ジズが啼くとき

にのまえ あきら

ジズが啼くとき

 原初の無。全てが『 』だった。

 時さえ何物にも及ばず、『 』さえ『 』足りえなかった。

 虚無の中、『 』から全てを創造するべく、神と呼ばれるものは世界を構築した。

 一日目、神は天と地を創造した。世界に全てを内包させるため、神は闇に光を与えた。

 二日目、神は地を空で覆った。

 三日目、神は地に大地と海を生み出し、植物を生えさせた。

 四日目、神は光を分かち、太陽と月と星々を天に創った。

 五日目、神は大地と大海をかたどり、獣と魚を作った。

 六日目、神は家畜と神に似せた人を作った。

 七日目、神は休息を取った。

 神に作られた獣と魚は、ベヒモス、レヴィアタンと呼ばれた。

 神話に著されたのは大地の獣ベヒモス、大海の魚レヴィアタンの二頭。

 けれど、もう一頭、神話にはあらわされない隠された動物がいた。

 名を、大空の鳥ジズ。そして神話では、ベヒモス、レヴィアタン、ジズは世界の終わりが訪れた時、生贄として人間に捧げられるという。

 これは、そんな世界を象った、悲しき世界獣の話。


 ✝


 彼らは、ただ穏やかに日々を送っていた。

 地を気高く駆け、空を悠然と飛び、海を優雅に泳ぎ続ける。

 それができるだけで充分だった。そんな夢を見ているだけで満ち足りていた。

 けれど、人は彼らをそんな夢の世界から引きずりだした。

 ただの概念だった彼らに、意思持たぬ怪物に、人は器を与えた。

 彼らは、世界を象る枠組みそのものだった概念という無限から、生をもって引きずり降ろされ、獣という有限になった。

 初めこそ抗おうとしたが、生の快楽には逆らえなかった。

 生まれたばかりで理性などない彼らに、本能に逆らうすべは無かった。


 ✝


 数百年後。

 青々と茂ったあしの原。

 柔らかい日差しで満ちたその最奥、一人の少年が葦をしとねに昼下がりの微睡まどろみを謳歌おうかしていた。

 そう遠くないさざなみの音がかごに、彼を深い眠りへ誘おうとする。が、反して彼は近づいてきた潮のにおいで目を覚ました。

 草を分け入って現れた少女に少年は不満感を隠しもせずジト目でめ付ける。

 しかし、少女は少年の視線にはこれっぽっちも気付かず、驚いたように声をかける。

「あれ、エレトいつもなら寝てるのに今日は起きてるのね。驚いたわ」

「マイが来たのに気付いたから起きたんだ。お前、海から上がって直接ここに来たろ。俺の寝床が濡れるから乾かしてから来いって前から何遍なんべんも言ってる筈だ」

 見れば少女は腰あたりまで伸ばした淡く神秘的な朝霧色の髪や、薄く鱗の張った白い肌から海水を滴らせている。

 そんな姿で少年の隣に腰を下ろしているのだから、彼の寝ていた場所は既にたっぷりと海水に湿っていた。

「寝る場所なんて変えればいいだけなのに。エレトは硬すぎるのよ。そうやって動くことをかまけてずっと同じ場所にいたらすーぐおじいちゃんみたいになっちゃうわ」

「やかましい。俺はここが気に入ってるんだよ。第一、お前らに寝床を荒らされたくらいで場所を一々変えてたら、俺は地球を何周してるか分かったもんじゃない」

「あら。いいじゃない地球一周。そういえば私達一回もしてなかったわよね。こんなにも長生きなのに。今度しましょうよ、ルアハも一緒に」

 少女は顔の横に合わせた両手を添えながら微笑んだ。

 少女の無茶ぶりは毎度のことながら、少年もそれに応えてきたが、こればかりは勝手が違う。

 少年は少女ではなく、どうしようもないやるせない事実にため息をつきながら、少女をさとす。

「ルアハには役目があるから無理だ。忘れたのか?」

「あ……。そっか」

 少女は特に気落ちした様子は無かったが、声のトーンは確かに落ちていた。

「でも、今は無理でも、ルアハが役目を終えたらその時はみんなで行こっか。その時まで、地球一周は取っておくことにしよう!」

 すぐに気を取り直し溌剌はつらつと言う少女に、少年は頷く。

「ああ、その時が来たら、世界の果てまで行ってやろう」

 ……本当に、そんな時が来るのなら。俺は。

