1 仁科みたび、犬ふたたび

 ぼこぼこにされた後輩くんはなんとか回復したものの、まだあっちこっち痛いとぼやいている。金銭的にも心情的にも、もう闇医者の世話にはなりたくないようで、市販の鎮痛剤と湿布でごまかしごまかし、やっているらしい。

 そんな彼から或る晩、きみに電話が入った。

 心細そうな声でいうことには、経過を見たいからもう1回来いと呼び出しがあったらしい。もちろん、仁科医院からである。

 それだけならまだしも、つかみどころのない声音の女医はこうも言ったらしい。


「アキラくんも連れてきて」


 1人で行くのが嫌で嫌でたまらなかった後輩くんは、渡りに船とばかりきみに電話をかけてきた。そういう次第らしい。

 話を聞かされたら、怖いのはきみも同じだ。病院に連れて行ってやったという点では確かに無関係ではないだろう。だからって一緒になって怪我の経過を説明されるいわれはないし。


(オレ、なんかしたっけ?)


 したというか、見たというか。

 真っ先に連想したのはあの「犬」だ。

 あれは、見てはいけないものだったのかもしれない。そんな気がしてきた。いや、冷静に考えて、あれはやばい。おかしい。あの場のせんせは怒るどころか友好的な雰囲気ですらあったが、表向きの顔などいくらでもつくれるだろう。

 きみは「犬」のことをまだ誰にも喋っていない。無意識のうちに「隠すべきこと」と感じていたのかもしれない。今後も、誰かに話そうとは思わない。

 だがそう説明して、闇医者のせんせは納得してくれるだろうか。

 きみは暗澹たる気持ちで、約束の日時をメモして冷蔵庫に貼った。


 ***


 約束をすっぽかすこともきみは考えたけれど、なんとか踏みとどまった。仁科医院はこの街における、敵に回したくない相手ランキング医療部門堂々の第1位(きみ調べ)だ。お代の踏み倒しは拷問台経由向こう岸への片道切符と聞いている。それ以前に闇医者が副業で拷問屋さんが本業説もある。怖い。すごく怖い。そんな相手にすっぽかしなんてできない。消されるやつだ。跡形もなく。

 そういうわけできみは後輩くんと2人、暗い顔を並べて仁科医院に向かった。指定された時間は昼前だった。夜の喧騒が嘘のように街は静かで、煤けて見える。

 その中でよりいっそう煤けた、埃っぽい、小汚いビルの中に仁科医院はある。このビルにはいかにも時代遅れなスナックやパブが何件か入っており、いつもはそこそこにうるさいのだが、お天道さまが幅を利かせているとやっぱり、静かだ。


「……なんか、廃屋みたいっスね」

「やめろよ……」


 きみの感想とまるきり同じことを、後輩くんがこぼす。年代物のエレベーターが不安定な動きで閉まった。もう、「やっぱり帰る」は言い出せない。

 きみは、いやいやながら腹をくくった。


 ***

 

 仁科のせんせは、いつも通りのちょっぴり眠たそうな顔で、サンダルをぱたぱた鳴らしながらやってきて、「いらっしゃあい」とふんにゃり笑った。敵に回したくない相手ランキング医療部門堂々の第1位(きみ調べ)とはとても思えない。小柄で童顔なのも相まって、住宅街にある小児科のお医者さんと言われてもうなずけるくらいの柔らかい雰囲気だ。


「ゴメンね、アキラくん。わざわざ呼び出しちゃって。さてそれじゃ勇吾ユーゴくん、脱いで脱いで。見せて見せて」

「え、あ、わ」


 仁科のせんせが、無遠慮に後輩くんの服に手をかける。下手に抵抗してはまずいのではないかという彼の躊躇とせんせの容赦ない脱がし方が相まって、後輩くんはあっという間にパンツ以外の衣服を引っぺがされてしまった。

