第2話 美作襲撃

 と……とん、と……とん、と……

 ヨリはそれが雨音ではなく、意志を持った呼びかけであると気付いた。夜明けまでまだ間があるが、音の主を確かめようと身じろいだ。

「ええ、わしが行く」

 ハクがヨリの肩をそっと撫でて、身体を起こした。すでに五十路を越えてはいるが、吉備国造の兵として働いてきた。腕には少々自信があるのだ。

 土間に下り、かまどから火吹き棒を持ってきて、戸口に立った。

「何者じゃ。用があるなら名を申せ」

 ハクの声に戸を叩く音がぴたりと止んだ。

「……くぅーん」

 それは弱く幼い鳴き声で、あきらかに人ではなかった。

 ハクはゆっくり戸をすべらせた。泥にまみれた赤子ほどの塊が、うずくまってハクを見上げていた。

「仔犬のようですね。昨夜の嵐に親とはぐれたのでしょう」

 いたいけな声に思わず寄って来たヨリが、ハクの肩越しに覗きこんで言った。

「釜に湯が残っているな、洗ってやろう」

 ヨリは仔犬を抱き上げて、ハクはかまどの上の土釜をかかえて星明かりの中、外の井戸端に行った。

 井戸の水と釜の湯を混ぜながら少しずつ仔犬に流していくと、どこまでも白く混じりけのない白犬になった。

 そして、

「これは……」

と、ヨリが触れたのは首に付けられた珠飾りだった。問いかけるように仔犬を見ると、ヨリをじっと見つめている。

「そういうこと」

 ハクはわけがわからずにいると、ヨリは珠飾りに手をかけ結び目を解き仔犬の首から外してやった。

 ハクは驚いてヨリを見た。その間に支えていた仔犬の毛の感触が無くなり、触れているのは裸の人の子になっていた。

「おおっ?」

 さすがのハクも尻を着いて後ずさりした。

「何があったのです?」

 ヨリはすかさず犬だった子供に問うた。

 子供はすぐには言葉にならない様子で、口をぱくぱくさせた後、

「み、美作みまさか世関せのせきが襲われたのです。わたしは百襲ももそひめから王子をお守りするように申しつかり参りました」

 子供は五歳くらいで口調もたどたどしいが、はっきりと受け答えた。

「王子とな、その王子はどこに?」

「媛は王子を川に流されました。朝には長船あたりを通るから、ヨリ様の手を借りてそこで拾うようにと御命じになったのです」

 そろそろ東の空が瑠璃色に変わり始めている。ハクは驚くのをやめて立ち上がった。

「急がんと、雨で流れが速ようなっとる。海に出てしもうたら、大変じゃ」


 美作に関所が造られたのは二年前。このごろ出雲に詣でる豪族や族長が増えているようだと報告があった為だ。美作は出雲に通じる街道の要所で、太瓊ふとに大王のおおきみ(考霊天皇)は信頼のおける息子、伊佐勢いさせりの王子をその守りに就かせた。

 かつてヨリは王居のいお戸宮どのみやで乳母をしていた。ハクとの間の子供を亡くした頃、百襲媛が生まれ大和に召され、そのままさしかた王子、伊佐勢理王子と仕え七年前に備前に帰ってきた。ハクはヨリをずっと待っていてくれた。

その縁で伊佐勢理が美作に赴任する道中たち寄ったのだが、その時には伊佐勢理の姉である百襲媛はいなかったし、媛に王子ができたという話も聞かなかった。

 それに百襲は八歳の時から日巫女を継ぐ者として斎宮さいぐう殿でんに住まい、大王以外の男子とは顔を合わせる事も出来ないはずだ。それなら禁を犯し子をなして、伊佐勢理の元に身を寄せたということか。

 大罪である。

 ヨリは考えれば考える程、事の大きさを懸念するのだった。

 ハクはヨリと子供を乗せ、朝靄あさもやを分けながら河原へと荷牛車を走らせた。

「名は何という?」

 とりあえず身体に布を巻き体裁を整えさせた子供に訊く。

「アケルといいます。父は犬飼部いぬかいべ夜目やめタケルです」

 それで納得した。子供といえども軍用犬を率いる犬飼部のつかさの息子だから、王子の守りを任されたのだろう。夜目一族は人外じんがいと呼ばれる半獣人だが、王家に忠義を尽くしてきた。

