「……」


 沈黙が続いていた。

 いつもであれば心地良い静けさも、今は重く感じられる。

 3mの距離で、手にはコーヒー。

 ただ一つ違うとすれば、いつも右側にいる彼が、今は左側にいた。


 少なくなった缶コーヒーを一口飲んだ。ぬるい。

 そうだ、仕事しなきゃ。

 クライアントからの修正リストを頭に浮かんだ。

 こういうのを現実逃避というのだろうか。いや、逆か。現実に逃げ戻ろうとしてんだなぁ。

 そんなことを考えていると彼が沈黙を破った。


「ホントはブラックコーヒーなんか飲みたくないんですよ。

 俺、苦いの苦手なんで」


 急に声をかけられて驚いたこともあり、すぐには何のことかわからなかった。

 彼がコーヒー缶を手で転がすように弄んでいるのを見て思考が追いついていく。


「じゃあなんでいつもそればっか飲んでるの?」


 と問いかけるが、その疑問よりも会話が生まれた嬉しさが大きかった。


「この缶コーヒーはんです。

 けど、これ以外のものは飲み食いできないみたいなんで」

「あー、そうなんだ。でも常識的に考えるとそうか」


 幽霊の常識ってなんだろうとは思うが、よくよく考えてみると幽霊が自販機で缶コーヒーを買っている姿は不条理だ。

 死んでいるものは生きているものには触れられない。

 生きているものも死んでいるものには触れられない。

 彼が幽霊だと知っていて、その持ち物に触れようとした先ほどの自分の行動も滑稽に思えてくる。


「なんで、その缶コーヒーは飲めるのかな?」

「……たぶん、死んだときに俺が持ってたんじゃないかと思います」

「そっかぁ」


 世界から味がするものがそれ以外無くなったら、たとえ嫌いなものでも口にするだろう。


「不味いけど、飲んでも無くならないし」

「あはは。無限コーヒーなんだ。私だったら嬉しかったかも」

「こんなことなら好きな飲み物買っとけば良かった」


 唯一味覚を感じるものが自分にとって『眠気覚まし』くらいにしか思ってないもの、というのはなかなか辛いものだろう。


「あれ?でも、なんで?

 最期に口にするものだし、せっかくなら好きなもの買って飲んでから……」

「言っときますけど。俺、自殺じゃないですからね」


 その言葉からはいつもとは違う鋭さを感じた。

 私の心臓は跳ね上がったが、彼の表情がまたすぐにいつものめんどくさそうなものに戻り、安堵した。


「ごめん。なんか……勝手に、仕事に疲れて屋上から……ってのを想像しちゃってた」

「……まぁ、屋上にいる幽霊ですからね。気持ちはわからなくもないですが」

「いや。それもあるけどクシャクシャの髪とか皺まみれのシャツとかがあまりにもイメージ通り……って、ごめんごめん。悪かったって。そんな冷たい目で見ないで」


 彼は優しい。

 表面上は冷たいけれど、本当は優しい。

 段々と彼にいつもの調子が戻ってきたこともあり、私はそんなことを思う。


 大丈夫。

 立ち位置は反対でも、いつも通りの距離なのだから。

 3m隣にいるのは私の知っている優しい彼。


「実際、死んだときのことは覚えてないんですよ」

「そうなの?」

「気づいたら幽霊だったんで。

 でも、少なくとも、俺はこの仕事は結構好きだったから。

 だから仕事が嫌で死ぬなんてことはなかったと思います」


 私はその横顔に見入っていた。


「できることなら、この仕事を通してもっといろんな事に挑戦して、いろんな失敗を経験して、いろんな喜びを得たかったです」


 彼はそんな真剣なセリフをめんどくさそうな顔で言った。

 その目は、いつも私の隣で暗闇を見つめていたときのものだった。

 そんな彼を見ていると言い寄れぬ悲しみが私を襲う。

 彼は、自分が既に死んでいると知ったとき、何を思ったのだろう。

 一人この屋上で、缶コーヒーを片手に佇む彼の姿。

 いつも見慣れたはずなのに、その姿を思い浮かべると私の心は張り裂けそうになるのだった。


 雨上がりの屋上に強い風が吹いた。

 季節が戻ったような冷たい風だった。


「悔しいね」

「……いや、もうそこそこ悔しんだんで大丈夫です」


「まだ若いのに」

「……実は死んでから6、7年経ってるんで。精神年齢はそこそこいってます」


「……コーヒー以外の物とかも飲み食いしたいでしょうし、シャツにアイロンもかけたいですよね」

「急な敬語、腹立つからやめて下さい。

 あと、服装イジリももう許してもらえますか?なけなしの一張羅なんで」


「もっと、泣いたりしても、良いと思う」

「……」


 彼はしばらく私の事を見つめると、「はぁ~」と深くため息をついた。

 缶コーヒーを一口飲むと、その苦みに顔をしかめる。

 そしてゆっくりと言葉を吐き出した。


「大丈夫です。俺はもう十分過ぎるくらい悲しんだから。

 ……だから、泣かないでくださいよ」


 ポロポロと涙が次から次へと溢れてくる。


「でも……でもさ……」


 半透明の彼が幽霊だということは最初から分かっていた。

 それでも、彼の口から生前のことを聞くと、込み上げて来るものが抑えきれなかった。

 耐えきれず私は俯いた。

 自分が涙したところで彼の時間が巻き戻るわけではないのだ。

 やり場のない悲しみと悔しさで私の中はいっぱいになっていく。

 噛み締めた唇が痛かった。


 気がつくと彼が直ぐ隣にいた。

 3mのジンクスが破られ、思わず私は身を強張らせた。


 いつも通りの抑揚のない声だった。


「……まぁ、でも、なんというか」


 でも、いつもより温かみのある声だった。


「俺のために泣いてくれてありがとうございます」


 見開いた私の目からポタポタと涙が落ちて、雨の乾き始めたアスファルトに染み入っていく。

 隣に並ぶ彼の足を見た。透けた二本の足が私と同じ方向を向いている。


 やっぱり彼は優しい。

 表面上は冷たいけれど、やっぱり本当は優しい。


「……うん」


 私は短く返事をした。


 彼の顔はまだ見ない。

 もう少し涙が治まるまで、せめて鼻水をすすらなくていいくらいになるまでは待とう。

 そしたらこのドキドキを抑え込んで顔を上げよう。


 幽霊の彼だけど、やっぱり私は彼に


 いや、ハッキリと言おう。もう、認めようじゃないか。


 私は彼が好きだ。


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