西沼のほとりで

もとめ

西沼のほとりで


 東村より西へ半里、そろそろ西沼が見える頃だ。

 道筋より外れ、山の中を分け入る。山を渡る初夏の風が心地よい。木立の中に西沼の水面(みなも)が見え隠れする。

「今日はどの辺りにするかな」

 沼のほとりに着くと、横たわった木の幹を見つけ、私はそれに腰をかけた。そして持ってきた釣具を取り出し釣り糸を垂れる。

 西沼は、城下ではその存在すら知られていない小さな沼だ。けして釣りの穴場というわけではない。

 私が城下から離れたこの沼に半月ほど通い詰めているのには訳がある。

「今日こそ、あの獲物を釣り上げてみせるぞ」

 気合いを入れ、沼の真ん中めがけて再び釣り糸を投げ込む。

 西沼は、水際は浅いがすぐに深くなっている。流れは無い。倒木が岸より沼の中に落ち込むように沈んでいるが、淀みで中ほどより下は見えない。


 私がそれを見たのは半月ほど前のこと、今日のように朝(あさ)靄(もや)の濃い日だった。

 その日、東村の庄屋に呼ばれ、私は城下町から東村に庄屋を訪ねた。そこへ庄屋の息子の伝兵衛が現れ、「釣りに行かないか」と誘ってきたのだ。当初そのつもりはなかったのだが、むげに断るのも気が引け、とりあえず見るだけということで西沼について行くことにした。

 西沼は峠筋より少し南西に分け入った山の中にあった。沼の周囲半分ほどが葦に覆われ、水際が見えるのは倒木の辺りだけであった。

 筋骨隆々で色黒の伝兵衛は、そこでしばらく釣り糸を垂れていたが「今日は駄目だな」と言って、釣り具を片付けた。

 その時だ。

 私は西沼の水面に、大きな影を見た。

 四尺はあろうかという大物だ。

 すぐさまそれを伝兵衛に話すと、伝兵衛は「そんなはずはない。今まで見たことがない」と、全く信じてくれなかった。

 しかし、私はこの目で確かにその影を見たのだ。

 

「それっ」

 沼の真ん中めがけて糸を投げる。

 小さなしぶきを上げて錘が沈む。

「……うーむ」

 しばらく待つが、今日は小魚一匹釣れやしない。

「やはり今日も駄目かのう……」

 あれはやはり見間違いだったのだろうか……。

 靄の晴れた水面に夏の雲が映る。 

 その様子をぼーっと見ていると、背後からガサガサと草を踏み、歩む音がする。

 魚が逃げるではないか。

 そう思って振り返ると、小柄で痩せた少年が立っていた。

 少年は髪を頭の高い位置で一つに結い、着物の裾をまくり上げている。足には脚絆をし、それはひどく汚れていた。

 その少年が私を見て言う。

「ここ、お日様が上にあるときに釣りをしても、なにも釣れないよ」

 突然、挨拶抜きに話しかけられ戸惑った。

「そ、……そうなのか?」

「うん」

 少年はそう言って、私の横に並んで座った。

「おじさん、何か狙ってるの?」

「ああ。半月ほど前に、ここで大きな魚を見たのだ。それを狙っておるのだ」

「ふーん」

 少年はさほど興味の無いような返事をし、釣り糸の先を眺めた。

 そして、チラッと私を見る。

「それは……、たぶん倒木じゃないかな?」

 そう言うと、再び糸の先に視線を戻した。

 その一言に、少し苛立ちを感じ、言い返す。

「そんなはずはない。確かに大きな影を見たのだ。間違うはずはない」

 そうだ、けっして倒木などではなかった。

 すると急に少年はスッと立ち上がった。そして私の座っている倒木の上から辺りの様子を窺いながら言う。

「そんなことよりもね……。おじさん、この辺りは山賊が出るから、気をつけてね」

「さ、山賊?」

 少年の口から出た「山賊」という、意外な言葉に私は驚いた。

「この間も、誰か襲われていたみたいだよ」

 本当だろうか?