 少年は、南の空を見上げる。今は地球の写し身があって先が見えない。

 南の空を漂って、本当にゆっくりとこちらへ向かってきているそれは、創世の人間の片割れであるイヴが作った仮初かりそめ楽園エデン

 彼女はそこで眠り続け、アダムがそれを見守っているのだという。

 この前までの進路からいくと、このままこちらに向かってきて上空を通過して北に行くだろう。

 あれが通り過ぎたらルアハの元へ行ってやろう。

 少年はそう思いながら欠伸あくびを一つ、噛み殺した。


 ✝


 大陸の南端、神が住まう山として人々に崇められている霊峰があった。

 澄み渡る青空を鋭く穿うがつ霊峰の頂。

 そこは一年中雪が溶けることなく、純白をまとい続ける死の世界。

 誰も踏み入れないはずのその神域に、一人の少女がいた。

 陽に透けているのは一房のみ鮮やかな青に染まる、若葉色の髪。

 それは後ろで一つに纏められており、快活そうな印象を見る者に与える。

 長いまつ毛の下にけぶる淡い黄色の瞳は南の方角を一心に見つめ続けている。

 髪の色の如く、生命漲るような容姿と出で立ちの幼げな少女は、微動だにせず、遥か遠くのただ一点を凝視し続ける。

 その様子は尋常ではなく、凄絶せいぜつを極めていた。

 不動の姿勢はまるで何かを待ち続けるかのようだ。

 そうして永遠に続くかと思われた静寂は、

「おーいルアハ―」

「ひゃあうっ!?」

 すぐ背後からかけられた声によって、唐突に終わりを告げた。

「そんなに驚かないでも。こっちまでびっくりしたわ」

「~~~~~~っ!!!!」

 あっけらかんと言う少年を、ルアハと呼ばれた少女は声も出せずに涙目でぽかぽかと叩いている。

「痛い痛い。落ち着いてくれルアハ、俺が悪かった」

 謝られても気が済まないのか少女はまだ叩き続けている。その後も何度も謝られ、なんとか落ち着いた。

「……それで、エレトお兄ちゃんは何で来たの」

 霊峰の頂の温度の如く、機嫌が氷点下まで下がっている少女は、ぶっきらぼうに少年に尋ねた。

「何でも何も、様子を見に来ただけだよ。最近会ってなかったし。調子はどうなのかなって」

「……本当にそれだけ?」

 これはどうやら彼女の機嫌をかなり損ねてしまったようだ。ふてくされてしまって、こちらを一瞥いちべつもしてくれない。

「本当にそれ以外に何もないよ。あるとすれば、久しぶりに三人で寝ないかって聞きに来たくらいかな?」

 少年はなんとか少女の機嫌を取り戻すため、少女にとって最大かつ最高の案を提示する。現に、南を向いて話すその後ろ姿でもわかるくらいには、先程よりはずっと警戒心を解いている。

「……まぁ、お兄ちゃんがどうしてもって言うなら、一緒に寝てあげないこともないけど」

「ありがとう。マイも喜ぶよ」

 その一言が決定打だった。彼女はこちらを向いて、少し照れくさいのか目線を伏せがちに尋ねてくる。

「マイお姉ちゃんはなんで来てないの?いつもは二人一緒に来てくれるのに」

「あいつはあいつで今は海を周ってるよ。人と出くわさなきゃいいんだけどな」

 言って、少年は今も使命を全うしているであろう少女がいる方角の、北の空を見据えた。

 彼らには神から与えられた使命がある。それは、言わば呪いであり、運命でもある。彼らを世界獣足らしめる要因。それがなくなれば、彼らはまた世界を成す概念へと還るだろう。けれど、生を知ってしまった彼らにとってそれは死と同義かそれ以上のものだった。

 ジズであるルアハはこの大陸の南端の、更に南から時折りやってくる影の対処を使命としている。それ故に、影が来ないときは大陸の中を自由に行き来することはできるけれど、この大陸から外に出ることは出来ない。世界の果てからやってくる、終焉そのものを形にしたようなそれを打ち破ることが出来るのは彼女しかいない。それが彼女の使命であるが故に、例えエレトも影に対処する力を持っていようと、彼にはこの幼い少女の使命を変わってやることは出来ない。彼女がどれほど危険な目に遭おうと、それを助太刀することすら許されず、ただ指を咥えて見ている事しかできないのだ。

