第6話 疫病

 大和の斎宮では稚屋が一人明かりも点けず夜具にうずくまっていた。百襲が居なくなってから神託を拒み大王の渡りも断っていた。心細いが誰に頼っていいかさえ判らない。だが、宮女たちの話を漏れ聞くに、どうやら巷では流行病が広がっているらしかった。そうなるとますます荷が重く、気が塞ぐばかりだった。

 そんな中でも唯一の慰めはすずに話しかけることだった。

「このまま姉上が帰らなかったらどうしよう。みんなが病気で死んでしまうのに何もできないのなら、もう日巫女ではいられない」

 夜具からそっと枕元にいるすずにつぶやいた。すずは首を傾げてじっと稚屋を見つめた。稚屋はおもむろに身体を起こし、すずを腕に乗せた。

「他のことは出来ないけどお前ならわたしを稚武の所へ連れていけるかもしれない。水垣宮に来る途中、確かに稚武に会わせてくれたもの」

 稚屋は一心に稚武のことを思ってすずを朝の空に放った。


 その頃、稚武は屋敷の裏の斎宮跡にいた。流行病を警戒して子供達は家の外に出してもらえなかったが、稚武はもっぱら森や山が遊び場で遊び相手はアケルと獣達だったから不自由は感じない。ただ、伊佐勢理に付いて大王軍の調練に行くのが禁じられたのは面白くなかった。木切れで枯れ草を払いながら歩き、そのうちそばに付いている犬姿のアケルにちょっかいを出してじゃれ合っていた。ごろごろと草むらを転がっていたが、

「あれは、」

と下になっていた稚武が動きを止めた。アケルも止めて上を見上げた。鳥が頭の上を旋回している。

「ううう……」

 アケルが構えて唸った。稚武は立ち上がって目を凝らして鳥を見た。

「すずなのか?」

 稚武がすうっと手を差し伸べると、鳥は音もなく下りてきて稚武の腕に掴まった。

(稚武、わたしの声が聞こえる?)

 稚武は一瞬たじろいだ。

「稚屋……?」

(ああ、よかった。稚武に会えた。どうしていいか分からなくて、すずに乗って来たの。姉上が居なくなって、大王にどう言ったらいいのか……)

 稚武はとにかく稚屋がとても困っていることだけは理解した。

「わかったよ、兄上に聞いてもらおう。もうすぐお帰りになるから屋敷に戻って待って居よう」

 稚武はすずをそっと懐に入れてアケルを伴って戻った。

 屋敷の裏にはハクがいて柴を束ねて片付けていた。

「伊佐勢理の兄上は戻られたか?」

と問うと、

「いえ、先ほど使いを寄こされまして尾張の辺りで諍いがあり出向かれたようです。数日は戻られぬと思います」

と答えた。稚武の懐で稚屋はがっかりした。

 寝所の縁に座って稚武は懐からすずを出し手首に乗せた。稚屋は事の次第を稚武に話した。

(……わたし斎宮に帰りたくない。姉上が居られなければ神託は得られないもの)

 稚屋はすずに入って心底ほっとしていた。いくらしっかりしていてもまだ九歳。このような国難になすすべはない。

「いっそ大王に打ち明けたらどうだろう」

(だめ、姉上はあくまでも日巫女は稚屋としていた。大王や世間を欺いてきたとなればただではすまないわ)

 確かにそうなれば稚屋もいや、このことを知っていた庵戸宮の者すべてが罪に問われるだろう。

「……百襲の姉上を探すしかないが、烏が西へ向かった事しか分からないでは」

 稚武も稚屋も黙り込んでしまった。その時アケルが口を開いた。

「百襲様の御身はどこにあるのでしょうか?」

 すずが目を見開いて顔を上げた。

(姉上は吉備の山奥に御前を付けて守らせていると仰せだった。もしかしたらそこにおいでかもしれない。鳥飛びをしても魂はいつも正体に戻りたがるとおっしゃっていたわ)

