第3話 御肇國(はつくにしらす)


五年が経った。

 うまやにいたハクは、近付くひづめの音で伊佐勢理が帰ったと察し、門に駆け寄った。伊佐勢理はハクを見て獲物の入った袋を振り上げ、

「良い方を大日比おおびび大王のおおきみに届けてくれ。暑気あたりの見舞いだ」

と、言いながら駆け込んだ。ハクは手綱を取り収め、袋を受け取って中を覗いた。雉が二羽入っていた。

「こりゃあ立派なもんじゃ」

馬を下りて伊佐勢理はハクに訊いた。

二稚ふたわかは何処に居る?」

 稚武と稚屋を合わせて伊佐勢理はそう呼んでいる。

「暑いので離宮で水遊びをしておられました」

 伊佐勢理は頷きそそくさと宮の裏に歩いて行った。子供の高い声が聞こえて来る。

「恐いよ、恐いよ、ヨリィ、ハクを呼んできて……」

「だめよ、人の手を借りてはだめ! 稚屋にも出来たのだから稚武にも出来るわ、さあ、がんばって」

 柳の葉を分けて見ると、池の中の伊佐勢理の背丈ほどの岩の上に稚武がへばりついている。稚屋は岩の下で膝まで水に浸かって、下りてこいと言っているのだった。

「やれやれ……」

 伊佐勢理は池の淵に立って困り顔のヨリに目で頷いて水の中へ入って行った。

「あ、兄上!」

 稚武は助けが来たと喜んだが、岩に手を伸ばしかけた伊佐勢理の衣の裾を稚屋が引っ張った。

「なりませぬ、稚武は男子なのです。もっと強くならなくては、」

 すでに稚武は伊佐勢理の手を求めて身体を離しかけていた。

「あーっ!」

――ばしゃん……――

 水の中に尻もちを付いた伊佐勢理の上に、稚武が馬乗りになってずぶ濡れていた。伊佐勢理はしかめっ面をしながら懐に手を入れた。稚武は急いで兄から下り、横に膝まづいた。

「……兄上、大丈夫ですか? 腹が痛むのですか?」

 伊佐勢理は顔を上げながら懐から手を抜いた。その掌には白い羽毛の雛が丸い目をして稚武を見上げていた。

「うわぁ!」

「うわぁ!」

 稚屋も雛を覗きこんで、一緒に声を上げた。

「巣から落ちて鳴いていた。すずたかだろうが、一度落ちたら巣に戻しても育てないのだ。二人で世話をしてやれ」

 そう言いながら伊佐勢理は稚武の手に雛を移し、二人に笑いかけた。二稚の目は雛に釘付けだ。伊佐勢理は片腕ずつに二人を乗せ、池を出た。

五年前より一回り大きく逞しい青年王子となった伊佐勢理は、この時二五歳。再び大毘古の下で王軍の将軍の一人として仕えていた。


太瓊ふとに亡きあとも大和に禍事わざわいことは続いた。日照りにより作物が取れず死者が多く出て、周辺属国の水や食料をめぐる小競り合いを治めるのに苦労した。大王を継いだ弟の国玖琉くにくるも、もともとの虚弱体質もありわずか二年で流行風邪に罹り死去。今はその下の弟大日比おおびびが継いでいる。日巫女は後が決まらぬまま八十近い千千がしていたが、神託は途絶えて久しい。日巫女の役目もわずかであろうとだれしも感じていた。今までの日巫女は王族の女子から資質のある者を選び技を伝えて受け継がれていたが、千千が選んだ百襲ももそが失踪してしまったので再び選ばなくてはならない。しかし今の千千にその力は無く、神託が下らぬまま朝廷で選出することになった。日巫女の持つ権威を考えると、それは大王を選ぶより困難である。そして選ばれし者にはまた確かな神託は望めない。ましてこんな時に大王に何かあれば、大和王政の土台が揺るぎかねない。

『このところ日巫女の選出に朝議が紛糾し、大王はお疲れのご様子だった。少しお休みになれば、大丈夫だ』

 伊佐勢理は心をよぎった暗い想像を打ち消した。

翌日、朝議は無く大毘古と共に調錬をしていた。そろそろ昼になろうかという時、兵士たちが整列した錬場に早馬が飛び込んできた。使者は大毘古の前に膝まづき、

「大王がお隠れになりました!」

と、言った。

 大毘古は一瞬天を睨み、後ろに控えていた伊佐勢理を見て顎を引いた。伊佐勢理は口を結び手にしていた鞭を握り締めていた。


 暮れかけた山深い岩場の上から細い滝が流れ落ちている。滝を囲む森の一角を掻き分け一匹の黒い犬が現れた。犬は布包みを背負っている。岩場をひょいひょいと上まで飛び登ると、ふっと姿が消えた。

 下からは気付かない岩と岩との隙間に入って行ったのだ。奥に続く暗い道を犬はひたひたと歩いて行った。時おり足音が水をはじく。やがて行く先が仄明るくなってきた時、歩いていたのは背の高い男だった。歩きながら背負っていた布を解き、中に包んでいた駕籠を片手で持ちもう片方の手で解いた布を身にまとった。

 足元には大小の水たまりがぽおっと淡い光を放ち洞窟の中を照らし出している。白い鍾乳石が上から滴り下から突き出て造り出している自然の迷路を、男はさらに奥へと進みつき当たりの岩壁の前に立った。

