ゆきの足跡

智梅 栄

ゆきの足跡

 気分転換にと思ってテレビをつけると、明日の天気予報が流れていた。珍しく冬型の気圧配置が崩れるらしい。今夜から明日の夕方にかけて大雪の予報だった。この冬二度目の大雪だ。思わず溜息が出た。雪などというものは、夜中にひっそりと肌掛け程度に屋根を覆ってくれれば十分なのに。

 我が家の玄関と、隣の家の壁との間は非常に狭い。幅は大人二人が窮屈な思いをしながらようやく並べる程度。これは北海道らしからぬ狭さである。そこを通らなければ我が家から公道まで出ることはできないが、積もった雪を除けておける場所がほとんどないため、雪の処理には普通の雪かきよりもずっと手間がかかる。また、地面に降り積もった雪だけでなく、隣家の屋根の雪も放置すれば雪崩れ落ちてきて通路を埋め立ててしまう。お隣さんが足腰を悪くした老夫婦なので、どうしても我が家から雪下ろしの人手を割く必要があった。

 そうした雪への対処はいつもならほとんど両親の仕事だ。しかし、あいにく明後日までは二人とも留守にしている。受験を控えた今年ばかりは私ひとりで留守番だが、正月は家族四人で母方の祖父母の家に行くのが恒例だからだ。

 これは私にとって切実な問題だ。明日じゅうに雪をどうにかしなければ明後日は登校できず、模試を受けることもできない。だが、私ひとりで雪と格闘すれば、センター直前の貴重な一日を潰してしまう。

 気づけば天気予報はクイズ番組に変わっていた。雪の予報で重たい気分になっていた私は、テレビの騒がしい声に嫌気がさしてすぐに消してしまった。自分の部屋から世界史の一問一答集を持ってきて、覚えきれていない用語をいくつか確認する。三十分ほどそれを続けたが、テレビを見たのが逆効果だったのかいまいち集中できない。諦めて本を置く。

 ソファの上で膝を抱えて目を閉じると、しんとして静かで、ストーブの上で沸騰した薬缶がかたかたと音を立てる以外には何も聞こえなかった。窓の外を見なくても分かる。既に雪が降り始めているのだ。しばらくして、鈴のような音を出しながら除雪車が家の近くを通り過ぎていった。

 雪のもたらす静寂は柔らかで心地よい。自らを委ねれば不安や苛立ちに波立った心の内を鎮めてくれる。雪かきはこの上なく面倒だけれど、私はこの静けさが好きだった。学力や興味のある分野を基準にして志望校を決めたが、ほとんど雪の降らない土地に暮らさなければならないなんて、それだけで息が詰まってしまいそうだ。

 今のうちにこの静寂を覚えておくべきか。耳を澄ませていると、勉強の疲れもあってか、私はそのまま眠りこんでしまっていた。


 寝ぼけまなこで壁掛け時計を見上げると六時半過ぎだった。朝だ。毛布もかけずに眠ってしまったのでひどく寒気がした。石油ストーブは一晩中つけたままだったはずだが、一日のうちで最も冷え込む時間帯だからそれでも寒い。

 ストーブの火にあたりながら、焼いた餅に砂糖ときな粉をまぶして平らげる。餅のこびりついた焼き網と皿は少し熱めの湯でうるかして洗った。

 しっかりと温まってから、防寒具一式を身につけ、外に出た。空気は軽やかで、吸い込むと冬の匂いがした。息を吐き出せば、天に向かって白い螺旋を描きながら三秒と待たずに消える。夜中の雪は足首の高さまで積もっていた。思っていたよりは少ない。一面雲に覆われた白い空から大きな雪の結晶がひらひらと舞い落ちてくる。よく目を凝らしていても、どこまでが空でどこからが雪なのか判別することはできなかった。

 いつまでも動かずにいたら凍えてしまうので、私はさっそく雪かき用のスコップを探した。しかし、いつも立てかけてあるはずの場所に見当たらない。辺りを見まわしていると、少し離れた場所に隣の屋根からどさっと雪が落ちた。探していた赤いスコップはつられて見上げた先にあった。どういうわけか、出かけているはずの父が雪下ろしをしている。

「お父さん、いつ帰ってきたの?」

 返事はない。父は耳あてをしていて私の声が聞こえていないようだ。あまり雪が積もっていないように思えたのは、既に父が一度通路の雪を踏み固めており、その後に降った分の深さしかないからだった。

 玄関前のこの通路は狭すぎて脇に雪を除けるだけでは限界があるため、父はいつも、ある程度雪が積もったら踏み固めて雪の階段を作る。今はまだ段差のない緩やかな山ができただけだが、隣の屋根の雪も全て下ろし、もう一度くらい大雪の日があれば、そのまま一階の屋根に上り下りできる高さになるだろう。軽い高所恐怖症である私にとっては、上るのは良いが下りるのには勇気のいる高さである。

 父の近くに行ってもう一度声をかけたが、やはり返事はなかった。諦めて家の中に入り、体を温めてからセンター試験の過去問で数学を勉強することにした。問題を解いた後で解説を読んでいると、にわかに玄関の方が騒がしくなり、私は先の丸くなった鉛筆を置いた。