「襲ってきたのは何者だ?伊佐勢理様は無事なのか?」

 ハクは牛に鞭を入れながら、また問うた。

 アケルは目を伏せ首を振った。

「夜中でしかも嵐でした。父も伊佐勢理様に付いて抗戦に出ましたが、それっきりで、わたしは媛に命じられるまま犬の姿に封じられ出て行きましたので、後の事はまったく判りません」

 ヨリはアケルに手を伸ばし頭を撫でた。

「二年前に一度来ただけなのに、よく覚えていたものですね。大丈夫、王子は必ず見つかります」

 そうしたうちに荷牛車は川辺に着いた。もうはっきり顔が見えるほど、日の出は近付いていた。

 アケルは牛車を飛び下り布をはぎ取った。川原を上流へ走りながら、その姿は犬に変わっていった。鼻をひくつかせ川面に目をやる。濁った水に多くの木片や枝が流されている。

 立ち止まる。鼻をくいっと上げ何かを察知したように、今度は川に向かって走り込んだ。

『本当にここまでたどり着くんじゃろうか?』

 ハクは浅瀬に入り、しばらく半信半疑で上流を睨み待ち構えていた。

「わん、わん、わん」

 犬の声が近付いて、見ると白い犬が切り株に乗って流れてきている。

ハクはこれぞ、と思い流れを掻き分け両手を広げてその木を捕まえた。アケルは木から下りて泳いで岸へ向かった。ハクは木を抱えて川から上がり、ヨリの前にそっとそれを置いた。

 だが、どこから見てもただの切り株で王子には見えない。

「アケルよ、これで良かったのか?」

 問われたアケルは再び人の子になって、布を身体に巻きながらヨリに言った。

「さきほど解いた珠を……」

 ヨリは懐に入れておいた珠を、てのひらに乗せてアケルに差し出した。アケルは木のくぼみに一つ一つ珠を選びはめていった。八つの珠で外に円ができ、残りの大きな四つが上下左右に収まった。丁度そこへ東の山間から朝日が差し込んだ。

 すると、珠が一斉に輝き、丸太片が震え始めた。

――ピシッ……――

 縦に亀裂が入り、甘い香りが流れ出た。

 ヨリが引き寄せられるようにその亀裂を指でなでると、左右にゆっくり開き、中には絹の布にくるまれた赤子が眠っていた。赤子の足下には乳色の桃が一つ添えてあり、さらに強く香った。

 ヨリは赤子を抱き上げ目を細めて見つめた。

「なんと、美しい……」

 ハクは転がり落ちた桃を拾い、

「この匂いがしるしだったのか、さすがは犬飼部だ」

と言ってアケルに笑いかけた。アケルもほっとして笑い返した。

「この王子の御名みなは?」

 ヨリの目は赤子に釘付けだ。アケルとハクもヨリの腕の中を覗きこんだ。

百武ももたける王子のおうじと申されます」


 赤子を家に連れ帰り、ヨリはすぐに朝餉の粥を炊いた。ハクとアケルに取り分けてから、赤子を膝に乗せ粥の上澄みを匙ですくい慎重に赤子の口に運んだ。

アケルは粥を食べ終え一日ぶりの食事に満足し、椀を置いた。ハクも最後の一口をずずっとすすり終えると、アケルに問うた。

「さて、この王子はどういう素性なのだ?」

 アケルは二度ほど瞬きをして目線を落とした。

「……王子の事は、伊佐勢理様とごく一部のお世話役にしか知らされていません。媛は年の始めにたった一人の供を連れひっそり美作に来られ、春先に王子をお産みなさいましたが、皆に固く口止めを…」

 ハクはそれを聞いて眉を上げてヨリを見た。ヨリは赤子に目を向けたまま口を開いた。

「夜目一族は優れた耳と鼻を持ち、人の知恵もある。ゆえに主の秘め事をけっして漏らしてはならぬという掟があるのです」

 ヨリはそこまで言うと、顔を上げてアケルを見た。

「されど百襲媛に託されたこの王子をお守りするには、すべてを知らねばなりません。どこかに流されてしまうやもしれぬ危険を冒してまでも王子を美作から逃がしたのには、わけがあったはず。知っているのでしょう、王子の父君はどなたなのか」