 大きく息を吐き素早く吸い込んだ。

つつしみて、門別かくしのかみにものゆす。阿毎の臣 のフルナを通らせ給え」

 フルナは頭を下げそのまま壁に踏み出した。すると身体は壁に吸い込まれていった。

 壁の向こうは広く開けていて、そこここに置かれた多くの灯明が内部を照らしていた。寝台にしていると思われる所には藁がたっぷり敷かれ、壁を伝ってくる水を集める水場もある。真ん中に台座のような鍾乳石に高い天井から一筋の月光が差し込んでいて、その真下には鏡を膝に乗せた髪の長い女が座っている。天井からの光を鏡が反射して女の前に光の柱を創っているのだった。

 女の方から見れば、フルナが入って来た所に壁は無く、つらら状の石にわらなわが渡してあるだけで、よく見渡せた。

「お目覚めでしたか、百襲様。ただ今食事を用意いたします」

 フルナは駕籠を持って水場の側の台の上に置いた。百襲が口を開いた。

「先程からすが大和の様子を知らせて参った。大日比大王が亡くなったそうだ」

 支度に掛かろうとしていたフルナの手が止まる。百襲の方を向き次の言葉を待った。

 百襲は鏡を伏せ立ちあがった。

「ここへ身を隠して五年、その間に父王含め三人の大王を失った。もうこれ以上放っておくわけにはいかぬ。今、日巫女としての務めを果たさなければ、大和は衰退しやがて滅ぶであろう」

 フルナは百襲の前に膝まづいた。

「判りました。もう留立ていたしません。仰せのままにいたします」

 百襲は頷いた。

「結界を解き大和へ飛ぶ。その間この身体を守るのだ。いずれあのお方がお見えになったら……差し上げて良い。もう子を為さぬよう黒玉を飲んでおく」

 そう言うと、はめていた指輪に付いている黒玉を外した。フルナは一瞬止めようと手を伸ばしかけたが、思いとどまった。百襲は石を口に含み目を閉じて呑みこんだ。そのまま下腹部に手を当てしばらく眉をよせていたが、やがて深く息を吐いた。

 百襲はゆっくりと台座を降りフルナが通って来たしめ縄の前に立った。姿勢を正し胸の前で手を合わせると、

はなつ!」

と唱えた。

 しめ縄は触れてもいないのに刃物で切ったように二つに分かれて落ちた。百襲は台座に戻り元のように座った。

「では参る」

 青、朱、黄、白、黒と五つの勾玉が付いている首飾りの白の玉を口にくわえて腹の前で指を絡ませ印を結び目を閉じた。百襲の身体はふわっと膨らんだように見えて、すぐに力なくうなだれた。

 フルナは百襲の頭の上から薄絹を掛けると、服を脱ぎ犬の姿になて足元にうずくまった。

 間もなく洞窟の入口の方からぴたぴた、ひたひたと足音が近づいてきた。

(やはりここに旨そうな肉があったわ)

(人のおなごじゃ、やわらかいぞ)

(なんじゃ、ちんけな犬がおるわ。あれで守のつもりか?)

 闇の中からやって来たのは、狐に狼、それに熊であった。いや、その後ろの暗がりの中にもいくつもの小さな目が光って様子を窺っている。

 三匹が台座の前に並んだ。フルナは百襲の前に立ち上がってぶるぶるっと身体を揺すった。

 次の瞬間、ふっとフルナが消えると同時に熊と狼の間を風が吹き抜けた。

「ぎゃん!」

 狐がつらら石に貫かれ、どさっと二匹の間に落ちた。

 フルナはすでに百襲の前に再び構えていた。

 狼が唸りながら飛びかかる。フルナはさらに高く飛び、ひるがえりながら首に喰いついた。そのまま地べたをごろごろ転がって起きた時には狼は息絶えていた。

「うおおぉぉぉ……」

 熊は後ろ立ちし、フルナ目がけて迫って来た。フルナは咥えていた狼を投げたが、熊の前足一振りで飛ばされ狼の身体は石柱をへし折った。熊は前足を振り回しフルナを追い回した。

 前後左右に水たまりをはじいて熊の攻撃をかわす。熊は夢中になってフルナを追いつめていった。後少しで袋小路というところ、フルナは大きく後ろに飛び退いた。熊は逃がすまいと大股に水たまりの上に踏み込んだ。

 盛大な水しぶきが上がり熊の身体は水たまりに吸い込まれた。それは水たまりではなく地底湖の入口だったのだ。さして気泡も上がらず水面はすぐに落ち着いた。

 フルナはいつの間にか百襲の前に戻り遠巻きに見ていた獣らに告げた。

(お前らはこのむくろを持って行って腹の足しにしろ。熊も明日には滝壺に浮いていようから食らうがよい。そして二度とここへ足を踏み入れるな)

 すると闇の中からいたちむじなねずみむしなどが這い出てきて、狐と狼の死骸をずるずると運んで行った。

 静寂が戻った洞窟の中、フルナはまた百襲の足元にうずくまった。


「――こうして毎日孁まのひるめのみことは岩戸からお出ましになり、高天原と中つ国は再び明るくなりました。さて、高天原を荒らした須佐すさのみこは追放されることになりましたが……」

 ヨリは神世の昔語りを止め、満足そうに稚武と稚屋の寝顔を眺めた。庵戸宮に召され百襲を託されてから三十年、今その子を守している事に不思議なめぐり合わせを感じる。稚武を無事に育て上げる事が自分に課せられた最後の仕事になるだろう。

