琥珀色の私、憐れむな。

枕くま。

琥珀色の私。

「外の世界ではとても暮らせない。俺達の負けだ」

              【(映画)バーディ】


「だからさ、私は初めっから言ってたことなんだけどさ」

 ミキは柔らかいソファに腰をほとんど飲み込まれつつ、グラスを煽った。カシスオレンジの濃い橙色の液体が、薄いくちびるにさらりと吸い込まれていった。

 一息に飲み干すと、グラスをガラス製のテーブルに乱暴に置き、家主であり友人でもあるユキから非難を浴びた。ガラステーブルには、安物のチューハイの空き缶が乱雑に置かれている。どうして、わざわざグラスに入れ換えて飲むのか、ユキは少し疑問に思った。しかし、生温い疲労感に飲まれて、文句は口を突いてこなかった。

 今日は、ミキご贔屓のロックバンドの結成10周年記念ライブがあり、ユキはそれに一日付き合わされたのだった。特に興味もなかったユキは、大はしゃぎするミキの隣で、ほとんど棒立ちで過ごした。歌の意味も歌詞の妙も音の素晴らしさも何もわからず、終演後に「どうよ?」と感想を訊かれたユキは、「ただ耳が痛かった」としか言えず、ミキの文句を聞き流しているうちにユキの家で飲むことになっていた。

 夫も子供も出かけているので、もう少しだけ羽を伸ばすのにもちょうどよい、とも思った。

 ミキと会うのも、実に2年ぶりのことだった。話すべきことや、交わすべきジョークは山のように積もっている。少なくとも、ミキはそう思っていた。


「あんた、それこぼしてるじゃないの」

 ユキがミキの胸元を指す。

 買ったばかりのTシャツに、さっそく真っ黒い染みが点々とついている。ミキが身じろぎした拍子に、プリントされたバンドのロゴの表面を、カシスオレンジの飛沫が滑らかに流れた。

「あぁ」

 ミキはぼんやりとしてその染みを見つめた。

「いいのよ、べつに」

「いいわけないでしょ、ただじゃないんだからさ」

「私がいいと言ってるんだから、いいに決まってるの」

 ミキは面倒臭そうに言って、新しい酒の缶を開けた。

 ユキは、今日は長丁場になるぞと覚悟した。この友人が親切な忠告を乱雑に切って捨てる場合、往々にしてそれはご機嫌の急転直下現象を示す証左であるからだ。浅く溜息を吐き吐き、『せめて、家族が帰る前には、この部屋のあり様をすっかり片付けておかないといけない』と思った。

「ねぇ、とにかく私の話を聞いてちょうだいよ」

「はいはい、どうせ聞かざるを得ないんでしょうけどね」

 ユキは溜め息と共に、食卓を囲うように並んだ、三つの椅子のうち、ソファに近い方に腰掛けた。他二つは彼女の主人と、幼い娘のためのものだった。

「私はね、あのバンドとは一蓮托生だと思っていたわけ」

 

 いちれんたくしょう。


 ユキはその言葉を浮かべたが、漢字が思い出せなかった。

 意味はぼんやりとだが伝わった。一生一緒とか、そういうのだろう。ミキはまたグラスを煽り、今度は葡萄色の液体を口に含んだ。


「最初に出会ったのはさ。私が高校生の時だったな。覚えてる? 私、どん底に暗い性格だったじゃない? あんたに話しかけられてなきゃ、きっと屋上から飛び降りて蛙の死体か、はたまた手首を搔っ捌いて女子トイレに浸け込んでたね、ホントの話」


 昔のことを思い出すのは簡単だった。まだろくに化粧も知らず、虚飾も盾もなく、武器もまたない、徒手空拳の時期。それはただの幻想ではあったが、二人にとってはそれこそが真実だった。死にたいくらいの苦悩を忘れ、また帰りたいと思えるくらいには。

「あれだけ重かった口も、ずいぶんとまぁ軽々しく回るようになったもんだ。そのまま、プロペラ機みたいに飛んでっちゃわないか心配だよ」

 ユキの茶々に、ミキはにやりとした。

 こうした皮肉気なやりとりには熟練の空気が漂っていた。同時に、若かりし頃の輝かしい片鱗がのぞく瞬間でもあった。

「羽根がないからね。きっといつまでも同じ道をぐるぐるしてるしかないだろうさ」

 そう言って、脚を組み直した。黒いタイツには連なるように菱形模様の穴があき、白い素肌が露わになっている。


「ホントに辛かったのよ。教室の誰もが敵に見えたね」ミキはグラスを持った手で、ユキを指した。「もちろんアンタだって」


「そんな時に寄り添ってくれたのがあのバンドだったってわけ。素晴らしい曲ばっかしだったな。薄暗くて、優しくて、諦めっぽくてさ。中でも一番好きだったのが、亡き友人に捧げた歌だね。死んだ友達の歌! 最高だったな。どっかの動画サイトでさ、浅い歌だなんていうコメント見た時は殺してやりたかったよ、ホントの話。だってさ、人が死んでるんだよ?」

