遊園地はいつ楽しい

吾妻栄子

遊園地はいつ楽しい

「やっぱり混んでるね」


 口にしてから愚痴っぽい響きだと後悔する。


「ゴールデンウィークだからね」


 彼の笑顔にホッとする。


 振り向くと私たちの後ろにもいつの間にか随分並んでいる。


 ゴールデンウィークの中日となると、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように人が集まるのだ。


「ちょっと、ここに並んでて」


 彼が少し離れた自販機を指差す。


「君もお茶でいいかな?」


「同じのでいいよ」


 聞くが早いか、そちらも列が出来はじめた自販機に彼は駆け出す。


 本当は私がこういう気を利かせなきゃいけないんだと歯がゆくなる。


 小さく息を吐いて見上げる空は、アニメに出てくる夏空さながら深い青でふんわりした白い雲が緩やかに流れていく。


 黒揚羽がさっと目の前を飛び去った。


 あの日と同じ眺めだ。


 胸の中にさっと影が射すのを覚えつつ、二本のペットボトルを抱えて戻ってくる彼に笑顔を作る。


 *****


「最初はあのレールウェイにしようか」


 色とりどりな満開のツツジの植え込みに彩られた道を通り抜けながら彼が示す。


「そうだね」


 どのアトラクションも列が出来ているけれど、あれなら一回に捌ける人数が多い分、待つ時間も短そうだ。


 ポッポー。


 汽笛を模した電子音が響いてきて、私たちの頭上の高架レールを列車が走っていく。


 車両に乗っていた見知らぬ親子連れの小さな女の子が笑顔でこちらに手を振ってきた。


「楽しそう」


 何となくそうしなくてはいけない気がして、私も笑顔で手を振り返す。


「きっといい眺めなんだろうな」


 ぽつりと呟いた彼を振り向くと、遠ざかっていく列車というよりもむしろその向こうに広がる青空を見詰めて小さく手を振っているように見えた。


 あの日も、今まで乗ったことのない路線の列車に乗って遊園地に向かったのだ。


 山を抜けていく車窓には雑木林に混ざって時折青緑の竹林が現れた。


 木より遥かに細く、しかし、木に匹敵する高さに伸びた若竹は風を受けてザワザワと波に似た音を立てて揺れる。


 草のように柔らかに混ざり合う風ではなく、竹の一本一本がぶつかり合いながら辛うじて自分だけは折れないように殻を固くしている。


 ボックス席の窓際で小さくなって押し黙っていた自分にはそんな風に見えた。


 同じボックス席に腰掛けていた両親もめいめいバラバラな方を眺めていた気がする。


「しりとりでもする?」


 レールウェイ待ちの列の最後尾に並んだところで私から言い出す。


「順番が来るまで」


 遊園地のデートでは順番待ちの退屈しのぎにそれがいいとどこかで聞いた。


「そうだね」


 彼はペットボトルのお茶を一口飲むと、新たに付け加えた。


「ただのしりとりより二文字しりとりにしよう。最後の二文字を次の頭に持ってくるやつ」


 彼の方がいつも一歩先の工夫をしてくる。


*****


「楽しかったね」


 ポッポー。


 歩いていく私たちの背後から列車が次の客を新たに載せて走り出す。


 三十分待って三分のアトラクションだったが、高架レールを駆ける列車から見渡す初夏の遊園地には爽やかな華やぎがあった。


 黒揚羽がまたさっと目の前を横切る。


 ここは都心に近いはずだが緑が多いせいか、あの山近い田舎の遊園地と同じように、小さな切り抜いた影そのもののような黒い蝶がそこかしこに飛んでいる。


――くろいちょちょさん。


 あの時は、固く手を繋いでいた母親に尋ねたつもりだった。


――クロアゲハだよ。


 答えたのはちょうど一人分間隔を開けて歩いていた父親だった。


 白い物が微かに混じり出した後ろ頭をはっきり覚えている。


 あの時も、父親は幼い娘ではなく、黒い蝶の飛び去った方を眺めていた。


 そして、小さな私の手を引く母親は頑なに前を向いていた。


「君も気に入ってくれたなら良かった」


 こちらに告げる彼は、眩し過ぎるほどの笑顔だ。


「混まない内にお昼にしよう」


 カレーやチキンの温かな匂いを漂わせつつ、小さな家じみた食堂が涼しげな影の中に佇む一角に私を導く。


 初めて手を繋いだことに気付いた。


*****


「私の分も払ってくれてありがとう」


 今日のデートで三度目だが、奢ってくれることを見越してこちらも極力安いメニューの中で好きな物を注文するようになった。


「気にしないで」


 それでも彼が二人分の外食費を出すことに代わりはない。


「僕が誘ったんだから」


 どこか大きさの不揃いなナイフとフォークで器用にハンバーグを切り分ける。


 この人は育ちがいいのだ。


 着ている服も地味だが質の良いものだし、ちょっとした所作にもマナーを踏まえた上で柔軟に動いている感じがいつもする。


 そこに目を奪われる一方で、同じ大学の学生とはいえ、母子家庭であらゆる余裕に欠けた中で育った自分はとても彼とは釣り合わない気がしてくるのだ。


 一口で食べるには大きい唐揚げを中程で齧ると、どこか薬臭い油の匂いがジュワッと口の奥にまで広がった。


 これは安い代わりに味もそれなりのメニューだ。


「良ければハンバーグも少しどうぞ」


 小さなサイコロじみたハンバーグの欠片が私の皿の隅に置かれた。


「ありがとう」


 またしても、彼に読まれてしまったようだ。


*****


「次はどこに行こうか」


 お化け屋敷、ジェットコースター、ミラーハウス。