 というといかがわしい場面ではあるが、これは歴とした医療行為である。事実、勇吾の身体には極彩色の痣が無数に踊っていて、「痛々しい」けれども「いかがわしい」雰囲気はない。触れられるたび、後輩くんが歯を食いしばって額に汗を浮かべているとなればなおさらだ。

 いたぶるように全身をくまなくまさぐったのち、せんせはふいっとため息をついた。


「市販薬って薄いからさあ。あんまりおすすめしないなあ。ここに来るだけの度胸あったら、クスリも取りにおいでよ。薬局のおクスリよりちょっぴり割高だけど、絶対効くもん」

「だってここ怖いっスもん……」

「なんだって~?」

「あでっ、そこ、せんせ、そこ痛いとこ!」


 なんとも緊張感のないやりとりだ。平素なら笑ってしかるべきところだろうが、きみは自分の運命を思うと全く笑えなかった。せんせと後輩くんの、出来の悪いコントのようなやり取りが終わったあとに「玲くん居残りね」と死刑宣告がやってきたのではなおさら笑えなかった。

 後輩くんはきみを気にするそぶりを見せながらも、やっぱり自分がかわいいらしく、ああ無情、さっさと家路についてしまった。

 残されるきみ。

 出てくるお茶。


(これ、絶対なんか入ってるやつ……)


 飲んだら死にそうだ。

 しかも、苦しいやつだ。

 そうに違いない。

 グラスの半分ほどを満たした氷が溶け始め、からん、と小気味いい音を立てる。それすらきみには、絞首台の階段を上る自分の足音のような気がするのだった。

 せんせはきみの斜め向かいに陣取って、きみと同じデザインのグラスに入った、同じ色のお茶をきゅっとあおった。何も入っていませんよアピールなのか。そうなのか。油断させて飲ませる作戦なのか。


「ごめんね呼びつけちゃって。このあと暇?」


 きみは神妙にうなずく。事実暇ではあったが、どっちにしろもうすぐ永遠に暇になるのだ。


「じゃあちょっと構ってもらおうかな! おいで」


 せんせの台詞の後半は、後ろの扉に向けられていた。

 かたかた音を立てながら、引き戸が掌の幅くらいだけ開いて、そこからきみの見知った顔が覗く。

 とはいうけれど、いっぺんしか見ていない顔だったが。

 そうはいっても、忘れられないくらいにパンチの効いた顔かたちと服装をしている。

 その男性は白人で、ごついサングラスで目元を隠しているにもかかわらずあからさまに美男子だった。髪よりやや濃い色の眉が不安げに寄せられているのをどうにかすれば、より美しかったろう。背はすんなりと高く、服装に疎いきみにも明らかに高級品とわかる、派手でいて下品過ぎないスーツに身を包んでいるのが、十分に見えないながらもわかりすぎるほどようくわかった。前に会ったときの服とも似ているが、よくよく見れば、ほんのり違う衣装のようだ。ひょっとしたらサングラスまで違うブランドの逸品かも、と思ったが、きみはそこまで判断するだけの知識がなかった。

 衣装一式見立てたのはせんせだろうか。きみはとっさにそう思った。いきなり「犬」と紹介された男が、自分の着る物に気を配っているとは、いまいち思えなかった。


「おいで」


 せんせがもういちど呼びかけると、「犬」はおずおずと扉を開けて、相変わらずのぎこちない所作でじりじり近寄ってきた。きみは、その動作が単に怯えや気後れだけではないことにふと気づいた。彼は左足を引きずっている。壁に手をつきがちなのもそのせいだろう。斜め後ろまで来てもじもじと立っている彼に、せんせは「おすわり」とまるきり犬に言うやりかたで発音しつつ、椅子を引いた。