 次第に熱っぽさを増していくミキを余所に、ユキは至極冷静を装っていた。すっと椅子を離れ、ガラステーブルからチューハイを一缶奪い去って、戻った。ミキが咎めるようなことを云ったが、ユキは熟練の所作でそれを無視した。

「あんたさぁ」

 空気の弾ける音をさせ、缶を開ける。

「またうまくいってないんでしょ、仕事」

 ミキは、開きかけた口をぽかんとさせたまま、童女のような眼差しでユキを見つめた。それから、気を取り直すように煙草を取り出し、開いた口に押し込んだ。「ちょっと、家の中でやめてよ」ユキの注意もむなしく、マッチを擦り、火を灯した。燐と煙草の匂いが、室内にじわりと広がっていく。

「どうせ、帰ってこないんでしょ、旦那も、子供も」

 ミキは煙草を咥え、一息に肺にけむりを充満させた。それは、いささか自罰的な意味合いを含んでいるようだった。そうして、すぼめたくちびるから、ふぅーっと白煙を吐き出す。ユキは顔を顰めて右手を払う仕草をし、ミキは無自覚に笑った。

「夜には帰ってくるわよ」ユキはそう言いつつ、壁にかかった丸い時計を一瞥した。「もうすぐかも」

「それまで窓を開けて、換気扇でも回せばいいよ」

「あんたがそれ一本で済ましてくれるんならね」

 ユキは、ふんと鼻を鳴らして、ミキを見守った。

 下手に地雷を踏んでしまったことに、遅れて気がついた向きもあった。そういえば、ミキの機嫌は、高校時代より、よく山の天候に例えられた。どうしてそのことを忘れていたんだろう。

 ミキが空き缶の口に灰を落とし、また咥え、さらに落とす。酒と煙草でぼやけた脳内から、適切な言葉をすくい取ろうとしているのがユキにはわかった。結局、ミキは煙草一本をしっかりと吸い終え、フィルターを空き缶の暗い底に投げ落とすまで、無言は守られた。

「まぁ、うまくはいかないね、どうにも」

 茶化すような色が滲んでいた。ユキは呆れたように頬杖を突く。

「あんたはいつになったら、他人ときちんと話すことを覚えるのかね」

「そんなのは、死んでからもムリかもね。地獄で閻魔と仲違いだよ」

 

 死んでからってのはね、ないんだよ。

 

 ユキはその言葉を思わず飲み込んだ。あまりにも救いがない言葉だと思ったからだ。同時に、親友に対して憐れみを含みそうな危機感に捉われ、誤魔化すように缶を煽った。しかし、どうしても意味深長な空白が生まれてしまった。

 しばらく、浮薄な沈黙が二人の間にカーテンのように引かれた。どちらからその薄幕を開けるのか。そうした緊張感が漂い始める。結果、飛び込んだのはミキだった。

「どうしてこう、人ってのは異物を排斥したがるのかね。私にはわかんないよ」

 ユキは、照れたように言うミキの横顔を見つめながら、先ほどミキが口にした、『殺してやりたかった』という言葉を思い出していた。いちいち指摘したところで、意味もないことだと思いつつも、その柔らかな自己愛性に歪な臭いを感じていた。

「いい加減、慣れていかないとね。何事も、傷つくことにも」

 

 それを聞いたミキは、不意に笑いだした。ユキは、若干呆気に取られつつも、その様子をただじっと見守った。やがて、笑いが治まると、ミキは皮肉気に言った。

「私にも死体になれって言いたいんだ」

「なんだって?」

 ユキは不穏な単語に驚いて訊き返した。

「死体。死体だよ」

 ミキは断りもなく二本目の煙草を取り出した。そうして、咥えたまま話し続けた。

「私には見えるね。あんた達の真っ白いYシャツが、赤黒い血と黄色い脂肪でぐしょぐしょに濡れているのが。両頬を引き裂かれて大きくなった口で、仕方なく笑っているのが。それで、もう痛くもないんだね。死体に痛みはないんだから。だから、私にもそうなれって言ってんだ」

