貌の無い仏と好事家な男

蜂蜜 最中

本文

 あの不気味な男との出会いから四年ほど経った。都の方は“明治”という新時代の到来に湧いているらしいが、この田舎だといまいちピンと来ない。新時代がどうとか、学の無い俺にはよくわからない。

 あの不気味な仏像は未だ俺の手元にあった。何度か捨ててやろうと思ったが、得体の知れない何かに祟られそうな気がして結局家の押入れの奥に押し込めた。

 この胸の内を晒せば薄情者と思う人間が大半を占めるだろうが、俺はあの出来事を忘れたいと願っていた。兄のことは残念だったと思う。だけど、それでも骨を拾いに行こうとか、憲兵に駆け込むことすら恐ろしくて恐ろしくて仕方なかった。あの、不気味に過ぎる影に、今度は己が食われてしまうのではないかと想像しては、あの醜悪極まりない姿が脳裏に過ぎってしまうのだ。


 ――――――――――――――――――――


 観柳の爺さんが消えた。

 その話を聞いたのは道場からの帰りがけに赤村屋で団子を食んでいる時の事。この辺で一番大きな畑を持つ百姓の男が看板娘のお鶴に話していたのだ。

 ここ最近、駿河殿の姿が見えないという話から始まり、病で伏せっているのではと心配した百姓の男が女房を連れ立って観柳の爺さんが営む質屋へ訪れると埃被った商品が彼等を出迎えたらしい。ただ事ではないと感じた彼等は観柳の爺さんが生活の場にしている奥の間まで様子を見に行くとひと組の布団が敷かれっぱなしになっており、掛け布団が抜け殻みたいに膨らんだままになっていたのだとか。いつしか百姓は「これは神隠しではないか」と宣い初め、終いにはひどく青い顔していた。


 嫌な予感がする。その話を聞いて同時に過ぎったのはあの貌の無い仏を渡してきた男のことだった。あの男は最初、駿河殿の話が聞きたいと言ってきたのではなかったか。

 俺は居てもたっても居られず、団子を一本と茶を残してその場を飛び出した。向かう先は観柳の爺さんの質屋。百姓の男の話を確かめるべく俺はその暖簾をくぐる。店内は男の言っていた通り確かに爺さんの姿はなく、商品は埃だらけでとても二、三日店を開けたような様子ではなかった。更に奥の間に向かうも、また然り。布団が抜け殻のように不自然に盛り上がっているだけなのだった。

 だが、それだけだ。それ以外特におかしなところがない。観柳はそこそこ歳の爺様であるが気性は荒い。いきなり襲われれば抵抗するだろう。それがたとえ、あの黒い物の怪であったとしても。

 不意にあの時の光景を思い出して強烈な吐き気に襲われる。あの出来事は今も瞼の裏に焼き付いていて、夜寝る時も思いだしてしまう程だ。おかげで今や明かりを消して眠ることができなくなっているくらいだ。いつかボヤ騒ぎになるかもしれないという恐怖もあるが、それよりもあの怪物のほうが俺にとっては遥かに怖かった。

 余りの吐き気に畳に手を付く。そこで気づく。枕元に一冊の本がある。恐る恐る手に取るとそれはどうやら観柳の日記のようで、開いてみると何気ない日常が記されていた。しかし、その日記の最期の方は何かに怯えるような言葉が書き記されている。正確には俺があの貌の無い仏を観柳に見せた日から。“無貌の神”、“不知火”、“波旬”。しきりにこれらの言葉を多用していた。

 そして最後、ふた月前の満月の日、ここで日記は途切れている。そこにはこうあった、


 “嗅ぎつけられてから四年経った。あれから音沙汰がないらしいが、奴は必ず街のどこかに潜んでいる。弥七も私も、いつ喰われてもおかしくない。だが、希望はある。凛堂りんどうとようやく連絡がついた。あれは術士として私よりも優秀な男だ。明日にでも弥七が受け取った像を持って発たねば。”


