仁科医院の犬

猫田芳仁

0 ボーイ・ミーツ・ドッグ

 きみがこの病院に来るのは2回目だ。

 1回目は、頭から血を流して朦朧としたきみを、先輩格のお兄さんが引きずってきてくれた。2回目は奇しくも、きみが大けがをした後輩を引きずってきた。彼は頭こそ無事だったが、とにかく手ひどくやられていて、先生曰く「入院かもしれないね」とのことだ。ここは闇医者だから、入院ともなれば結構なお金が吹っ飛ぶ。きみはお金がないわけではないが、後輩の入院費を肩代わりすることを考えると、ため息をつかざるを得なかった。

 入院かもしれないということは、入院せずに済むかもしれない。そう思ってきみは、待合室でぼうっとしていた。処置が終わって、結局どうなるのかを先生から聞くために待っていたのだ。もし帰れるなら送っていくつもりで、車も外に置いてある。路駐だけれど構いやしない。この悪所で違反切符を切るような、度胸の座った警察官マッポはそうそういないからだ。

 待合室にはきみしかいない。

 闇医者なりにそこそこ繁盛している噂は聞くけども、きみが担ぎ込まれたときも、たしか誰もいなかった。きみの意識はだいぶ怪しかったけれど、先輩の悲鳴じみた呼びかけをよく覚えている。それに応えて奥からやってきた、サンダルばきの足音。

 覚えていないなりに思いを馳せながら、きみは天井のタイルを数えた。あまり広くない天井なので、すぐに終わる。2,3度と数えなおして飽きてしまったきみは、天井のひび割れや染みを探しては「あそこの染み、入道雲みたいだなあ。ちっちぇえけど」なんて、呑気なことを考えていた。

 それにも飽きたころ、きみはだらしなくソファに投げ出していた身体を気持ち、起こして、奥のほうに目をやった。

 すりガラスの窓からは見えないし、どうせその奥にも扉があるのだろう。そうだけれど、でも、ときなくきみの弟分が治療されているはずだ。もちろん、気になる。わざわざ病院に連れて行ってやるほど目をかけているやつだ。なんなら、治療費、肩代わりしてもいいと思っているくらいのやつだ。とても、すごく、めちゃくちゃに、気になる。

 だが今この瞬間においては、きみにはもっと気になることがあった。


「なんか、用か」


 きみの声は、平素でもかなりどすが効いている、らしい。

 なので先方は萎縮して逃げるか、待ってましたとばかりににらみを利かせてくるかのどちらかだと思っていた。

 だけれどきみをそうっとうかがっていた相手は、そのどちらでもないのだった。

 おずおず、という形容がしっくりくる様子でおっかなびっくり顔を出した人物は、きみが思わず口を開けてしまうような容姿と服装をしていた。


(ハリウッド……!)


 きみの貧困な語彙のなかからそれがぽろっと出たのも致し方ない。口に出さなかっただけまだ上等だったかもしれない。

 その男性は白人で、ごついサングラスで目元を隠しているにもかかわらずあからさまに美男子だった。髪よりやや濃い色の眉が不安げに寄せられているのをどうにかすれば、より美しかったろう。背はすんなりと高く、服装に疎いきみにも明らかに高級品とわかる、派手でいて下品過ぎないスーツに身を包んでいる。なるほど確かに映画俳優でもおかしくないような色男だ。ただし本当にそうだった場合、なぜ日本のそれも闇医者のところにいるのかという大いなる疑問が残る。この病院で美容整形も請け負っていればアレでナニなのだろうが、そういう話は聞いたことがない。しかもその色男が、通路奥から「怖いもの見たさ」の顔をして、きみをずうっとうかがっていたのである。

 これに興味を持つなというほうが、無理だ。

 きみは思わず、自分の横の席をぽんぽん叩いてから、果たしてこのゼスチャーがガイジンさんに通じるだろうかという不安を抱いたが、それは杞憂だった。その男はおやつを見せられた小動物のように、じりじり近寄ってきてきみの隣に座った。

 近くに来ると余計に上背が際立って、きみは自分がとても小さく思えた。きみだって、平均より身長は高いけども、その男は人種を差し引いてもめちゃくちゃにひょろ長かった。同時に、彼がかなり痩せているのもきみは察した。背丈に比した体格ガタイで言えば、きみのほうが断然立派だ。


