第5話 立石の座(たていしのくら)

 三輪王と百襲は牛車に乗り、フルナはその傍らに付いて歩いた。幾日か進んでいくと、道はだんだん整備されてきてなだらかな山間には村が見え隠れするようになった。五十人ほどいた兵士らも次第に離れて行き、五人になった。村から上がる煙は煮炊きのものだけではない。つち打つ音と匂いから鍛冶をしているに違いないとフルナは思った。だとすれば鍛冶場を多く持っているここは出雲か吉備。しかし出雲に続く険しい山越えはしていない。広々とした丘陵からも吉備と察せられた。

 一行はやがて大きな村に入った。村の一番奥の小山を背にして高床式のひときわ広い屋敷が建っている。村を囲む塀とは別に塀で囲い門があった。まるで大和の王宮のようだ。村人たちは牛車が通ると土下座をして迎えた。屋敷の門を入ると扉が閉められた。

 恰幅のいい髭を蓄えた鯨面の男が下人数人と並んで出迎えた。フルナをちらっと見やり、降りてきた三輪王に恭しく頭を下げた。

「百襲媛を見つけられたよし、ようございましたな。宇佐より巫女を呼び寄せております。いくたま戻しの儀をいたしましょう」

 三輪王は下人達が百襲を丁寧に板戸に乗せるのを見守りながら、

「何から何まで整えていただき、つの殿には感謝いたします」

と微笑んだ。

 この男が吉備で最も権力を持つという窪屋くぼや一族の津兄であった。吉備の国造は一応高嶋氏ということになっているが、吉備は多くの氏族からなる特殊な共和制をなしている。自然災害が少なく肥沃な土地と豊かな海を持つ吉備は、互いに極力干渉しないことで氏族間の平穏を保ってきた。しかし、大和に対しては一国として国交するために高嶋氏を国造に立てている。大和建国から今まで背いたことは無かった。

 その吉備の窪屋氏が三輪王を匿っているのはなぜか? フルナにはその訳は判らなかったが、ただの親切心ではないはずだ。

 百襲はそのまま屋敷に上げられ三輪王はその後を付いて行った。フルナも上がろうとしたが、

「お供の方にはご遠慮願う」

と、家人が止めた。

「しかし、わたしのお役目で―」

と言いかけると小声で、

「お前は人外であろう、控えよ」

と咎められた。

「構わぬ。さあ、どうぞ上がってくつろがれよ」

そういったのは他でもない津兄だった。家人は渋々顎を引いて承知した。

 奥の広間には酒やいい匂いのごちそうが用意されていた。百襲は祭壇の前に降ろされそのそばの壁際にフルナは控えた。百襲の傍らには三輪王が、向かい合い津兄と弟の中津なかつつのおと。長男王丹おにが座った。

「三輪王、いや、もう穴牟遅王温羅うら殿と呼びましょう。まずは一献」

王丹はそう言って温羅の盃に酒を注いだ。その時初めてフルナは、三輪王の名が『温羅』というのを知った。王丹はまだ若く二十歳くらいだろうが、如才なく宴を仕切り歌や舞で場を盛り上げた。

そのうちフルナの側に来て盃を差し出した。

「さあさ、一人で素面しらふもつまらぬ。呑んでくれ」

 津兄の息子となれば無下にもできず、フルナは盃を受け取り一息で呑んだ。

「良い呑みっぷりじゃ、名は何という?」

 王丹は気を良くしたようでさらに酒を注いだ。

「フルナと申します」

 酒に細工は無いようだ。フルナはまた飲み干した。

「どうやらお前とは気が合いそうだな、フルナよ」

 そうやって王丹はフルナと酒を酌み交わした。最初は酔わせて前後不覚にするつもりかと警戒したが、フルナは酒に強く王丹の方が酔っていった。

 やがて宴も終わり、王丹が立ち上がろうとしてよろけたのでフルナは急いで肩を貸した。

「すまぬ……、そうだ、おまえにいいものをやろう」

そう言うと王丹は首に掛けていた玉飾りを外しひょいとフルナの頭に掛けた。するとみるみるうちにフルナは犬になり玉飾りはフルナの首を絞めつけた。

フルナはその場で意識をなくした。


「殺してしまえば良いものを王丹殿も酔狂ですな」

 耳障りなだみ声に気づき、目を閉じたまま耳を澄ました。湿った硬い処に横たわっているようだ。王丹の声がした。

「前から犬の人外が欲しかったのじゃ。宇受うず様、安曾あその件が済んでからでよろしいので忘我ぼうがの呪を施してください。我がしもべにいたす」

 フルナは動かずそこから王丹と宇受が去るのを待った。気配が消えてむっくり起き上がると岩屋に繋がれていた。首には玉飾りが掛けられている。かつて百襲がアケルにした呪がかかっている。さっきいた宇受と呼ばれていた老人がそうなのだろう。百襲と同格のかんなぎの仕業だ。

 フルナは鉄の格子から夜空に向かって遠吠えを始めた。

―――……―――

 声はしない。人の耳には聞こえない音で仲間を呼ぶ。長い間使わなかった犬飼部の業である。これで何がやって来るか、何も来ないかもしれない。だが、今のフルナに出来るのはこれしかなかった。