「稚屋、そうだとしてもあてもなく探し出すのは無理だよ。兄上のお帰りを待ってから相談しよう」

 稚武は言い聞かせた。しかし、

(わたしは飛べるもの。それに姉上の気は近づけばわかる。一人でも捜しに行く)

と、すずの羽をばたつかせた。稚武は慌ててすずを両手で包んだ。

 稚武と再会して稚屋は本来の自分を取り戻していた。気が強い稚屋を止めることは出来ない。

「わかったよ。わたしも行く」

 稚武は決心した。

 それから夜になるまでの間、稚武は伊佐勢理に宛て百襲を捜しに行く旨を板書きにして寝所に忍ばせた。皆が寝静まって厨から食べ物と水を持ち出し、すずを肩に乗せ白犬のアケルと共に庵戸宮を後にした。

 一行はとりあえず吉備路を目指して、夜目の利くアケルを頼りに闇を歩いた。しかし辺りが明るくなり始めると身なりの良い童が一人で歩いているのは目立つ上に物騒であることに気づいた。疫病が蔓延する中、働き手を失い田も畑も荒れている。道端には飢えた民が力なくうずくまっていた。あるいはすでに息絶えた者は何一つ身に着けていないのだった。アケルが唸り周囲を睨みながら付いているので何とか無事で居られた。

「稚屋、空から別の道を探しておくれ」

 稚武はそう言って右手にすずを乗せ上へ放った。間もなく戻ってきて稚武の肩に乗ると、

(この先を右に折れたら人の気配は無いわ。でも道と言っても獣道よ)

と告げた。

「構わない。人より獣たちの方が安全だ」

 稚武は迷わず右へ進んだ。

 しばらく行くと上り坂になり、すっかり森に囲まれた。もう安心と腹ごしらえをすることにした。岩の上に腰を掛け、厨から持ってきた干し肉や饅頭を出して食べ始めた。

(稚武様、百襲様はしばらく美作の関に居られたので、そこから辿ることが出来るかもしれません。もう何年も前ですが御前のフルナがお供していれば犬吠に応えるはず)

 アケルは大和に帰って後犬飼部で成長したのだった。

(そうね、その道中にも犬吠していけば意外と早く見つかるかもしれない)

 稚武は饅頭を竹筒の水で流し込み頷いたが、夜通し歩いて今頃になって瞼が重くなっていた。稚屋はそれに気づいて

(少し眠るといいわ。わたしが見張りをしているから、アケルには夜起きていてもらう)

と言った。それからは稚武とアケルは夜の間に歩き昼眠るようにした。

 そうして五日ほど経った。山も深くなり道も険しくなっていった。水場で一休みしようと渓流にさしかかった時、アケルはふいに頭を上げ息を吸い込んだ。何かに気が付くと崖を駆けあがった。上弦の月があり稚武の目にもそこに何かあることが分かった。