「もうお休みになったか?」

 御簾の向こうからハクが小声で呼びかけた。

「ええ、もうぐっすり……」

 ヨリはそっと立って御簾の端から縁側に出た。警護をしていたハクは縁側に座っていた。ヨリも隣に座った。

「次の大王は大毘古様になるのでしょうか?」

 弟が王位を継ぐならわしでいけばそうなる。

「いや、大毘古様は固辞されておる。大将軍として役目を全うしたいと仰せなのだ。このままでは埴安はにやす様が就かれるだろう」

「あの方は好きませぬ」

 ヨリは口を尖らせた。ハクは思わずヨリを見た。

「五年前、命からがら帰って来て父大王を亡くされたばかりの伊佐勢理様を処罰せよと仰せになったのですよ。お忘れか?」

 確かに埴安だけは、美作を失った責任を伊佐勢理に負わせようと執拗に大毘古に訴えた。大毘古は殯の期間を謹慎処分として収めたのだ。

「まあものは考えようさ。三代続いて急死なされて、世間では大王になった者は呪われると言われておる。今度もそうなりゃ埴安様がなった方が好都合じゃ」

 ヨリはあまりに不謹慎なハクの言葉に戸惑った。

「口が過ぎる、これ以上大王を失うわけにはいかぬであろう」

 御簾の中から国香の声がした。ヨリとハクは恐縮して、

「も、申し訳ございません」

と、御簾に向かって頭を下げた。だが、よく考えると寝所には縁側からしか入れない。二人の側を通らずに国香が中に入れるはずはないのだ。

 二人は顔を見合わせて、頷きあった。ハクは身をかがめ御簾の脇に剣を構えた。ヨリは御簾に手を掛けた。

「えいっ!」

 一気に御簾を引き下ろした。

 眠っていたはずの稚屋が立っていた。暗がりの中、その身体は砂金のような光を帯びている。稚屋は二人を見て言った。

「久しぶりじゃのうヨリ、母上を呼んでおくれ。急急の折、稚屋を借りて百襲が戻ったと伝えるのじゃ」

 ヨリもハクもあまりの事にその場に座り込んだ。稚武は目をこすりながら首をもたげた。


 翌朝も次期大王を決める朝議は、大毘古の屋敷で開かれていた。阿毎一族のご神体の鏡を祀ってある祭壇の広間には、先に左側に並び席に付いた各国の豪族長たちがすでに言い合っている。高島氏、葛城氏、尾張氏等有力な豪族らはこぞって大毘古を推していた。しかし、彼らを良く思っていない者達は、埴安の名を上げていた。

「ここはとりあえず大毘古様に継いでいただかなくては、人心も治まりますまい。大将軍として立派に役目を果たしてこられたからこそ皆安心できるのです」

と、高島氏が言った。

「そうですとも、それに先の大王方は五十を超えておられた。大毘古様はまだ四十三で偉丈夫であられる」

と、尾張も言う。

 しかし、小橋氏は

「では、国の守りはどうするのですか?大毘古様がいなければ王軍は動かせませぬぞ。埴安様が大王に就かれれば、万事収まりましょう」

と、言う。坂本氏も

「先の大王方とて、お隠れになる直前までご健勝であらせられたのだ。何が起こらんとも限らん」

と、反論した。

「それを申せば、どなたも大王には推せませぬ。本末転倒でしょう」

と、葛城氏。

 そんな堂々巡りの議論を繰り返しもう三日目だった。そこへ日の出と共に王族が入って来た。大毘古を先頭にその弟埴安、後は先の大王らの王子が順にいに少名すくな、刺肩、布都押ふつおし、伊佐勢理

と続いた。

 一同が豪族に向かい合う席に着くと、大毘古が口を開いた。

「どうやら今日でこの悩ましい状況も終われそうだ」

 その言葉でほとんどの者が、大毘古が大王を継ぐ決心をしたと思った。

「どうぞお入りください」

 今王族が入場してきた入口の御簾が再び上がった。頭から薄絹を被り現れたのは五歳ほどのめのわらわだ。広間がどよめいた。しかし、驚きの訳はおのおの違っていた。

 朝議に場違いな女童が現れた事に対し驚いたのは、埴安をはじめ四人程度だろう。他の事情を知らぬ王族と豪族らは、女童がただならぬ威圧感を放っている事、中には女童に重なる巫女が見える事に驚愕した。事前に知らされていた庵戸宮の伊佐勢理達でさえ、その女童が到底稚屋とは思えない。それどころか、人間にさえ見えなかった。

 稚屋は白い上衣うわきぬ、朱の、同じく朱の御須みすをまとい頭に金冠を乗せ首に勾玉をかけていた。目を見張る一同の中、滑るように祭壇の前まで進んだ。鏡の手前には供物が捧げられていて、その両脇に剣と弓矢が置かれている。