 もう空が白み始めたころ、ひたひたと足音が近づいてきた。うずくまっていたフルナがうっすら目を開けると、一人の下女が遠巻きに立っていた。微かな獣の匂いがした。

―――うるるる……―――

 低く唸ってみた。女は驚いて目を見開いた。フルナはじっと女を見つめた。女は震える声で、

「鍵がないのよ。助けてはあげられない」

と言った。フルナは目で自分の首を見た。女はこくこくと頷いて、格子の隙間から手を入れてフルナの首から玉飾りを外した。フルナが人型になっていく姿に女の視線は釘付けになった。しかしふと我に返って、女は急いで立ち去ろうとした。

「まて、礼を言う。お前が人外だとは誰にも言わぬから安心しろ」

 女は振り返り絞り出すように言った。

「わたしは人外じゃない。ただ声がしたから気になって見に来ただけ。犬になったりしない」

 しかし、確かに女は怯えている。

「わたしの声が聞こえたのだろう。ならばそうなのだ」

「わたしは違う! わたしは……」

 女は自分の身体を抱いてその場に座り込んで泣き始めた。

「人に紛れて暮らしている者もいる。しかしお前ははっきりと自分が何か知らないのだな」

 女は俯いたまま落ち着こうと息を整えた。

「……本当に意識して犬になったことは無いの。ただ、十二歳を過ぎたころから野を駆ける夢を見て、目が覚めると寝床に獣の毛があったりした。怖くて誰にも言えなかった」

「親は知らないのか?」

 フルナは優しく訊いた。

「子供の頃にここに連れてこられて覚えていない……」

 フルナやタケル達のように一族として血を継ぐ者は恵まれているのだ。人の中で身を潜めて生きなければならない者がどれほどいるのか。彼らは人外というだけで差別され蔑まれる。

「わたしはフルナだ。お前の名は?」

「ミツ」

 初めて自分と同じ者に出会ってミツは安心したようだった。

「わたしは日巫女を守る御前というお役目を大王から仰せつかっている。宴の席に横たえられていたお方が日巫女、百襲様だ。あの方は今どうされている?」

 ミツはしっかりとフルナの話を聞いた。

「三輪王が寝所にお連れしていました。なんとかの儀? まではそばに置くとおっしゃって」

「生魂返しの儀か……」

 本当にそれをする気なら満月の夜でなければならない。だが、百襲の魂を身体に戻し温羅と結びつけたところで、津兄になんの利があるのか。そのためにフルナを閉じ込めたのはなぜか。フルナにはその意図が分からない。

「ミツ、百襲様と三輪王を注意して見守って変わったことがあったら教えてくれ。わたしの代わりにお役目を頼みたい、いいか?」

 ミツは顔をほころばせた。

「わたしなんかでフルナの役に立てるなら」

 満月まであと三日ほどだ。

フルナは玉飾りを繋いでいた糸を解き自分の髪の毛で作り直した。これで玉飾りを掛けていても自由に人型になれる。ミツは毎晩フルナの処へ来た。百襲には変わりはなかったが、窪屋の内情なども話した。

 窪屋が出雲と頻繁に行き来しているらしいことや、大和や大和に付く高嶋氏に不満らしいことなどミツは知る限り詳しくフルナに伝えた。フルナの役に立つことが誇らしく嬉しいようだった。やがて満月の夜を迎えた。しかし生魂返しの儀は行われなかった。

 次の日、いつも人目を忍んで夜更けに来るミツが、夕暮れ時にやって来た。フルナの側に身をかがめ、

「三輪王が中津兄様に呼ばれてお出かけになり、百襲様はお独りになる」

とそれだけ言うと足早に去った。

 今宵は月の無い新月だ。生魂返しはできない。闇夜の中でなされる儀は禍事まがことであると百襲から聞いた事がある。何とかしなければと人型になろうとした時、また入り口のこもすだれがめくられた。フルナは人型になるのを止めた。裳裾を引きずりながら老婆が入って来た。巫女の宇受だ。手には香炉を持っている。

「見えずとも耳も鼻も良く利くのであろう。何も知らぬがうぬが為じゃ」

 そう言って宇受は香に灯明の火を入れ香炉を置くと、すぐに袖で口を覆いそそくさと出て行った。

(―――宇佐の巫女…… 一筋縄ではいかないようだ―――)

 香の香りは狭い岩牢を満たしてフルナは考えることができなくなった。


 その夜、津兄の屋敷から松明を掲げた一行が、むらはずれの小山に向かって行った。そこは立石たていしくらと呼ばれ普段には四季折々の神事を行う場所だ。ミツのような下女は到底近づいてはならない。しかし、その一行が百襲の身体を恭しく寝台に乗せ運んでいれば目を離すわけにはいかない。ミツは闇に紛れて後を付いて行った。新月の暗闇でもミツの目には昼間と変わらなかった。

 先を行くのは宇佐の巫女、宇受。おごった長い白髪をさかきの冠で抑え、小竹葉おささばで前を払いながら進む。松明を持った家人を両側にその後ろには津兄、王丹、その姉安曾あそが続く。そして四人の男が肩に掲げた寝台の四隅には竹を立て注連縄が張ってある。そこに百襲は横たえられていた。その後ろには空の木棺を担いだ四人が、後には供物を持った者たちが顔を伏せるように付いていた。

