●自由を知る為、半馬の賢人は矢を射て発つ ……♂
最初に思ったのは、彼女の名前だった。
別に漢字を一瞥して似通っているわけではないし、名前の音がたった二文字同じというだけで彼女とマユの間にはそれだけの共通点しかなかった。音が似ている名前などそれこそ星の数ほどあるだろう。同姓同名はともかく、漢字も同じ同名なら探せばきっとごろごろころがっている。探しはしなかったけれども。
……だから、別にそれだけの理由で彼女とマユを結びつけずともいい筈だったのだ。
だけれどもそれで流してしまうには、僕の心に刻まれたマユの面影はまだあまりに強過ぎた。
もう二年、けれども二年である。
恐ろしいことに、そこに横たわる年月は絶対的に隔てられていて、そのくせ絶望的に意識せざるを得ない、交わることのない漸近線だ。
それで僕はその年入学してきた後輩である繭佳のことを、その瞬間に覚えてしまった。
マユが新月を右肩越しに眺めるのが感傷なら、僕が天文同好会に入ってしまったのもまた感傷だった。その所為でまたマユの影に悩まされるとは、まったく自業自得もいいところである。
しかしとにかくマユを見つけてしまった僕は、しきりに二人を別物であると分けようとし、そう思ってしまった事実を忘れようと努めた。実際しばらくその試みは上手くいっていたのだ。
だが、忘れようとしていた僕の心を刺したのは、迂闊にもまた吐いてしまったあの質問だった。
『モラトリアム? ……うーん、好きではないですね。どちらかと言えば、嫌いです』
少し眉を寄せ、渋々と言った口調で彼女はそう答えたのだった。その瞬間、忘れようとしていた様々なものが一気に僕の脳髄に流れ込んでどうしようもなくなってしまった。
あの時僕は随分と妙な顔をしていたことだろう。しまったという表情で、言ってしまった彼女があんなにも狼狽えていたから。
……ああ、別に悪いのはきみじゃない。僕がただ自分の中に抱えた影に苛まれただけだったのに。
そして、名前。彼女とマユの共通点、『マユ』、『繭』。
繭佳もまた、自分の名を好いていない、と言った。
二人は違った。
けれども、二人はマユだった。
どうしようもなく、それは僕の前に立ちふさがって、記憶の奥に再びあの花、マツユキソウと、そして屋上のマユを呼び覚ますのだ。
だけれども。
僕は目の前の繭佳を見遣った。
マユは、繭佳は、生きていてくれた。
下らない長たらしい御託はいらない。ただそれだけで僕には十分だった。
繭佳の確かな温もりが感じられて、心地よかった。
ここで雪が降りさえすれば、全てが出来過ぎだろうに。
そう思いながら空を仰いでみるが、そこに広がるのは見事なまでの青空で。微かに僕は笑みをこぼす。
ただし、その代わりに降ってきたのは、花だった。
忌まわしき十二月十日生まれの僕に、可愛らしい繭佳が降らせてくれたのは。
「一応、無理かも知れないと思って、これも持ってきてみたいんです。……すみません、雪じゃなくて」
繭佳が手に持っていたのは、マツユキソウ。
僕の、忌まわしき記憶の花。
再び僕の中で何かが凍り付いた。今、消え去ろうとしていたもの。容赦なく氷の礫は僕を叩く。
「それ。……雪って名が入るから、持ってきてくれたんだと思うけど。贈り物には相応しくない花言葉が」
凍り付いたのは僕の内部だけではなかった。自分でも上手く表情が作れていないことが分かる。困惑して動揺する彼女を見て、出来るだけ柔らかく尋ねよう、と苦し紛れに言ったのがこれだった。
繭佳は、繭佳。マユではない。
けれども。
……もし、これが杞憂ではなかったら。まさか。
僕の記憶の中で、月を背にしたマユが振り返ろうとする。
そうして彼女は、美しく冷たいマユは、赤い唇を開いてうっすら微笑んだ。
『貴方の死を、望みます』
そう、言った気がした。
けれども、悪趣味な僕の想像をいとも簡単に砕き、さも意外そうな表情で繭佳は笑い飛ばしてくれた。
「花言葉? 嫌だなぁ先輩。それはごく一部で言われている言葉ですよ。普通はそっちの解釈に取らないです。
……まあ、悪い方を意識すればそうですけど、さすがにその意味は悪い方に意識しすぎです先輩」
僕の憂いを全て消し去って、明るく繭佳は言ってくれた。
……ああ。繭佳だ。
マユじゃ、ない。
「マツユキソウの一般的な花言葉は、『希望』です」
そう言って繭佳は僕にマツユキソウを差し出した。
「……気にするのでしたら、これは贈り物ではありません。雪の代わりなので、あくまでこれは雪です」
あまりに必死に繭佳が言ったのがおかしくて、僕は少し笑い、涙が出そうになった。
もしかしたら。
……どうあがいても時は不可逆だ。本当は、などと考えるのは感傷に過ぎる。
けれども、だけど。
「……ありがとう」
僕の、希望。