 マイは海に異変が起こった時、その対処を行い海の秩序を守ることを使命としている。かつては、雌雄一対しゆういっついだったレヴィアタン。今は、もう、雌であるマイしかいない。彼女は、広く深い海を今もなおたった一人で守り続けている。一人しかいない理由は、ただ人間が彼らを凶暴で恐ろしいと、忌み嫌ったから。海を守るために与えられたその力を、人間は理解しようともせず、ただ遠ざけた。そしてあろうことか、人間は神に彼らを消してくれと頼み込んだ。あんな凶暴なものが繁殖して増えては堪らないと、そんな俗物的な理由で。そして、神は人間の願いを聞き届けた。雄のレヴィアタンを殺したのだ。無慈悲に、淡々と。そして、残された雌のレヴィアタンは消えることが無いようにと、不死性が与えられた。あの日のことを少年は永遠に忘れる事は無いだろう。

 涙の一つも見せなかった。マイを頼む、最後まで屈託くったくなく笑いながらそう遺して、彼は消えた。

 今でも、あの日のことを思い返すと怒りで臓腑ぞうふが煮えくり返りそうになる。悲しみで噛み締めた奥歯を砕きそうになる。けれど、少年は怒れなかった。一番悲しいはずの少女が、泣かなかったから。少女はただ悲しげに微笑みながら、これからはあいつの分まで頑張らなくっちゃ、と虚勢の様な決意を口にしただけだった。

「おーい、エレトお兄ちゃん?どうしたの?」

「ん?ああ、いや何でもない」

 柄にもなく過去のことを思い返してしまった、と彼は自戒しながらこちらの様子を案じてくれた少女の頭を撫でる。少女は上機嫌になりながら猫のようにそちらに頭を寄せている。過去のことをどんなに想ってみても、過去が変わることはない。彼にはそんな幻想を抱く力は無い。それよりも、今はやるべきことがある。呪われた運命を全うしなければならない。

「っと。こんなことをしている場合じゃなかった。もう行かないと」

 彼は自分のやるべきことを思い出したのか少女の頭から手を離し立ち上がる。

「もう行くの?」

「ああ、ちょっと行かなきゃならない所があってな」

「気を付けてね。あたしも夜になったらエレトお兄ちゃんのところに行くよ」

「ありがとう。ルアハも頑張れよ」

 そう言って、少年は少女の元を後にした。


 ✝


 すっかり陽が落ちて暗くなり、天球が星辰せいしんを帯び始めた頃。少年が用事を終えて、葦の原の最奥に戻った時、自分の寝床からすすり泣く声が聞こえてきた。どうやら懸念は敵中してしまったらしい。小さく灯された篝火かがりびを目印に、草を分け入ったそこには、声も上げずただ涙を流し続けるマイと、傍にいてやることしかできずに不安そうな顔をしたルアハが居た。

「なにがあった」

 本当は分かっているけれど、少年は敢えて尋ねる。

 泣いている少女はただ静かに首を振るだけで答えない。少年は傍らの少女を見据え、答えを促す。けれど、

「あたしも分からないの。来たときには既にマイお姉ちゃんがいて……。ついさっきのことなんだけど」

「……そうか」

 少年はそれ以外何も言わずに、ただ泣いている少女の隣に腰を下ろした。

「人間と遭ったのか、マイ」

「……」

 少女は何も答えない。重く苦しい沈黙が続く。ただ虫の音が辺りに優しく響いているだけ。流星が一つ、天球を駆け抜けた。

「……どうして」

 少女がぽつりと、か細い声で言った。

「どうして私は、傷つけることしか出来ないの。守ることが、壊すことでしか成し得ないなんて、私なんて生まれてこなければよかったのに!!」

 憤然と悲哀を泣き叫ぶ少女に、少年はかける言葉が見つからなかった。

 ……また、自分を責めるのか。

 少女は、人間が好きだった。たとえどれほど傷つけられようと、罵倒されようと、彼女は人間を愛していた。それは、雌雄一対であるはずの彼が殺されても変わることはなかった。

 意図せずして人間を傷つけてしまう自分たちが悪いのだと、少女はそう思い込むことしか出来なかった。母なる海を象り、最強の生物として神に創造デザインされた少女は、余りに優しすぎた。そして、神に与えられた不死性があるが故に、死ぬことも出来ない。

 余りにも残酷な境遇。けれど、少女はそんなものはないのではないかと思わせる程に、気丈に振る舞っている。常に感じているはずの苦しみをおくびにも出さず、笑って過ごしている。が、それでも人間に会ってしまうと、それにも綻びが現れる。そして、今日はその綻びから少女の精神性メンタルは完全に崩れてしまっていた。