 立石の座に一行が登り切るのを待ってミツもそろそろと上がっていった。座は丸く左右に道がついていた。それらを石積みで縁取っている。座の真ん中には岩が立っていて、その前に四角い穴が掘られている。それを東西南北に囲んで形の違う岩がまた立っていた。石積みに沿って胸の高さほどに等間隔で並んでいる供物台に松明の炎を入れ、持ってきた供物の器を乗せると家人らはその前に並んだ。

突き出た道の片側には百襲、もう片方には空の木棺が置かれた。宇受は真ん中の岩の前に安曾を膝まづかせ小竹葉で払いながら何か唱えているようだ。両側には津兄と王丹が立っている。巫女の詞が終ると、安曾はすっと立ち上がり木棺に向かって吸い寄せられるように歩いて行った。

その下方に身を潜めていたミツは安曾の顔があまりにも蒼白なのを見て驚いた。安曾はそのまま木棺に入り横たわり、男たちはそれを担いで中央に持って行った。ミツは少しだけ頭を上げて目を凝らした。男らは四角い穴に慎重に木棺を納めてすぐに石積みの周りに並んだ。

今度はもう片方の道から百襲が運ばれてきた。そして百襲の寝台を安曾のいる木棺の上に蓋をするように乗せた。そしてやはり石積みの方へ下がった。

王丹が何やら持ち上げた。赤子程の大きさの石だ。それを百襲の腹の上に静かに乗せた。

宇受が小竹葉を大きく振りながらまた唱え始める。

「アチメオオオオアメツチニユラカスハサユラカスカミワ……」

 何を言っているのか判らないが、ただならぬ事が起こっているのはミツにも判った。百襲の上の石が光り始めたのだ。煙のようなもやもやした白い光が石から出て百襲の身体を覆ってゆく。何とかしなければと思いながらもミツにはどうする事も出来なかった。

 やがて石から光が抜け百襲の身体にすべて移った。宇受の詞も終わり辺りは静まり返った。

すうっと光が立ち上がった。百襲だ。身体を起こし腹の上の石を寝台の上に置くと、ゆっくり立ち上がった。周りが息をのんだ。もう光ってはいなかったが、それほど美しかった。

ミツも呆然としながら、とにかく百襲が無事なのでほっとした。宇受は百襲の手を取り寝台から降ろすと、小竹葉を石の上に添えた。そして一行は立石の座を降り始めた。石積み沿いに並んでいた者たちは、供物の器を手で払い落し、器台の火に土を掛けて始末してから付いて行った。

安曾はまだ木棺の中にいるはずだが、誰も気に留めていない。ミツは皆が去った後、そっと寝台に近づいて行った。安曾の匂いはするが、気配は無い。まるでさっきまで横たわっていた百襲のようだ。石を動かして中を確かめようかとも思ったが、その石はよく見ると帯のような線が施されて禍々しく触れるのはためらわれた。不意に寒気を覚えてミツはそそくさと立石の座を下りて行った。

事の次第をフルナに伝えようと、その足で岩牢に向かった。近づくと香が匂う。ミツは強い匂いが苦手だ。菰すだれを開け放って中へ入った。いつもはミツが来る前に気配を感じ身体を起こしているフルナが、ぐっすり眠っている。ミツは側に寄って、

「フルナ、百襲様がお目覚めになったよ」

と、声を掛けた。しかしフルナは耳をぴくりと動かしただけだ。ミツは格子から手を入れてフルナの身体をゆすった。

「フルナ、フルナどうしたの?」

 フルナはやっとめをうっすら開けた。

(心配ない、薬を嗅がされただけだ。話してくれ)

 ミツは犬型のフルナの言葉も判るようになっていた。頷き、今見てきた一部始終をフルナに聞かせた。その間にフルナはだんだん元に戻って、話の終わりには人型になって座っていた。

「……目覚めたのは百襲様ではないだろう。おそらく安曾という娘の魂を移したのだ」

 フルナの言葉に恐怖を感じながらも、ミツは納得した。安曾の身体を残してきたわけだ。

「どうするの? このままでは百襲様の魂が帰れないよ」

 ミツの心配はもっともだ。だがフルナは、

「そんなことにはならない。あの方の力は娘の魂など蹴散らしてしまうだろう」

と、言った。それは宇受にも判っているはずだ。なんのためにこんなに手の込んだことを仕組んだのか?

「温羅様を……騙すためか、百襲様を使ってあの方を引き入れれば出雲や三輪王を信仰する者たちも従う。大和に対抗する気なのか?」

 今や倭国はほぼ大和の政権下にある。倭王と言えば対外的にも大和の大王。東の地にも国造を送り大和に従う豪族も多くなっていた。そんな時、膝元ともいえる吉備で謀反が起きている。フルナは慎重に事を運ばなければならない。