 稚屋は弓を手に取って皆に向き言った。

「常には斎宮で行う神事だが、此度に限り皆が納得するようここにて神託を得る」

 その声は大人の女で、大きくはないが広間に浸み渡った。稚屋は大毘古の前に行き向き合った。大毘古は胡坐をかいたまま頭を垂れた。稚屋がその上で力を込めて弓を弾いた。

――ビュン――

 硬く張り詰めた音がした。

次に隣の埴安の前に立った。それまで埴安は、女童に従うつもりはなかったが、何かに押されるように頭を低くして汗をかいていた。

 再び稚屋が弓を弾いた。

――ビョーォーン――

 間延びした音だった。小さな笑いが漏れ、埴安は顔を赤らめた。次に大日比の長子印恵の前に立った。印恵は恭しく頭を下げた。

 弓を弾く。

――ピーン……――

 高く澄んだ響きが広間を包み、その心地よい余韻が皆の耳に残った。

 稚屋はにっこり印恵に笑いかけ、手を差し伸べた。印恵は呆然としたまま立ちあがった。

「この印恵に神託が下った。新たなる大王に皆心して仕えよ」

その場にいた者は誰ひとり意義を唱える事無く、埴安でさえその神託を疑わなかった。ただ、それを良しとするかどうかは別だった。


稚武は庵戸宮の伊呂渡の寝所の縁の下にいた。稚屋が居なくなってから三日、ヨリもハクもどこに行ったのか教えてくれない。しかも寝所から出る事は許されず、ヨリとハク以外の者に会う事も無い。

あの夜、稚屋は恐ろしかった。不思議な光を帯び、大人の声でしゃべり稚武には見向きもしなかった。夢だった……と思いたい。いつもの気が強くておてんばで、でも優しいところもあってちょっと泣き虫な稚屋がいい。夢じゃなければ稚屋の方が寝ぼけていたのか、あるいは熱でもあったのか、稚武はどうしても稚屋に会いたくなって、ヨリとハクの目を盗んで縁の下に入り込み伊呂渡の寝所まで来たのだった。

伊呂渡は稚武を見ても声さえ掛けた事は無いが、兄の狭島は時々二人の所へ来て遊び相手になったりしていた。

稚武はそろそろと這い出て寝所の様子を窺った。御簾越しに人影が見え、声が聞こえた。狭島の声だ。

「ですから、あれは稚屋ではないのです。百襲の姉上が稚屋に移っておられるのです」

 稚武は、聞き覚えの無い「百襲の姉上」という言葉に耳を澄ました。

「本当に日巫女とはそのような事が出来るのか? ……いや、あの百襲ならさもありなん。それならなおのこと、この宮から大王を出せば良かったではないか。そうなればいずれそなたにが大王に就けたかもしれぬ」

 伊呂渡は真顔で言った。狭島はとんでもないという風に首を振った。

「母上、神がかりとはそんな人の思惑に左右されるものではありません。不謹慎です」

「そなたもだんだん堅物の伊佐勢理にもの言いが似てきおったわ。では稚屋はどこに居るのか、身体を百襲に奪われて魂は喰われてしまったのか?」

 息子の狭島に諭されて気を悪くしたのか、答えようも無い問いをなげかけた。

「う……うそだ! 稚屋は居る、喰われてなんかない、稚屋は……稚屋は居るんだ――」

 驚いて狭島が御簾をめくると、顔を真っ赤にして稚武が震えていた。稚武には動揺が大きいだろうと宮内で内密にしてきた事だ。狭島はなんとかなだめようと足を踏み出した。

 その脇の上がりがまちを駆け上がり、稚武が走り抜けた。

「な、なんなの、不躾な……」

 ぶつぶつ言う伊呂渡を後に、狭島はあわてて稚武を追って行った。

 稚武は走りながら手当たり次第御簾をめくったり引き下ろしたり、板戸を開け放ったりしていった。そこここで女御の悲鳴が上がり、それを聞き付けた下男や舎人が何事かと寄って来た。

 狭島は稚武を捕まえようと必死だが、稚武はその手をすり抜け取り付かれたようにすべての間を開けて、稚屋を捜す。やがて最も奥の細媛の寝所へ達した。

 御簾に手を掛けようとしたその時、

――ぐあぁぁぁん、ぐあぁぁぁん――

と稚武の頭の中で割れ鐘のような音が響いた。頭を押さえてうずくまるほどの激震を感じ、転げ回り気が遠くなっていった。

「大后の間を穢したとなれば、この宮には居られなくなるところ――」

 稚屋は柄の付いた小さな銅鐸どうたくを帯にはさんで戻した。そして気を失った稚武を抱き上げた伊佐勢理に向かって言った。

「この子には特別なちからがある。わたしが去った後それは露わになるであろう。御前みさきを付け守らせよ」


 稚武と稚屋はハクと一緒に宮の裏の森に入っていた。稚屋は首から下げた布袋に「スズ」と名付けた雀鷹の雛を入れている。稚武は伊佐勢理が子供の頃使っていた弓矢を携えている。スズの餌を獲る為だ。

 小さくてもスズは鷹。肉を食べさせなければならない。二稚には虫を捕るくらいしかできないが、ハクの狩りに付いて来たのだ。途中でミミズや芋虫を捕ってはスズの口に運んだ。

