たぶん、大丈夫と言おうとしたのだろう。樹里は顔を上げて一瞬笑みを見せ、それから目を見開き、口を手で押さえながら、奥のトイレに駆け込んだ。
――結局、樹里は海鮮丼を食べることができなかった。
本人は船で酔ったと言っていたけど、それが原因ではなさそうだ。思えば、天気のせいでわりにくかっただけで、朝から顔色が悪かったかもしれない。
樹理にしても辛いのを誤魔化しきることはできないようだ。休んだ方が良い、と提案すると、それ以上強がる様子は見せず、早めから市内のホテルにチェックインし、ベッドで横になった。荒い息をする彼女は本当に辛そうで、私は心配でたまらなかった。
「……ねえ、やっぱり、普通じゃないよ。病院に行こ?」
「……大丈夫、寝てれば治るから」
「でも、良くなるようには見えないよ? 富山でも体調を崩したって言ってたよね? もしかして、なにか持病でもあるの?」
「……そういうんじゃないよ。ただ、ちょっと体調が悪いだけ」
「ちょっと、って……やっぱり病院に――」
「病院に行っても治らないから」
私の言葉を遮るように、樹里は強い口調で言った。私は驚くと同時に不審に思い、まさか、と考える。
「……赤ちゃんが、いるの?」
はっきり言って、それは全くの勘だった。でも、当たったようだ。樹里は横になったまま、静かに頷く。
私はなにも言えなかった。樹里もなにも言わなかった。
やがて、少し楽になったのか、樹里は体を起こし、煙草に火をつけた。彼女が喫煙者であることは知っている。でも、今の私は、その姿に凄まじい嫌悪感を抱いた。
「タバコ、やめなよ。赤ちゃんに良くないんでしょ」
「うっさいなぁっ! あんたには関係ないでしょ!」
樹里の怒声が部屋を震わせる。それは彼女が隠していたものの正体だった。
「……ごめん。急に怒鳴って。……でも、あたし」
何かを言いかけた樹理は、その言葉を飲み込み、頭を掻き毟る。
「……今晩は一人にさせて」
樹理はふらつく足で逃げるように部屋を飛び出した。
私は彼女を追おうとはしなかった。ただ、私に怒鳴った時の彼女の姿が、私を殺そうとした母に重なってしまい、それをどう処理していいかわからなかった。
そっと、服のポケットに手を入れる。
冷たく硬い感触は、私を安心させた。
朝になると、樹里が起こしにきた。まだ辛そうだったけど、昨日よりはだいぶ顔色も良い。別の部屋を借りて眠ったようだ。
私たちは、まず札幌を目指すことになった。そこで一泊し、次の日に稚内へ向かうという計画だ。札幌までは高速を使った。
道中、私たちは、ほとんど会話をしなかった。札幌に着いても盛り上がることはなく、ホテルにチェックインし、食事と風呂を済ませると、就寝することにした。
明日でこの旅も終わるというのに、ここでも私たちの会話はなかったのだ。
電気を消して真っ暗な中で、私は寝ようとしても寝れなかった。樹里の方も寝るのに苦労したみたいだけど、運転の疲れがあるせいか、今は寝息を立てている。
昨日の一件で、私は彼女が宗谷岬を目指す本当の理由がわかった気がした。たぶん、それは私と同じものであるはずだ。ただそれは、彼女一人の問題ではなかった。
どうしても、樹里と母の姿が重なってしまう。全く似ていない二人は、なのによく似ていた。――だから私は、起き上がり、ナイフを取り出した。
そして、彼女の傍まで忍び寄ると、胸の上に馬乗りになった。
私の重さに呻いた樹里が目を覚ました。
光はなくても、輪郭はわかる。彼女もそうだろう。ナイフを振り下ろそうとしている私に驚愕しているのがよくわかった。
「……あたしを殺すの?」
すぐに応えることはできなかった。私は「わからない」と首を横に振った。
「……樹里は、死にたいの?」
すぐに返事はされなかった。樹里は「わからない」と首を横に振った。
そうやって、互いになにもすることができないまま時間だけが過ぎ、私は大きなため息と同時に彼女から降りて、地面にうずくまった。
涙が、止まらなかった。――悲しくて悲しくて仕方がない。
泣き続ける私の肩に、樹里の手が優しく置かれた。
「今から、行こっか」
どこに、と聞かなくても、行先はわかる。それは、共通の目的地だから。
「……うん」
ホテルを出て、深夜の海岸線を、車は走っていく。
中学の頃ね、と樹里は語り出した。
「クラスでいじめられていた子がいたの。まぁ、その子も年の割りに変に冷めているところがあってね、そういうのが周りからすれば馬鹿にしているって感じていたのかな。だからって、いじめていいわけじゃないんだけど」
「仲が良かったの?」
「ううん、あたし日陰者のグループだったから、火の粉が飛んでこないよう絶対関わらないようにしてた。……でさ、あたしだけじゃなくて、担任の先生も見て見ぬ振りだったんだよね。だから、どんどんいじめは酷くなっていって、その子は結局、学校に来なくなっちゃった」
酷い話だね、と私は息を吐く。樹里は「だよね」と肩を竦めた。