 アケルはしばらく考えていたが、やがて決心した。

「そうですね。媛はヨリ様に託されたのですから……わたしにはその名の方が判りませんが、伊佐勢理様と媛のお話を漏れ聞いたところ、『ミワ王』とおっしゃいました」

 ヨリの王子を抱く手に力がこもった。

「ミワ……『三輪王』?」

 尋常ではないヨリの驚きにハクが言った。

「ミワ国?そんな国は知らんな、どこにあるんだ?」

「……大和の三輪山じゃ、大神おおみやの宮の主……」

 ヨリは震えながらも王子をしっかりと抱きしめた。

 ハクも大和の三輪山なら知っている。誰も見た事はないが、そこには確かに伝説の王がおわすという。

穴牟遅なむち王か!」

 アケルは二人の驚愕する様に、とんでもない事を言ってしまったのではないかとうろたえた。

「あ、誤りやもしれません。きっと聞き違えたのです、きっと……」

 ヨリは大きく息を吐き自分を落ち着かせた。そして、深く息を吸い込んで言った。

「これで合点がいった。阿毎と穴牟遅の血が交わったこの王子は良くも悪くも大きな宿命を負っている。そのような存在が表沙汰になれば、利用されるか殺されるかはかりしれません。それゆえ媛は最も信頼のおける弟君、伊佐勢理様を頼って身を隠されたのでしょう」

 ハクは瞬きもせず、ヨリの言葉を聞いた。

「じゃあ美作が襲われたのはそのせいなのか?穴牟遅等が媛の居所を突き止めたのか?」

「そうかもしれません……でも日巫女といわくつきの王子ならだれが欲しがっても不思議はないでしょう。ここも安全とはいえません」

 アケルもハクもふいに寒気がした。

 ヨリは王子を抱いたまますっと立ち上がった。

「大王が居られる庵戸宮にお連れしましょう。百襲媛の母君、大和の国香媛の元へ」

 ヨリが固く決心したことを察し、ハクも立ち上がった。

「よし、わかった。大和へ行こう」

 そのまま身の回りの道具や食べ物を揃えはじめる。ヨリも王子を寝かせてアケルに任せ、衣類などを支度する。そうしながら、

「おまえ様、もうここへは帰れぬやもしれませぬ。大和へも無事に辿り行けるかどうか……」

と、言った。

 ハクは手を止める事もなく、

「おまえの側がわしの居り場所じゃ。死ぬるならやはりおまえの側がええ」

とぶっきらぼうに答えた。

 陽が高くなる前にハクは牛車に荷を積み皆を乗せると、村の誰にも告げずに住み慣れた家を後にした。頭上には抜けるような青空が広がっていたが、北の山々の峰には時おり光る低い雲が立ちこめており、不穏な気配を漂わせていた。


 霧のような雨が絶えず肌を湿らせている。冷えと飢えとで、ともすれば失いかける意識を、伊佐勢理はなんとか保って馬の背にしがみ付いていた。この深い森で馬から離れれば、抜けだす事はおろかのたれ死にしてしまう。すでに夜が明けているのかもしれないが、それも厚い雲に覆われていて定かでは無く、はたして馬がどこに向かっているのかもわからない。

「わがみこ、この尾根を越えたところに肉の焼ける匂いがいたします。わたしが先に行って分けてもらいますゆえ、後からおいで下さい」

 その声にはじめて夜目タケルが側に付いている事に気付いた。声も気配も無かったので、とうにはぐれたと思っていたのだ。

「気を使うなタケル、お前とて……精魂尽き果てておるだろう」

「平気です、馬から落ちぬようお気をつけておいでください」

ざわっという音と共にタケルの気配は闇に消えた。

なぜこのような事態になったのか。突然の襲撃とはいえ数では勝っていた。なのにやいばを交わせば剣はことごとく折れ、矢は鎧に跳ね返された。武器の強度がまるで違っていたのだ。歯が立たぬ相手と判れば無駄に兵を失いたくない。すぐに大和に退くよう命令を下し、皆散りぢりに逃げて行った。正体さえ判らぬ相手に大王軍が降伏するわけにはいかなかった。

姉の百襲媛は赤子を伴い先に逃げたはずだが、それを確かめるすべもない。ただ、相手の目的が百襲なら命を奪われることは無いと信じたかった。

それでもタケルがいてくれたのなら、確かに大和に向かっているはずだ。伊佐勢理は心強くなり、そうなると腹も減ってきた。尾根の向こうに待っているタケルを想い浮かべ、ぐっと身体を起こし手綱を握り直して坂を上がって行った。