「ミツ、綿を少し持ってきてくれ。忘我の呪に掛からぬように耳を塞いでおく。いざという時のために王丹の側にいて様子を探るのだ」


 大和の三輪山の麓に水垣宮はあった。宮の裏にはやはり日巫女の住まう斎宮が設えてある。稚屋に移って三年。百襲は多くの神託を下し印恵大王を助けてきた。その傍ら稚屋に日巫女の技も伝えたが、やっと八歳になったばかり。これからが本気の修行になる。後二、三年はかかるだろう。その時は日巫女を稚屋に託し大和を去ろうと決めていた。稚武が―――我が子百武ももたけるが心残りではあるが、伊佐勢理が守ってくれるだろう。そして温羅と会えたなら二人でひっそりと隠れ住めば良い。それが百襲の願いだ。

 しかし、このところ星の並びが悪いせいか百襲は落ち着かなかった。ともすれば魂が稚屋の身体から離れがちになる。なぜか西の方角に引き寄せられる。そんな時、一羽の烏が訪れた。まだ日暮れには早い午後だ。

―――かあぁぁ……―――

と、松の木にとまり一声啼くと縁に座っている稚屋をじっと見つめた。

(姉上、何か言いたいのでしょうか?)

(心を通わせてみよう)

 百襲は烏に目を合わせた。そのとたんに百襲は稚屋から烏に移ってしまった。自分が意図せずに他に魂が移るなど今まで無かった。

そしてそのまま烏は飛び立った。

「姉上、姉上どこへ行かれるのですか?」

 稚屋が走り出て下で叫んでいる。だが百襲はどんどん遠ざかって行くばかりだ。烏は西に向かって飛んでいた。そしてその間に太陽が少しづつ欠け始めた。

 日蝕だ。

 初代日巫女の日孁ひるめの時、それがあったと言い伝えられてきたが、それ以来日の欠けを知る者はいない。じわじわと闇に支配される中、すべての生き物が不安を募らせていった。

 百襲も例外ではない。それどころか闇が広がっていくほど意識が朦朧として力が抜けて行った。

(ああ、日巫女の力の源は日天だったのだな……)

 ぼんやりとそんなことを考えているうちにも、もう日が暮れたかのように辺りは真っ暗になった。

(このまま我が魂は消えてしまうのだろうか?)

 その時、光を放つ物が眼下に見えた。烏はそれを目指して降下した。光っているのは大人がうずくまった程の大きさの塊だ。百襲も今この世界で唯一つの光へすがる気持ちになった。

 烏はすさまじい速さでその光にぶつかった。

 次の瞬間、百襲の前に首を折って息絶えた烏が転がっていた。何が起こったのか判らない。

「ひふみよいむなやこともちろらねしきる―――」

 突然耳元で詞が唱えられはじめ、百襲は頭が割れるような耳鳴りに耐えた。詞が終わると、闇は薄らぎ光が空を割り始めていた。百襲はやっと辺りを見回した。

 小高い丘の上か、周りに岩が所々あり、すぐそばの注連縄を巡らせた結界の中に呪紋を施した依代の石が据えてあった。百襲の頭の方には小竹葉を持った白髪の巫女が立っている。百襲はうつ伏せになっているような気分だった。

「ふぉふぉふぉ、遂に捕らえたぞよ。この日を何代にも亘って待っておったのじゃ。百襲よ、日巫女よ、どうじゃ磐座の居心地は?」

 老婆は百襲の周りを舞いながら楽し気に問うた。

(磐座? わらわは磐座に封じられたのか、ここはどこじゃ? お前は誰じゃ?)

 老婆は目を丸くして百襲を見つめた。

「さすが、日孁に劣らぬ霊力を持つといわれた日巫女じゃのう。封じてもまだ話せるのか。わしは宇受、宇佐の宇受女じゃ」

 百襲は闇の中で光を放っていた岩の中にいた。結界の中の石と同じ呪紋を彫られさらに注連縄で巻かれている。

(宇佐の……? 同じ阿毎一族でありながらなぜこのようなことをする? 日巫女を封じるなど天意に背く行為ぞ)

―――ばしっ!―――

 宇受は小竹葉で岩を叩いた。百襲は直に痛みを感じた。

「お前に日巫女の資格はない。男に懸想して子まで成しておるではないか。これから永久にこの磐座の中で懺悔の時を送るのだ、ふぇふぇふぇ」

 宇受はそう言い放つと身をひるがえし、徐々に明るくなっていく参道を下りて行った。

『宇佐の宇受女』とは筑紫の阿毎一族にいる二つの巫女系の片方だ。もう片方は『高千穂の日留女』今の日巫女である。宇受女は一族の本拠地である筑紫を守る役目があった。伊波礼が大和に大王として即位する前、瓊瓊にに王のときから日留女は大和に、宇受女は筑紫に仕えるしきたりだ。しかも今の宇受女はという名で宇受は初代の名である。

 百襲は何もわからないまま、ただそこに居るしかなかった。 


 世はしばらく日蝕の話で持ち切りだったが、災いが起こる事も無く季節は秋から冬に移ろうとしていた。

 皇居である水垣宮の周辺はその年の収穫を売りに市が立ち、賑わっていた。人々が行きかう中、一人の渡来人がふらふら歩いている。その男は種もみや干し餅、干し柿などたくさん結構な品を背負っていた。しかし、ふらついているのはそのせいだけではない。顔は火照り流れるほど汗をかいて、息は荒かった。

