花ざかりの地獄

雨伽詩音

第1話花ざかりの地獄

 罪の嵐が

 僕のあらゆる道の行手にすさぶ時、

 女神よ、そなたは現れた、

 切ない難破の間際の

 救いの星のように……。

 そなたの祭壇にこの心臓を捧げる!

 ボードレール「僕のフランシスカを賛(ほ)める歌」堀口大學訳


 兄の体は花々にむしばまれ、やがて虚無へと還るのだろう。

 廃墟と化したホテルの最奥に潜む、ところどころ崩れ落ちた温室の天井からは日の光が降りそそぎ、蘭の花のむせかえるような香りがあたりを包みこむ。狂い咲きの畸形の薔薇が縦横無尽に棘を伸ばし、血の色に似た花びらが一枚、また一枚と地面に散り敷く。名もなき花々は季節を忘れて妍を競い、その中央に安置された水槽には無数の管がつながれている。酸素とわずかな養分を運ぶその管も、黴にまみれて今にも朽ち果てようとしていた。

 その水槽に眠るのがさしずめ僕の兄といったところで、ここに運ばれてきたのは彼が二十一歳の頃だったから、もう三年が経とうとしている。この三年もの間、僕は水槽の傍らで管に酸素と養分を注ぎこんできたが、養分といっても名ばかりで、亡き母の遺した年代物の香水を日に数滴垂らしているのだった。

 薔薇にすずらん、すみれにさくらんぼ。毎日この四種の香水のなかからひとつを選び、詩を語って聞かせるのが僕の役目で、さながら子守か墓守かといったところだが、この温室に眠れる兄を安置した僕に、献花の手間もはぶけると云った父ももういない。

 亡き母と眠りつづける兄の呪縛から逃れんと、海の向こうへ渡ってしまった父はおそらく二度とこの地を踏むことなく、どこか遠い異国の地で美女とのロマンスを夢見ているのだろう。

 母の形見は香水の他に舶来品の真珠のネックレスやカメオのブローチ、リボンで飾られた優美な帽子、パフスリーブのロイヤルブルーのドレスと華やかなものばかりだったけれど、母亡きあと、父は早々にそれらを売り払ってしまったから、亡き母の体液として兄の血に送り込まれる香水の他に彼女を偲ぶ品はないのだった。

 父を憐れむべきか、それとも亡き母がうち捨てられ、兄が見放されたのを悲しむべきなのか僕は判断しかねている。おそらく僕ら一家は、神経症を患った母と、それを救わんと手を差しのべた父とが結ばれたときから呪われていたのだ。ことのほか兄を溺愛していた母は、彼が覚めない眠りについたのちに自ら命を絶ったのだった。

 だから僕は詩を読むほかにこの鬱屈とした血の呪いから逃れるすべを持たない。朗読して兄に聞かせる詩集は、フランスかぶれの僕が選んだもので、ランボーにボードレール、アポリネールにヴェルレーヌと、すべての詩をそらんじられるほど繰り返し読んだけれど、彼が目覚める気配はない。

 兄が目を覚ましたら僕は何を語るべきだろう。父も母ももうここにはいないこと、そして二度と僕らの元へ帰ってくることはないことを告げたとしても、兄がどんな表情を浮かべて何を語るのか想像がつかない。

 僕ら兄弟が幼い頃から父は外資系の商社に勤め、海外勤務で家を開けることが多かったので、古びた洋館の中は花ざかりの地獄のような様相を呈していた。兄の機嫌を損じることは母にとって天地が裂けるよりも恐ろしいことだったようで、幼い頃には午後のお茶の時間になると、すみれの砂糖漬けだの、自家製のホイップクリームを添えたシフォンケーキだの、朝に焼き上げたばかりの香ばしいアーモンドクッキーだので兄の機嫌を取ろうとした。

 しかしながら幼い子どもというものは、そうした大人の下心を察してしまうものらしく、母の淹れる薔薇の紅茶の他には兄はほとんど手をつけず、しまいには僕がそれらを平らげるのだった。

 五月の薔薇が群れ咲く庭で、母はシフォンケーキの最後の一切れを無理矢理にでも兄の口に押し込もうとしたが、兄はすっと席を立って、二階の自室で爽やかな風に髪をそよがせながら銀笛を奏でた。

 兄のフルートの音色は小鳥のさえずりにも似て美しく、母は音楽学校に編入させるべく、資料をあちこちから取り寄せて手を尽くしたが、兄にはそのつもりがなかったようで、母が演奏を命じるときにはワーズワースの詩を諳んじてみせて彼女を困らせたし、母が持病の神経症を拗らせて臥せっている時にはフルートの音色で慰めたものだったが、兄にとって母はひとりの哀れな病人に過ぎなかったのだろうと思う。

 フルートを奏でる兄はさながら小鳥のようだった。フルートの音色そのものが兄の声となって母の病み疲れた心を癒した。「私のかわいい小鳥」というのが兄に対する呼び名であって、気の触れた母は己がつけたはずの兄の本名などとうに忘れてしまっていたのだろう。僕のあだ名は「蜂蜜色のラスク」だった。ちなみに僕の肌は標準的な黄色人種の色だったし、大学生になって色素の薄い茶色に染めた髪を以ってしても、決して蜂蜜色ではなかったのだけれど。