「玲くんに御足労願ったのは、リッチーの件なんだよね」


 せんせが足を組んだ。

 理由を説明してから消すパターンかと、きみは身構える。


「玲くんさえ嫌じゃなかったら、たまにうち来て、構ってやってくれない? ほとんど外に出せないし人見知り激しいから、あのコ友達いないの」

「……人見知り?」


 きみは思わず、身を乗り出して聞き返した。


「普段絶対待合室なんかに出てこないの。っていうのも、場所柄、『怪我した仲間を運び込んでくる』シチュエーションがここ、多いじゃない? 玲くんみたいな喧嘩屋と同じくらい極道さんも来るしねー。リッチーは『3人以上の集団』と『スーツを着た2~30代の男性』を異常に怖がるの。玲くんどっちにも当てはまらなくて珍しかったから、気になったんじゃないかなあ」


 せんせの横では、リッチーがこくこく頷いている。

 確かにきみは後輩くんと2人で来たし、待合室では1人だったし、スーツではなかった。


「……オレ、消されるとか、そういうのではないの?」

「ぶふっ」


 念のため尋ねると、せんせは飲みかけていたお茶で盛大にむせた。リッチーはリッチーで盛大にうろたえて、せんせの肩を軽くたたいたり背中に手を当てたりしていた。


「げほっ、ごへっ、やだー玲くん、うひひっ、わたしのことなんだと思ってるのよう! そんな簡単に人ひとり消したり、ふふ、するわけないじゃない、あっはっは!」

「……マジ?」

「そーだよー。……リッチーについては黙っててくれるとありがたいけど。あ、もうしゃべっちゃった? だとしても、玲くんはリッチーのお友達候補だし乱暴はしません」

「喋ってない」

「よかった。じゃあ後は若い二人に任せまーす」

「え、いや、ちょ」


 言うなりせんせは素敵な笑顔で、席を立って部屋から出て行ってしまった。あとには立ち上がりかけて中腰で固まったきみと、緊張した面持ちのリッチーが残された。きみは視線でリッチーに助けを求めたが、全く同じ表情を返された。

 困った。徹底的に。

 

「……アキラ」


 テーブルの上で拳を握ったリッチーが、悲壮な声できみを呼ぶ。


「いやナら、帰ッていイですヨ……」


 大きな身体を可能な限り縮めての、絞り出したがごとき声。

 嗚呼。

 だめだ。

 きみはこれに弱い。

 硬派とか、武闘派とか、その他諸々を気取っていようとも、きみは――雨の中、へたくそな字で「拾ってください」と書かれたダンボールがあったならば、その中で震える子猫や仔犬を拾わずにはいられないタイプの不良である。それを知ってか知らずか、おそらく後者、リッチーはまさに雨に打たれる(背丈は高いが)小動物であった。


「帰んねーよ」


 可能な限り蓮っ葉に、情など感じさせぬよう。

 断り切れなかったから仕方なくいてやるというふうを気取ったきみだったが、お見通しということだろうか、リッチーの表情にたゆたう不安はいくらかましになった。そのあとに、たどたどしく、仁科のせんせは怒らせると怖いから言うこと聞かなきゃとか、ぶっちゃけおまえのこともちょっと怖いだとか、まくしたてた気もするが、きみはあんまり覚えていない。

 ただ、万華鏡のようにくるくると、リッチーの表情が変わっていったのは記憶にある。顔が半分サングラスで隠れているにもかかわらず、よくもまあ、百面相ができるものだ。


「……アキラ、わタしと遊んでくれルですカ?」

「ああ。なにする?」

「ポーカーしマしょう!」

「待て待て」


 立ち上がって棚を探り始めるリッチーを、きみは慌てて止めた。


「ルールがわかんねぇ」

「ブラックジャックでもいいデすよ!」

「それもわかんねぇ……」

「hmmm……チェスはどうでスか?」

「……もっと簡単なのにしようぜ」


 結局、オセロに落ち着いた。


 ***


 リッチーは強かった。

 きみは1回だけ辛勝したが、それ以外は全部リッチーに持っていかれた。彼のことを漠然と、「アホっぽい」と思っていたきみはそれを撤回することにした。きっとトランプもチェスもそれなりに強いに違いない。普段はせんせと遊んでいるのだろうか。

 いつの間にかせんせが出前のピザを取っていて、きみがリッチーの腕前に辟易し始めたころにちょうど届いた。3人で益体のない話をしながらそれを平らげ、日の傾く前にきみは仁科医院を後にした。