繭佳から、僕はマツユキソウを優しく受け取った。
見れば、花束には美しい真紅のリボンが結びつけられている。確かに白には真紅が合うかもしれない、しかしそれにしても偶然が過ぎるだろう、と僕は悟られぬよう苦笑する。
白には真紅が合うかもしれなかったが、白ならどんな色でも合うはずである。ただ、時期が時期なのでその色が使われるのも仕様がないことではあるのだろうが。そんな詮無いことを思える僕は、もうマユの後ろ姿に苛まれる心配はないのかもしれなかった。
そう思わせてくれただけで、繭佳のささやかな贈り物だけでも十分だったのに、更に繭佳は下でサークルの連中が待っていることを教えてくれた。なるほど、集団での計画だったという訳だ。それを知って少しばかり僕は肩をすくめたが、しかし彼女が花束をくれたという事実に変わりはない。それに、繭佳がくれたのはそれだけではないのだ。
サークルの奴らは僕の好きな赤ワインを用意して部室で待っているという。これからようやく二十歳になるのに好みの酒が分かっているという点には第三者からしてみれば疑問が残るであろうが、まあ、その辺は、大学生ということで勘弁して貰いたいものだ。
彼らの所へ向かおうと屋上を後にしようとした矢先、繭佳は、あ、と何かを思い出した様子で手を叩いた。
「忘れるところでした。今日は新月です」
そう言うと、彼女は僕に紙を渡した。新月とこの紙と、一体何の関わりがあるのだろうと僕は首を傾げる。
「新月の日って、紙に願い事を書くと、願いが叶うらしいんですよ。先輩は今日、折角誕生日で、おまけに新月なんです。やってみて下さい」
思いがけない彼女の申し入れに、僕は苦笑する。
「別に、そういうの信じてないんだけどな」
「当たるも八卦、当たらぬも八卦……じゃなかった、先輩、これは胡散臭いおまじないとかそういう類じゃなくてですね、自分に語りかける自己暗示、みたいなものなんですよ。だから、この期に自分を見直す機会……みたいな」
偉そうな事言ってすみません、と彼女は肩をすくめる。
「でも、先輩新月が好きなようだったので。それに」
恥ずかしそうに繭佳は俯き加減になる。
「私は、叶いましたから」
何が叶ったかは言いません、と僕が聞きもしないうちから繭佳は釘を刺した。
僕は新月が好きなわけではない。むしろ新月は憑いているのだと思った。あの日から、二年の間、ずっと。
けれども、今更それを否定するのも野暮なので僕は黙っておく。他の連中にもそう思われているのは確かだった。それに。
僕はまだ明るい空を見上げた。新月の空には、まだ夜の闇も訪れていなければそれを彩る星々も現れてはいない。見えないだけなのだ。
人はそれを見ることが出来ない。夜にならなければ本当の姿は分からなかった。
新月の、願い事。
きっとこれは感傷じゃない。しかし。
信じても、良いのだろうか。
こんな僕でも、願っていいのであれば。
静かに僕は瞳を閉じて、必死で堪えた。
僕でも、きっと、夜になれば見える。
一通り説明をしてしまうと、繭佳はくるりと向きを変えて扉の方に歩いていった。
「私は先に行ってます。先輩、すぐ来て下さいね。今日はとことん飲んじゃいましょう!」
馬鹿、お前はまだ未成年だ、と笑いながら叱って、僕は軽く手を振って彼女を見送った。繭佳から受け取った紙に僕はぼんやりと視線を落とす。
何の変哲もない紙である。真剣にやるならば専用の紙も必要になるのかもしれなかったが、今の僕には必要ではなかった。僕はただ、一対一で向き合えれば良いだけだったのだから。
僕は誕生日が嫌いだ。
けれども、とことん繭佳にほだされてしまった。
ただ、今は新月へと厳かに祈る。
願い事、その最初の一つ目は迷わなかった。
繭佳が「最初は『私は新月の力で願いが叶う』と書くのが良い」と教えてくれたからだ。
いざ書いてみると、これはなんて感傷なのだろう、と思い、知れず笑った。二十歳になるという男が少女が好むようなおまじないをしているなんて、なんとも滑稽である。しかし、繭佳が言うのだから仕方ない。
おまけに新月だった。
あの日マユは、感傷で新月になりたいと願っていた。けれども、今日の新月はきっと違う。感傷ではない。まだ時計は昼の十時前をさしており、まだまだ十二月十日も終わりそうになかった。
二つ目、いざ自分の願いを書く段になって僕は一瞬手を止めた。悩んでから、そして、やはり書くのはこれしかないと思い直し、静かに僕は紙の上にペンを走らせる。
『僕は、もう二度とマユを失わない。』
《END and START, and Happy Birthday!》
新月の空には氷の礫を 佐久良 明兎 @akito39
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