第7話 水先案内人《みずさきあんないにん》

 楽々ささの屋敷からさらに上にある崖の頂に髪をなびかせて百襲が座っていた。下には瀬戸の穴海あなうみが大小の島を囲い込んでいる。潮の満ち引きで島の数は変わり、流れも深さも変わってゆく。それを掌握している楽々一族には誰も容易に手は出せない。かといってここに長く留まることは出来ない。百襲はずっと鳥飛びを仕掛けていた。

「少しお休みください。身体が冷えます」

 ミツが後ろから声を掛け温めた汁物を差し出した。百襲はやつれた顔で微笑み器を両手で受け取り中を覗いた。

「あれほど容易かったことがまるで出来ない。そこいらの鳥さえ捕まらぬ。わらわのちからはあの磐座に取られてしまったのか……」

 そうつぶやく百襲にミツは、

「そんなはずはありません。身体を取り戻された時、ちからはちゃんとありました」

と、言った。百襲もそれは感じた。しかしもう何日も試しているが無駄なのだ。

「その……『鳥飛び』というのは恐ろしくはないのですか?わたしも時折鳥になってみたいなんて思うけど、その間身体はどうなるのか、また元に戻れるのかって考えたりしないのですか?」

 ミツは実際魂の無い百襲の身体や、身体に戻れず磐座に封じられた百襲を見ている。だから単純にそう思ったのだ。百襲は、はたと考えた。あの日蝕の日まで百襲は鳥飛びに恐怖を感じたことは無い。しかし、あの烏に移った時初めて恐怖を感じた。自由の利かぬ無力感。そして磐座の苦しさ。

「……ミツ、どうやらわらわは恐れているようじゃ。当分、鳥飛びは出来ぬであろう。なんとか大和に戻る他ない」

 百襲はそう言って汁物を飲み干すと、立ち上がった。日は傾き、東の大和の方角は薄赤く煙っていた。

 百襲は大和に帰る旨、ミツとフルナを連れてタリヒコに伝えた。タリヒコはいつもの座敷にちんまりと座っていた。

「承知致した。ならば船と水主かこを用意します。草香くさか辺りまでならお送り出来ましょう」

 タリヒコはそう言ってヨリヒコに目配せした。ヨリヒコは素早く座敷を下りて行った。やがて一人の男を伴って戻って来た。もう楽々一族には慣れているミツとフルナだったが、男を見るとなぜか総毛だった。男はヨリヒコの後ろに俯いて座ったが身体は一回り大きかった。タリヒコが言った。

「これは長子のモリヒコと申す者。一族の中で最も優れた水主でございます。少々変わり種ではあるが、必ず務め果たせましょう」

 ヨリヒコは身体をずらしモリヒコを百襲の前へ押しやった。それでももじもじして尻込みしているモリヒコの手に百襲がそっと触れた。

「ききっー」

 びっくりして叫んだモリヒコは、大きな猿になって歯をむいた。

 フルナも思わず犬型になり、背を丸めてモリヒコを威嚇した。その場が凍り付いたように緊張した。

「―――案ずるな」

 百襲は二匹の間に立ち双方の頭に手を当てた。すると二人は落ち着きを取り戻し人型に戻っていった。

「モリヒコが目前に変ずるは童の時以来。さすがは百襲様でござります」

と、タリヒコは首を揺らした。百襲は再びモリヒコの前へ座って、

「我らの案内、気が進まぬならよいぞ」

と訊いた。モリヒコは今度は真っすぐ百襲を見て、

「……いえ、承ります」

と、きっぱり言った。

 翌朝、まだ暗く狭霧さぎり立ち込める中、百襲らは出立した。船は来た時よりは少し大きく屋根が付いていた。フルナやミツの目にさえも船がどう進んでいるのか判らなかった。

「楽々の者は皆このような海を渡れるのか?」

 フルナが訊くと、ゆっくりと櫓を漕ぎながら

「この穴海の内なら容易き事。されどこの先播磨はりまを越えて行けるのは我のみにて」

と。続けてモリヒコは言った。

「我はかつて瓊瓊杵ににぎ王に付いて大和まで参った。幾度も転生したが、おそらく今生の務めが最後のお役目と存ずる」

 それは百襲に向かって言ったのだった。

「そなたは猿田比古さるたひこか。前世の記憶がしかとあるのだな。ならば宇受女を知っていよう」

 モリヒコはふと手を止めた。霧の中にある何かを見ようとするように目を細めて、やがて、

「……宇受は我の妻であった。だが添い遂げられず、行方知らずになり申した」

と言って、語り始めた。


 我は吉備のサルタの頭領、猿田比古と呼ばれていた。サルタは人のように農耕はせず、自然の恵みに頼って暮らしていたが、その頃から人は山を切り開き川の流れを変えたりして我らの暮らしを脅かし始めた。抵抗した仲間が殺されることも頻繁になり、その日も吉備王に物申しに窪屋に行ったのだ。

 屋敷の近くまで来たところ、笛や太鼓を打ち鳴らしながら伎芸の一行が西の街道からやって来た。七人の芸人の中でもひと際目を引いたのが宇受だった。抜けるように色が白く、つややかな髪。胸元も惜しげなく露わにして舞う姿を見て、我は目を離せなくなった。

