水滴を蓄えた缶コーヒーを片手に私は軽やかに階段を上がった。

 錆びた扉を押し開けて屋上に出ると控え目な星空が迎えてくれた。


 今日から新しいプロジェクトがスタートした。

 博愛精神の塊である部長のおかげで納期は縮まり、残業が確定、他人の金で食べる夜食は大変美味しかった。

 今回のプロジェクトもきっとまだまだ無茶振りが待っているだろう。今日のうちに出来るだけ作業を進めておかなければ。

 私はチームのためにも残業を買って出た!

 これも大義を持った残業なのだ!

 いいね、残業!

 残業大好き!

 

「……過ぎ」


 いつの間に居たのか、隣に並んで立っていた彼はめんどくさそうな顔でそう言った。

 まぁ彼も顔ではめんどくさそうにしているが、本心では嫌がってたりはしていないのだ。本気でめんどくさそうな顔だけど。……え?違うよね?


「そ、そうかな?そんなに来てる?」

「平日はほぼ毎日来てますよ」

「あれ~、そうだっけ?

 いや~、私ったら働き者だな~」

「一日に何回も来るし。むしろ暇そうです」


 相変わらずトゲトゲしさ。

 それでも、無理に追い返したりはされない。

 そういうところに彼なりの優しさを感じる。


「まぁ、仕事が忙しいのは本当なんだからいいじゃん。

 こういう癒しの時間があるから逆に頑張れるってもんでしょ」

「……そうですか」


 こういうところ、だ。


 彼の前で大泣きしたあの日以来、私はこれまで以上に頻繁に屋上へ足を運ぶようになっていた。

 秘かに想いを寄せる彼の顔を見たいがため、というのもある。

 あの日を境に彼とのこういった時間がより一層私にとって大切なものと感じるようになったのだ。


 けれどももう一つ。

 私が毎日のように屋上に来ている理由は別にある。

 私の好きな人は幽霊だ。

 幽霊の仕組みだとか、ルールだとかというのは私には良くわからない。

 しかし、一般的な考え方として幽霊とは現世げんせに未練のあるたましいがなるものだと言われている。

 彼にとっての未練というのが何かはわからない。

 しかしそれが消えたとき、同時に彼の存在もこの世から消えてしまうのではないか。

 私の好きな人は幽霊だ。

 いつか、居なくなってしまうかもしれない。

 私はそれが怖かった。


 横目で彼を見る。

 出会って、そして自分の恋心に気づいた頃にはもっと早くに出会いたかったなとも思った。

 けれども今では彼と出会えたことが嬉しい。

 私の好きになった人はたまたま幽霊だ。

 彼は今日もここに居てくれた。

 それだけで私は安心し、笑顔がこぼれるのだ。


 隣の彼はいつも通り、不味そうに缶コーヒーを飲んでいる。

 このいつも通りに私は安心し、そしてほんの少しだけ不安を感じるのだ。


「……心配しなくても、黙って消えたりしないですよ」


 彼はぼんやり向かいのビルの方を眺めながらそう言……え?


「うわああああああぁぁぁ!!」

「……うるさいですね。近所迷惑ですよ」


 彼はコーヒーに眉をひそめていた顔をさらに歪める。


「いや、だって!急に心を読むんだもの!やっぱりエスパーなの!?」

「やっぱりって何ですか。心なんて読めませんよ。顔と行動に出過ですぎなんです。別に俺じゃなくても何考えてるか分かります」


 何考えてるかわかる!?

 私は咄嗟に顔を隠した。このしのぶる恋心を知られるわけにはいかない。

 慌てて落とした缶コーヒーがペコンと音を立てて跳ねた。フタを開けていたら大惨事だったろう。

 そんな私を横目に、彼は「はぁ~」とため息をついた。


「前にも言ったんですけど、俺も最初は会社でまだまだやりたいことがあるから幽霊になったと思ったんです。

 でも、未練は別にあるみたいなんで。それが叶うまでは消えないと思いますよ」

「そ、そうなの」

「まぁ、たぶん。心当たりあるんで」


 何とか落ち着きを取り戻す。


「……ちなみに、その未練ってのが何なのか聞いても?」


 彼の方を振り返りながら、恐る恐る尋ねる。

 聞いても良いだろうか。他人がそう易々と聞いても良いものではないかもしれない。

 幽霊にだってプライバシーはあるはずだ。


「……」


 彼は20cm上から私を見下ろして、めんどくさそうに考える素振りをしていたが、やがて口を開いた。


「……今はまだ内緒にさせてください」


 かなりの長考ちょうこうの末の「内緒だよ」を頂いた。

 いつも無表情な彼が珍しく困った様な目していた。可愛い。

 友達ならイラっとするかもしれないが好きだから全くもって許してしまう。愛のあらば何とやらだね。


「今はってことはそのうち教えてくれるの?」

「……そうですね。もしかしたらそのうち話すかもしれません」

「そっか」


 向かいのビルの方を向き直した彼の横顔がわずかに寂しそうに見えたので、これ以上追求するのはやめておこうと思った。

 会社に好きな人がいて毎日の出社が楽しみ、なんてもうそれだけで最高の幸せだと思う。

 今はこの幸せを噛み締めていたい。

 この幸せな日々が少しでも長く続きますように、と私はそれだけを願う。


「あー、今日も良い夜だねー」


 地面に転がる缶コーヒーを拾って汚れを払う。

 プルタブを開けると飛沫ひまつが舞い、コーヒーのいい香りが漂う。


「癒される」

「……そうですか」


 隣の彼が苦そうにコーヒーを飲むのをクスリと笑って、私も一口すすった。

 この大切な時間が過ぎていくのを惜しむように、ほんの少しだけ。

 苦いコーヒーの味覚に後押しされるように私は彼へと向き直った。


「ねぇ、ひとつお願いがあるんだけど」

「何ですか」


 ドキドキして呼吸が苦しい。

 でも、今日はもう少しだけ頑張ろうと思えた。


「名前、教えてくれる?」


 魅力的に笑えただろうか。

 彼も私の方を見る。本日二度目の長考。

 向き合った彼は半透明だが、私は彼しか見ていない。

 やがて彼はゆっくりと口を開いた。


「いいですよ。代わりに、俺も名前聞いて良いですか」


 二人の時間が少しだけから外れていく。

 でも、きっと上手くいくだろう。

 私達の距離はもう1mも離れていないのだから。


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