承
雨上がりの屋上は息苦しいくらい湿気に満ちていた。
水溜まりを避けつつ、柵へと近づく。
「げげ。手すりも濡れてる」
今日はツイてないなぁ。
納品二日前だというのに課長が追加の要求を押し付けてきた。申し訳なさそうにしているが、出来るかどうかなんてことは聞いちゃくれないのだ。
今回のプロジェクトは余裕をもって進めてたんですよ!
クライアントに言われるがままなのは課長の悪いところだと思います!
……なんてこと言えるわけもなく、私は「ハイ、今日カラ残業デスネー、ワッカリマシター」と承諾した。
すると課長は申し訳なさそうな顔のまま「ごめんね。夜食は奢るから何でも言ってよ」と言ってくれる。
美しくさの欠片もないがこれも信頼関係なのだ。
腰に手を当てて缶コーヒーを飲んでいると右から声がした。
「今日は来たんですね」
いつもと変わらない場所、変わらないグレーのシャツにセルフレームのメガネ。
彼が立っていた。
3m離れたいつもと同じ距離で、いつもと同じ缶コーヒーを不味そうに飲んでいる。
「来たよー。今日も元気に残業してまーす」
にこやかに手を振る。
我ながらフランクな良い先輩だわ。
「……へぇ」
彼はぶれないなぁ。
今日もめんどくさそうに、そして不味そうにコーヒーをすすっている。
「一週間ぶりだね」
「そうでしたっけ」
「雨降ると屋上に出れないからねぇ。屋根でもあればいいのに」
「……それもう屋上じゃないですね」
「あはは、そうだね」と笑いながらも私は心の中でガッツポーズをとった。
彼がツッコんでくれるなんてなかなかない。明日は雨が降るかもしれない。あ、さっきまで降ってたか。
静かにコーヒーを味わいながらチラッと彼の方に目をやる。
……やっぱり透けてるなぁ。
彼を透かしてエアコンの室外機がぼんやり見えていた。
彼は幽霊だ。
と言っても彼に直接確かめたことはなかった。
それは彼と私の今の関係を壊してしまうタブーな様に感じられた。
彼はちょっと透けてるだけの私の大事な友人だ。それでいい。
「……何ですか?」
「えっ!?」
「あんまりジロジロ見ないでくださいよ」
ため息混じりに言われてしまった。
いやいやいや、こっち見てなかったじゃん、向こうのビル見てたじゃん、なんなのエスパーなの!?
「ご、ごめん。
いや、今日は仕事がめちゃ忙しくてぼーっとしてた、みたい」
慌ててどもってしまった。
透けてるのに気づいてると思われたかな。
彼は特に追求する様なことはしなかった。
どう思ってるのだろうか。
自分のことや、私のこと。
彼が何を考えているのかはほとんどわからない。
……自分が幽霊って気づいているのかな。
手すりに寄りかかって向かいのビルを眺めた。
「うわわっ、冷たっ!」
やってしまった。
カーディガンの袖が雨水でぐちゃぐちゃだ。
「何やってんですか」
「あーあー、今日会社に泊まりなのに……」
慌ててカーディガンを脱いで水気を絞ったが腕が冷たい。
昼間は蒸し熱い日も増えたが、夜に半袖だとまだまだ肌寒さを感じる。
「寒っ!あ~、こういう日こそホットコーヒーが飲みたい」
この一週間で自販機からホットドリンクは消え去った。
本格的に夏仕様だ。
「給湯室で淹れてくれば良いんじゃないですか」
「なるほど!」
「……ついでにそのまま自分の課に帰ってください」
「ちょっとぉ、こんな時くらいは優しくしてよ~……」
恨めしく彼を見やる。
そして、彼の手元のものに気がついた。
彼の手にある缶は私の缶と違っていた。
いや、厳密に言うと彼の缶コーヒーは先週と全く同じだ。どこで買ったのかホットのコーヒー缶。
私の買ったものがアイスコーヒー版のラベルなのだった。
「え。それ、ホットコーヒーじゃない」
「……そうですけど」
彼はビクッと肩を震わせると、珍しく表情を大きく変えた。
無論、嫌そうに。
「ちょっと頂戴」
私は笑顔でにじり寄る。
いつも優しい先輩が困っていたら優しくしないといけない。これはパワハラではなくひとつの信頼関係なのだ。うん。
「ねぇ、一口だけでいいから」
「嫌ですよ」
「良いじゃん減るもんじゃなし」
「減るもんです。やめてください。目が
「
――後になって思う。
私のこの行動は私たちのいつも通りから外れていた。
初めてだっただろう、私たちの距離が3mよりも縮まったのは。
私は彼が胸元で死守しようとする缶コーヒーに手を伸ばし、そして……次の瞬間には頭を手すりへ盛大にぶつけた。
「痛ったああああぁ~~~!」
空は曇っているのに星が見えた。頭がチカチカする。
目に涙を浮かべながら後ろを振り返る。
そして。
「あ」
「……」
彼の顔が私の真上にあった。
と言っても、ドキドキするような体勢ではない。いや、これはこれでドキドキものではあるのだが。
彼の体は私の体と重なり、すり抜けていた。
雨上がりのその夜。
私と彼の距離はいつも通りから急接近し、そして勢い余ってゼロ地点を通り過ぎてしまったのだった。
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