第4話 鳥飛媛(ととびひめ)

 百襲がフルナに身体を託して三年が経った。びの術は百襲の本領とわかっていても三年は長い。フルナは時折人型になり百襲の胸に手を当てて微かな鼓動を確かめずにはおられなかった。

 もう二十年以上前になる。犬飼部で夜目タケルと日芸フルナは次の司の座を争っていた。一対一の勝負ではフルナが勝っていただろう。だが、選ばれたのはタケルだった。

「畏れながら、わたしのどこが不足だったか教えていただきたい。納得できなければタケルの下では働けませぬ」

 フルナはタケルが選出された日の夜、大毘古の帰りを待って屋敷の門前に膝をついて問うた。大毘古は馬を降りると、

「丁度そなたに話があった。中へ……」

とおだやかに招いた。そのまま屋敷の中へ促されたのでフルナはうろたえた。人外が座敷に上がる事など許されない。しかし大毘古は戸惑うフルナの腕を持ち中へ連れて入った。

 なんとも居心地の悪い様子でフルナは大毘古の前にかしこまった。

「――不足があったわけではない。そなたとタケルは性質が違うのだ」

 大毘古の言葉にフルナは顔を上げた。

「犬飼部の司は犬を指揮する力量を一番望まれる。強さは二の次」

「わたしには統率力が無いと……?」

 大毘古は首を振った。

「無いものをあげつらうのは愚かなこと。そなたは誰よりも強い。その力が必要な場所は犬飼部ではないというだけのこと」

 フルナには意味が判らなかった。物心付いた時には犬飼部にいて、たとえ司になれなくても犬飼部を離れることなど想像できない。人外が生きる道は多くないのだ。

「わたしは――?」

 大毘古はうなだれたフルナに誤解をさせてしまったと気付いた。

「ああ、すまぬ。そなたには御前みさきを頼みたいのだ。命をかけてあるお方を守ってくれ」

 そう言って大毘古はフルナの手を握った。

 その媛は庵戸宮の裏に建つ斎宮のえんに座って白くて細い脚をぶらぶらさせながら首を傾げてフルナを見つめた。人間のめのわらわは知っている。村の泥だらけの子供も貴族の伏し目がちの媛も見たことはあった。しかしそのまだ十歳に満たない媛は一瞬でフルナの魂を奪った。フルナは吸い寄せられるように媛の側に行き足元にひざまずいた。

「日芸フルナと申します」

 百襲はぴょんとフルナの前に立つとにっこり笑って頬に触れた。フルナは初めて自制が出来ずに、あっという間に犬になって腹を向け百襲のなすがままに撫でられた。そのときから百襲だけがフルナの主になったのだ。大毘古でもなく、大王でもなく百襲の為だけにすべてを捧げるとフルナの本能が答えた。

 日巫女というものは斎宮に閉じこもっていて外界と接することは滅多にないと思っていたが、十三歳で正式に日巫女を継ぐまでは目の前の庵戸宮から伊佐勢理達兄弟がよく訪れていた。修行の合間には野山で遊び、百襲もよく笑った。

 しかし日巫女になってからは父王の太瓊ふとにとしか会えず、言葉さえ神託に関することしか交わせなくなった。やがて先の日巫女千千も斎宮を離れるとフルナと一緒に夜こっそり出かけることが唯一の楽しみになった。百襲の周りにはどこからともなく獣達が集まり、百襲の寂しさを慰めた。

そうして静かな日々が流れていたが、十五歳になった頃から百襲はある話をするようになった。

「山の中に古い屋敷がある。そこには紅葉のような赤い髪をした大きな貴人がいるのだ」

 百襲は目を閉じて思い出しながら語った。もう夕暮れて縁に座っていると肌寒い。フルナは寝所の中の衣桁いこうから大袖おおそでを持ってきて百襲の肩に掛けながら、

「なぜそのように恐ろしげな人間を貴人と思われるのですか?」

と訊いた。百襲はふっと笑いフルナを見た。

「髪も結い衣も古めかしいが整えておる。何より彼の君は泣いておるのじゃ。手の中には生まれて間もない死んだ猫がおった」

 百襲は容易く獣に鳥飛びしていろんなことを見聞きした。外に出られない時はそうやって憂さを晴らしていた。きっとその光景も鳥に移って見てきたのだろう。

「見た目と違い優しいお方なのですね」

 フルナはまた隣へ腰掛けた。

「そう……とても優しい目をしている」

 その時はそれほど気に掛けなかったが、百襲は度々その屋敷を訪れるようになっていった。

「彼の君は花がお好きなのだ。縁から見えるように山の花を集めさせて植えている。その花に話しかけておる」

 月夜の野辺を歩きながら百襲は蒲公英たんぽぽの綿毛に息を吹きかけた。さすがにフルナも百襲の想いに気付いていた。だが所詮叶わぬ恋である。何処の誰とも判らぬ者を眺めているだけだ。その前に日巫女は大王以外の男子と会うことも許されない。