 そうこうしながら沼地に出た。水辺には川鵜や鴨がいる。ハクはすぐに矢をつがえて放った。

―――パシッ―――

 一斉に鴨が飛び立っていく。矢は一羽の鴨の尾に刺さったが、他の鴨と一緒に羽ばたき始めた。止めを刺そうと次の矢に手をかけたとき、

――ビュン――

 稚武が横から放った矢が、鴨の胸を貫いた。

「おみごと、王子」

 ハクは大喜びして水面に浮いた獲物を捕りに沼に入っていった。

「すごい、すごい!」

稚屋も興奮して稚武の方に足を踏み出し、そのとたん泥に足を取られて前に倒れこんだ。すぐに泥だらけの上半身を起こし慌てて袋の中を覗いてみた。

「スズ……」

 ほんの一瞬だったが稚屋の下敷きになったスズは動かなくなっていた。稚屋の目から涙が溢れ出た。

 獲物を仕留め笑っていた稚武は、顔をこわばらせ稚屋の側へ行ってしゃがんだ。袋の中に手を入れそっとスズを取り出した。

 ぐったりしている。

 稚武は両手でスズを包み口を寄せた。ふうっー、ふうっーと静かに息を吹きかけた。大きな目を潤ませて見つめていた稚屋の前に手を開くと、

「……う、動いた?」

 スズは首を傾げて稚屋を見た。稚屋は一気に笑顔になり稚武からスズを受け取った。

「スズ、スズ、よかった」

 稚屋はスズの頭を撫でながら、

「もう稚武に強くなれって言わない。だってもう弓も引けるし、スズも助けられる強い男子だもの」

 稚武は何も言えず少し赤くなった。

「さあ、帰りましょう。これでしばらくは餌の心配はせんでいい」

 ハクが鴨の足をぶらさげて戻ってきた。稚武は立ち上がり稚屋に

手を差し伸べた。

 しかしそこに稚屋はいない。あたりを見回すと、一面霧が立ち込めてハクさえ見えなくなっていた。

「稚屋……? ハクどこ? 稚屋ぁー……」

 何も見えず足元さえ確かめられず、呼ぶ事しかできない。

――ここ…… ここよ……――

「稚屋、見えないよ」

――今は見えないの。姉上の袖の下にいるから ――

「出てきて、前のようにそばにいて」

――稚屋は姉上と斎宮に上がるの。稚武のそばにはいられない――

「いやだ、斎宮になんか行かないで」

――……斎宮に行っても、稚武のことは忘れないから――

「いやだ! いやだ、いや……」


 目が覚めたのはいつもの離れの寝所だった。あたりはうす暗く、涙が頬を伝っていた。温かく大きな指が稚武の頬をぬぐった。

「おとなしいと思っていたが、やはり男子だな。大したあばれ者だ」

 稚武の横には、伊佐勢理が添い寝していた。稚武はそれでも訊かずにいられなかった。

「……稚屋にはもう会えないの?」

 しばらく様子を窺うように伊佐勢理は稚武の顔を見ていたがやがて、

「明日の朝早く宮を出る。大人しくできるなら見送りも良いが、稚屋とは言葉を交わせぬ―――今は百襲の姉上なのだ」

 稚武はこくんと頷いた。

「でも稚屋も一緒にいるから、わたしの事がわかるでしょう? それでいいのです」

「そうか、では今夜はそなたとここで寝るとしよう。明日の朝共に見送ろう」

 伊佐勢理はそう言うと稚武を引き寄せ腕枕をした。稚武は兄に包まれて久しぶりに安心して眠った。


 斎宮は時の大王宮に設えられる。太瓊が大王で百襲が日巫女であったときは庵戸宮に設えてあった。今は大日比の大王宮がある春日山の麓、いざかわのみやにある。印恵が正式な宮を建てるまでは父王と共に暮らした率川宮で執政する。

 翌朝、門の前には舎人や下男十数名と牛車が迎えに来た。まだ薄暗く星が出ていた。垣に沿って庵戸宮の者たちが見送りに並んでいたが、先ほどまでいた稚武がいつの間にかいなくなっていた。やはり稚屋との別れが辛くなったかと伊佐勢理は思った。やがて笠の上から紗をまとった稚屋が出てきた。

 牛車の後ろの御簾が上げられ踏み段に一足掛けた。

「待って、これを……」

 稚武が息を切らして走り寄って稚屋に差し出したのは、竹かごに入った雀鷹のスズだった。稚屋は動きを止めゆっくりと足を下ろした。紗の下の表情はわからないが、しばらくじっと稚武と向き合った。

 伊佐勢理はその光景に胸が熱くなった。本来ならば母子として出会うべき二人なのだ。だが稚武に知らせぬよう百襲に頼まれた。それが稚武の為だと言った。確かに今の稚武には稚屋との別れを受け止めるだけで精一杯だろう。

 稚屋は稚武の手にそっと触れるようにスズの入ったかごを受け取った。そして背を向けると牛車に乗り込んだ。舎人たちが深々と頭を下げただけで、誰も言葉を発せぬまま牛車は出発していった。

 きっと泣いているだろうと伊佐勢理は稚武の横に並び肩に手を掛けた。しかし稚武は泣いてはいなかった。瞬きもせずただ前をみていた。東の空が赤く染まり始めていた。


 月明かりの下、そろそろ虫の声が聞かれ夜風は肌に心地よい。ヨリはどうやら稚武を寝かしつける前に、眠ってしまったようだ。目を覚ますと隣にいるはずの稚武がいない。慌てて御簾を上げ裸足のままかわやの方へ駆けだした。不意に腕を掴まれた。

「稚武様が!」

 振り返りハクとわかると、ヨリはハクの手を握り締めた。ハクはその手を優しく撫で、

「心配ない、伊佐勢理様が付いておいでだ」

と、言った。ヨリは肩を落とし頬を緩めた。

 稚屋が行ってしまってから稚武は無口になり、笑うことも無くなっていた。心配な一方まだ幼いので直に元のようになるだろうとも思った。だが半年経っても気力はなく、むしろさらに悪くなっていった。伊佐勢理も同様に感じていたのだろう。

