続 ~his side~
ずいぶんと前から、俺は彼女の名前を知っていた。
ビルの屋上、控え目な星空の下で俺は缶コーヒーを一口すすった。
苦い。
口の中に広がる酸味と苦味に顔をしかめる。
目の前の彼女は柵に寄りかかり、上機嫌に手の中の缶コーヒーを弄んでいる。
「そっかそっかぁ。あ。じゃあ今度から名前で呼んだげるよ。
あー、でも苗字で呼ぶ方が良いかな?実は私よりも年上なんだもんね?」
「……どっちでも良いですよ」
「何よー、つれないなー。
夜の社交場のお仲間じゃない」
そう言いながらも彼女は「くふふ」と笑みを漏らす。
向かいのビルから放たれる淡い光が彼女の顔を柔らかく照らしている。
咄嗟に顔が緩みそうになり、俺はまたコーヒーを口に含んだ。
苦味が顔を引き締める。
にやけ顔を見られるところだった。あぶない。
「なんですかそれ。
……また、嫌な言い方をしてしまった。
自己嫌悪に陥りそうになるが、彼女は「えー、いいじゃない別に」と笑顔で応えてくれる。
どうして俺はもう少しだけでも素直になれないのか。
死んでも治らないとはこのことだな……笑えないけど。
手の中の缶コーヒーは今も透けている。
缶コーヒーだけではない。
それを持つ手も、腕も、体も、服も。
それは、くっきりと目に映るこの世界とはあきらかに異質なもので、俺は自分の存在に疑問さえ感じるのだった。
あの日、気がつくと俺はこの屋上で一人、缶コーヒーを飲んでいた。
透けた身体を見るまでもなく、自分が死んだことを理解していた。どのように死んだのかは何も覚えていないのに不思議なものだ。
自分で言うのもなんだがまだ若かった。
仕事も慣れてきて楽めはじめたところだったし、他部署の新人に恋心を抱いたりもしていた。
自分の死に気づいてからというもの、しばらくはかなり悲観的になったものだ。
「あーあ、また自分の世界に入っちゃってる」
「……」
隣に立つ彼女の恨めしそうな声に俺は我に返った。
恨めしそうな声は本当なら幽霊である自分が出すべきものではないだろうか。
「何考えてたの?」
「昔のことです」
「……そっか」
彼女はグイグイくるが俺が聞いて欲しくないことは聞いてこない。
そういうところにも俺は安らぎを感じていた。
新入社員として出会ったころから気づかい上手な人だと思っていた。
あまり社交的でない自分にとっては、彼女は後輩でありながらある種の憧れも持っていた様に思う。
部署が違ったため直接話したことはなかったが、気がついた時には彼女を目で追う様になっていた。
いや、ハッキリと言おう。もう、認めようと思う。
俺は彼女が好きだった。
「今日は天気も良いし、もう一杯飲んじゃおっかなぁ」
「酔っ払いみたいなセリフですね。一応まだ勤務中でしょう」
「そうなの。今度の仕事も当分は残業続きなのよね。
……嬉しいでしょ?」
「いえ、別に」
嬉しかった。
顔を背けてコーヒーを飲む。
意中の相手と死んでから距離が縮まるというのは一見するとまるきり悲劇の様に思えるだろうが、実際幸せを感じてしまう瞬間があるのだからわからないものだった。
それでも。
「ほんと、素直じゃないよねー」
きっといつまでもこの笑顔を隣で見ていることはできないのだろう。
俺は死んでいて、彼女は生きている。
偶然どこかのボタンを掛け間違って二人の世界が交わっただけなのだ。
俺のこの世への未練というのはきっと彼女の事だと思う。
彼女の幸せを願っているのであれば、今のままの関係を続けていくことはできない。
誰よりも俺自身がそれを拒む時が来るだろう。
手の中のコーヒー缶は透けている。
彼女の
そう。
これは、偶然どこかのボタンを掛け間違って二人の世界が交わっただけなのだ。
だからやっぱり――、
「ま。せっかく偶然出会ったんだからさ。仲良くしましょう」
隣に立つ彼女はそう言うと上機嫌に目を細めて笑った。
俺はその言葉に驚いて固まってしまった。
彼女も同じように偶然の出会いだと思っていた。
けれど、彼女はこの出会いを良いものだと受け入れてくれていたのか。
「ん?」
小首をかしげる彼女に、慌てて俺は目線を逸らした。
コーヒーを一口飲んで応える。
「そうですね」
今度は俺の言葉に彼女が跳ねた。
「お!おおお!珍しいね、気が合うじゃん!
そっかそっか、実はこの時間を楽しみに思ってくれてたんだねぇ」
「あ。いや、そういうわけじゃ」
「いいのいいのー!」
満面の笑みで笑う彼女の顔を向かいのビルの淡い光が柔らかく照らす。
今はまだ。
もう少しだけ、この時間が続いて欲しいと願う。
もう少しだけ、そう思い続けて良いことにしよう。
缶コーヒーと屋上の彼 とものけい @k_friends
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