 一行は賑やかに吉備王の屋敷に吸い込まれていった。我は物陰で猿型になり屋敷に忍び込んだ。門が閉ざされると音曲を止め、白い髭の鐘を撞いていた翁が言った。

「我らは筑紫の阿毎一族の者。吉備王にお願い申したき事ありて参った」

 屋敷の者はお互い顔を見合わせていたが、やがて屋敷の中から吉備王自ら出てきて、

「どうぞ、中へ入られい」

と、招き入れた。

 話を聞けば、その頃吉備王をはじめ豪族らの支持を得ていた出雲王を陥れる相談だった。我は吉備王が一も二も無く撥ねつけると思っていたが、

「少し考えたいので、三日後またおいでなされ」

と言ったのだ。出雲王の恩恵を受け、吉備はいろんな技術を取り入れ潤ったはずだ。おかげでサルタには良いことにはならなかったが、出雲を裏切るなど考えられない。我はここは勝負に出るべきと、阿毎の一行の後を追った。

 一行は小高い丘の上に幕を張り野営を始めた。それは手際よく、慣れたもので荷を下ろしている間に柴を拾いに行く者、水を汲みに行く者、かまどを作る者と言葉も交わさず成していった。最後に水晶の石を取り出したのは、あの舞手だ。柴の上に光を集めあっという間に火をつけた。

 我はそれを見てこれは戦で培われた習慣だろうと判った。阿毎一族の強大さは噂だけではなかった。

「そこのマシ(猿)や。何か用か?」

 女子がいきなり我に向いて言った。驚いて丘を駆け下り茂みに身を潜め息を整えた。しかし、そうしていても始まらぬ。我は人型になりまた丘を上がった。

 女子はかまどの火を回りながら踊っていた。他の者は幕内に座っていて、ついでのように鐘や太鼓であいの手を入れながら話しあっていた。女子は我を見つけると口を大きく開けて笑いながら手招きした。引き寄せられるように踏み出すとすかさず手を取り踊りに引き込まれた。女子の意のままに我は踊らされたが、魅入られたようにそこから逃れらなかった。

 舞い終わったとき我は幕内にいて阿毎の一行に囲まれていた。白い髭の翁が言った。

「何か良い話を聞かせてくれるのか」

 女子は我にしなだれかかり顔を近づけ笑った。我はうろたえながら、

「そのつもりで来た。先ほどの窪屋での話、我らサルタ一族が力になりたいと思う」

と答えた。女子はなおも首を傾げまじまじと我の顔を見ていた。

「ほう。穴牟遅王に不満か? なにゆえ」

と言ったのは、翁の隣の眉も髭も逆立った男だ。

「王の策を取り入れ、皆が山を荒らし田畑を増やし水を取り込むのだ。我らの暮らしは侵されている」

 翁は頷きながら

「されど王を排除したところでそなたらの暮らし向きは変わるまい。何を望む?」

と、言った。我は思い切って答えた。

「人として生きたいのだ」

 その場は一瞬静まり返った。そして、

「―――ははは……」

「くっくっくっく……」

「ひーっ、ひひひひー――」

と、笑いに包まれた。やはりと思った。所詮人外が人として認められようなどと言うのは物笑いの種にしかならぬ。

 我は顔を赤くして立ち去ろうと背を向けた。

「サルタには何が出来る?」

 背中に声を掛けてきたのは女子だった。振り返ってみると、女子は笑っておらず我の目を真っすぐ見ていた。

「サルタはあらゆる山、川、島、そして吉備の穴海を知っている。望むなら伊予いよ摂津せっつもその先も案内できる。行軍の道を造り均すことも容易い」

 我はきっぱりと言い放った。気がつけば笑いは止み、翁が進み出ていた。

「よかろう。我らが為に働いて貰おうぞ。しかし、人として生きるということはもうマシ(猿)には戻れぬし、人のしきたりの中で生きていくということ。それでも良いのか?」

 翁が言うことはもっともだった。このような大事を我だけで決めて良いものかと思ったが、どのみちこの地は誰かの支配下に置かれるのだ。それならばサルタにより良い立場を確保するのは今、この時しかなかった。

「―――よい。我らはこれより阿毎一族に子々孫々まで仕えよう」


 さして漕いでもいないのに、船は風を切りすいすいと進んだ。行く先が赤く染まり曙が間近なことが判る。モリヒコの顔も赤く染まっていった。


 われの話を本気で聞いた女子こそ宇受だった。宇受はその後我と共にいた。鳥に魂を移し阿毎からの指示を伝えこちらの状況を向うに伝えた。そうして阿毎は大和に拠点を築き穴牟遅王を三輪に封じたのだ。もちろん吉備王も阿毎に力添えしたが、サルタなしには成しえなかっただろう。