 崖の上にアケルが見たのは人型の岩だった。片膝を付き何かを……誰かを見上げているように見える。

 稚武が息を切らして登って来た時、アケルは人型になりその石の膝に額を付けてすすり泣いていた。稚武は側に行きアケルの背をさすった。

「ここには大和の伊佐勢理様の従者タケルがおわします」

 石碑の側の公孫樹(いちょう)の木の後ろから声と共に一人の男が現れた。アケルは涙をぬぐい顔を上げ、

「では、あなたがイナオ殿。父の弔いをしていただき、ありがとうございました」

と言って立ち上がり、深々と頭を下げた。イナオは少し赤くなって何度か頷いた。そして後ろの稚武を見て目を見張り固まった。

「イナオ殿?」

 アケルが問うと我に返ったようで、

「い、いえ、このお方はただならぬ気を持っておられるようで……」

と、言葉に詰まった。

「もしやあなたも人外か?」

 アケルがそう言うとイナオはあやふやに目をそらした。

 稚武はイナオの側へ行き、

「わたしは伊佐勢理の弟、稚武という。アケルはわたしの供。あなたはわたしにとっても恩人だ」

と言って肩に触れた。とたんイナオは狐に変わりつぶらな瞳で稚武を見上げた。アケルは犬族以外の人外に会ったことが無かったのでびっくりして総毛だったが、すぐに収めて、

「大丈夫です。稚武様の前ではみんなそうなってしまうのです」

と言って、にっこり笑った。


 イナオは河原で火をおこし、暖かい汁ものを作り鮎などを焼い一行をもてなした。久しぶりの食事らしい食事をとりながら、百襲を探していることを知ると、

「その方のことは判りませんが、伊佐勢理様が大和に帰られた後美作は妙なことになっているようです。この丹波の裏街道を毎日のように兵隊が荷を運んで通ります。それがどうも美作から出ているようで、戦でもあるのかと思うておりました」

と、言った。稚武とアケルは顔を見合わせた。

「いったいどこへ行っているのだ?」

と稚武が訊いた。

「道なりに行けば山背に出ますがその先はどうも…… とりあえず朝になれば通るんでご覧になりますか」

 夜が明けるとイナオの案内に従い、一行は半時ほど歩いて轍(わだち)の残る道を見下ろせる崖の上で待った。その間にイナオがアケルに言った。

「あんたが吠えていたのが聞こえたんで様子を見に来たんだが、しばらく前に通りかかった仲間も聞きなれない遠吠えを聞いたとか。そいつは早島から渡って来たから、美作じゃあないな。もっと南の方だろう」

 アケルははっとした。犬吠は犬飼部の者しか使わない。

「いつ頃のことですか?」

 イナオは眉を寄せ、

「確か日欠け(日蝕)の前あたりか……」

と、答えた。アケルは稚武に、

「フルナは犬飼部にいました。その犬吠はフルナかと」

と言った。

「ならば百襲の姉上は美作には居られぬということか…… 南といえば吉備だが、広くて見当がつかぬ」

 稚武は気持ちが萎えたが、稚屋のことを思うとやはり百襲を探すしかない。

「大丈夫だ。アケルの犬吠にきっとフルナが気づいてくれる」

と、肩のすずに言った。その様子を見て、

「まさか、鳥の人外ですか? わたしは初めてお目にかかりました」

と、イナオは驚いた。

「違うのだ。これはわが妹が鳥に魂を移しているのだ」

「た、魂を……」

 さらにイナオは驚いていた。

「何か来たようです」

 アケルが声を潜めた。稚武も身をすくめ街道を見守った。

やがて馬車を牽き十人ばかりの兵が見えてきた。稚武が知っている大王軍や諸侯の軍とは違い、加和(かわ)羅(ら)(鎧)は皮ではなく金属のようだ。手にしているのも弓ではなく身丈ほどに柄の長い刃物であった。それらはあきらかに異国の様相だ。

稚武らは息をひそめて行軍を見送った。

「……何が起こっているのかわかりませんが、これはすぐにでも伊佐勢理様に、いや、大毘古様にお知らせすべきかと思います。稚武様」

 アケルがそう言うと、稚武はゆっくり腰を上げ考え込んだ。

(百襲の姉上はわたし一人で捜すから、稚武は今の兵の行方を突き止めて、大和へ―――)

「いや、」

と、稚屋の言葉を遮った。

「姉上を捜すにはアケルが必要だ。稚屋が大和へ帰り日巫女として神託するんだ。わたしが姉上をきっと見つけるから」

 稚武はそう言うと肩からすずを手の上に下ろし、じっと見つめた。

(……わかったわ。でも神託を下しても長くはもたない)