 せんせは「いつでもおいで」と言っていたし、リッチーをほっぽっておくのも可哀想だ。きみは早くもあの「犬」に情がうつっているらしかった。

 しかし、なぜ犬なのか。

 根掘り葉掘り聞くのもよくない気がして、きみは自分からそれを話題にはしなかった。リッチーもせんせも言い出さなかったので、謎のままだ。

 ただしせんせのリッチーに対する所作が、時折本当に「ペットの大型犬」にするようなやり方の上、リッチーもそれに鳴き真似で返事をしたりするものだから、ますますもってよくわからない。そういうプレイなのか。そうなのか。でもちょっと違う気もする。

 釈然としない気分のまま、きみは後輩くんのくれた生存確認のメールに返信した。


 ***


 そして。

 きみはあずかり知らぬことだが。


 ***


『何度数えても、やっぱりひとつ足りないわ』


 せんせはうんざりした声で、ため息とともにその台詞を落っことした。現在地は彼女の城である仁科医院の手術室。医者が彼女しかいないので、患者が不安を覚えるほどにこじんまりした手術室ではあるが、設備はよりすぐりの逸品をそろえてある。

 それはさておき。

 医学の要塞である手術室に、今だけは、膨大な数の場違いなものが広げられていた。

 それは古ぼけて黒ずみ、触れなば崩れんという有様の寄せ木細工の箱だった。

 それは素人の修繕を幾度も受けたらしい、もはや壊れかけのぬいぐるみだった。

 それは真っ赤なクレヨンで表紙に落書きをされた、幼稚園児向けの絵本だった。

 それは木とも金属とも粘土ともつかない板に、手術室の不愛想な人工灯を七色に跳ね返す塗料で綴られた異国の叙事詩だった。


『やっぱり? オレもそう思ってた』


 返事をしたのは、相も変わらず困ったふうに眉根を寄せたリッチーであった。

 なおこの会話はすべて英語で行われているので、彼はカタコトではない。読者の皆様にはご了承いただきたく。


『個人的には、玲くんが一番怪しいと思ってるの。勇吾くんを連れてきたときもそうだし……もっと前、彼が怪我して運び込まれたときにも”随分入りやすそうなコだなぁ”って思ってたのよ。迂闊だったわ、まったく……リッチー、あなた、それがわかってて玲くんに近づいたの?』

『そんなことないよ! ……人恋しかったのは事実だし、つい見てたら、喋ってもらって、嬉しくって……でも、ほんとにそれだけ。オレが待合室で話した時点では、そういうの、なかったから』

『で、結局……今日会って、どうだった?』

『十中八九、彼だね』

『そう……』


 リッチーとせんせの表情が、一層曇った。

 だけれどリッチーより先に、せんせのほうが持ち直した。相も変わらず疲れた表情は隠しきれていないけれど、その眼は火が付いたように熱い光を抱いていた。


『リッチー』

『なあに、リョーコ』

『この件で……もしかしたら”猟犬”してもらうかもしれない』


 せんせの声音は幾許かの悲壮さをはらんでいた。が、リッチーは笑った。底抜けに明るい笑顔で――相変わらずのサングラスで目元は見えないが――とにかく、口許と眉毛だけで笑って、言った。


『なんで、そんな顔をするの、リョーコ。オレはリョーコの犬だもの……犬なんだから、どんな用途に使われるのでもうれしいよ。猟犬なんて、うれしい限りだね! つまりそれは、オレがリョーコに頼りにされているってことだろう? オレは幸せだよ、リョーコ』

『ええ。頼りにしているわ……リッチー、わたしの愛犬、わたしの猟犬』

『褒めても何も出ないぜ!』


 屈託なく笑うリッチー。

 その笑顔を見るたびにせんせは思う。

 このいとおしい”犬”を、廃棄処分にしなくてよかったと。

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仁科医院の犬 猫田芳仁 @CatYoshihito

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