 稚武はふらふらとした足取りで宮の裏に出てすすきの原を見え隠れしながら小高い丘の上まで行った。かつて斎宮が建てられていたが、太瓊が亡くなって取り壊され今そこには土台石があるだけだ。稚武はそれの一つに腰を下ろした。

 伊佐勢理はすすきの中に身をかがめて様子を見ていた。すると小さな影があちこちから丘の上に登ってきはじめた。目を凝らすと兎や鼠、狐、狸、鹿。烏や鷺、鳶、梟といった獣達だった。今までの稚武なら驚いて怯えるところだが、いたって穏やかに見えた。

「危険はないか?」

 伊佐勢理はそばにいる十歳程の男子に小声で問うた。

「皆慕って来ています」

 それを聞いてそのまま潜んでいた。

 獣達は稚武の周りを囲みじっと見つめていた。稚武が一羽の兎を抱き上げ膝に乗せると、他のものも輪を縮め肩に乗ったり身体を擦り寄せてきたりした。稚武はいつしか笑みをたたえていたが、それは今までの稚武の笑顔とは違い大人びたものだった。

「わたしもお側に行ってよろしいでしょうか?」

 男子はそう言ってすぐ我慢しきれず白犬になって丘の上に駆けて行った。

「あれが稚武のちからなのか……」

 伊佐勢理は他の獣を押しのけて稚武にじゃれ付く白犬を眺めながら呟いた。こうして見る限りそれは稚武にとって悪くはないもののように思われた。

 現にその夜以来、稚武は少しずつ明るさを取り戻していった。と同時に勉学や武術を熱心に学び始めた。それからも時折夜中に宮を出て行ったが、必ず白犬が付いていたので伊佐勢理もヨリ達に気にする必要はないと言い渡した。


 印恵に神託が下った時、すでに兄弟譲位の糸は途切れた。埴安は率川宮で即位式に参列してすぐに山背やましろの屋敷に帰った。屋敷の前まで来てみると、大王宮に比べてあまりにこじんまりとした我が住処にやり切れなさが湧いてきた。末弟の身に思いもかけず廻ってきた大王の座が、小さな女童に奪われたのだ。それまで埴安を推していた者さえ手のひらを返すがごとく印恵に祝を述べた。自分が大きな戦に負けたことを噛みしめながら屋敷の門を入って行った。

「お帰りなさいまし」

 戸口には妻の吾田あがた媛自ら出迎えていた。宮内の下女より質素ないでたち。さして多くない屯倉みやけからの供出では仕方のない事だ。舎人も采女も一人ずつ、吾田媛も父大王に仕えていた采女の一人であった。それでも不服は無かった。兄の大毘古の下で一将軍として務めていれば王族としての体面も保てたのにただ一瞬、夢を見てしまったおかげでひどく惨めな思いをし、腹立たしいのだ。

 埴安が上衣を脱ごうとすると吾田媛が襟に手を当てて止めた。

客人まろうとがおいでになっております。そのまま奥へ」

 奥へ通す客など心当たりがなかったが、言われるままに奥の間の御簾を上げた。恭しく頭を下げている男はきちんと衣袴をつけていて豪族のようだった。埴安は少し緊張して男の前に座った。

「面を上げて名乗られよ」

 男はゆっくりと身体を起こし埴安に目を合わせると微笑んだ。

「私は吉備の三次から参りました句須くすと申す田舎の小県こあがたぬしでございます」

 吉備の西の端にたしか三次という処があったことを思い出した。吉備は統べて大和に従順で備前の高島氏などは朝廷でも重用されていた。

「遠いところをわざわざ何用であろう」

 ひとまず悪い話ではないような気がして埴安は落ち着いた。

「先ごろの大王ご選出の件でございます」

 思い出したくもない事を切り出されて顔が引きつった。

「ご神託を下されたという稚屋媛は先の日巫女百襲媛の移り身でございます」

「なに? どういうことだ?」

 埴安は首を傾げた。句須の目が光った。

「庵戸宮に出入りしている商人の言うことに、倭媛が稚屋媛に向かって『百襲』と呼びかけたのを聴いたとか」

 言われてみれば、稚屋が神託を下したとき大人に見えたとか言っていた者が幾人かいた。百襲は今までも日巫女の中でも抜きんでた力があったという。特に鳥飛びの術という魂を他のものに宿す技に長けていると聞いた事がある。埴安には別世界のことと思ったものだ。

「それがどうした。たとえそうでも、いやそれならなおのこと確かな神託ということになろう」

 埴安は投げ捨てるように言った。句須は頷いて前のめりになると声をひそめて言った。

「百襲媛はすでに常乙女とこおとめではございません。六年前に子を孕み斎宮を逃げたのです」

「な……んと?」

 句須はさらに顔を近づけ頷いた。埴安は愕然とし、すぐには何も考えられなかった。

「資格のない日巫女のご神託に意味はありません。それどころか皆様を欺いた罪は重大ではありませんか?」

 埴安ははっと我に返った。

空事そらごとを申すか、何を根拠に―――」

と、睨みつけたが句須は目を逸らさなかった。近づいた分身体を戻して居住まいを正した。

「私の甥は美作で関兵せきへいをしておりました。六年前夜番のおり一人の身なりの良い女人とお付きの者と思われる男が来て、関守の伊佐勢理様に取り次ぎを求めたのです。伊佐勢理様はその女人を見て『姉上』と確かにおっしゃった。そのあとどうしたのか知らされる事は無かったのですが、三月ほど経つと屋敷のどこからか時々赤子の泣き声が聞こえてくるようになったそうです」

