◇小さな蠍は猛毒という名の秘密を抱く ……♀
「今日、先輩の誕生日じゃないですか」
やや狼狽して私は口走る。ああ、なんたることだろう。
「だから、雪を降らせようとしていたんです。先輩の好きな、雪を。
最近温暖化の所為か、冬になっても全然降らないじゃないですか、雪。まだ十二月の頭に雪が降るのを願うなんて、それこそ奇跡に近いです。だから自分で作って先輩の上にだけでも降らせたいと思ったんですけど。やっぱり駄目でしたね。すぐ溶けてしまいました」
それなのに。
私は手の中でどろどろに溶けた人工雪を眺めてため息をついた。
勿論、成功率が低いことは予想していた。屋上からでは確実に先輩の上に降らせることが出来るとは思えない。今朝、どうやっても途中階の窓が上手いこと開かないという事実に気づき悪態を付いたものだ。事故だか自殺だかの防止なのだろう、大学も面倒なことをしてくれたものだ。屋上からでは、まさに二階から目薬ではないか。
けれどあの人は、それを見てきっと笑ってくれるには違いないと思ったのだ。残念なことに屋上にいてはその笑顔が間近で見ることは出来なくても。
その為にわざわざ休日に来て貰ったというのに、それどころか、肝心の雪を作るのに失敗するとは。代用品として塩を使うことも考えたが、それでは私が先輩を忌み嫌っているようだ。それは無い。
これでも高校の頃は化学部で、理科の実験は得意だったのだけれど。やはり一年近くのブランクは意外に大きいようだった。
いや、ただ単に前準備や事前の実験が足りなかっただけかもしれない。やはり完璧なんておこがましかった。計画倒れも良いところだ。
ふと時計を見れば、約束の時間からは十分が過ぎている。
ああ、と私は心の中で呻いた。だから先輩は不審に思ってこちらまで来てしまったのだ。おそらく屋上で難儀している私の姿でも見えてしまったのだろう。恥ずかしいことこの上なかった。
それにしても、随分と先輩は急いでここまで来てくれたらしい。大きく肩で呼吸をし、まだ息は切れている。尋ねた時には大丈夫、とあの人は笑ってみせたが、こちらが無理に呼びつけたことなのに、かえって恐縮してしまう。
しばらく先輩は息を落ち着かせようと黙っていたが、やがて私に向かって一言呟いた。
「……ば、……馬鹿」
馬鹿と言われてしまった。
「こんな高いとこから落としても、……見事に、俺のところに落ちるとは限らないだろうが」
反論も出来ない。私は先輩に同意しながら曖昧に微笑むしかなかった。
あの人は、会った最初の頃から先輩などではなかった。
理系に進むつもりだった私は、受験期に成績の事情から急遽文系に転向した。一年浪人して頑張ればなんとかなるかもしれなかったが、親に浪人はさせないと宣告されていたし、元々親は私を法学部にいかせたがっていたのだ。その為不本意ながら、この春私は私立大学の法学部に入学を決めたのだった。
当初から私は全てを諦めていた。何もかもがどうでもよくて、ふてくされて、腐りきっていた。夢を失った今、ただ無為に無駄に過ぎていく時間の中で、そのまま無機な世界で生きていくしかないのだと思った。けれども。
その大学生活に希望をもたらしてくれたのが先輩だった。せめてサークルだけでも理系のものに、と部室の扉を叩いた時、最初に私を出迎えてくれたのがあの人だった。
ここで私は、今まで馬鹿にしていた体験をしてしまうことになる。
顔というよりは、その存在全てに陥落してしまったのだ。見事に。
それから私は、最初よりは随分まともになった。
そう、あの人に感化されていってしまったのだと思う。
だから私は今日、あの人に少しでもお返しをするつもりだった。碌でもない私でも、あの人を笑顔にするという私にしては相当ましなことが出来ると他でもない自分に示してやりたかったのだ。なのに。この結末は、あまりに皮肉だった。
自分の中に、繭の中にまた引き籠もってしまいそうになった私を、呼吸を整えた先輩が呼び止めた。
「……繭、佳」
「なんですか、先輩」
あの人は真っ直ぐに私の瞳を見つめた。
その時。
何故だろうか。何故か、その時私は、あの人が、先輩が私のことを初めて見てくれたのだと感じたのだ。
「なんでもない、……なんでもないよ、繭佳」
そう言ってあの人は笑顔で、私の頭を撫でた。
「ありがとう」
その言葉だけで、十分だった。
私はもう憂えない。
願いが叶ったのだと、その時私は悟った。
冬の寒さに対比したあの人の温もりが心地よかった。
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