 どうやら観柳はあの仏像を持ってこの凛堂という男の元に行こうとしていたらしい。だが、観柳は俺の元を訪ねて来なかった。……つまり、そういうことなのだろう。

 ぞくりと背筋が凍る思いがした。俺自身も神隠しに遭うと考えると鳥肌が立って仕方が無かった。

 観柳はこの凛堂という男に希望を見出したようだ。ならば、俺がその意志を継ごう。俺は凛堂という男の住所が書き込まれた頁を千切り、あの貌の無い仏像を手にして、その日の内に町を出ることにした。


 ――――――――――――――――――――


 凛堂という男はここからかなり離れた所に住んでいるらしい。下関からひたすら東へと行かねばならず、気が付けば故郷を後にして既に十日が過ぎていた。船を使えばもう今頃帰路に着いている頃合いであったが困ったことに大した金を持っていない。それにこの仏像の処理でどれだけ持っていかれるかわからないので優雅な船旅とは洒落込めない。故に徒歩の旅を変えることはできなかった。

 しかし、それももう終わり。真新しい四角い建物と、夜中にあってなお明るい街。明治という時代が始まって三年――増えつつある西洋建築の建物が建ち並ぶ街。凛堂という男が住んでいるという街に辿り着いたのだ。

 悪夢のような日々がやっと終わるのだと歓喜して、疲れて棒のようになっていた筈の足が突如、羽のように軽くなったような気がして、走り出した。


 大きな屋敷があった。街の片隅にひっそりとたたずむそれは、定期的に手入れが成されているようで小奇麗ではあるものの、どこか薄気味悪さを感じさせる。だけど、あんな体験をしてきた俺にとってそんなものは最早些事でしかない。夜半過ぎに申し訳ないが、意地でも中に通させてもらおう。

 樫の木の大扉を力の限り叩く。すると中から声が聞こえ、白髪の老人が顔を覗かせた。黒い、燕の尾みたいな服を着た老人だ。彼に何事かと尋ねられ、仏像のことについて話すも彼は静かに「お引き取り下さい」と告げて扉を閉めようとする。

 そんな、待ってくれ。ここまできて引き下がれない。扉の間になんとか体を滑り込ませ、さらに言い募る。このままではおかしくなってしまうと、観柳の爺さんのように神隠しに遭ってしまうと。

 するとどうしたことだろう? 俺を叩きだそうと躍起になっていた老人はぴたりと動きを止めて「少々お待ちください」そう言って、奥へと引っ込んでしまった。それから数分と経たずして彼は戻ってくると俺に頭を下げて屋敷の奥へと案内してくれた。

 しばらく薄暗い回廊を歩き、ある部屋の前で老人は立ち止まると扉を叩くと中から「どうぞ」との声が聞こえてくる。

 老人に連れられるがまま部屋に入ると、

「君が駿河殿の言っていた仏像の少年か。となるとその手に持っている風呂敷の中身が例の仏像というわけかね?」

 一人の男が立っていた。ハイカラな衣服を身に纏い、西洋人みたいな赤毛の男だ。

「おっと、その前にそこのソファ――長椅子に掛けてくれたまえ」

 彼は薄く笑んで椅子に座るよう促し、言われるがまま俺はそこに腰を落ち着けた。きっと平時ならどこまでも沈んでいきそうな椅子の柔らかさや、棚や床に乱雑に置かれているものの見慣れない外国の調度品の数々に感嘆の声をあげていただろうが疲弊と仏像から発せられる怖気でそれどころではなかった。

「では先に軽く自己紹介をしておこうか。私は“凛堂薫りんどうかおる”だ。君は?」

「……“石動弥七いするぎやしち”」

「そうか、それでは早速石動君に聞きたいんだが、駿河殿が神隠しに遭われたのは本当なのかな?」

「はい、俺も、ほかの町民も二か月は顔を見ていなくて、家はもぬけの殻。商品も埃被っていて、戸締りもしていませんでした。それを確認しに行った時爺さんの日記に貴方の名前と住所が書いてあったんです。希望は貴方だと」