「なに言ってんのよ、あんた」

 ユキは眉根を顰めて、長らく友人の間柄にあった者を見た。真正面から見た彼女は、酷く疲れているように見えた。その頬を、いつの間にか涙が伝っていた。力強く引かれたアイラインが、涙に流れて隈のように滲んでいる。「ごめん」ミキは謝りながら、目元をぬぐった。隈は、ますます顔を黒く汚した。「なんでこんなこと言っちゃったんだろ、ごめんね」

「いいよ」

 ユキは困惑を表情の奥にひた隠しにしながら、なんとかそれだけ言うことが出来た。ミキが黒い涙を流している。その理由が、ユキには理解出来なかった。


 ――この関係も、終わりかもしれない。

 

 ふとそんな予感がふくらみ、足元から背筋を這うようにして脳裡に辿り着く。しかし、どうにかしてその悪しき直感をふり解き、この場を正そうと考えを巡らせた。いつもの下らない皮肉が飛び交う、あの愛しい空間に戻さなければ。

 いい人はいるのか。仕事は実際のところ、どうなのか。両親は元気か。私以外の友人とは会っているのか。私以外の友人は出来たか。思い浮かべたどの話題にも警告を示す赤色が点滅していた。ユキは何も言うことが出来なかった。ミキは煙草に火を灯すが、吸うでもなく、先端が灰に変わっていくのを見守っているばかりであった。

「ねえ、私、あんたの子供に会いたいな」

 沈黙を破るように、ミキは言った。

「なかったっけ? 会ったこと」

「産まれてすぐにね。だけど、それっきり。会わせまいとしているのかと思ってたけどね、私なんか」

 ユキはミキが何とか元の調子を取り戻そうとしているのを察して、あえて笑ってあげた。

「私ねえ、少なからず夢があんだよ」

 ミキは調子づいて続けた。

「私も誰かと出会ってさ、子供をつくるんだ。そしたら、私の子供のことだからさ、きっととっても暗い子になっちゃうと思うんだ。それはもう、天命なんだな。だけど、私が同じ時期に、同じ辛さを味わった時に、私を救ってくれた色々な物を、子供に与えてあげたいんだよ。音楽とか小説とか、漫画も映画もね」

「いい夢じゃないのよ」

 ユキはほとんど速答する勢いで言った。ただ、称賛以外の言葉が思い付けなかった。

「今日行ったライブのバンドもその一つってわけ?」

 苦笑を漏らしつつ、ミキが小さく首を振った。


「違う、違う。あんなのニセモノだもん。なにさ、結婚した途端に幸福ぶっちゃってさ。そんなきらきらしたものをさ、今さら出されても白けっちまうんだよ。

 私は、ずっと暗がりで寄り添っていて欲しかったんだ。小説でも漫画でも、なんでもいいんだけどさ。ただ薄暗がりでうずくまってることしか出来ないような私を放り出して、勝手に幸福なラストに駆け込んで行くような連中をさ、祝福してやる義理も余裕もないんだよ。そんなの、酷い裏切りだと思わない?」


 ユキが答えに窮していると、玄関を開ける音と共に、騒々しい子供のはしゃぎ声と落ち着いた男性の声がした。家族が帰って来たのだ。「あら、ようやくあんたの子供を見られるんだね」ミキは吸いかけの煙草を空き缶に放り込むと、ソファから立ち上がった。二人は急いで空き缶を袋に詰めて、何事もない顔で待ち受けた。ふと互いに視線を交わし、二人してくすぐったい笑みを浮かべた。

 ミキはほとんど始めの調子を取り戻していた。声音も小気味よく、余裕が見られた。ユキはほっとしつつ、廊下を駆けてくる愛らしい娘の小鳥のような足音を待ち受けた。マシンガンの乱射にも似ているとユキの夫は言ったものだったが。そんな、元気のよい足音が近付き、扉を開け放った。


「ただいまぁ!」


 甲高い声がリビングに響き渡る。

 三歳ほどの小さな女の子があらわれて、ミキは自然と優しい笑みを浮かべていた。小さな顔のあちこちに、ユキの面影が散らばっているのが微笑ましかったのだ。

 女の子は勢いを殺して、部屋の前で立ち止まった。急停止したために、伸ばし始めた髪の毛が、綿ぼこりのように軽やかに揺れた。

 弾けた笑顔はふっと立ち消えて、そのくりくりとした丸い眼でミキを観察するように見つめた。ミキは、小さく手をふってみたが、女の子は不安げに視線を送るだけだった。


「ただいま、いやたいへんだったよ。この子ときたら、欲しい物があったら頑としてその場を動かないんだからな」


 夫が遅れてやってきて、茫然と立ち止まった娘を跨いで入ってくる。背の高い、優しい風貌の、理知的な目元を持つ、大人の男だった。彼がミキの姿を見留め、一瞬、その眼差しに怪訝な色合いが差したのを、誰もが見逃さなかった。