 周りの人々がその異様さに気付いた時、男はついに白目をむいて前のめりに倒れこんだ。一人の男が近づいて、

「あんた、大丈夫か……?」

と覗き込んだ。じっと見つめた後首を振りながら、

「死んだな」

と言った。男はそのまま立ち去りかけたが、その背後では死んだ男を取り囲み略奪が始まっていた。男は振り返らずまた首を振り歩いて行った。

 人だかりの後には身ぐるみ剥がされた骸だけが残された。


 王丹は湯殿を出て月を見上げた。冴え冴えとした月の明かりが照らす若い顔をフルナは美しいと思う。忘我の呪にかかったふりをして王丹に仕えて三か月が過ぎたが、フルナはこの若人が嫌いではなかった。

「母屋に明かりがあるな。父上の所に寄ってみよう」

 王丹は敷石の上を跳ねて行った。フルナは後を付いて行く。

「父上、王丹です」

 そう言うと返事を待たず戸を開けて入っていった。フルナは入り口に膝まづいて控えた。もちろん中での話はよく聞こえる。

 王丹は津兄の前に座って空いている盃に酒を注いで一口飲んだ。津兄がぼそりと口を開いた。

「安曾が言うに、媛の身体には月のものが来ぬらしいのだ」

 王丹は次の一口を飲むのを止めて、津兄を見た。

「百襲媛は石女うまずめだというのか? 八年前には温羅王との間に子をしているのでしょう」

「その後―――ということもある。子が生せぬなら媛でいる必要はないであろう……わしは安曾をもとの身体に戻したいのじゃ」

 王丹は眉間にしわを寄せて一気に酒を飲んだ。

「それでも姉上では温羅を留めておけません。この吉備に皆が認める王を迎え新たな王朝を築くには、穴牟遅王と日巫女がいるのです。子が生せぬなら先に生まれた王子を据えるまでのこと。句須殿がなんとかいたしましょう」

 そう言ってまた盃に酒を注ぎ、津兄に差し出した。しかし津兄はそれを押しやり、

「大和が美作に関を造り、児島を屯倉に取り上げ、その上この窪屋の地に太宰たいさい(軍事拠点)を置くという。その昔、穴牟遅を裏切って阿毎に付いたのは、吉備に干渉せぬという盟約があったから……それが守られぬならと思い立ったが、吉備に王朝など望んではいぬ。これまで通りの暮らしを守りたいだけじゃ」

 その言葉に、王丹は一瞬顔色を変え膝の上の拳を握りしめた。

「やはり津兄殿には女心がわかっておらぬようじゃな」

 そう言って宇受が音もなく入って来て、王丹と津兄の間に座り込んだ。王丹は宇受に酒を注いで渡した。

「安曾は今やっと女子としての幸せに浸っておるのです。温羅を思い続けて三年、百襲の姿になって初めて得られたものを手放す気はありませんぞ。むごい仕打ちをなさいますな」

 宇受はにやりと笑って盃に口を付けた。王丹は空いた盃にまた酒を注いだ。

「もう百襲があの身体に戻ることもできませぬゆえ、ふぉふぉふぉ……」

「ならば磐座に日巫女を封じられたのか、さすが宇佐の巫女じゃ」

 王丹は喜び父を見た。津兄は顔を緩めただけだ。

「あれを封じるにあまりに力を尽くし暫く動けませなんだが、なんとかこの身体で持ちこたえましたわ。また日を選んで立石の座から降ろし厳重な結界を張りましょう」

と、得意げに語る宇受に津兄が訊ねた。

「なぜそのように面倒なことをなさる。磐座を砕いてしまえば良いではないか?」

 宇受は目を細めて答えた。

「わしと同じ苦しみを日孁の血を継ぐ者にも味合わせてやりたいのですじゃ」

 外のフルナは歯を食いしばり怒りに耐えていた。


 フルナとミツはその夜、皆が寝静まるのを待って立石の座に上がって行った。安曾の身体が収められている祭壇の奥にミツが見たときは無かった大きな石が置いてある。ミツはそこに駆け寄って、

「ひっ!」

と、思わず悲鳴を上げた。

 その石には人の顔が浮かび上がっていた。

「百襲さま……」

 フルナが横をすり抜け石の前に膝まづき、石の顔に手を当てた。

(フルナか、ここはどこじゃ? わらわの身体はどうした?)

 フルナは絞り出すように、

「申し訳ございません―――」

と、詫びてこれまでのいきさつを語った。

 すべて聞き終えると百襲が言った。

(先の日巫女千千様から聞いた事がある。昔、ある巫女が密通の禁を犯し磐座に封じられたと……それが宇受ならばわらわへの仕打ちもわかる。誰かが宇受を放ち策略に用いているのやもしれぬ)

 大和に伊波礼大王が立った時、宇受が封じられたとしたらすでに二百年近く経っている。それほど長く封じられていた宇受を蘇らせた者は何者か、フルナには見当がつかない。津兄や王丹ではない。もっとしたたかで周到な首謀者がいるはずだ。

 しかし、ここはひとまず百襲をもとの身体に戻さなければならない。

「お身体を取り戻すにはどうすればよいのか教えてください」

(フルナよ、事は国の一大事じゃ。このことを大和に帰って大毘古に知らせよ。わらわのことは置いてゆけばよい)