「そんなこと言うな、マイ」

 少年は静かに、けれどしっかりとした口調で少女に語り掛ける。

「前から言ってるけど、マイが人間を傷つけてしまうのは必定なんだ。それに、人間がマイのことを理解できないことも」

 人間は基本的に、己より高位相のものを理解する知能は持ち合わせていない。極稀に、本当に稀に理解できるものが現れるが、それらは決まって短命だった。

「だから気にするな、なんて言っても、マイにそんなことが出来ないのは分かってる。だから、気が済むまで泣け。今は俺たちがいるから。好きなだけ泣いてくれ」

 少年に出来ることは、ただ少女の抱えているモノを理解してやることくらいだった。だからせめて、少しの間、少しの気持ちだけでも軽くさせてやりたかった。

「……」

 少女は何も言わず、少年の首に手を回し、正面から抱きついた。そして、

「……ぐすっ、ううっ。うあああ……」

 声にならない声を上げ、泣いた。

 エレトがマイの頭を静かに撫でると、もらい泣きしてしまったルアハも隣にやってきて、彼に縋りつきながら泣いた。彼女は彼女で、何処にも行けない寂しさと、独りで戦い続けなければならない孤独に苛まれているのだ。

 少年は、ようやく声を上げて泣いた少女二人の頭を撫で続けた。


 ✝


 篝火は既に消され、濃密な闇が辺りを覆っている。泣き疲れて寝てしまった二人に抱きつかれながら、少年は寝転がった状態で天球を見上げていた。今日はどうやら流星群らしい。十秒に一度の割合で星屑が空をくすぐっては消えていく。北の空には不動の象徴であるポラリスが今日も輝いていた。

「滅びの兆しの流星群か……。案外早かったな。まぁ、ちょうどよかったか」

 闇の中、少年は独りごちた。レヴィアタンが最強の生物として創造デザインされたなら、ベヘモスは完璧な生物として創造デザインされた獣だった。少年はこれから起こる全てを理解している。そして、それら全てが必定で、どう足掻いても変えられない未来だということも。だから、少年は神にささやかな意趣返しを試みた。成功するかどうかは、頼んだ人間次第なので少年にも分からない。けれど、少年は微塵も心配や懸念などしていなかった。なんせ、神に選ばれた人間なのだから。自分たちを理解してくれる本当に数少ない人間であり、それでいて短命ではない特異な存在。

「頼んだよ……ノア」

 少年は二人に倣う様に、静かに眠りについた。


 ✝


 少女は、激しい雷鳴の音で目を覚ました。目覚めて一番に飛び込んできた光景は、異常を通り越して少女の思考を打ち止めにした。空は黒雲で覆い尽くされ、絶えず雷鳴が轟き、雲の中で白く瞬いている。風は暴威をそのまま纏ったかのような激しさで吹き荒れている。少女がやっとの思いで体を起こし、辺りを見回すと、既にエレトとマイは起きていて、二人で何やら言い争っていた。

「その話、本当なの……?」

「あぁ。これはあのヒトが最初から計画していた事だ。この、世界の終わりの為に俺たちは生み出され、今日まで生かされた。まぁ、ルアハは純粋に使命を与えられただけだから、この大洪水が終わった時に一緒に消えると思う」

「嘘でしょ……?こんな、こんなことって……」

 エレトの言ったことが余程ショックだったのか、マイは口元を押さえ、口を戦慄わななかせている。状況がよく理解できなかった。エレトはなんと言った?

 世界の終わり?一緒に消える?何を言っているのかさっぱり理解が出来ない。

 少女が起きたことに少年が気付き、少女の元までやってくる。少女は少年たちが話していたことが理解できず、思わず尋ねてしまう。

「ねぇ……世界が終わるってどういうこと?私達、消えちゃうの?」

「なんだ、聞いてたのか」

 どこか身体の痛みを我慢して笑うかのような面持ちで少年は、真っ直ぐ自分を見つめてくる少女を見つめ返しながら言う。

「言ったとおりだよ。これから大地を覆い尽くす大洪水が起こる。それで人間を含めこの世の生物は殆ど死滅するんだ。そうして世界を掃除した後、あのヒトは僕らを使って世界を再構築するんだ。完璧な世界を創るためにね」

 現実味が無さすぎる言葉の羅列。少女は少年の言った言葉が信じられなかった。

「ただ、ルアハは再構築の礎にはならないんだ。空は消えないからね。けれど、今まで行っていたしわ寄せで現れた影を始末する使命が無くなるから、ルアハも消える」

 こんなにも吹き荒れているというのに、風は彼の声を少しも遮ってはくれなかった。ただ、どうしようもない結末が語られただけ。何も変わることは無い。けれど、少女は少年に聞かずにはいられなかった。