「あたしさ、自分も無視してたくせに、先生があの子を助けなかったこと、許せなかったんだ。なんで大人なのに、いつも偉そうなこと言っている癖に、困っている子を助けないんだ、って。……でもね、大人になった今だからわかるけど、もしあたしが先生の立場だったら、やっぱ見て見ぬ振りするかもしれない」
そう言った樹里の声には、いつもの明るさはなくて、深い疲れだけがあった。だから私は」大人って辛い?」と聞いた。
「辛いなぁ……。どうしていいかわからなくなっちゃうと、いっつも逃げちゃうんだ、あたし。辛いよ、こんな自分」
樹里は笑っていたけど、泣きそうでもあった。
そんな彼女の横顔を見ながら、私は母のことを考えていた。考えて、それでもわからなくて、視線を遠くに向ける。暗い夜の世界に、私の目は別の光景を見ていた。それは父がまだ死ぬ前、家族三人で遊園地に行った時の思い出だ。
幸せってね、私は無意識にぽつりと言った。
「――お父さんが昔言ってたんだ。幸せって、虹みたいなものなんだって。箱にしまうことはできないし、いつかは必ず消えちゃうけど、また忘れた頃に現れて心を温かくしてくれる。だから、見逃さないよう下を向いてちゃ駄目なんだよって」
しばらく沈黙があって、それから樹里は「ハカセ今更?」と笑った。私もつられて笑う。
「本当に今更だよね。――あ~あ、なんで忘れてたんだろ」
宗谷岬に着いた時、辺りはまだ暗かった。
私たちは、じっと待った。樹里の手には、あの箱がある。
やがて、水平線の向こうが赤く染まり、空が藍色になってきた。炎が燃え移るように、藍色は奥へと追いやられ、一面が赤一色になる。
海辺では、カモメが飛んでいた。彼らの鳴き声とさざなみの音以外、なにも聞こえなかった。潮風が私たちの髪を揺らす。
巨大な丸いルビーが海に浮かんでいた。日の出だ。世界が劇的に始まる。
樹里は箱を掲げた。そのまま投げ捨てようとして、でもできなかった。
「バカヤローっ!」
箱を抱きかかえたまま、樹里は叫ぶ。
その声は悲鳴のようでもあったし、人が生まれてくる時のような声でもあった。
――朝になった。
私は目が覚めると同時に、腰の痛みに顔を歪める。
どうやら座ったまま寝てしまったようだ。袖には化粧がべったりとついている。たぶん、顔はおばけみたいになっているだろう。げんなりとしながら痺れる足で立ち上がり、風呂場へと向かった。
いつもは熱いシャワーを浴びると、だいたい憂鬱な気持ちは晴れるのだけど、まだ心は重くわだかまっていた。
濃い目のコーヒーを入れ、それを飲みながらテレビをつける。日曜の昼間に観たい番組なんてないけど、人の声がしていないと不安でたまらなかった。
私は、昨日の追憶、途中から夢になっていたそれを、改めて振り返る。
あれから、樹里は元気でやっているだろうか?
せめて、連絡先でも聞いておけばよかったのだけど、自首することを決めた、あの時の私は、それで頭が一杯ですっかり失念していた。
樹里ともっと話したかった。彼女の痛みをもっと理解してあげたかった。
恋人が不慮の事故で死に、その子どもをお腹に宿しているという辛さは、今だから共感できる女としての痛みだ。
私はテーブルの上に置いてあった車の鍵を持ち上げた。鍵には、古ぼけたキーホルダーがついている。
ぼんやりとしていると、私はテレビの向こうで驚くべきものを発見した。
うそ、と思わず声が出る。
それは、ゴールデンタイムにやっているバラエティ番組の再放送で、その回の特集は「リアル・タンポポ、有名料理店の女店主たち」というものだった。
その店主の一人を、私はよく知っている。ふっくらと肥え、昔の面影はもうほとんどないけど、それは間違いなく樹里だった。
彼女は北海道で豚骨ラーメン専門店の経営者になっていた。本州にもチェーン店をいくつか持っているそうで、料理人というより、ビジネスウーマンとしての側面が強く紹介されている。更に、彼女の私生活についても映像があり、また私は驚くことになった。
彼女には一人娘がいた。若い頃の樹里にそっくりな彼女の名前は――亜美、というそうだ。
しばらく呆然とテレビに釘付けになった後、映像がスタジオに戻ると、私はテレビのスイッチを消した。
それはきっとただの偶然で、これがあったからなにがどうなるというわけでもない。でも、私は「世の中ほんとに上手くできているもんだ」としみじみ思った。
こういうのを――運命と呼ぶのかもしれない。
夢を見ているような気分で立ち上がり、ベランダの窓を開いた。外は雨が降っていたみたいで湿気ている。そして、遠くには虹がかかっていた。
私は無性に笑えてきて「バカヤローっ!」と大声で叫んだ。
どうしても、叫びたい気分だったのだ。
だ・かーぽ 可愛いうさぎ @anal_kime_fuck
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