 フルナは石に取りついた。

「できませぬ、媛を守るのがわたしのお役目。大和に帰れと仰せなら、この磐座を背負って行きます。これをさらに封じ込められては放つことも難しくなります」

 そう言って石を抱きしめた。しばらく百襲も言葉を返さなかった。それが事実であろうとミツにも察しられた。

(――致し方ない。我が身の娘をここに連れて来ることが出来れば、我が魂を戻せよう。そののち娘の魂は元の身体に戻せるだろう。だが、それには祓詞はらえことばを唱える者がいる)

「それはどのような?」

 これから巫女など捜せるはずがない。

(早乙女ならば誰でもよい。わらわが教える詞を繰り返し唱えるだけじゃ)

 それができるのは自分しかいないとミツは思ったが、人外ではいけないかもしれないと躊躇した。しかし、

(ミツとやら、そなたにやってもらいたいがどうじゃ?)

と、百襲が訊いてきた。

「わたしで良ければお役に立ちたいです」

 ミツは嬉しくなった。


 問題はどうやって安曾をここへ連れてくるかということだ。安曾の姿が少しでも見えなければ、温羅が捜すに違いない。温羅は安曾を寵愛している……いや、温羅にとっては百襲だ。もしそれが安曾だと知ればどうなるか。騙されていたことに腹は立てても今の幸せを受け入れるか、あるいは本当の百襲を助けようと思うか。温羅が味方になってくれれば事は容易く運ぶだろう。だが、それは温羅の心が決めることだ。

 フルナは賭けてみることにした。

夕餉の後、安曾が湯に入りに行き温羅は一人縁に出ていた。その下から声がした。

「温羅様、今あなたの側に居られる媛は百襲様ではありません。身体に入っているのは津兄の娘安曾。百襲様の魂は磐座に封じ込められています」

 温羅は目を見開いて暫くして、

「……にわかには信じがたい、フルナよ」

と言った。フルナはここで焦らなかった。

「温羅様と百襲様だけが知っていることを尋ねてみて下さい。納得いく答えが得られずば、安曾ということ。その上で百襲様を助けたいと思われるなら、三日後の丑の刻に安曾を連れて立石の座においでください」

それだけ言うとフルナは去った。


 三輪で育った温羅だが、七歳頃までは父母がいた。下には赤子の弟もいて賑やかな日々を送っていた。しかし、父が病に伏し時を置かずに亡くなってしまった。同時に母は弟を連れていなくなり、それからは一人暮らした。父からは出雲の王族の血を引く者としての矜持きょうじを持つことと、唐櫃からびつに収めてある木簡をよく覚えることを言い渡され、一振り剣を託された。その剣は我が子以外の者に触れさせてはならぬと強く言い残した。

 だが、なぜ三輪にいるのかは言わなかった。今思えば知ったところでどうなるものでもなかったからだろう。やがて出雲から妻を迎え子を成し育て死にゆくのみ。何ら変わらぬ年月を重ねてゆくだけなのだ。三輪の主が変わっても誰も気に留めず、大方の者は気付きもしまい。

 百襲だけが見ていた。一人で子猫の死を悼み、一人で野花に話しかけていた温羅の姿を見ていたのだ。いつからかその眼差しを確かに感じていた。だから人として百襲に会った時すぐに判った。一夜を過ごし一生を生きた気がした。

「人として会うのはこれが最後となりましょうが、わらわはまた四十雀になり三輪へ飛んで参ります」

 お互いの身を案じればこそ、離れていくしかなかったのだ。

 三輪に戻って半年ほど過ぎたある晩、久須という男が来て言った。

「百襲媛が斎宮から出て行かれました。どうかここを出てお探しください。きっとあなた様のお迎えを待っておられましょう」

 百襲がすべてを捨てたなら、温羅に迷いは無かった。久須に付いて吉備に行き、津兄の屋敷を拠点に百襲を探し当てた。八年を要したが今こうして添うことが出来てこれ以上の幸せはない。

 しかし、本当の百襲ではないと言われれば思い当たる節もあった。生魂返しを済ませた百襲を初めてみた時、巫女の孤高さは感じられなかったし一緒に暮らし始めても過去の話を聞いた覚えはなかった。

「温羅様、何かございましたか?」

 背中から百襲の声がした。温羅は振り返らずに少し間をおいて言った。

「……三輪にいた頃そなたは小鳥になって訪ねてくれていたな。わたしは詳しくないが、何という鳥なのだろうか?」

 百襲の息をのむ気配がした。

「あれはたしか……めじろという鳥でした」

 温羅は星を見上げ、

「そうか、めじろか」

と、静かに言った。


 夜半から遠雷が聞こえてきたが、雨の気配はまだない。雲間には満月が見え隠れしている。できればこの月光があるうちに事を済ませたいものだと磐座の中、百襲は思った。

「おいでになりました」

 側に控えているミツが言った。

 大きな影が参道を上がって来た。胸には女を抱いている。それは百襲自身である。それを抱いている温羅を見ると抑えきれない想いが溢れてきて、磐座に浮き上がった顔の目元から露のような滴がぽとりと落ちた。

 後を付いて上がって来たフルナが温羅を追い越し、磐座の上を指示した。温羅はそっと百襲の身体をその上に横たえた。フルナは安曾の身体を安置してある上の小さな磐座を持ってきて百襲の上に乗せた。百襲である安曾は薬でよく眠っている。温羅はフルナに促され磐座から少し離れた。