 西沼峠に山賊が出たなど、噂にも聞いたことがない。

「少年、それは本当かね?庄屋殿は山賊が出たなどと、言ってはいなかったぞ」

「庄屋殿?……あぁ、おじさん、東村の庄屋様の知り合い?」

「あぁ、そうだ」

 そう答えると、少年は「そうでしたか」と言って水面を見つめ黙り込んだ。

 ジャボッと音がして釣り糸が引く。

「お!」

 私は慎重に糸を手繰り寄せた。

 引きは弱い。小さな魚だろう。

 竿を持ち上げる。

「あ、フナだね」

 少年が言う。

 三寸ほどのフナが、バタバタと釣り糸の先にぶら下がっていた。それを糸から外し、魚籠へ入れる。その様子を一通り見終わると、少年は倒木から降り、私の方を向いて言う。

「もし山賊が出たら、私に知らせて下さい」

「へ?」

「私は、庄屋様に頼まれて山賊退治に来た者です。山賊が出るようになったのは、ここ半月ほどのことです。貴方様も、ここで釣りをなさるのでしたら、どうぞ御気をつけて」

「ハハハ!」

 私は思わず笑った。

「山賊退治だって?お前まだガキじゃないか。そんなのが退治できるのか?」

 こんな小さい少年に、釣りならともかく、山賊退治などできるものか。

「……、でもこれは内緒のことです。私のことも絶対誰にもしゃべらないで下さい。もちろん庄屋様にもです」

「ほほう。今度は内緒と来たか。お前さんの方こそ怪しいな。東村の子か?」

「……」

 少年は少しの間黙っていたが質問には答えず、お辞儀をすると「失礼します」と言ってどこかへ去ってしまった。

 はたして何だったのだろうか。

 気を取り直し、私はもう一度釣り糸を垂れることにした。

 やがて、日は頭の真上から少しずつ西へ傾き、水面がゆっくりと木陰に覆われて行く。その間、フナが一匹釣れた以外は全く成果が上がらず、私は先ほど会った少年の事を考えていた。

 風変わりな少年。

 山賊退治……。

 他言無用……、か。

 まぁ、いい。山賊などそんなもの……。

 首筋に冷たい物が当たる。

 ん?……この感触は?

「おっさん、動くなよ。動くとその首切れるぜ!」

「!……」

 体が硬直した。

 山賊だ!

 まさかと思ったが、右の首筋に当てられた物は間違いなく短刀のようだ。

 ……少し血が出ているのがわかる。

「おいっ。」

 短刀を当てている若そうな声の男が誰かに言う。

「ああ!」

 すぐ近くにいたもう一人が答える。賊は何人いるんだ?周りの様子を横目で窺う。

 すると、返事をした方の痩せた男が私の荷物に手をかけているではないか!

「わ、私の荷!」

「動くな!おいっ」

 短刀の男が怒鳴る。もう一人の男は私の荷物を奪い、そして私を後ろ手に縛り上げてきた。

「うあぁ!痛い痛、う、もがもが!」

 縛られたうえ猿ぐつわまでされ、帯刀していた脇差を奪われる。そのまま、短刀を持っていた男に西沼に蹴り落とされた。

「ハハハハ!」

 高笑いが聞こえ、水面越しに男たちが去ってゆくのが見えた。体が沈む。

「ごあぁぁぁ!」

 生温い沼の水が口に入ってくる。後ろで手を縛られているため動きが取れない!おまけに着物が絡まって水面へ浮き上がることさえもままならない。

「ぐあぁ」

 私は、私はこんなところで、山賊に刀まで奪われて死ぬのか?

 先ほどの少年が頭に浮かぶ。

 何ともやりきれない気持ちだ。冗談じゃない。

 私は力の続く限り水面へもがいた。一瞬だけ頭が水面より出、息を吸うが猿ぐつわが邪魔で、ろくに呼吸ができない。

 それを何度か繰り返しているうちに、どういうわけか呼吸などせずとも良いような気分になってきた……。このまま水の中で生きて行けそうな……。

 視界の無い水中に、先ほどの少年が現れた。

 何か言っているように見える……。

 よくわからないまま、意識が遠のいて行くのを感じた。

「……」

 はて……、ここは?