「どうも。いつも、妻がお世話になっています」

 その声音は優しかった。

「いいえ、こちらこそ」

 ミキはかしこまって小さくお辞儀をした。それまでの、破天荒な物言いはなりを潜めて、押し込められてしまった。そこから彼女の会社での姿を想像するのは苦しくなかった。大人しく、乱暴な物言いに追い立てられ、てんてこ舞いで傷つき、家に帰って、ほっとした途端に、羞恥と怒りと困惑に焼き殺されそうになっているのだろう。ユキは、慌てて茫然とした娘を抱き上げた。

「ほら、うちの娘よ。ミィちゃん、こちらママのお友達なの。ミキさん」

 幼い娘は何を言われているのか、まるで理解できていないような、困ったような眼差しで、母親を見上げた。ミキはその無垢な表情に頬を緩めた。

「こんにちは、ミキおばさんですよ」

 ユキは、抱き上げた娘をミキに差し出そうとし、ミキも両手を広げて待ち構えた。すると、娘は唐突に表情を恐怖に歪め、泣き喚き、暴れ始めた。


「いや! いやだ! やぁ! お化け! お化け!」


 ユキの服にしがみ付き、忌避の眼差しをミキへと注いでいる。ミキは、受け止めるべく差し出した手を広げたまま、一瞬だけ、心臓を鷲掴みにされたような顔をした。その目元には、ピエロのような黒い汚れが残っている。

「こら! なんてこと言うの、ママのお友達なのよ」

 ユキは宥める自信もないまま、とりあえず娘に向けてそう言い続けた。娘と、友人へ向けて。


 つんざくような泣き声、恐怖の叫び、全身での拒絶。


「怖くないよ。ごめんね。ごめんね」

 ミキはくりかえしくりかえし、許しを乞うたが、幼子の爆発した感情は一向に収まらない。目元の汚れを拭い落としても、なぜ謝るのかもわからないまま、何度も何度も謝っても、どれだけ優しい言葉であやそうとしても。


「いや!!」


 一言。

 めちゃくちゃに振り回された小さな手が、ミキの手を払いのけた。ぱちん、と音が鳴った。と、同時に、ミキは羨ましいような、痛ましいような気持ちに駆られた。払われた手を、そのまま胸元に抱えた。その手を、もう片方の手で握りこむ。

 

「……ごめん、ごめんね、私。帰る、帰ります」


 ミキは震えそうな声でそう言うなり、足早に荷物を纏めてリビングを出て行った。ユキは娘を夫に預け、その背を追いかける。

 ミキが玄関に座り込み、真っ黒いブーツを履こうとしていた。そのブーツの紐を、何度も何度も結び間違えては解きをくりかえしていた。ユキは、その小さな背を悲愴だと思った。孤独だと思った。それは、学生時代に初めて見たのと丸っきり同じ姿をしていた。無暗に悲しさを感じた。やがて、ブーツを適切に履き終えると、ミキは立ち上がった。


 声をかけなければと、ユキは思った。何かを伝えなければと。しかし、口を突いたのはそうした思いとは裏腹で、平易な謝罪だった。


「ごめんなさい、気を悪くするようなこと……」

 

 どう取り繕っても、それは大した言葉ではなかった。なぜならば、母親はどうしたって愛しい娘の味方であるから。幼い子供の味方をしてしまうものだから。

 ミキは、ユキのその大人びた表情や言葉遣いや気の回し方について、急速に理解し、何てことのない平穏な玄関口で、絶壁の隔たりを見てしまう。


 今日、ユキは必死に『昔』のふりを続けていたのだと、ミキはそう思った。大人の世界にも混じれず、かといってもはや子供でもない。どこにも確かな居場所のない、憐れなミキのために。憐れまれていた、私。

 ミキは、いっそおかして、息を吐くような自然さで笑った。

「いいよ、また、今度ね」

 振り向きもせず放たれた、ミキのよそよそしい言葉に、ユキは項垂れた。扉は閉ざされ、二人は別たれた。

 ユキはよくわからない切迫感や、焦燥を感じていたが、どうすることも出来ず、ただ大きく溜め息を吐いた。いつの間にか、その背後に夫が近付いていた。


「何だか、聞いていたのよりずいぶんと派手な人だったな。……もう、いい歳だろうに」


 夫の心ない言葉に、ユキは言いようのない痛みを覚えながら、「そうね」と同調せざるを得ない自分を呪った。それでも、変わってしまったすべてに抵抗するように、言葉をつなげた。


「でも、……私の友達なのよ?」

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