 白装束を着たミツは小笹葉を持って磐座の周りを回り始めた。

「トホカミエミタメー トホカミエミタメー アチメオオオオ、オオオオ、オオオオ、アメツチニユラカスハサユラカス、カミワカモカミコソハ―――」

 祓詞を唱えながらゆっくりと身体を裏表に翻し大股に進んでゆく。間もなく百襲の居る磐座から金の煙が立ち上り、百襲の身体を包み込んでいった。同時に赤い煙が身体から腹の上の小さな磐座に移っていく。それは安曾の魂だ。本来身体の主で強い霊力を持つ百襲に、安曾の魂はやすやすと押し出されてしまったのだ。ミツが懸命に覚えた祓詞を最後まで唱える必要はなかった。磐座をほんの一周しただけで百襲は身体を取り戻した。安曾の磐座を抱き、金の光を纏ったまま百襲が身体を起こした。

「この娘も元の身体に返してやりましょう」

 そう言った百襲は今まで一緒にいたとはまるで別人だった。温羅はその気高さに目を見張った。

 百襲は安曾の身体が収められている木棺の上の寝台に磐座を置き、今度は自ら、

「トオカミエミタメー」

と、唱え始めた。その途端にフルナが声を殺して言った。

「百襲様、宇受が近づいております」

 百襲は祓詞を止めた。

「窪屋の屋敷から松明を持った者らがこちらに向かって来ています」

とミツも目を凝らして言った。

 温羅は百襲の手を取って、

「宇受がこの気配に気づいたのだろう。さあ、逃げなければ」

と言って、見つめた。百襲は磐座から微かに赤い煙りが木棺に向かっているのを確かめ、こくりと頷いた。フルナはすでに屋敷とは反対側の降り口に立ち、

「こちらです」

と、促した。温羅と百襲はフルナに付いて立石の座を下って行った。その後にミツが続いた。

 息を切らして宇受が上に着いた時、磐座から木棺に安曾の魂が移っている最中だった。百襲を封じていた大きな磐座はすでにもぬけの殻だ。宇受は髪の毛を逆立てながら安曾の磐座につかつかと歩み寄り、小柄を抜くと、

「えぇい―――」

と突き立てた。そこへ間髪入れず耳をつんざくような音と共に雷が走り落ちた。

 立石の座のふもとまで来ていた王丹とその家来たちは驚きのあまり暫くその場に伏せたり尻もちを付いたりしていたが、頂の方で何かが燃えているのに気づき王丹が立ち上がった。

「行くぞ」

 家来たちもそそくさと立ち、坂を上がって行った。

「こ、これは……」

 王丹は寝台と共に妹の身体が入っていた木棺が燃えているのを見た。思わず走り寄ろうとする王丹の前に、

「兄上」

と、立ちはだかったのは懐かしい姿の元の安曾だった。王丹は目を疑った。

「お前、なぜ―――?」

 安曾は王丹にすがりつき、

「宇受様がわたしを助け雷に打たれてしまったのです。温羅様は百襲を戻して一緒に逃げて行かれました」

と言って震えながら泣いた。王丹が寝台のあったところに目をやるとすでに小さくなっている炎の中に人の形が見て取れた。

「――― 追え、まだ遠くへは行っていまい。誰か屋敷へ戻って馬と武具を用意してこさせよ。われらは後を追うぞ」

 王丹は安曾の肩に手を置き、

「温羅を逃しはしない、お前は屋敷に帰って居れ」

と言って家来を率いて行った。

 皆が立石の座を下り安曾は一人になった。

「やれやれ、やっとこの老いぼれた身体から出られたわ。これからは身体がきしむ事も無く、息切れもせぬであろう」

 そう言って燻っている宇受と呼ばれていた身体から玉飾りをもぎ取り首に掛けた。そして跳ねるように屋敷に向かって駆けだした。


 温羅は百襲を前に乗せ馬を走らせていた。その前を薄茶色の犬が、後を大きな黒犬が付いて行く。本当は東に向かいたいところだが、窪屋の領内を通れないので南へ向かった。

 王丹は立石の磐を下りて馬の足跡を見つけた。それほど焦りはなかった。

「この辺りは我が庭よ。決して逃がすまいぞ」

 と、不敵な笑みを浮かべた。


 温羅たちはしばらく行くと海にぶつかったので仕方なく海岸沿いを東へ進むことにした。夜の雲は薄明るく、ゴロゴロと遠雷が迫って来ていた。大きな雨粒がすでに追い付いている。少し歩を緩める。百襲が言った。

「―――あなた様とこうしていると窮地にあっても喜びを感じてしまう」

 百襲は温羅の広い胸に寄り添った。

「わたしも同じ。この刹那が永遠の時にも勝る」

 温羅と百襲は見つめあい微笑んだ。

「ここに吾子が居ればもう何も望みませぬのに……」

 温羅は目を見開いた。

「吾子―――?」

 その時後に付いていたフルナが

「大勢の馬の足音が近づいて来ております、お急ぎください」

と言った。一行は弾けたように疾走したが、間もなく目前に切り立った崖が現れた。そこで海岸は途切れ片や海、片や崖となり立ち往生してしまった。背後にはすでに人の耳にも聞こえるほど追手の気配が迫っていた。そこへぎぃぎぃと岩陰から小舟が現れた。