山の向こうに雨は降っていない。雲間から薄日が差して眼下の谷を照らしている。ゆるい傾斜を進んでいくとそこだけ開けた川原に出た。なるほどそこには火を焚いている者がいて、肉を吊るして焼いていた。

火の側の男は顔を上げて、

「美作の関守の伊佐勢理様ですかい?」

と、声を掛けてきた。

「そうだ。ここに供の者が来たと思うのだが……」

 男は頷いて、

「おいでになりました。あなた様がいらしたらこの肉を差し上げるように言われました」

 男は吊るした肉を山刀で削いで木の枝に乗せて差し出した。

 伊佐勢理はその香ばしい匂いに生唾を飲んだ。さっそく馬を降り男の側へ座ると、肉を受け取り食べ始めた。男は気前よく伊佐勢理が欲するままに肉を削いで渡した。

 やがて満腹になり、伊佐勢理は立ち上がり川岸に行き手で水をすくって飲んだ。顔もざっと洗い袖口で拭きながら男の方へ戻った。

「ごちそうになった。何か礼をしたい。大和に帰ったら届けさせたいが、何が良い?」

 男は下から伊佐勢理を見上げた。

「礼ならもうお供の方から頂いております」

 伊佐勢理は首を傾げた。タケルは身一つで戦う。剣・弓矢・鎧など値打ちのある物を持っているはずはない。伊佐勢理は初めて男を怪しんだ。

「……タケルは、供の者はどこだ?」

 剣の柄に手を掛け、男を睨みつけた。

 男はゆっくりと、火の上に吊るされ削がれた肉を指差した。

「な……なんということを!」

 驚愕のあまり二、三歩後ずさり踏みとどまった。

「おのれ、さては物の怪か?」

 男は目を見開いて激しく首を横に振った。

「わ、わしはただの猟師でさぁ、頼まれたことをしただけで……」

 そう言って背後から丸い塊を両手で掴んで伊佐勢理の前に突き出した。

「どうかお許し下さい、わが命」

 喋ったのは人型のタケルの首だった。

 伊佐勢理は崩れるように膝を付き、にじり寄りタケルを見つめた。

「ここまでお供して参りましたが、合戦で多くの血を失い大和まで生きてはおられませんでした。せめてわが命にこの身を食して頂けば、力を得て大和に帰る事もでき、血肉となりてこれからもずっと共に居られます。これ以上の誉はありません。この者には無理を言う代わりに、決して凍える事のないわたしの毛皮を与えました。お叱りにならぬようお願いいたします」

 タケルはそれだけ言うと、本当に安らかに目を閉じた。

「うおぉぉぉぉ……」

 伊佐勢理はタケルの首を男から抱き取り、声を上げて泣いた。時を忘れ涙が枯れるまで泣き続けた。


 猟師の男は、残りのタケルの肉をきれいに削ぎ取り竹の葉で小分けして包んだ。それを馬の鞍にくくり付けながら言った。

「これで大和まで大丈夫でさぁ」

 伊佐勢理はその間に、タケルのみずらを結い直し顔を拭き自分の肩当てを外して丁寧に包んだ。立ち上がってそれを男に手渡した。

「すまぬが頭と身体を共にして塚を造ってくれないか。タケルの仇を討った後必ず参るゆえ」

「承知しました。あなた様がおいでになるまでわたしが守をいたします」

 男はタケルの首を押し頂いて頭を下げた。

「そなたの名は?」

 伊佐勢理は馬を跨ぎ手綱を握って問うた。

「イナオと申します」

「ではイナオ、世話になった。いずれまた」

 伊佐勢理は一瞬イナオの腕の中のタケルを見て、遠くの青空を背にした林の方に馬首を向けた。馬は後ろ立ちし、一声上げると林の中に駆けて行った。

 イナオは足音が聞こえなくなるまで川原に佇んでいたが、タケルの首をそっと石の上に置いて骨を集め始めた。

「…人外のくせに人に仕えるなんて気が知れんと思うたが、あれほど惜しんで泣いてくれる主様なら悪かねえなぁ」

 そう言うイナオは気が抜けたのか、足の間にふさふさした大きな尻尾をのぞかせていた。狐の人外だった。


 大和に近付くにつれ、散り散りになっていた兵達も合流して、懐かしい景色が見られるようになった頃には千人程になっていた。元の半分だった。皆大王軍の大将軍、叔父の大毘おおびが厳選して伊佐勢理に与えた精鋭だった。美作を追われ、多くの兵を失い弁明の余地は無い。重い処罰を覚悟してあらましを早馬に託して父太瓊ふとに大王と大毘古に知らせておいた。