「……彼も私のことをいささか過大評価し過ぎだろうに」

 凛堂は僅かに渋い顔を晒して、老人の入れた紅茶を啜った。

「――ああすまない。駿河観柳殿とは古くからの知己でね。でもそうか、彼は神隠しに遭われたか。聞かせてくれてありがとう。それでは早速、その例の仏像をみせてくれたまえ」

 そう言われ、目の前の小机に貌の無い仏像を立たせる。

 彼は像を手に取り、神妙な面持ちでしげしげと眺めた。その様子を見守っていると、やがて凛堂は鼻を鳴らして像を小机に戻した。

「駿河殿からある程度聞いていたがやはりこれは阿屠羅菩薩――無貌の神のようだ」

「無貌……爺さんの日記もそうあった。こいつはいったいなんなんですか?」

「知らないのも仕方あるまい。これについて言及される仏典は妙法蟲聲經 みょうほうちゅうせいきょう のみ。その他の仏典には一切登場しない。恐らく仏道を歩むものですら大半の者は知らないだろう。問題はこれを私がどうにかできるかどうか、か。あれは気に入った人間を構って構って構って構い殺す節がある。果たして君から手を放すか……」

「そんな……!!」

 ここまで来たっていうのに、俺はこの像を持って帰らなきゃならないのか!? そんなの嫌だ。やめてくれ。こいつのせいで碌に夜も眠れやしないのに!! このままでは気が狂ってしまう!!

「そんな顔はしなくていい。できることはしてみるつもりだから」

 こちらの気持ちを知ってか知らずか、彼は柔和の笑みを浮かべて見せた。

 凛堂は仏像を持って庭先に出る。それを追うと彼は庭の一角になんとも楽し気な様子で線を引き始める。その線はやがて五芒星を描くと凛堂は最後にその中央の空隙に燃え上がる目のような印をつけて、最後に仏像を置いて見せると、

「下がっていなさい。何が起きるかわからないからね」

 とだけ言いつけるとなにやらぶつぶつと唱え始める。すると五芒星が輝き始め、目の輪郭、燃え上がる瞳へと光が伝播し、最後に光は仏を包むと、衝撃を伴って一際大きく瞬いた。

 衝撃に耐えきれず尻もちを着いた俺は瞼を焼く光が収まったところで目を開けるとそこには焦げた地面と、その中央に転がる砕けた像の姿があった。

 その様子に思わず感極まって両の目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。ようやくあの仏像から解放されたのだと、俺は闇を恐れずに済むのだと。


 ――――――――――――――――――――


 その晩、俺は凛堂の屋敷に泊めてもらうことになった。二か月ぶりの快眠をしっかり堪能して翌朝、俺は凛堂に報酬を支払いに行った。しかし当然、渋い顔をされた。当たり前だ。片田舎の百姓の手伝いで生計を立てている餓鬼なんぞに支払い能力はほぼ無いに等しい。全財産に加え父の形見の刀も渡そうとしたが凛堂は「子供だからよい」と言ってくれた。しかし、それでは気が済まぬと必死に食い下がる俺に根負けしたのか、凛堂はしばらく自分の小間使いとして雇うと言ってくれた。それが恩返しになるならと二つ返事答えたところ、燕の尾のような服をぴっちりと着込んだ白髪の老人が凛堂の部屋を訪ねて来た。……後ろに何者かを引き連れて。

「しばらく、石動君を小間使いとして雇うことにした。後で屋敷のことを教えてやってくれ」

「かしこまりました。それと旦那様、新しく執事として雇うことになっていた方が参りました」

「ほう、ようやく来たか。後ろの君だな? 入ってくれたまえ」

 凛堂が許可を出すと老人に引き連れられ、一人の男が入室してきた。

 腰に刀をぶら下げており、よく日焼けした健康的な肌をしているもののニヤけた貌が張り付いたような男。

 僅かに静寂が生まれ、そこに一つ、凛堂が吐息を零して一言、


「……なるほど、どうやら私も君も逃げ切れなかったらしい」





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