 埴安は具体的な内容にごくりと唾を呑んだ。句須は続けた。

「そんな折、突然の夜襲があり、美作の関は大混乱に陥り伊佐勢理様は兵を率いて打ちで、甥たち関兵は屋敷にいた者を逃がそうと見回っていたのです。ふと屋敷の傍らを流れている谷川に目をやると、あの時の女人が赤子を抱いて座っていました。お付きの男と幼い童がそばに立っていて、嵐の中だというのにそこだけ仄明るく見えたそうです。女人が赤子を切り株の上に置くと赤子が消えたようにいなくなったというのです。男が切り株を川に流している間に童もいなくなり、小さな犬が走って行きました。女人は力尽きたようにうなだれ、男は女人を抱き上げるとためらいもなく深い森に入って行ったというのです」

 そこまで話すと、句須は一息ついた。埴安は何も言わずしばらく考え込んだ。伊佐勢理が姉と呼ぶのは百襲しかいない。日巫女の力を持つ百襲なら赤子に呪を掛け消すことも出来た。姿を現さず稚屋に乗り移ったのは男と離れたくないからか。辻褄は合う、が証拠はない。

「その赤子はどうなったのだ?死んだのか」

 呟くように問いかけた。

「そうかもしれません、でも生きていれば五歳です」

 五歳……稚屋ではない。国香が身ごもった時国を挙げて祝をした。その腹が高くなる様子を周りの者が気にかけていた。

「……稚武か? 太瓊の兄上の殯の間に生まれたのだあれは」

 埴安は句須を見た。

「確かめたいとおぼしなら、一つ良い考えがございます」

 そう、確かめたい。百襲の子なら神託はならず、印恵も失脚する。日巫女の罪を暴けば今度こそ自分に大王の座が手に入る。埴安の頭の中は沸騰した。

「良い考えとはなんだ、申せ」


 雪がちらつき始めると獣達もあまり姿を見せなくなってきた。相変わらず白犬だけは側にいたが、稚武も丘から離れ、だんだん宮が見えない所まで足を延ばすようになっていた。目的は無い。ただ荒涼としていても人のいない自然の中にいると心が安らぐのだった。

 そろそろ戻ろうと谷川に下った。川沿いに行けば宮の裏に繋がっている。川面に波立つ風が一瞬雪を舞わせた時、白犬が毛を逆立てて低く唸った。

「うるるぅぅぅ……」

 稚武は何かの気配に身構えた。

――ザザザッ――

 五人の男らが崖を滑り降りてきてあっという間に稚武を囲んだ。

 崖の上には頭巾で顔を隠した埴安と句須がいた。

「捕らえよ!」

その声と同時に白犬が男の一人に飛びかかった。男の首に噛みつき逃れようともがく男に執拗に食らいついた。だが、その間に他の男が稚武を抱き上げ崖を登って行った。

犬は噛んでいた男を離し稚武の方へ行こうとした。

「ぎゃん……」

 犬は別の男にこん棒で叩き飛ばされ川べりに横たわった。埴安ら一行は噛まれて動かなくなった男を残し、

「行くぞ、長居は無用じゃ」

と、稚武を連れて大木の下に止めてあった馬車に向かった。

「いや、離して! 離して、んぐっ……」

 句須は稚武の口に布を押し込んで黙らせた。そして馬車に乗せ手足を紐で縛り動けないようにした。その手際の良さに埴安は目を見張った。

馬車引きは馬に鞭を入れた。しかし馬は前足をばたつかせるだけで一向に進もうとしない。男たちは二頭の馬のくつわを取り引いてみるが、首を振って抵抗する。焦れた句須が馬車を降りると、さっきの白犬がいつの間にか馬車の前方に立っていた。さては馬が犬に怯えているのかと思い、句須は手刀を抜き犬に近づいて行った。

「うおぉーぉぉん」

 犬が喉を上げて遠吠えした。すると軽い足音と共に何十という犬が白犬の背後に並んだ。句須は驚き一歩後ずさった。

「これはいけません、ひとまず引きましょう」

 埴安にそう促してさらにじりじりと後ずさった。埴安も急いで馬車を降りたが、ここで稚武を手放すのが惜しい気がして稚武を連れて行こうと腕を引いた。

「ぎゃあ!」

 白犬がすかさず高く跳びあがって埴安の肩に食いつき引き離した。

「うわぁぁぁ……」

 白犬は唸りながら埴安を攻撃した。

「うう、げふっ、や、やめよ!」

 稚武がもがいて布を吐き出し必死で犬を制した。白犬は離れ埴安らを睨みながら稚武の前に立ちはだかった。句須は血だらけになった埴安を男達に負わせ、急いでその場を逃げて行った。