 やがて生まれ育った王居、庵戸宮が見えてきた。門の前にいた舎人は伊佐勢理の姿を見つけて駆け出した。足がもつれてひどくうろたえている様子に伊佐勢理も馬足を速めて近寄って行った。

「お、大王が、大王がお隠れに!」

 舎人は走り寄りながら叫んだが、伊佐勢理には言葉の意味が呑み込めない。だが、兵達はざわめいた。

「何を言っておる……?」

 舎人は伊佐勢理の反応が鈍いので、大きく深呼吸して言い直した。

「太瓊大王が、たった今、お隠れあそばしました」

 信じがたいことだったが、考えるより先に伊佐勢理は馬を蹴った。門に駆け込み宮に上がり風を切って奥へ進む後ろを、宮仕え達のすすり泣きが追いかけて来る。父の寝所の御簾の側に泣き崩れている女官の一人が気付いて、

「伊佐勢理王子がご帰還でございます」

と、中へ声を掛けた。伊佐勢理はその間に御簾を払い中に入っていた。

 一瞬にして伊佐勢理は動けなくなった。

 太瓊は何か恐ろしいものにでも出会ったように目は大きく開かれ、眉はつり上がり今にも叫び出しそうに見えた。その周りを囲んでいる大后細媛おおきさきほそひめ、伊佐勢理の母国香媛をはじめとする后とその子達は、悲しみ以上に恐怖に駆られ顔を背けて震えていた。