「ただいまぁ」

 妹の声だった。予定より早く帰宅したのは父だけではなかったらしい。出迎えようと玄関まで出ていくと、母が先に靴を脱いでおり、妹はまだ外で体についた雪を払っていた。開け放たれたドアから入ってきた冷たい風が足元に這い寄る。私は爪先を重ね合わせた。

「おかえり。早かったね、どうしたの?」

 母は私が荷物を受け取ろうと手を差し出したのに気づかず、小豆色の旅行鞄をどさりとその場に置いた。落しきれていなかった雪が水滴となって周りに跳ねる。

「ねぇ、おかえりってば」

 ひとこと「ただいま」と返せばいいものを、母は何故か私を無視して通り過ぎ、居間の様子を覗きこんだ。

「あら、お父さんがストーブつけてくれてたみたい。あったまろう」

「ええ? お父さん、まだ家には入ってないって言ってたよ」

 母を追いかける妹の長い髪は雪が絡んで凍りついていたが、室内の暖かい空気にさらされて少しずつ融け始めていた。ほんの数日見ない間にずいぶん髪が伸びたように見える。

「ちょっと美幸、あんたまで無視しないでよ」

 憤慨しつつ妹に続いて居間に戻ると、母が私の片付け忘れていたきな粉の袋をつまみ上げて、眉間に皺を寄せていた。

「これ、お父さんが持ってきたの?」

「前からあったやつかもよ。賞味期限は?」

「ええと……あった。二〇十六年十一月——」

 年末に買ってきたばかりだから賞味期限は一年ほど先の日付だ。特におかしい部分はないはずだった。しかし、母と妹ははっとして顔を見合わせた。

「処分し忘れてたのかもしれないね」

 母の言葉に頷き、妹は懐かしいものでも見るように部屋の中を眺めまわした。何故住み慣れた家の中をそんな眼差しで見るのか。疑問と、言い知れぬ不安が胸の内に湧き起こった。何も異常がないことを確かめながら彼女の視線を追いかける。

「これ、古いから投げちゃうよ」

 母は台所の戸棚からゴミ袋を取り出して、ほとんど中身の減っていないきな粉を袋ごと捨ててしまった。買ったばかりなのにもったいないと思ったが、妹も止めないところを見ると、そう思っているのは私だけのようだ。

「見て。勉強道具も置きっぱなし」

 妹の声に振り向くと、彼女はストーブのそばに屈んで、先程まで私が使っていた過去問の冊子を手にしていた。

「まるでついさっきまでここにいたみたいだよね。本当に、どこ行っちゃったんだろう」

 私は二人の会話を聞き続けるのが怖くなって居間を後にし、自分の部屋に逃げ込んだ。

 結露して歪んで見える窓の向こうで、ザッザッと音を立てながら人影が往き来していた。父が屋根から下ろした雪を固めて階段を作っている。答えてくれと祈りながら窓をノックしたが、風の仕業だとでも思われてしまったのか、父の足音はやむことがなかった。

 

 三人は十日間この家に滞在した。その間に聞いた彼らの会話から、二〇一五年の一月から三年もの間、世間では私が行方不明とされていることを知った。玄関から出た後の足跡は新雪の上にはっきりと残っていたが、不可解なことに、その足跡は雪でできた階段の頂上まで上ったところで途絶えていた。そこから先に進んだ形跡も、戻った形跡もなかったという。

 私が分かりやすいように物を動かすと、みな後になって気づくのに、家の中にもう一人いるという考えには至らないようだった。私が誰かに触れようとすると、いつも直前で転んだりしてうまくいかない。紙に書いたメッセージは誰かが水をこぼして読めなくなったり、間違って雑紙と一緒に資源回収ゴミに出されたりした。

 これら全てが悪い冗談である可能性も考え、流石に学校に行けば真偽が分かるだろうと思って出かけようとした時など、圧縮された雪の上なのに一歩進むごとに私の足が雪に埋まり、家の敷地内から出ることすらできなかった。模試どころではなかった。

 そうするうちに三度目の大雪があり、ついに階段は屋根の高さに達した。ちょうど妹の学校が再開する頃でもあり、階段が出来上がったその日の夜、三人は慌ただしく新しい家に帰っていった。

 エンジンを蒸かす音が聞こえなくなって少し、前日に降ったものより遙かに小さくて軽い雪が、ほんの短い間だけ降った。たったそれだけの雪が、私の家族が去った跡をすっかり白い光で覆い隠してしまった。

 再びひとりになった私は、階段の一番上に足を埋め、まだ少し雲の残る薄明るい夜空を眺めた。立ったまま空を見上げるとふらついて、真っ逆さまに落ちてしまうのではないかとひやひやする。しかし、高い場所の苦手な私には傾斜のある階段を下りるのも躊躇われ、ずいぶん長いこと階段の上にいた。階段には、私の往きの足跡だけが黒い影を落としていた。

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