「……あんた、患者?」


 言ってから、はて日本語が通じるだろうかときみは思った。彼は少し考えてから、首を横に振った。わかるらしい。


「じゃあ、助手とか?」


 それも否。彼は困った顔をして、自分のこめかみを指でつついた。そんな動作すら絵になるのが不思議である。


「Ah……いそうろう? デす」


 ようやく己の境遇に合致する言葉を見つけたらしい彼は、たどたどしくそれを口にする。

 ここの医者は女医だ。ひょっとして先生のオトコかと尋ねれば、そういうものでもないらしい。彼は肩をひょいっとすくめて、妙にそこだけ自信ありげに、言った。


「わタし、リョーコの犬でス」

「犬、ね」


 きみは医者の下の名前が「リョーコ」であるのを初めて知った。病院の名前が「仁科医院」なので漠然と苗字は仁科だと思っているが、それも確信は持てないでいる。

 なにはさておき。

 犬というのは、用心棒ということだろうか。だがこの背ばかり高くてひ弱で気弱そうな男に荒事ができるとは思えない。そうなるとやっぱり愛人だろうか。さっきは否定されたが、この「犬」がいまいち日本語を解していない可能性も、無きにしも非ずだ。

 とにもかくにも、きみは外国人と話す機会が滅多にない。最初こそその外見にちょっぴりびびったが、よく言って物怖じしない、悪く言って無遠慮なきみだ。ここぞとばかりにくだらない質問を畳みかける。


「何処から来たんだ?」

「アメリカ、かラでス」

「日本長いのか?」

「hmmm……はんトし? くらイ」

「ここのセンセーとは、付き合い長いの?」

「リョーコも、はんトし、でス。来てカら、すぐ会うしまシた」

「……ぶっちゃけ、つきあってる?」

「No! リッチー、犬です!」

「あんた、リッチーっていうのか? オレ、アキラ」

「ア、キ、ラ……覚えマした。アキラね」


 最初こそ委縮していたものの、なんだかんだで人懐っこいたちらしい「犬」はころころとよく笑った。サングラスの奥の目は、人好きしそうに細められていることだろう。見えないけれど。

 しばらくそうやって時間をつぶしていると、建付けの悪い戸ががたぴしと開いて「リョーコ」が顔を出した。


「お友達、おうち帰れそうだよ。でも、あんまり長くは歩けないかも。近い? 遠い? タクシー呼ぼうか?」

「車あるから、オレ送ってくわ。ありがと、せんせ」

「うふふ。料金分のお仕事はちゃんとする主義なのだー。鎮痛剤はサービスしてあげよう」

「マジサンキュ」


 仁科のせんせは、若い。

 だけれどこの辺に詳しいおじさん曰く「少なくとも10年前から同じ顔」だそうなので、実年齢は怖くて聞けない。だけれどうわさや、実際に会っての言動からして「行ってて35かな」くらいにきみは思っている。この「思っている」には「希望的観測」も含む。

 せんせはきみに、後輩くんの怪我の状況、治るまでの日数の見積もり、自宅での手当の仕方、鎮痛剤が1回何錠で1日何回まで服めるのか……を説明するのが面倒くさかったらしく、プリントアウトした紙をくれた。本人に渡せよと口答えはしたが「まだ麻酔効いてぼんやりしてるから、下手に渡すと捨てられちゃいそう」と至極まっとうな意見を出されると抵抗のしようもなかった。事実きみの後輩は、チラシの類をすべて捨てる男であった。たまに請求書をうっかり捨てて困り果てている。そういうやつなのだ。せんせがそれを知っていたとは思えないが、きみは素直にそのプリントを受け取ることにした。後輩には、あとで写メって送ってやればいい。

 一通りの説明が終わると、せんせは初めて「犬」に目を向けた。説明しているときもリッチーは興味津々だったのだが「いるのに今気づきました」くらいの雰囲気である。


「リッチー、構ってもらってたの? よかったねー!」


 そういって、きみの視線もはばからずに、せんせはリッチーをがしがしと撫でた。肩、背中、その白い頬、おそらくは入念にセットされたのだろう髪もぐちゃぐちゃに乱して。

 置き去りにされたきみを顧みることもなく、リッチーは心底嬉しそうに一声、「Bow!」と吠えた。

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