 情け深く親しまれてきた父王のあまりに異様な死に様に、憤り我に返った。

「父大王、伊佐勢理が戻りました。ご安心ください」

 そう言うと、皆の間をすり抜けて大王の側へ両膝を付いた。指を二本口の前で立て、

「百鬼退散、かむなお大直おおなお、急急如律令……」

と、唱えふっと指に息を吹きかけ大王の顔を上から撫でおろした。すると、目は閉じられ頬は緩み安らかな表情になった。

 しかし、息をふき返すわけではなく、伊佐勢理はそのままそこに座りこみ、力ない父の手を握った。

「いつから伏せっておられたのですか……?」

 大王の落ち着きを見て安堵した細媛が、伊佐勢理の側へ座りなおした。

「昨日、朝廷の席でお倒れになったのです。それからずっとうなされておいでであった。おいたわしいこと……」

「それほど突然に、何の病だったのですか?」

 細媛は首を横に振り言った。

「どの薬師にも判らなんだ。祈祷もさせたが、無駄であった」

 大王は六三歳。老齢ではあったが、病の兆しは無かった。伊佐勢理が美作にいる間も変わりなく過ごしていた。それが倒れてたった一日でこのような死に様があるものだろうか。

「それにしてもなぜ大和に帰ってきたのだ?そなたは特に父王が可愛がっておられたから、虫が知らせたか」

 さっきまで御簾の影でうずくまっていた兄のさしかたが、平静を装うように後ろから声をかけた。

「そうに違いありません。伊佐勢理の兄上が帰って、やっと父王は安らかにおなりになった」

 異母弟のしまもまだ震える声で話しかけた。

 伊佐勢理はそっと立ち上がりふたたび大王を取り囲む皆を後に、何も言わず廊下に出た。外の明るい日差しに目眩がしてふらついた。

「よくお帰りになられました。御無事で何よりです」

 後ろから手を添えて脇を支えたのは、母の国香であった。そのまま腕に抱かれたい衝動に駆られたが、

「姉上に教わった『まじ』が幸いしましたが、少し『』を奪われたようです」

と、踏みとどまって国香に言った。国香はにっこり笑った。

「葬儀もあるので、大毘古将軍の元へは後日になさいまし」

 その言葉から、母は美作の件を大王から聞かされていたのだろう。

「それは……できません。それとこれとは別ですから」

 伊佐勢理は母の手を握り目で頷いた。そして背を向け廊下を下りて馬屋に向かった。


 大王身まかるとの知らせを受け、大毘古は急きょ調錬を切り上げ屋敷に戻った。門の前で待ち構えていた舎人が、馬を引き取りながら

「庵戸宮から伊佐勢理様がお越しです」

 と、伝えた。大毘古は少し眉を上げ

「どこにおる?」

と、訊いた。舎人は伏し目がちに言った。

「奥の回廊の前にむしろを敷けとの仰せにて……」

 大毘古は屋敷の裏に歩いて行った。長い夏の西日がひれ伏した伊佐勢理の背を焼いている。大毘古の気配に気付くと、さらに低くなり絞り出すように口を開いた。

「申し訳ございません、美作を失いました。すべてはわたくしの落ち度でございます」

 大毘古は伊佐勢理の前に立ち、しげしげと見つめた。身ぎれいに整えてはいても、衣は擦り切れ、そこから覗いている手足は傷だらけだ。身体は細り骨が浮いている。

「顔を上げよ」

 ゆっくり身体を起こした伊佐勢理は、口を一文字に結び、眉を寄せていた。大毘古はその前に片膝を付いて、

「出雲か?」

と、言った。

 伊佐勢理は首を横に振って答えた。

「判りません。見極める事もできず、いただいた兵の半分を失いました。どうぞご沙汰をお下しください」

 大毘古は鼻から息を吐いた。

「相変わらずじゃのう。伊佐勢理よ、そなたは虫の知らせで大和に帰ったのだ。その後美作がどうなろうと知る由も無い」

「伯父上、それでは……」

 伊佐勢理は思わず身を乗り出したが、大毘古はすっくと立ち背を向けた。

「それより兄大王の事。昨日調錬に出る前は、変わらぬご様子であった。そなた、臨終に立ち会うたか?」

 そう問われれば答えないわけにもいかない。

「恐ろしいご面相でみまかられた後で、『呪』を唱えると和らぎました。尋常ではないと思われます」

「……やはりな」

と、言って大毘古は回廊の縁に座った。怪訝な顔の伊佐勢理を横に座るよう目で促した。伊佐勢理は立ち上がりおずおずとそこへ座って大毘古の言葉を待った。

「百襲が斎宮から居なくなった事は知っておるな」

 百襲を美作に匿っていた事を大毘古は知らない。後ろめたい思いで頷いた。

「いたしかたなく新たな日巫女が決まるまで先の日巫女、千千ちぢ様に就いていただいておる。すでに夢もうつつも定まらぬ方だが、このところ日がな一日同じことを歌っておいでだと兄大王から聞いていたのだ」

 伊佐勢理は叔父の顔を見つめた。

「~大神は去ぬ、三輪はから~と……」

 奥歯を噛みしめ確信した。美作を襲ったのは穴牟遅王に違いない。

「兄大王は歌の真偽を確かめようと、三輪に使いを出されたはずなのだがわたしが知っているのはここまでだ。その使いがどうなったか、三輪王は居たのかどうか……ただ、この歌が本当なら一大事だ」

 大毘古は伊佐勢理に向き合った。

「出雲が三輪王を取り戻せば、大和を攻められぬ理由はない」

「しかし、今の出雲にはそれ程の力はありません。もともと戦事は好まぬ一族ですし、海への防守と大社の祭祀に財をつぎ込ませているのですから――」

 三輪王が逃走したとすれば、出雲に帰るためではない。百襲に会いたい一心だったはずだ。大毘古はしかし、

「出雲に味方する者がいたとすれば、逃走を隠すために大王を弑したかもしれぬ」

と、言い放った。

 父が殺されたことはどこかで認めていたが、それが自分も関わった秘密に繋がっているとしたら、伊佐勢理はもう一人では抱えきれなかった。頬に一筋涙が伝った。

「……叔父上、美作に百襲の姉上を匿っておりました。姉上は…三輪王との間に子を授かっていたのです……」


 大毘古の屋敷を出ると、辺りは夕陽に赤く染まっていた。すべてを打ち明け安堵とも空しさともつかぬ思いを抱え、伊佐勢理は急ぐ気にもならずとぼとぼと馬を進めた。

 大毘古は驚きはしたが責めはしなかった。むしろ恋情から逃走したなら幸いであろうと言った。それでも最悪の事態を考え、これを公にせず、これから一年のもがりを務めまた大王軍に復職するよう命じられた。

 じくじたる思いで小さな橋にさしかかった所で、向こう岸に童がぽつんと立っているのに気付いた。もう薄暗く夜はすぐそこまで来ている。童一人放っておくわけにはいかない。伊佐勢理は馬を下りて引いていき、童の前にしゃがんだ。

