東京バレエ学園
東京バレエ学園は、提灯が並ぶ墨客通りに面した雑居ビルの三階にある。その雑居ビルは現在、東京バレエ学園しか入っていないため、墨客通りから見ると、ぼうっと三階だけが光って見えた。
少女は赤いワンピースをひらひらさせて改札をくぐると、幾つもの提灯を上に見ながら走って、雑居ビルに飛び込んだ。雑居ビルの階段はいつもしっとり薄暗く、恐ろしい。薄暗いなか、赤いワンピースははっきりと見えるので、少女はそのワンピースじゃないと嫌だと母親に向かい駄々をこねる。そのワンピースが跳ねるように階段を駆けあがって行く。そうして扉から見える光を目にした時、やっと少女は足を緩める。そしてはっと小さく息をつくのであった。
「竹久さん、ほらまた遅刻ですよ」
窓から墨客通りを見下ろしていた、八雲先生が振り向いて云った。汗でぬれた体に、エアコンの風かすうっと染み込んでいくようで気持ちがいい。
「ねえ、先生お祭りがあるの?」
竹久さんと呼ばれた少女は先生の言葉など意に返さない勢いで、先生に走り寄って墨客通りを見下ろした。
「ほら提灯があんなに! ねえ先生、お祭りがあるの?」
八雲先生はやれやれといった風に微笑んで頷いた。
「ええ、毎年、夏の初めに大きな祭りがあるのですよ」
「ねえ、行きましょう」
「練習しなきゃダメでしょう」
「だって、いいじゃない。私しかいないのよ」
「しかしねえ……」
と八雲先生は考え込んだ。
東京バレエ学園は八雲先生の祖母が開校したもので、老舗バレエ教室であった。
多いときは六十人もの生徒を抱えていたが、今は竹久さんしかいない。
竹久さんがここに通うのもの彼女の親が八雲先生の昔の生徒だからで、竹久さんがバレエが好きで熱心といったわけではない。
雑居ビルの階段が怖いというのが、皆が離れるひとつの原因であった。しかし八雲先生はここを離れるつもりはない。窓から見える墨客通りの活気ある姿が好きであったし、この雑居ビルにも祖母からの歴史が詰まってるように思われた。
八雲先生が窓を開けると、むっとした重い夏の空気が、空調管理された教室の空気をかき混ぜた。それと同時に町の賑わいもしんしんとした教室に入り乱れる。
「ねえ、先生いいでしょう?」
「しかしねえ、迷子になったら大変ですよ。人も沢山いるしねえ」
「大丈夫だよ、ね、先生、手を繋ぎましょう。そうすれば迷子になんてならないわ」
窓から祭囃子が聞こえてきた。そうすると不思議なもので、お祭り特有の、綿あめ、ベビーカステラ、焼きそば、たこ焼きの、混ざった何とも云えない甘い匂いがしてくるように感じられた。
「仕方ないわね、行きましょうか」
八雲先生は呟いて、窓を閉めた。顔には出さないが八雲先生もその匂いに釣られたであった。しかし八雲先生は難しい顔をした。そうして、
「いい? わたしの手を決して離しはいけませんよ」と強く云った。
竹久さんはその言葉を聞いて、飛び上がって喜んだ。ひらひらと舞う赤いワンピースが金魚の尾のように見えた。
「先生、私ね、お祭りが大好きなのよ。金魚すくって、綿あめ食べて、ラムネを飲むの。いいでしょう?」
「ええ、良いですよ。しかしお金は持っているの?」
よくぞ聞いてくれたという顔で竹久さんは頷いた。
「おこづかい、貰ったの」
「まあ、誰に?」
「お母さんに、先生とお祭りにでも行ってらっしゃいって。先生はお祭りが大好きなんでしょう?」
八雲先生は驚いたように、竹久さんを見た。そうしてころころ笑って、
「ええ」と頷いた。
「あなたのお母さんとも行ったことがあるの、昔はね、毎年ここの教え子と行っていたのよ」
「どうして行かなくなってしまったの?」
八雲先生は少し考えて、
「ほら、早く行かないと稽古、始めちゃいますよ」と云った。
竹久さんはわっと叫んで、教室の扉に向けて走った。そうして振り向いて、「はやく、はやく」と云った。
竹久さんの母親が、今の彼女と同じく小学校四年生の頃まで、八雲先生は教え子を連れてお祭りに参加していた。当時は小学校一年生から高校三年生まで、十人ほどの生徒を教えていた。八雲先生はそれぞれ年次の高い者と低いも者で手を繋ぎ、お祭りをまわるように指示していた。そうして先生が一番最後尾で彼女らを観察していた。
