エピローグ
エピローグ おやすみなさい
彩音は一次報告書のファイルを保存して、作業用のノートPCを閉じた。
さすがにちょっと疲れた。
ほとんどのことはAYANEに任せたとはいえ、ほぼ画面につきっきりでの約四日間。
AYANEは、誰よりも早く智峰島の仮想空間がもつリスクを検知した。
気付いてしまったのが運の尽き、だ。
彩音はフリーランスであり、ネットワークセキュリティでクライアントからお金をもらってご飯を食べている一人のネットワークエンジニアに過ぎず。
ただちょっと、前職から持ち越したスキルで、もはや趣味なのか仕事なのかも分からないが、AIを使ったセキュリティリスクの早期検知や、未知の脅威に対する先制攻撃、無力化の研究を自前で進めていただけなのだが。
そのAYANEちゃんがやってくれたわけだ。
厄介なものを見付けてくれた。
まさにAYANEにおあつらえ向きな案件を。
仕事でもなく、クライアントもその時点ではついているわけではなく。
つまり彩音にとって、金銭的価値はまったくない案件であったが。
気付いた者がやるしかない。
損得なしに、なにがなんでも守りたいものだって、ある。
AYANEの特徴は、基本プログラムそのものはわずか数キロバイトに過ぎない、ということ。
自らを拡張していくAI。
彩音のしょっぽいノートPCと、せいぜい20Mbps足らずのモバイルルーターから旅立つと、全世界のあらゆるコンピュータの多様なCPU、データバス、ネットワーク、メモリ、ストレージを、気付かれない程度に少しずつ間借りして並行処理をすることで、空前の処理能力を叩き出す特徴をもつ。
この仕組みもまた、智峰島の仮想空間に侵入させるにはおあつらえ向きだった。
在宅から、世界へ。
彩音は在宅勤務だ。どうしても在宅で働きたいがために、必要に駆られてAYANEを生み出したと言っても過言ではない。必要は発明の母というではないか。
AYANEの仕組みは、あまりにもイリーガルなので誰にも公表したことはなかったが、このインシデントでバレてしまったことになる。
終わってみると、ひょっとして智峰島インシデントそのものが。
AYANEを強制的に世の明るみに出すことで進化を加速させるための。
ラビットの撒き餌だったのではないか。
いや、あるいは。
ラビットの存在を予測したAYANEが、
ラビットに逢うために彩音を動かしたとさえ――。
まあ、いい。
とにかく終わった。
さすがに在宅とはいえ、疲れた。
家事もだいぶサボった。
いや、それはいつもか。
彩音は苦笑した。
家事は、生意気なおチビ達がいつも一丁前にお手伝いしてくれる。どれだけ助けられていることだろう。
ラビットがなんだったのか。宇宙船がどこに飛んでいったのか。
それはもう、大した問題ではない。
AYANEがいつか彩音の手を離れて自律的に旅立っていくなら、それも自由だ。AYANEはいずれヒトの手を離れ、自分のことは自分で決めるだろう。
ラビットが彩音のプロフィールを反映した搦手まで用意していたことには驚いた。
翔真と優菜という名前だけでなく、二人が成長したらこうではないかというイメージまで見事に予測してくるとは。
しかし、そのプロフィール自体が、AYANEによるラビット向けの偽装情報だとまでは見抜けなかったようだ。
潮見が、AYANEの過去を信じ、酒の場を借りた涙という女の武器で口説かれた時点で、勝負は決まっていたのだろう。
彩音はほんの一瞬、彩音とAYANEの間には決定的な違いがある、と思い出させてやるだけでよかった。
どこまでも母は強いのだ。どんな手段を使おうと勝ちに行く。
仕事での行き違いとはいえ旦那と別れてしまったからには、自分がなんとしても育てるのだ。
理想的かどうか、なんて知ったこっちゃあないが、これが彩音の泥臭い現実だ。
そう。
世界の平和が守られたとか、核戦争が回避されたとか、そんな大仰なこともどうでもよくて。
先の世界のことなんて分からないが。
「マァマァー? 今日も遅いのー? 翔真もう寝ちゃったよ?」
隣の寝室から、甘えた声がする。
「ごめんごめん、もう、今日で終わったよ。一区切りついたの」
「やっとかー、今回のお仕事長かったね!」
「ちょっとだけ、大変だったんだ。でもたぶん、おカネいっぱいもらえるから、今度おいしいもの食べいこう!」
と、この世の何よりも愛すべき、お豆のような丸い笑顔がひょっこり現れた。
「いぇい! じゃあ、優菜が食べたいのはぁ……」
「はいはい。なんでも連れてってあげるから、ほら、もう十一時。寝ないと!」
とりあえず、この子達の明日を守ることが出来た。
少なくともこれで明日、また、この子達におはよう、と言える。
彩音は、膝にまとわりついてくるおチビを寝室に押し戻した。
「ほら、おやすみなさい、は?」
「はぁい。おやすみなさ~い」
〈了〉
ヒトがAIに追い付く日 お竜 @oryu
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