「げほっ!ごほっ!」

 起き上がろうとした瞬間むせこむ。

「あ、気付かれましたか?」

「……」

 見れば西沼のほとり、先ほどの少年がいる。

「もう少しで、溺れるところでしたね。大丈夫ですか?」

「……あ。……あぁ」

「首の傷、手当てしておきました」

「……。あ、うん」

 首に右手を当てると、手拭が巻かれていた。ヌルッとした感触に、その手を見る。指先に緑色の汁が付いていた。

「あぁ、それは止血の薬草です」

「そ…う、なのか。…うぐっ!」

 突然吐き気をもよおし、沼の中に戻す。口から大量に沼の水が出てきた。

 少年がやさしく背中をさする。なおさら気持ちが悪く、何度も水を吐き出す。

「相当水を飲んでいたようですね……」

 少年は私の顔を覗きこみ、心配そうな表情を浮かべた。

「あ、あぁ……。も、もう大丈夫みたいだ」

 私は答える。

 ようやく頭は冷静さを取り戻してきた。と同時に、やっと少年に助けられたとわかった。

 私はバッと体勢を整え、少年に向き深々と頭を下げた。

「ありがとう!助かった!命の恩人だ!なんと言えばいいのか。……先ほどは済まなかった」

「……頭を上げて下さい。私の方こそ、申し訳ありません」

 私は、顔を上げて少年を見た。なぜ少年が謝るのか?

「私がもう少しここにいれば、貴方様をこのような目に遭わせることは無かったのに……」

 少年は複雑そうな表情をしている。

「いや、お前さんがいても、どうにもならんかったよ。それに相手は男二人だ。短刀を持っておったし……。私を助けてくれただけでも、十分だ……」

 少年は、私の言葉に何か考えている様子だ。

「そうでしたか。二人ですか……」

 そして申し訳なさそうに言う。

「失礼ですが、その……、刀を……奪われたようですね」

「……」

「い、いえ。失礼しました!」

 少年は再び頭を下げた。

「……いや。まったくその通りだよ。うん。私は刀を奪われてしまった。そして危うく命までも奪われるところだった。こう見えても、武士のはしくれなんだがなぁ」

 少しずつ悲しい気持ちに支配される。

 目の前にいるこの小さな少年の方が、私などよりずっと強いのではないかと感じられるくらいだ。

「あ、あの。私はソウスケと申します。貴方様のお名前を、よろしかったらお聞かせいただけないでしょうか?」

 少年は丁寧な口調で名乗った。

「わ、私か?私は、光村だ。光村竜二郎と申す。」

「では光村様。今から私の言うことを聞いて下さい。良いですね?」

 少年が笑顔で言う。

 すぐに疑問が湧く。なぜそんなことを言うのか。なぜ大の大人が少年のいうことを聞かねばならないのか。

 しかし助けられた手前、素直に従うことにした。

「あ、あぁ。構わぬ。構わぬが……」

 少年は質問には答えず、そのまま小声で私に言う。

「向こうに大きな木が見えますね?」

 少年はそう言うと、私の後ろの方を指した。その方向を見る。沼から離れた開けた場所に、水楢の木が生えている。

「私が合図を送ったら、あの木に全力で走って下さい」

「あ、あぁ。わかった」

 私が頷くと少年は後ろを振り返り、木とは反対側の、葦で覆われた沼とほとりを見た。

 何かの策なのだろうと察することは出来た。しかし、それが何なのか……。

「一、二……、三……」

 少年は小声でそう言いながら、腰を低くかがめ、葦の方向へじりじり進んで行く。

 私から少し離れたところで立ち止まると、

「走って!」

 と叫んだ。

 私は言われた通り、水楢の木へ全力で走った。着流しの着物の裾を持ち上げ、必死に走った。

 その瞬間、後ろから刀の交わる音がした。

 とっさに振り返る。

 すると、そこには短刀を手に、男と対峙する少年の姿があった。

「あぁぁぁ、なんということだ!」

 あの男は、先ほど私の荷を奪った山賊ではないか!その山賊が、私の刀を持って少年と睨み合っている。

 さらにもう一人、短刀を手にした筋骨隆々の男が、葦の生えた水辺に片足を突っ込み、少年を威嚇している。

 三人は僅かずつ動きながら、微妙な間合いを取っている。

 そういうことだったのか!

 少年は、山賊から私を離そうとしていたのだ。

 私は濡れた着物を脱ぎ棄て、辺りを見回した。水楢から少し離れた水際の葦の根元に、三尺ほどの枝が落ちている。加勢せねば!

 子供が闘っているというのに、なにもせずにはいられない。下級とはいえ私は武士だ。

 枝を拾おうと、私は木から離れ水際まで走った。

 枝に手をかけたその瞬間。

 後ろからガバッと太い腕に首を絞められた。

「グハハハ!間抜けな奴だ!」

 頭の上から野太い声。

 山賊はもう一人いたのか!