「ねぇ……、エレトお兄ちゃんは、最初からこうなることを知っていたの?」

「うん。というか、これが俺の使命だからね。本当にこのために生きてきたと言っても過言じゃない。けど、これを二人に言っちゃいけないよってあのヒトに言われてたから、ずっと言えなかったんだ。ごめんな、ルアハ」

 少女は、ただ首を振ることしか出来ない。

 本当に絶望に曝されていたのは、この少年だった。初めから分かりきっていた結末から逃げることも許されず、ただ定められている終焉まで行き抜くことこそ使命。それ以外には何も求められず、何も意味がなかった。

 だからこの少年はいつも暇そうにして寝ていた。だから少女たちの事を気に掛けていた。何の異常事態イレギュラーも起こさないように、そして、少女たちが生きる時間を出来得る限り幸せなものにするために。

 死にゆき消えることが必定のものだとしても、死ぬまでの時間は縛られてはいなかった。たとえその生に意味がないのだとしても、心地よい眠りにつくように死ぬことが出来るよう、常に少年は振る舞ってきたのだ。待ち受ける絶望を誰よりも理解していながら。

 風はその強さを増していく。大洪水が起こると言っていたのに、ここから見える海の水位は少しも増していない。少女の疑問を先読みしたかのように少年が言う。

「僕らは再構築のための材料だからね。ここは一番最後に沈むと思うよ」

 絶望の袋小路。重い沈黙が彼らを包もうとするが、努めて明るく、少年は言葉を口にする。

「そんな暗い顔をしないでくれ。俺も最初は勿論もちろんショックだったよ。けど、どうせ死ぬんなら、何かしてやりたいって思ってね。一つある仕掛けをしたんだ」

「仕掛けって……?」

 マイが尋ねる。

「この大洪水では、全員死んでしまう訳じゃなくてさ。ちゃんと生き残る人間とかがいるんだ。それで、俺はその人間にある歌を遺してきた」

「歌……?」

「ああ。俺らが消えても、その歌はきっと世界の果てまで辿り着く。ノアにそういう約束を取り付けたからね。俺らの約束を最後に、果たしたかったんだ」

 少年はそう言って滅多に見せない、悪戯いたずらを仕掛けた年相応の少年のような、不敵な笑みを浮かべた。

 少年の言った約束を少女は思い出し、思わず微笑む。

「確かに、世界の果てまで行けるのなら、悪くないかもね」

 暗くかげりが差していた顔に、笑みが浮かんだのを見て、少年は安堵する。

「約束って何のこと?エレトお兄ちゃん」

「ああ、それはこの前――」

 何のことかわからず、尋ねたルアハに、エレトは約束の事を話す。

 それを聞いたルアハは瞳を輝かせる。

 少年は少女たちを座らせ、歌についても話す。それから三人は、最後の時が訪れるその瞬間まで、心行くままに思い出を語りあった。


 ✝


 空にはルアハが吹き荒れ、エレトマイが覆い尽くした。天変地異の大洪水は四十日四十夜もの間続き、生物はノアの箱舟に乗せられたもの以外、残らず死滅した。

 四十日後にノアは鳥を放ったが、止まるところは無く帰ってきた。更に鳩を放したが、同じように戻ってきた。七日後、もう一度鳩を放すと、鳩はオリーブの葉を咥えて船に戻ってきた。更に七日経って鳩を放すと、鳩はもう戻ってくることは無かった。

 それは、洪水の終わりを告げていた。

 その後、神はノアに二度と全ての生物を滅ぼすことはないと誓い、ノアとその子供たちを祝福し、しるしとして空に虹をかけた。


 ✝


 数百年後。

 ノアの一族は繁栄し、世界中に散らばって暮らしていた。

 とある場所に村があった。その村は少しづつ発展し、街となり、街は更に発展し都市となった。そんな栄華の繁栄を極める都市に、有名な吟遊詩人が訪れた。彼は神話や英雄の物語を語り継いでいた。そんな彼が歌う歌は、決まってある歌で締め括られていた。

『風が吹くとき、土と水に思いを馳せろ。空が鳴る時、海と陸に願いを込めろ。ジズが啼くとき、彼らを思い出せ。ジズが啼く時、消えた彼らを思い出せ』


           おしまい








  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ジズが啼くとき にのまえ あきら @allforone012

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