缶コーヒーと屋上の彼
とものけい
起
ガシャン――。
自販機から音を立てて出てきた缶コーヒーを手に取り、私は屋上へと階段を上る。
錆びた鉄の扉をキィィと鳴らして外に出るとそこには控え目な星空が広がっていた。
柵に寄りかかり、アルミ缶のプルタブに力を入れる。
乾いた音とともに豆のいい香りが広がった。
「……ふぅ。やっと一息つけた」
コーヒー、特に缶コーヒーはブラックと決めている。
この会社でSEの仕事に就いたとき、唯一の女の先輩が飲んでいてかっこよかったから、というのがきっかけではあった。
けれども実際のところは、眠気と戦いながら日々の激務を乗り越えるにはミルクなんて入れてられなかったためだ。
私よりもコーヒーの似合う先輩は「もう無理、限界だわ!マジで!」と笑顔で叫びながら寿退社された。
幸せそうに笑っていたけどあの言葉は結構
きっと先輩がブラックコーヒーばっかり飲んでたのも私とたいして変わらない理由だろう。
私も今年で先輩が仕事を辞めた歳になる。
「いやぁ……辞める理由ないなぁ……」
顔を柵に乗せるとひんやりと冷たかった。
夜風が静かに流れてきて、体の熱を奪う。
夏がやってくる。
夏だから……まぁ、別に何かあるわけはない。
自販機から『あったか~~い』が消えるのがホットコーヒー派の私には大問題だが。
そんなことよりも目先の問題は今日終電までに仕事を終えて帰れるかどうかだ。
会社に3日連続で泊まった時は危なかった。気がついたら女である自覚がほぼ無かった。
SEという仕事は明日何があるかわからない、というかあの上司たちが明日どんな無茶振りをしてくるかがわからない。
だからこそ、帰れる時には確実に帰らなくてはいけない。
いかん。休憩のときくらい仕事のことは忘れよう。
この憩いの時間がもう少し続くようにと私は缶コーヒーをちびちびと飲む。
「また来たんですか?」
ああ、来たよ。来ちゃ悪いのかよ。
と声には出さず、私は声がした方に顔を向けた。
いつものところ—―私の3mくらい右に彼がいた。
代り映えしないグレーのシャツにセルフレームのメガネ。
ひょろ長い体にくせっ毛の髪。
その顔は私より20cmは高くにあるため見上げなければ覗けない。
私と同じように柵に寄りかかり、めんどくさそうに夜風を浴びている。
そして。
手に持っていたのは私と同じ缶コーヒー。
「いや、この時間休憩室閉まってんだもん。
屋上しかゆっくりコーヒー飲めるとこないのよ」
「デスクで飲めばいいじゃないですか」
「パソコンの画面なんてみてたら心も体も休まらないわよ」
「そうですか」と彼はつまらなそうに応える。
いつもと変わらない表情で、いつもとかわらない姿でそこにいた。
そう、彼もこの屋上の常連さんなのだ。
「そのコーヒー」
「あ。一緒だね」
「買うのやめて下さいよ。
こないだ売り切れてなくなってたんで」
「いや、私だけのせいじゃないから」
そんなやり取りをしながらも、彼はたいして美味しくなさそうに缶コーヒーを口元へ傾ける。
そんなに美味しくないならそっちが別のを買えばいいじゃん。
とか思ってしまうが、そんな冷たい態度は取らない。
私は優しい先輩なのだ。
……まぁ実際のところ彼が後輩なのかはわからない。トゲトゲした態度だが敬語は崩さないのでそうではないかと思っただけだ。
年齢も知らない。名前も知らない。課も知らない。
ただ、この時間、この場所で、3m離れて缶コーヒーを飲む間柄なのだ。うん。
ここは夜の社交場の先輩として優しく接してやらねばならない。
「前から聞こうと思ってたんですけど、ブラック派なの?」
「そんなこと聞いてどうするんですか?」
歯に衣着せない。
こいつ……!先輩も人間なのよ!あんまり鋭いと傷つくの!
「いやぁ、いつも同じの飲んでるからさぁ?
でもあんまり美味しそうな顔してないじゃん」
「……好きじゃないですよ。別に。
これは眠気覚ましに選んだんです」
……同じ理由だったか。
うーん。どこの課も忙しいもんね。年中繁忙期だもん。
私は急に芽生えた仲間意識にひっそりと感動した。
私を置いて帰った上司や同僚よりも、私はあんたのことを戦友だと認めよう!
「よし!今度は私がソレ奢ってあげちゃおう!」
「結構です」
戦友がツレナイ。
「……」
こんなやり取りを行ったあと、私たちは3mの距離を保ったまま無言で夜の風を体で浴びるのだ。
目の前のビルからはまだいくつもの灯りが輝いている。
あっちも残業頑張ってんなぁ。何屋か知んないけどお互い大変ですな。くれぐれも3日以上の寝泊まりは……あ。電気消えた。
ふと横目で彼を見た。
彼も同じく向かいのビルを見ていた。
いや違う。
彼が見ているのは暗闇だ。
人々によって少しずつ生み出され、でも絶対に完成はしない夜の闇。
なんとなくそんな風に感じた。
……嫌な感じはしないんだよなぁ。
トゲトゲした態度はとられるが結局はこうやって一緒に缶コーヒーが飲める。
素性もしらない相手だが、屋上で彼の姿を見つけるといつもほっとしているのを私は感じていた。
彼から目を離して、私は缶に残ったコーヒーを一気に飲んだ。
「んじゃあ、そろそろ行くね。
今日はまだ余裕あるから簡単に終電逃がすわけにはいかないんだ。またね」
「もう来なくて良いです」
「あはは。まぁ残業がないと来ないけどね」
「そうですか」
彼はそう言うとしかめっ面で缶コーヒーを飲んだ。
冷たいなぁ。私ら仲間だろうに。勝手に私が思ってるだけだけど。
「実際、残業が無い日なんてほとんどないけどね~」
自嘲気味に私が呟くと彼は少しの間こっちを見つめて、やがて背を向けた。
そして。
さっきより少しだけ暗くなった闇を見つめて呟いた。
「……そうですか」
ビュッと温かい風が吹き髪をすり抜けた。
夏が近づいてきているな。
彼の背中を見ながらそんなことを思う。
「じゃあね~」
私は軽く手を振り、屋上扉のドアノブに手をかけた。
彼は応えないどころか見向きもしない。
いつも通りだ。
このいつも通りが私をほっとさせてくれる。
さて。
もうひと踏ん張り仕事頑張ろう。
錆びた扉を閉める直前、私はもう一度彼の後ろ姿に目をやった。
名前も知らない彼は缶コーヒーを片手に暗闇を見つめている。
……やっぱり、嫌な感じはしないんだよね。
向かいのビルの明かりがまた一つ消えたことに、私は彼の体を通して気がついた。
不味そうに缶コーヒーを飲む彼は幽霊だった。
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