 彼らの姿が見えなくなると犬達も姿を消していた。白犬は、大きく息を吸い長く吐いた。その間に人の子に姿を変えた。稚武は目を丸くした。犬だった子は稚武の紐を解いた。

「そなたは人なのか?」

 稚武は首を傾げて訊いた。

「わたしは人外と呼ばれております。名を夜目アケルと申します」

 アケルはにっこりと笑ったがその口元は血まみれだった。稚武が袖で血を拭ってやると、アケルは頬を染めて顔を背けた。

「不躾で申し訳ありません。着る物もありませんがこのまま宮までお送りいたします」

 そう言って馬車引き台に座ると後ろからふわりと何かが掛けられた。稚武が自分の綿入れ上衣をアケルの肩に掛けたのだった。稚武はそのままアケルの横にちょこんと座って

「毛皮がなくて寒かろう」

と言った。アケルは胸が熱くなりながら返す言葉もなく稚武を脇に抱え手綱を持った。さっきまで頑なに動かなかった馬は軽やかに走り出した。


 庵戸宮に帰ってアケルは伊佐勢理に事の次第を報告した。伊佐勢理は翌朝アケルと共に昨夜の現場を訪れた。

「ここで賊の一人が息絶えたはずなのですが……」

 アケルは河原の血の跡を指して言った。しかしむくろは無かった。崖の上にも上がってみると稚武の口を塞いでいた布が落ちていたので、伊佐勢理は拾い上げ眺めた。それは絹でもちろんそれなりの身分でなければ持てない物だった。

 伊佐勢理はこれからも稚武が狙われることを考えて、アケルを宮内に召して稚武の側仕えにした。

「アケルが人外だということはハクとヨリしか知らない。宮内では人として振る舞うのだぞ。稚武も口外してはならぬ。女人方が知ればただでは済まぬからな」

「はい! 兄上」

 稚武は稚屋を失ったさみしさが吹き飛んだように喜んだ。


「なんと! 何故このようなこと―――」

 迎え出た吾田媛は血まみれて唸っている埴安にすがりながら、句須を睨んだ。句須は申し訳なさそうに顔をしかめて、

「山犬に襲われたのです。正体を暴かれるのを恐れて百襲媛が差し向けたのでしょう」

と言った。

とりあえず埴安を寝かせ傷の手当てを始めたが、肩の噛み跡以外にもあちこちに爪痕があった。頬にも口の端から耳にかけてまるで口が裂けたような深い傷が刻まれていた。吾田は涙を流しながら傷を丁寧に洗い薬草を貼った。

その後、吾田は句須に向かい合って座った。

「わたくしは許せません。自らの悪事を隠すためにわが君をこのような目にあわせるとは……何とかならぬものか?」

 吾田の目は怒りに燃えていた。句須は頷いて言った。

「無論でございます。埴安様の回復を待ってこの句須が必ずお力になります。それには時をかけて充分な準備をいたさねばなりません。ここに備後びんごから兵を呼び、調練したいと思います。お許しいただけますか?」

「かまわぬ、わが君のため存分に働いておくれ」

と、一も二もなく承知した吾田であった。

 句須はどこからか人夫を連れてきて屋敷の隣に兵舎を建て、柵をめぐらせた。兵は目立たぬよう二、三人づつ集まってきた。しかもその出で立ちは大和の兵とどこか違っていた。ともあれ兵糧は切れ目なく運ばれてくるし、埴安は『王』と吾田は『后』と呼ばれ敬われたので二人は句須の言うようにいずれ大王の座に手が届くのではないかと信じていった。

 埴安は傷が癒えると朝議に参加した。もうすでに王位継承権を外れていたので発言権は無く、ただ様子を窺っているだけだが句須から必ず朝参して成り行きを見ておくように言われたのだ。

 朝廷はすでに印恵の体制になっていた。若いが学識深く冷静な判断力で上奏を的確に処理していた。迷ったり困難に思われる時は必ず日巫女の神託を仰いだので、皆安心して従った。

 その日も滞りなく終わり席を立った埴安に、

「叔父上、その頬の傷はどうされたのですか?」

と、伊佐勢理が声をかけてきた。アケルが付けた爪痕はあまりに深かったので、まだ生々しかった。おそらく生涯残るだろう。ぎくりとしたが言い訳は考えてあった。

「足を滑らせて馬から落ちて木の枝で擦ってしまったのだ。しくじったわ」

 埴安はそう言うとそそくさと去って行った。その後ろ姿も少し傾いてどこかを庇っているように見えたが、相手は叔父なのであまり詮索できない。大毘古にも迂闊なことは言えなかった。

 それからというもの、埴安は腰軽く朝参し大王軍の調練にも熱心に参加し始めた。ただ犬飼部にだけは決して近づかなかった。


 二年が経ち、印恵の新しい宮が完成した。日巫女の神託により三輪山の麓に建てられ『水垣宮みずがきのみや』と名付けられた。率川宮からの遷都は王族・豪族を伴って盛大なものだった。

 沿道には切れ目なく民が並び、ひときわ高く設えてある大王と日巫女の輿を見上げ恐れ入った。下々の民にとって大王や日巫女などは話に聞くだけだったので、輿の中とはいえ見たのは初めてだ。しかも秋口でまだ陽のあるうちは暑いので印恵は途中から御簾を上げた。

「ああっ、なんと若く美しい」

「光に満ちておいでだ!」

 印恵は二一歳。色白で容貌にも恵まれていたので、このような大王なら国の行く末も明るいと、皆口々に言い合った。

 稚武もアケルと一緒に少し離れた木に登って行列を眺めた。稚屋の気配を感じ取ろうと日巫女の輿を見つめているとすいっと羽音もなく鳥が迫ってきた。

――稚武! ――

 思わず木から落ちそうになったのをアケルが支えた。その鳥はすっかり大人の雀鷹になったスズだった。そして呼びかけてきたのは稚屋の声だ。輿の屋根に帰ったスズを見て、稚武は胸がいっぱいになって涙が流れ落ちた。

 アケルはしっかりと稚武を抱きとめ、

「ようございましたな……」

と、笑った。稚武は頷きながら輿を見送った。



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