「花は山にいくらでも咲いているのに、わざわざ植え替えるのですか?」

 月を見上げ、

「あの方は屋敷を出られないようだ。いつも一人で笛を吹いたり板書きを読んだりしている」

と言って、フルナの手を握った。百襲の目は少し潤んでいた。

「わらわにはそなたがいて良かった……花だけが話相手ではあまりに淋しいではないか」

 どうやらその屋敷に仕える者は通いで、食事の支度や洗濯を終えるとそそくさと帰って行くのだった。もちろん自ら話しかけたりはしない。その孤独が百襲には痛いほどわかった。住む処もあり飢えることもなく生きていても、人には温もりが必要なのだ。フルナは百襲を止めようとはしなかった。フルナもまた彼の君に同情してしまったのだ。

 ある日、フルナの膝に頭を乗せ横たわって鳥飛びをしていた百襲が目覚めて言った。

「わらわにお気づきになった……」

 身体を起こしフルナを見た百襲の顔は上気していた。興奮した様子で続けて言った。

「わらわが移っている四十雀しじゅうからに『お前はいつもわたしの側にいるのだな。ありがとう、うれしいよ』とおっしゃった」

 それでも二人が出会うことなどあり得ないとフルナも、百襲でさえ思っていた。囚われの貴人と小さな四十雀のささやかな触れ合いに過ぎないはずだったのだ。


 六年が過ぎ百襲は二十二歳になっていた。女子としてはとうに伴侶を得、子を産み育てている年頃だ。しかし日巫女にはそんな世俗的な営みは別の世界のことである。どんなに美しく成長していても百襲はいまだ四十雀に身をやつし彼の君に会いに行っていた。それ以外何が出来ただろう。肩や手の上にとまりさえずり、彼の君の微笑みを引き出す他に……

 その秋の野分はすさまじく、作物への被害は勿論、山崩れも各所で起きた。三輪山の大神の館も半壊し、何をさておいてもその再築が一番と、大掛かりな突貫工事が行われた。問題はその間三輪王を何処にお隠しするかということだったが、やはりもっとも警備がしやすい王居、庵戸宮がよかろうとなった。

 月の無い夜半に三輪王は到着した。大毘古と数人の警護が付き、宮の裏手から誰にも知られぬように離れの寝所に通された。笠を深く被り顔は見えないが、周りを囲む者より飛びぬけて背が高かった。

「ゆるりとお休みください。護衛を付けておりますので御用があればお声かけください」

 大毘古はそう言うと帰って行った。フルナは犬の姿でそっと離れに近づいて行った。御簾の隙間から三輪王が笠を取るのが見えた。灯明に浮かんだのは赤くうねった髪をなんとか後ろでまとめて編み込んだ彫の深い光る眼をした大男だった。まさかという気持ちとやはりと思う気持ちが沸き上がったが、見張りの気配がしたので急いで離れを後にした。

 フルナはすぐには斎宮に戻れなかった。そのまま走って裏の林に分け入って湧水を飲んだ。百襲に彼の君が三輪王だと告げることはできない。それは百襲自身の為だからだ。けれどフルナはその中に自分の嫉妬を感じ後ろめたかった。と同じく野分の日から彼の君を見失ってふさぎ込んでいる百襲を見ているのも辛かった。所詮小さな鳥だから風の強い時や日が暮れてからは飛べない。野分が過ぎて行ってみると屋敷は崩れ慌ただしく人夫らが出入りして、彼の君の姿はなかったのだ。その方が目と鼻の先にいるとわかればどうなるか…… 

 気持ちを落ち着けて斎宮に帰ると百襲は眠っていた。陽のあるうちはずっと鳥飛びをして彼の君の行方を捜しているので疲れてしまうのだ。フルナには庵戸宮の中のことは聞こえていたので三輪王の件も知れたが、百襲には言わなかった。山中に住む囚われの貴人、三輪山に祀られた王。考えてみれば同一人物としか思えなかった。それを確かめに離れに行った。これほど悩むなら行くべきでは無かったのかもしれない。

 次の新月には三輪の屋敷が完成するというので、三輪王は山へ帰ることになった。そうなるとフルナはさらに悩んだ。庵戸宮を去ってしまえばもう人として彼の君に会うことは出来なくなる。また鳥になり通い続けそれで年老いてゆくのなら、人として生きたといえるのか。百襲があまりに哀れではないか。