 拾おうとした枝の、その葦の陰で様子を窺っていたようだ。

「うおぉ!放せ!放せ、この野郎!」

 足をばたつかせ、腕を振り払おうともがく。しかし、がっちりと押えられ、太い腕はびくともしない。

 その私の声に少年が振り返り、こちらに向かって走ってきた。その後を二人の男が追う。

 首がきつく締まる。

「ぐあぁっ」

 先ほど切られた首の傷口から血がしみだしてくるのがわかる。耳が、呼吸が詰まる……。

 走ってくる少年が、私を押えている男に何か投げるのが見えた。

 と同時に「ぐあぁぁー!」と男はうめき声を上げ、私の首を絞めていた腕が離れた。

 見れば男の腕に太い針が刺さり、それを急ぎ抜こうとしている。

 私はその場にへたり込んだ。

 男は腕から針を抜き投げ捨てると、少年の方を睨みつけた。

「光村様ー!」

 少年はそう叫びながら、その男めがけて飛び込んだ。

 瞬間、男の懐で身を縮めたかと思いきや、一気に飛びあがった。と同時に少年の肘が男の顎を反り上げ、男はそのまま葦の生える水面に勢いよく吹き飛んで行った。

 一瞬の出来事に、追いかけてきた二人の男がたじろぐ。

「大丈夫ですか?光村様」

「あ、あぁ」

「今のうちに、この場から離れて下さい!」

 少年は二人の男を睨みつけながら言う。

 冗談じゃない。

 私が何とかせねば……。

 気持ちは憤る。しかし体も技術もそれに付いていかない。

「早く!」

 少年が言う。

「だめだ!私だって武士のはしくれだ!お前にばかり、任せていられないだろう!」

 私は先ほどの木の枝を手に取り、笑う膝を押えながら沼に飛ばされていった山賊に向かって構えた。

 短刀を構えた男は、そのまま動かず間合いを取って様子を見ている。

 私の刀を構えたもう一人の男は、ジリジリと少年の方へ間合いを詰めてきた。

「でやぁーっ!」

「はああっ!」

 少年と短刀の男、同時に気合いを入れた。

 すると、一人の刀の男が飛び出し少年めがけて刀を振りおろす。少年はほんの少しだけ体の向きを変え、そこを刀がすり抜ける。すかさず男の顔面に当身を入れ、その腕をひねり、瞬時にして男から刀を取り上げた。

「……なっ!」

 あまりにも見事な早技に、私も、威嚇し注意をそらしたはずの短刀の男もただ愕然していた。

「光村様、これを」

 少年は、そう言って私にその刀を渡した。

「す、すまん……」

 再び少年は短刀を構え直し、今度は短刀の男の方を向いた。

 見れば少年の足元に、今、私の刀を振り回していた男が鼻血をだして気絶している。

 短刀の男と少年が睨み合う。睨み合いながら少年が小声で言う。

「光村様、このことを東村の庄屋様にお伝え下さい。庄屋様から村役人に連絡が行くことになっております」

「し、しかし……」

 少年一人で大丈夫だろうか。

「私は大丈夫です。早く、お伝えして下さい」

 私の心を悟ったような返事だった。

「わ、わかった」

 私は、脱ぎ捨てた着物と刀を抱え、東村へと急ぎ向かった。

 気持ちは複雑だ。

 あんな残党の一人や二人、本当なら武士であり大人である私が対峙すべきであろう。しかし、先ほどの少年の鮮やかな身のこなし、対峙する勇気、剣の術も全てが私以上のように感じる。

 あの少年、一体何者なんだ……?