その年の矢作天神祭は妙に暑かったと、八雲先生は記憶している。梅雨入り前の初夏にそぐわないほど、空気はむっとして重く、体に幕を張るようにまとわりついてきた。
八雲先生は皆の後ろについて雑居ビルの階段を降りていた。
「手を繋いでいる人どうして、はぐれないようにしてくださいね。もしはぐれたら近くの大人に助けを求めて下さい。その時、しっかりと東京バレエ学園の生徒ってことを伝えるのよ」
八雲先生がそう云うと、元気よく返事が返ってきた。当時はまだ雑居ビルも賑わっていたので、階段も恐ろしい場所ではなかった。
雑居ビルを抜けると、墨客通りの提灯の明かりがぼんやりと皆の顔を照らした。わっとした喧噪のなか、皆で歩いて矢作天神に向かって歩いた。むっとした空気と人の群れをかき分けるようバレエ学園の生徒は、歩いて行った。
矢作天神の鳥居を抜けると、お祭りに参加したように感じられる。
生徒たちはきょろきょろと落ち着きなく出店を見渡し、きゃっきゃと燥いでいた。
「ねえ、先生。綿あめがあるよ」
後ろを振り向いて、皆が口々に声を出す。
「あのクジ当たるかなあ」
「ふふ、クジに本当は当たりはないのよ」
「それはダメよ、ズルってこと」
「ねえねえ、金魚が綺麗。ヨーヨーもあるよ」
八雲先生はその光景を微笑ましく見つめる。そうして八雲先生も様々な色に染まった屋台を見て、うきうきするのである。
矢作天神祭りは最後に花火が上がることが有名で、皆がそれを楽しみにしている。お祭りも終盤にかけて人がどんどん増えるのが常であった。東京バレエ学園の生徒はしかし花火よりも屋台が好きで、走り回るように、駆け巡る。
「迷子にならないでね、手は離さないでね」
八雲先生が注意すると、四方八方から「はーい」と返事が聞こえてくるのであった。
「ねえ、先生」
という呼びかけに振り向くと、バレ学園の年少組、小学校二年生の竹久さんと内田さんがいた。
「どうしたの?」
「草木さんと綿貫さんが二人で先生のところに行きなさいって、決して離れないでねって」
八雲先生は驚いてあたりを見渡したが、まあ、大丈夫でしょう、中学生二人だもの、と考えて、「じゃ、二人は先生と回りましょう」と言った。
三人は綿菓子を買ってそれを食べながら歩いた。
「綿あめの棒が喉刺さらないように、しっかりと注意するのよ」
「ねえ先生、私、金魚すくいがしたい」
竹久さんはそう云って金魚すくいの屋台に向かって走った。
「ほら、いけませんよ。綿あめを口に入れて走っては」
少女二人の目には金魚の水槽は宝箱のようにきらきら光って見えた。二人は目を輝かせて、挑戦した。ひらひらと逃げる金魚が、二人の頭の影に逃げ込んでくる。二人はそれを一網打尽しようと、網を切った。
「だめね、先生もやってみてちょうだい」
八雲先生はひらひら舞う金魚をあれよあれよと三匹とった。
「あら、うまい」
「どうしてそんなに上手なの?」
二人は口々に聞いた。
「それはね、毎日あなたたちを見ているからよ」
八雲先生はそう云ってころころと笑った。
竹久さんには八雲先生がバレエを教えている時よりも楽しそうに思われた。
八雲先生は金魚の袋を片手に、二人について行くようにして、集合場所を目指した。集合場所は毎年、花火の見える柳の木の下と決まっていた。そこは花火からは遠ざかるが、人がいないので、毎年がバレエ学園の生徒はそこから花火を見た。
「ねえ、あなたたち、金魚いる?」
「ううん、わたしの家にはネコがいるもの」
と内田さんが云うと、「わたしもいらない」と竹久さんが云った。
「どうして?」
「バレエスタジオで飼えばいいわ、そうすれば皆で見れるもの」
「それはそうねえ、でも私も飼えるかしら」
と呟いた八雲先生に反応することなく、二人はぞろぞろとやって来た生徒たちと祭りの話をし始めた。
花火が始まっても草木さんと綿貫さんが戻ってこなかった。生徒たちはそれぞれ煌びやかに光る花火、遅れてくる音に一喜一憂している。
帰ってこない二人は通っている学校の生徒と一緒に見ているのだろうと思うようにしたが、花火に集中することができなかった。
いつの間にかあたりはしんとした。柳の下はバレエ学園の生徒しかいなく、彼女らはいつの間にか打ち上げられる花火に見入っていた。しんしんとするなか花火の爆裂音だけが、空気を破るように響いた。
「草木さんと綿貫さんはどこに行ったのかしら」