「約束は果たした。サルタに褒美を頂きたい」

 我は翁―――思兼おもいかねに言った。そこは畝山の麓の立派な宮の前だった。思兼が頷き合図すると百人くらいの若い男女が出てきた。

「これより先、人との交わりを許す。まずこの者たちを授けよう。サルタと交わり子の血は薄れ、さらに人と交わりいずれ人外ではなくなる」

 我らはその男女を連れて紀伊に地を得た。皆喜び、新たな暮らしに向かっていった。

 しかし我は空しかった。何年も一緒に働いてきた宇受とはもう会うこともなくなるのだ。皆、サルタ王の我に人を娶るように進言したが、宇受のことを想うと全くそんな気にはなれずにいた。

 ある時、白浜の夕日を眺めていた。宇受と初めて会った日を思い出しながら―――

「そこのマシや、何をしておる?」

 振り向くとそこには、首を傾げ目をきらきらさせて宇受が立っていた。思わず二歩、三歩と踏み出した我の胸に宇受は飛び込んできた。

「許しを得て参った。わらわはそなたの妻となる」

 我は宇受をきつく抱きしめながら、泣いていたと思う。

暫くはそれは幸せな日々を送っていた。しかし大和からお召しの使者が来た。

本来宇受は大和の日巫女になるはずだったが、嫁げば巫女の資格はない。それで宇佐から新たな巫女を迎えることになり、その引継ぎに斎宮に参れということだ。

「次の満月までには戻って来よう」

 そう言って笑って牛車に乗り込み行ってしまった。だがそれっきり宇受は満月を二度迎えても帰ってこない。それだけではない。日巫女には宇佐ではなく高千穂から迎えた日留女と言う者が就いたと知った。

 我は大和に行き思兼に目通りした。

「宇受は阿毎一族の直系。そなたとの婚姻が許されるはずもない。偽りを申したのだ。ゆえに筑紫に帰し罰を受けておる」

 その言葉の後にはもう何も訊いてはならぬと我は悟った。白眉の下の思兼の目は冷たい光を放っていた。

 それでもあきらめきれず、筑紫のサルタに行方を訊きに行ったが、判らなかった。

 そのまま歳を重ね、我は骸となった。魂は洗われ新たな身体に宿るはずだが物心つき始めると前世の記憶が鮮明に蘇るのだ。そして我の身体は何度転生しても人外だ。もう一族の中にほとんど人外はいないというのに……


夕暮れて舟は入り江に入り、モリヒコは一人で砂浜に押し上げ皆を下ろした。

「ここは明石だ。すぐそこに洞窟があるので休んでくだされ。明日には難波にお連れ致す」

 モリヒコはそう言って一行を洞窟へ案内した。そこにはすでに焚き火があって土鍋にはすぐに食べられるように汁物が出来ていた。まわりの皿にも果実や木の実が盛られている。

「誰がこのようなことを?」

 思わずフルナが訊ねた。

「楽々一族は鳴き声で風のように早く伝える。日巫女がお立ち寄りになるので仲間が用意したのだろう。犬飼部の犬吠と同じ」

 一同は座に着き夕餉を囲んだ。ほぼ食べ終わったころ百襲が口を開いた。

「そなたも気づいておろう。先ほどの話、宇受は陥れられたと。それを成したのはおそらく日留女であろうと」

 じっとモリヒコはみつめられ目を伏せた。

「だからといってその時我にはなすすべがなかった。我が阿毎に歯向かえばせっかく手に入れたサルタの未来はなくなる……そうだ。我は宇受を捨てたのだ」

 モリヒコはそう言って立ち上がるとゆらゆらと洞窟を出て行った。

ミツは何かやるせない思いで、

「わたしは人外として人目を気にして生きてきました。モリヒコの気持ちはよく判る。人として認められるなら何でもしてしまうかもしれない」

と言った。百襲は頷いてミツの手に手を重ねた。フルナはそっとモリヒコの後を追って出た。

 モリヒコは波打ち際の大きな岩の上に立っていた。フルナは音もなく影のようにモリヒコの側に行った。

「安心せい。阿毎一族へ恨みはない。約束は守られ今はサルタではなく楽々のかばねまで頂いた」

「わかっている―――だが宇受に会いたくはないのか? 姿は変わっているが窪屋に居るのだぞ」

 フルナもまたモリヒコの話に共鳴していた。人を愛してしまった人外として……。

「今はまだその時ではない気がしている。だが、いずれまみえる時に宇受を助けられるのは我しかない」

 二人はそれから何も語らず暫く夜の海の匂いを感じていた。


 次の日舟は速い海流に乗り昼過ぎには難波に入った。そこからは入り組んだ淡水湖に進み、現れては消える浮島や洲をよけながら暗くなる前に草香に着いた。見渡すかぎり草原のようだが地面は泥だ。桟橋は蛇のように長く草の上を這い続いていた。一行を降ろすと、

「我がお供できるのはここまで。百襲様、どうかご無事で」

と言って頭を下げた。

「そなたが今生の役目を果たされるよう願っている。タリヒコによろしく伝えよ」

 百襲はそう言って微笑んだ。一行は東に延びる桟橋を歩いて行った。夕日に照らされたその後姿をモリヒコは見えなくなるまで見送った。

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大神の実 乙無 良何 @chobiwan

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