「ああ、信じて待っていてくれ」

 稚武は深く頷いてすずを放った。すずは高く舞い上がり三度円を描くと、行軍の後を追って行った。


 さて、稚屋が居なくなった斎宮では思わぬことになっていた。それまでも人目を避けてはいたが食事は取っていたのに、朝餉も夕餉も出した時のまま御簾もさえ上げていない様子に宮女は不安を覚えた。恐る恐る中を伺い倒れているのを見つけ、女官長ウキに告げた。普段なら薬師を呼び病を見極めるところだが、ここは斎宮。大王以外の男を日巫女に近づけることは出来なかった。そこでウキは在野の巫女を呼んだ。

「この御身には息はあれども魂がありませぬ」

 巫女は一目見るなりそう言った。ウキは、

「魂がない? されど息があるのなら亡くなられてはおらぬのであろうな」

と、確かめるように問うた。巫女は頷いて、

「やがては戻られようが、それがいつのことか、あるいはもう戻られぬということもあろうかと思います」

と言った。巫女は初老というところ、ゆるゆると立ち上がり、

「では……」

と御簾をくぐろうとした。

「待ちや、」

 ウキは慌てて巫女を引き留めた。

「もうこれ以上日巫女のご神託を得られぬでは済まない。大王からは毎日お渡りを望まれておるのじゃ。そなたは確かな巫女とみえる。ご神託をどうにか賜らぬか。頼む」

 なりふり構わず巫女の袖を引いて見つめた。巫女はしばらく口を結んでウキを見ていたが、やがて

「―――われなどが出来ることは限りがありますが、まずはここに祀られておる二つの神、天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)と大国(たいこく)魂(たまの)神(かみ)を分けて下され。日巫女と同じ歳、同じ血筋の御子にそれぞれ別の所に祀らせなされ。今日巫女の居られぬ時、力の強い二つ神を共に鎮められる者は居りませぬ。天照は南へ、国魂は北へ。早いが宜しかろう」

と言った。ウキは目を潤ませて何度も頷き、

「相分かった。同じ歳、同じ血筋……南と北へだな、うむ」

と言い、何度も口の中で繰り返した。巫女はその間にそそくさと斎宮を後にした。

 ウキは急いで稚屋と同じ九歳の皇女を捜した。といっても水垣宮以外の御子のことは詳しく知らないが、王宮には九歳になる二人の皇女が丁度いたのだった。豊鉏(とよすき)媛と沼名木(ぬなき)媛だ。ウキは次の日、印恵大王を斎宮に通した。

 細い渡り廊下を先導し、日巫女の御所に通し、大王が座ると下がり際にそっと、

「まだ日巫女は本復されておりませぬゆえ、御簾越しにお願いいたします」

と、小声で言った。印恵はうむと頷いて姿勢を正した。御簾には小さな影が座っていた。印恵が口を開いた。

「日巫女におかれては病を押してのおめもじいたみいる。されど疫病の蔓延と悪天候が重なり苦しむ民になすすべもなく、良きご神託を賜りたく参った」

 印恵は切実な眼差しで御簾を見つめた。少し間をおいて小さな細い声がした。

「……あいわかった。ここに祀る天照大神と大国魂神を斎宮から離すが良かろう。天照はここより南の地に、国魂は北の地にお移しするのだ。九歳になる媛をそれぞれに付け祀らせよ」

 印恵はいつもと違う弱弱しい声に少し戸惑ったが病み上がりのせいだと思った。それよりも具体的な神託を得られたことに何よりほっとした。

「承知した。早速そのようにいたす」

 印恵はウキの考えたように豊鉏媛に天照を、沼名木媛に国魂を託し笠縫邑(かさぬいむら)と穴磯邑(あなしむら)にそれぞれ祀らせることにした。

 そして誰より胸をなでおろしたのはウキである。眠っている稚屋に添え木をして座らせ後ろの屏風で若い宮女に神託を言わせたのだ。恐れ多いことではあるが、あの巫女の言ったことに間違いはないと確信していた。そうだ。確かに巫女は正しかった。ただ一つ言葉が足らなかったのだ。『女神は女子に、男神は男子に祀らせよ』と……。


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