ぽつりと呟いた八雲先生の声もまた、花火の音にかき消された。
次の日の朝刊に、バレエ学園の生徒二人が行方不明という記事が載った。
八雲先生は花火のあと、本部にかけあって消防隊まで出動したが、どこに行ったのか、見つからなかった。
何かが抜け落ちたような祭りの後の矢作神社の、どこにも彼女らはいなかった。
八雲先生を責める人はいなかった。行方不明になった生徒の親も決して八雲先生を責めなかった。それはどうしようもなかったことのように扱われた。
バレエ学園の幕が閉じた。そうしてそれもどうしようもないことであった。
八雲先生は週に何度が矢作神社にお参りをした。そうしてぶらぶらと少女たちを探したが、やっぱり彼女らはいなかった。花火を見る柳の下に行くと、枝垂れ柳の枝にロープが二本、それぞれ下に頭が入るほどの輪っかをつけていた。しかし彼女らはどこにもいなかった。
「ねえ、どうしたの?」
八雲先生は階段下から見上げる竹久さんを見て、竹久さんの母を見るようではっとした。
「先生、私怖いの、この階段が」
竹久さんはそう言って八雲先生に向けて手を出した。八雲先生はその手を掴んで、「お祭り中決して離してはいけないよ」と言った。
先生にとって久しぶりの矢作祭はしかしあの頃と全く変わらなかった。
鳥居をくぐるとむっとした人の波に揉まれるように、流れるように歩き続けるしかない。竹久さんは色々なものに目移りをして、先生を困らせた。
「ねえ、ほら綿あめの袋を膨らましてるよ。ねえ、でもちょっと汚いね、おじさんが息入れてるの」
「あの狐のお面が可愛いわ、ほらでもあっちのは恐ろしい!」
先生はその全てに相槌を打ちながら、しかし彼女が横にいることを常に意識しながら歩いた。
「金魚すくいをしたい」
竹久さんはそう言って駆け出した。先生もそれにつられるように、引っ張られるようにそれに続いた。
「先生は金魚すくいが得意なんでしょう?」
「どうして?」
「お母さんが言っていたわ」
「しかしねえ、それはもう随分と昔のことで、あなたのお母さんたちを見ていた頃だわ」
「やって、やって」
八雲先生は仕方ないというふうに始めたがやっぱり昔のようにはいかなかった。
「ほら、やっぱり無理よ、一匹しか取れない」
「ねえ、先生、私ね、先生のとった金魚も可愛と思うけれど、あの真っ赤な金魚がほしいの」
「やってごらんなさい」
竹久さんは水面に顔がつきそうなほど近づいて、真っ赤な金魚を狙った。真っ赤な金魚はひらひらと彼女から、踊るように逃げ惑う。
「ねえ、怖がらなくてもいいのよ、私はあなたがいいの」
竹久さんはそう言って、真っ赤な金魚を狙うが、最後まで一匹も捕まえることができなかった。
「惜しかったね、でも一匹取れればいいいいじゃない」八雲先生がそう言うと、竹久さんは泣き出しそうに、
「でもね、私はあの金魚がいいの」
と言ってついに泣き出した。
お祭りの喧騒のなか、竹久さんの泣き声に構うものは誰もいない。ただ八雲先生だけがあらあらと竹久さんを見ていた。
「ねえ、お嬢さん」
と不意に声が聞こえて、竹久さんははっと泣き止んだ。
その声は金魚売りのおじさんらしかった。
「わがまま言っちゃいけないよ。世の中にはルールがあるんだ。もしこの真っ赤な燃えるように美しい金魚が欲しければ、それなりの代償を払わないといけない。例えばね、昔このお祭りで二人の少女が行方不明になったのさ。まあ本当は毎年何人か行方不明になっているんだけれど……、今になっても見つからない。そりゃそうさ、助けて欲しいのならば、その代償を払わなければいけない。ねえ、お嬢さんをくれるならば、もしかするとその二人は戻って来るかもしれない。それはわからないけれどね、まあ、この金魚が欲しければ、私に何かくれないか。お嬢さんでもいい。そうすればこの真っ赤な金魚の他にね、この二匹の金魚も渡しますよ」
と言ったおじさんの最後の言葉は、八雲先生に向けて放たれた言葉のように思われた。
八雲先生ははっとしてその二匹の金魚を見ると、それはいつか行方不明になった少女たちに見えた。
八雲先生は竹久さんの手を掴んで走り出した。
後ろで誰かの笑い声が聞こえたように思われた。
綺譚集 古池 鏡 @sank
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