 フルナはついに決心した。

「百襲様、今宵は新月でございます。久しぶりに星を見に逍遥しょうよういたしましょう」

 半月もの間むなしく鳥飛びを繰り返していた百襲はさすがに気も塞いでいたのだろう、

「そうだな、たまには外も歩いてみよう」

と承知した。

 離れの縁に座って三輪王は虫の声に耳を澄ましていた。フルナは闇に紛れてさっと足元に膝まづいた。三輪王は少しだけ目を見開いて首を傾げた。

「ご無礼をお許しください。何もお聞きにならず一緒にいらして下さい。あなた様に会いたいという方がいるのです」

 フルナは低くそう告げて三輪王を見た。

「わたしに会いたいとはめずらしい。それは構わぬが、護衛の者が何と言うか……」

 王は意外に落ち着いた様子でフルナを見返した。

「護衛の者は薬草を嗅がせて眠っております。どうぞこちらへ」

 フルナは三輪王に履を揃えていざなった。宮を囲む塀を抜け少し行と小川に出た。河原の飛び石の一つに立って百襲はまっすぐ星を見上げていた。

 それはまるで星から降り立った神のようだった。フルナが声を掛けるより早く三輪王が河原に下りて行った。

 百襲が振り向き三輪王を見て、足元も忘れて踏み出した。

「あ……!」

 水に足を滑らせた百襲を三輪王が抱き留めていた。時が止まったように二人は一瞬動かなかったが、やがてゆっくりと向き合った。先に口を開いたのは三輪王だった。

「わたしに会いたいと……?」

 百襲は目を潤ませて頷いた。そして

「ずっとお慕いしておりました」

と一筋涙を流した。三輪王はじっと見つめはっとして、

「わたしの……鳥?」

 とつぶやいた。百襲は嬉しそうにまた頷いた。

 フルナはもうすでにお互いしか目に入っていない二人を残して立ち去った。この逢瀬が最初で最後。心置きなくという思いで胸の奥に燻る悋気を抑えた。

 

しかしこのたった一夜が国を巻き込む事態になってしまった。三輪王の子を宿した百襲は、子を産むために逃亡した。外界を知らない百襲は弟の伊佐勢理を頼って美作に行き、無事に産んだら信頼できる夫婦に子を預け斎宮に戻るつもりだった。せめて次の日巫女を決めなくては国の安泰に関わるからだ。伊佐勢理もその心づもりで百襲を匿った。

 美作で男子を産むと百襲は久しぶりに三輪の館に鳥飛びした。しかし建て直した屋敷はもぬけの殻、そこに三輪王はいなかった。それを伊佐勢理に告げようとしていた矢先に美作は夜襲を受けた。

 何か良からぬものが動き始めたと察知して百襲は王子を逃がし身を隠した。三輪王が逃げたか連れ去られたかはわからないが、三輪と美作を襲ったものは百襲と王子の存在を知っていて捜しているに違いない。『大王』『日巫女』『三輪の大神』この三つが大和の支えである。次に狙われるのは大王かと気づいた時にはすでに太瓊大王は弑されていた。

 フルナは大和に帰ろうとする百襲を引き留め続けた。そうしながら三輪王と百襲を引き合わせた後悔にさいなまれた。百襲もフルナの心中を理解していたのだろう。三人目の大王を失うまで五年もの間洞窟で暮らした。だが稚屋に移る前に『あの方がおみえになったら……(この身を)差し上げてよい』と言った言葉にフルナは百襲の覚悟を感じた。

 それからさらに三年。魂の抜けた百襲の身体を守ってきたが、このところ付近の山に人の気配を感じている。誰かが踏み入っているのだ。そして今、この洞窟を見つけたようだ。ゆっくりと足音が近づいてくる。

 フルナにはもう相手がわかっていた。百襲の横に膝まづいて待った。やがて薄明りに重い足取りで人影が現れた。

「ああ、やっと会えた。我が媛よ」

 少しやつれた様子で三輪王が微笑んだ。百襲の側にいるフルナに、

「媛を連れていく。良いか?」

と訊いた。

「御意のままにと仰せでした」

 フルナが答えると、三輪王は百襲をそっと抱き上げた。魂の無い百襲だが、一瞬顔がほころんだように見えた。三輪王は出口へ向かった。後を付いて行きながらフルナは緊張を高めた。

 洞窟を出た所には、兵士らが弓や剣を構えて並んでいた。三輪王は動じる様子無く、

「武器を納めよ。必要ない」

と言った。フルナはもう少しで犬型になるところだったが、ひとまず深く息を吐くと逆立っていた髪の毛も落ち着いた。いったい何者がこの三輪王に付いているのか見極めなければならない。そして何があろうと百襲の帰るべき身体を守り抜くのだ。

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