「もし、窪屋から逃れておいでか? 良ければこれにどうぞ」

 船から小柄な男が声を掛けてきた。フルナは百襲を見た。百襲は頷き温羅を見、温羅も頷いた。船には男一人だ。悪心があれば、フルナで何とかできる。最初にフルナが乗り次に百襲の手を取って乗せた。

ミツが乗り温羅も乗ろうとした時、

「待てぃ、温羅殿このまま去るおつもりか? 我が妹を捨てて行かれるのか?」

と、馬で駆け付けた王丹が呼びかけた。

 温羅は船を背に王丹に向き合った。王丹は馬を下り言葉を続けた。

「我らには確かに野心があった。しかしあれには何一つ下心は無い。只々あなたを慕い尽くしてきた。そしてあなたもそれに応えていたはず。姿かたちが変わればすべて無かった事にしてしまわれるのか?」

 温羅は眉根を寄せ暫く黙っていた。そのうち窪屋の追手が追い付いて並んだ。

 温羅が口を開いた。

「わかった。我は戻ろう。しかし他の者は逃して欲しい。さもなくば我はここであい果てる」

 そういうと腰の剣を抜いて首に当てた。王丹はぎょっとして深く息を吐いた。

「よろしかろう。百襲媛よ、ここでのことはひと時の夢と思し召しどうか忘れて下され」

 百襲はきっと王丹を睨んでから温羅に穏やかに言った。

「命を無駄になされませぬよう」

 温羅は微笑んで

「四十雀を見るたびにそのことを思い出しましょう」

と言った。

 そして船はぎぃぎぃと岩の向こうの闇に消えて行った。温羅は馬を引き王丹の方へ歩いて行った。


 月の光が波を照らし百襲の白い顔に反射している。ミツには止めどなく涙が頬を伝っているように見えた。百襲と温羅のいきさつはフルナから聞いていた。この媛も自分と同じように逃れようの無い定めを負っていると知り心から助けたいと思っていた。

 船はいつしか入り組んだ入り江に入っていた。あるいは河を遡っているのかもしれない。遠くに明かりが見え隠れしてきて船頭は櫂で水底押しながら明かりの方へ船を向けた。かなり浅い所のようだ。

「きぃ、きき」

 明かりの方から猿の声がして、フルナとミツは思わず総毛だった。

「きき、きき」

 船頭が鳴きまねをして返したのでそれが仲間を見分ける合図だとわかった。ざぶざぶと水を分けて二人の人影が近づいて船頭から舫綱を受け取り岸へと引いて行った。その入江は意外と奥深く、狭くなっている所を抜けると急に桟橋に繋がれたたくさんの船が篝火に照らし出された。

 その桟橋の一つに船は着けられ船頭は先にひょいと上がって百襲に手を差し伸べ言った。

「どうぞ、長にお会いください」

 しかしフルナはその手をすっと払い百襲の手を取って桟橋に上がった。百襲は船頭に訊いた。

「わらわは先の日巫女百襲である。ここの長に会うことはやぶさかではないが、その前に何者か知りおきたい」

 船頭は少し俯いてから顔を上げた。

「我らは楽々ささ一族。長はタリヒコ、わたしは息子のヨリヒコと申します。古くはサルタと呼ばれ阿毎一族にお仕えしておりました」

 そう聞いて百襲は軽く頷いた。

「高屋殿であったか……」

 フルナはサルタのことはよく知らない。ただ、元は人外であったが大和へ伊波いわれの大王を迎えた時に大きな働きをして人との交わりを許されたと聞いた記憶があった。その時は信じていなかったが本当だったのだ。さっきの猿の鳴き声での合図はその名残なのだろう。

 暗い崖の間を蛇のように細長く上り坂が続いている。所々、岩肌がえぐられていて松明が灯してあった。ヨリヒコの後ろを歩きながら、フルナはふと人と人外の境目はどこにあるのだろうと考えていた。

「こちらです」

 山の頂辺りに着くとごつごつした岩に沿うように館が建っていた。階段を背丈ほど上がったところが座敷だった。海に向かって建具が開け放たれ、月の差し込む方に小さな翁、タリヒコが座している。ヨリヒコはその前に百襲をいざなった。百襲は座って、

「まずは礼を言う。此度のことは偶然ではなかろう?」

と言った。タリヒコの皺だらけの顔がくしゃっと笑った。

「わが手の者が常には聞くことのない遠吠えを聞きつけましてな、何やら窪屋の動きが怪しいと探りを入れておりましたのじゃ」

 フルナは百襲の後ろから言った。

「それはわれが発したもの。こちらにも聞き分けた者がおられたか」

 タリヒコの横に座っていたヨリヒコが、

「稀にまだちからを持って生まれる者があるのだ」

と口早に言った。

「では長の思うところを聞きたい。窪屋王のたくらみではあるまい。誰が糸を引いておるのか、何が望みなのか」

 百襲はタリヒコを見つめた。

「誰がというのは判りませぬが……」

 タリヒコの皺の中から現れた瞳が光った。

「望みは大和王家を崩壊させることかと」







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