 頭は混乱するばかりだ。庄屋殿に聞けば、わかるかもしれない。

 気持ちばかりが先急ぐ。

 しかし足元はフラフラとし、どこをどう走っているのか、おぼつかない。

 途中の小石でつまづいては転び、走り出してはまた転ぶ。

 庄屋殿の家に着いた時にはすでに西の空は真っ赤に燃えていた。

「しょ、庄屋殿ー。庄屋殿はどこかー?」

 庭先で声を張り上げる。奥から庄屋が出てきた。

「おや、光村様。裸で……、いかがされましたか?」

 庄屋は驚いた表情をしている。私は急ぎ事情を話す。

「なんと!それは大変だ。伝兵衛!伝兵衛!」

 庄屋はそう言うと、伝兵衛を呼び出し番屋へ使いを出した。

 そして、私に言う。

「光村様、その場所へ案内して下さい!」

「ああ!急ごう」

 庄屋の家まで走ってきて、その息がおさまらぬうちに、再び西沼へ走る。今度は庄屋と二人。

 私が少年のもとを離れてからだいぶ時が過ぎた。

 あの少年は無事だろうか……。

 それが気にかかり、走りながら庄屋殿に聞く。

「はぁはぁ、しょ、庄屋殿、あ、あの少年は一体……。はぁはぁ。大丈夫であろうか?……」

 庄屋の返答を待つ。が、返事がない。振り向けば、庄屋は私よりずっと後ろをよたよたと走っていた。そして、声が聞こえる。

「光村殿ー。先に行って下されー……」

「……」

 日が沈む。東から夕闇が迫る。

 次第に暗さが増す中、ようやく西沼に辿りついた。

「少年ー!」

 先ほど少年がいた沼のほとりを見回す。

「少年ー、どこだー!」

 薄暗い中、水楢の木の辺りに何かが動く。

「少年か?無事か?」

 私は近くまで駆け寄った。

「な!お前たちは!」

 そこにいたのは先ほどの山賊が三人、縄で縛られ水楢の木にくくりつけられている様子だった。

「しょ、少年がやったのか……?」

 誰に問うでもなく、私はつぶやいた。

「何なんだよ、あのガキはよ……」

 縛られた一人が言う。その表情と声には、あきらめと落胆の様子が窺える。

 少年の姿は無く、私はもう何も考えられずその様子を見ていた。

 やがて、夕闇が一段と濃くなった頃、伝兵衛が村役人を連れてやってきた。

「貴殿がこれを……?」

 と、その村役人は聞いたが、私はただ首を横に振ることしかできなかった。

 村役人は、伝兵衛と共に三人の山賊を木から外し縛り上げると、三人を連れてこの場を去って行った。

 辺りが暗くなってなお、私はまだ西沼のほとりでずっと水面を見つめていた。

「光村様、もうお帰りになりませんと……」

 いつの間にいたのか、庄屋が声をかけてきた。

 私は振り返り言った。

「庄屋殿……。あの少年は一体、何者だったのだろうか?」

「あぁ、……その少年は、おそらくソウスケ殿でしょう」

「ソウスケ……?」

 そう言えば、そのように名乗っていたような気もする。

「えぇ。……山方の者ですよ」

「山方……?」

 初めて聞く名だ。

 庄屋は少しの間黙っていたが、やがておもむろに話し出した。

「東村より、ずっと山の奥深くに、そう呼ばれる民が住んでいるのです。山方の者の中には、峠越えの案内をしている者もおりますが、それ以外、里の者で山方の民を知る者はおりますまい……」

「そ、そうなのか……。山方の民……か。しかし、なぜ?誰も知らんのだ?」

「さて……、なぜでしょう。それは私にもわかりません……。おそらくは忍びの一族なのかもしれません……」

 庄屋はそれ以上何も話さなかった。

 疑問は残ったままだ。

 しかし私も、もうその話題に触れることはしなかった。

 結局、あの少年が何者でどうなったのか、わからずじまいで山賊の一件は幕を閉じた。


 それから三日ほど過ぎた早朝。

「今日こそ、あの獲物を釣り上げて見せるぞ!」

 私は懲りずに、再び西沼へやって来た。

 空は朝靄もなく、すっきりと晴れ渡り、すがすがしい朝の空気に満たされている。

 さっそく釣具を取り出し、この前の倒木に腰を下ろす。

 針に餌を付け、沼の真ん中めがけて投げ入れる。

 小さなしぶきを上げて錘が沈んで行く。それをじーっと見ていると……。

 影だ!

 とっさにバッと立ち上がる。

 あの時見た大きな影だ!やはり私の目に間違いは無かったのだ!

 音を立てずに、そっとその影を窺う。

 影は次第にこちらに近づき、私の目の前で止まった。

 この動きからして、倒木などではない。あの時見たのは、まさにこの影だ!

 私は確信した。

 次の瞬間。

 サバ―ッと、その影がしぶきを上げて水面から出る。

「うわぁっ!」

 私は驚いて尻もちをついた。

「こんにちは、天気もよろしく釣りには向きませんね」

「しょ、少年!」

 腰から下半分、ずぶ濡れで沼に浸かりながら、あの少年が笑っていた。

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西沼のほとりで もとめ @M_motome

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