 目ぼしいアトラクションには一通り乗った感がある。


 午後の陽射しはまだきららかだが、微かに象牙色を帯びている。


 向こうのメリーゴーランドの電飾が妙にキラキラして見えるのはその分だけ陽が陰ったからだ。


 サーッと青葉の匂いを含んだ風は思いの外ひんやりとして肌が粟立つ。


 五月の午後は真夏のような熱をまだ蓄えていない。


「どこがいいかな」


 正直、もう出てもいいような気がするけれど、夕食にはまだ早すぎるし、さっきクレープを食べたばかりだから、お茶するにも中途半端だ。


「メリーゴーランドはどうだろう」


 胸の奥がギュッと縮む。


 とうとう恐れていた言葉が彼の口から出た。


「ああ、うん」


 遠くで楽しげな電子音のメロディを奏でながら回る、大きなオルゴールみたいなアトラクション。


 ほんのり温かい彼の手が私の手を捉えてそちらに近づいていく。


 作り物のポニーや馬車に乗った人たちが笑顔をこちらに向けたまま流れていく。


 大体は親子連れだ。


 彼と繋いだ手がじっと汗ばむのを感じた。


 ふと、彼を幼くしたような小さな男の子と綺麗なお母さんが乗ったポニーが目に入る。


 二人とも弾けるような笑顔で手を振った。


 いや、あれは私にやってるんじゃない。


 柵の外の人混みでビデオカメラでも撮ってるお父さんがいるんだ。


「だめ」


 足が勝手に止まった。


「無理なの」


 両目が熱く滲む。


「分かった」


 肩を抱かれるのを感じた。


「向こうで話そう」


*****


「そうなんだ」


 サヤサヤと木洩れ日が揺れる下で彼は寂しく微笑んだ。


――二人で乗るから、ビデオに撮ってくれ。


 あの日、父は母にビデオカメラを預けて私とメリーゴーランドに乗った。


 二人乗りのポニーは正直、窮屈だったが、「きつい」と文句を言うには幼い私は父を恐れ過ぎていた。


 あの遊園地のメリーゴーランドもBGMはやっぱり楽しげな電子音で、キラキラした照明の中を緩やかに回った。


 柵の向こうの人混みに見付けた母は青ざめた面持ちでビデオカメラのレンズをこちらに向けていて、幼い娘を認めると強いて笑顔を作って、空いた方の手を振った。


 その様子を目にすると、母が別れを告げていて自分が背後に座る父親に連れ去られていくようで怖くなった。


 降りたい。


 今すぐ降りたい。


 誰か降ろして。


 時間にすれば五分にも満たないようなアトラクションの間、小さな私は泣くことも叫ぶことも出来ずに震えていた。


――ありがとう。


 素っ気なく告げて父はビデオカメラを受け取った。


 カメラに収めた私と父の姿がどのようだったかは未だに分からない。


 遊園地から帰ってすぐ両親は離婚して母に引き取られたからだ。


 その後、父と顔を合わせたのは祖父母の葬式くらいだ。


 その時ですら、まともに会話を交わすことはなかった。


「引くよね、こんな話」


 離婚自体はよくある話だが、離婚家庭で育った子供と分かると微妙な空気になることを私は当事者として知っている。


 だから、彼には極力話したくなかった。


「全然」


 彼の瞳に遠くのメリーゴーランドのキラキラした灯りが映る。


「僕が今日、ここに来たのも、ちゃんと話したかったからなんだ」


 仕立ての良い服の胸が深呼吸する風に上下する。


「僕ね、今の両親に引き取られる前はシセツにいたんだ」


 シセツ、という響きが頭の中で一瞬置いて「施設」に変換される。


「良くいうステゴってやつさ」


 愛された、育ちの良い男子大学生にしか見えない彼と「捨て子」という言葉がどうにも結び付かない。


「ここじゃないけど、遊園地の食堂にベビーカーで置き去りにされてたんだって」


 メリーゴーランドの華やいだ音色に掻き消されてしまいそうなほど小さく乾いた、事務的な声で続ける。


「本当のお母さんは遊園地の近くで死んで見つかったみたい」


 それは一体、どのように迎えた死なのだ。


 胸にさっと冷たいものが通り過ぎる。


「独身のまま産んだみたいで、本当のお父さんは分からない」


 伏せた眼差しは木の影に紛れた二人の影法師に注がれていた。


 今度は私が彼の背を擦る。


 少なくとも自分はここにいると伝えたかった。


「僕がこうしていられるのは、今のお父さんお母さんのお陰なんだ」


 まだ会ったことのない人たちだ。


「君とちゃんと付き合いたいけど、隠したままでいるのは騙すのと同じだから」


 自分も同じことを考えていた。


 というより、彼の方がもっと苦しんでいたはずだ。


 そう思うと、自分の傷にばかり囚われていたことが恥ずかしく思えた。


「私もちゃんと付き合いたい」


 彼の手に自分の手を重ねる。


 女性的に繊細な手指だと思っていたが、いざ並べてみると私の手より一回り大きく、骨太な手をしていた。


「じゃ、仕切り直そうか」


 彼に背中を押されて立ち上がる。


 しかし、私から腕を組んだ。


「次、どこがいいかな?」


「さっき、ゴーカート並んでたから通り過ぎちゃったけどやってみたい」


 互いに笑顔で人だかりの中に戻っていく。


 ポッポー。


 遠くでまた列車が新たな客を乗せて走り出したらしい。(了)

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遊園地はいつ楽しい 吾妻栄子 @gaoqiao412

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