 童は頭を下げて、

「御無事でよろしゅうございました、伊佐勢理様」

と、言った。

 伊佐勢理は驚いてよくよく童の顔を見た。夜目タケルの一子アケルだった。タケルにそっくりの眼差しに思わず両手を伸ばし頬を覆った。

「お前こそ、よく生きておった、よく……」

 タケルの事を思い出し、また目頭が熱くなる。アケルには父の最期を告げねばならない。口を開きかけると、

「わかっております。御身から父の匂いがいたしますゆえ……我が一族には最も名誉な最期です」

と言いつつも、アケルの目から涙が溢れ出た。

 伊佐勢理はアケルをしっかと抱きしめた。 

「伊佐勢理様、ヨリでございます」

 背後の林から懐かしい声と共に、ハクとヨリが現れた。ヨリは胸に抱いているおくるみを伊佐勢理に差し出した。

百武ももたける王子のおうじをお連れしました」

「なんと……!」

 伊佐勢理は慌てながらも慎重に赤子を受け取った。覗き込むと、黒目がちの瞳が伊佐勢理を見てにっこりと笑った。


 庵戸宮、国香媛の間。

 腕の中の王子を見ながら、ヨリは備前を出てからの道中を思い出した。老夫婦と子供だけの旅は難儀すると覚悟していた。だが、川や野でハクは上手く獲物を得る事ができたし、通りかかった村では親切にされ泊めてもらえたし、王子に進んで乳を与えてくれる女もいた。

 ヨリは何故かそれが百武王子のせいではないかと思う。生まれながらに大きな力に守られているような気がする。きっとこの庵戸宮でもその力が働くはずだ。

 少しせわしない衣擦れの音が近付いてきて、伊呂渡いろど媛が入ってきた。国香の前に座るやいなや、

「このように忙しい折に何の御用向きでございましょうか、姉上?」と、口を尖らせた。

 太瓊大王の第四妃 伊呂渡はしま王子の母親である。葬儀にもがりに慌ただしい中、姉の国香媛こと伊呂音に呼びだされて不機嫌を隠そうともしなかった。

 伊呂音は百襲媛・刺肩王子・伊佐勢理王子、そしてつい半年前に稚屋媛を産み大王の寵愛深きことから大和の国香媛と呼ばれていた。二人は七歳も年が離れていたが、国香の方が幼く愛らしく見えた。

「そなたに王子をもう一人儲けてもらいたいのです」

 それでも姉として、国香は伊呂渡の剣幕に押されるでもなく落ち着いて言った。伊呂渡は眉を寄せた。

「何をおっしゃっているのか……大王はもうおられぬのに、わたくしをからかっておいでなの?」

 国香は微笑んで首を横に振った。

「産む必要はないのよ、王子はすでにここに」

 国香の後のとばりから赤子を抱いたヨリが進み出て、国香に手渡した。国香は赤子の頬をそっと撫で、顔を上げると伊呂渡を見据えた。

「この王子は確かに太瓊大王の血を受けた者、この庵戸宮で守らねばなりません。出自を明かせば良からぬ事態を招くので、大王がお亡くなりになる前に懐妊したそなたの子として欲しいのです。わたくしは稚屋を産んだばかりで日数が合いません。殯に入れば外には出られないので、その間に出産した事にしようと思っています」

 もうすでに決めたことのように告げられ、伊呂渡はうろたえた。

「ま、待って下さい姉上!そんな世間をたぶらかすようなこと、わたくしにはできません。それに大后がなんと仰せか……」

「細媛様には話を通しています。心配いりません、この子は稚屋と一緒に育てます。そなたの手をわずらわせることはない」

 それでも伊呂渡はさらに息を吸い込んだ。間髪いれず、国香が言い放った。

「日巫女のご意向ですよ」

 伊呂渡はその息を飲んだ。日巫女は神の声を聞く者、大王のしるべである。その言葉には誰も逆らえない。伊呂渡は肩を落とし、

「承知いたしました……」

と、言ってその場を後にした。

 ヨリと国香は目を合わせ、頬を緩ませた。

 後に伊佐勢理の話から、稚屋と百武は奇しくも同じ日に生まれていたことがわかった。百武はわかたけとして本当の名を秘められ、太瓊大王の末の王子として育てられた。ヨリは再び二人の子の守乳母として宮に留まり、ハクは護衛として仕える事になった。

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