ある昼下がりのこと、僕は病床に臥せる母のため、庭にひときわ華やぎをもたらしていたカサブランカを裁って、レースガラスの花瓶に生けた。その花瓶は父のヴェネチア土産で、子供が触れることは禁じられていたけれど、僕はその禁を破ってでも母を喜ばせてみたかった。

しかしレースガラスの花瓶に生けられたカサブランカを見た母は、

「蜂蜜色のラスク、お前は恐ろしい悪魔の子。私の愛するカサブランカの命をむしり取り、お父様の大事な花瓶に触れてしまった。私はお前のような悪魔を産んだつもりはないわ。今すぐ出て行きなさい」

とわめいたかと思うと、枕に顔を押しつけて、この世の終わりを迎えたと云わんばかりの声を放って泣くのだった。

僕は花瓶を捧げ持ち、溢れる涙も拭わずに部屋から出て、ヴィオラの花が群れ咲く花壇に花瓶を叩きつけた。美しいレースガラスは粉々に砕け散り、僕はガラスの破片で指が傷つくのも厭わず、庭の地面を掘り返してカサブランカの花を埋めた。

 午後三時からはヴァイオリンのレッスンが入っていたけれど、僕はまだ泣きつづけていたかった。夕日が沈み、埋葬されたカサブランカの花を忘れる日が巡ってくるまで、涙が乾くことはあるまいと思った。カサブランカの花言葉は「純粋」「無垢」だという。それらはもはや泥にまみれ、地中に生き埋めになってしまったのだった。

しかし僕はヴァイオリンのレッスンを欠かすことはなかった。それでもバッハの無伴奏ソナタ第一番を奏でているうちに自然と涙が頬を伝って流れてゆき、ヴァイオリンを静かに濡らしたが、講師が差し出すティッシュを拒み、涙の訳を聞かれても決して答えることはなかった。

レッスンが終わって家に帰ると、僕は新たな禁忌を垣間見てしまった。リビングで母が兄を侍らせて、一糸纏わぬ姿で横たわっているのを見かけたのだ。母は乳房や陰部にラズベリージャムや苺ジャム、マーマレードを塗っては兄に舐めさせた。

「私のかわいい小鳥、さあついばんでおくれ。小さなお前の糧となるように」

 兄は母に命じられるままに乳房に載せられたラズベリージャムを口に含み、下腹部の茂みをかき分けて苺ジャムを舐めとった。足の指の一本一本にペディキュアのように塗られたブルーベリージャムを、兄は丹念にねぶり、しまいには痩せこけた母の足を両手で捧げ持って舌を這わせるのだった。

 ふたりの秘儀は、レッスンから帰ってきた僕によって破られ、それきり僕は母から疎まれ、僕もまた母を壊れた人形として扱うようになった。カサブランカの花はやがて地中に還っても、ガラスの破片はいつまでも「純潔」や「無垢」を切り裂くだろう。そしてまだ未完成な僕の心をも。

 母は事あるごとに学校の成績や楽器を演奏する腕の良し悪しなど、あらゆることで僕と兄を比べては、兄を贔屓した。僕は父から譲り受けた高価なヴァイオリンを奏でることを命じられてからは欠かさずレッスンに通ったけれど、それは僕自身の意向というよりは父の指図によるものであって、練習をおろそかにしてレッスンの講師にはしょっちゅう叱られたし、演奏の腕前は一向に上達しなかった。

 僕が弾ける曲はバッハだけであって、はじめこそ奏でられる喜びが心のうちに湧き上がってきたが、家族の前で繰り返し繰り返し演奏するうちに、このヴァイオリンも、そして演奏を命じる両親も壊れてしまったのだと僕は感じるようになった。さながら食前の祈りのように流れるバッハのソナタ。兄はどんな祈りを託していたのだろう。きっと僕だけがこの曲に自分の鬱屈とした思いを預け、祈りを捧げぬ無神論者となって、運指の指に怒りとおののきを宿らせていたのだ。

 いずれは人前に出てヴィヴァルディの冬を演奏するようにと父に云われてからというものの、僕はすっかりヘソを曲げてしまった。ヴィヴァルディは僕の好みではなく、どのみちこの家に僕を愛してくれる存在などいなかったし、ヴァイオリンを取り上げられてしまえば、僕はただの小学生にすぎないのだった。そして僕は何の変哲もない小学生であることを望んだ。ヴァイオリンは屋根裏部屋の隅で朽ち果て、やがて蜘蛛が巣を張った。

 子どもだった僕にとって、父は不可解な大人だった。彼はグールドをこよなく愛していたし、彼の奏でるピアノの旋律と入り混じる鼻歌をも愛していたが、父が帰宅するたびにグールドを聴くのは僕にとって耐え難い苦痛だった。グールドの鼻歌はノイズにしか感じられなかったし、神経質で機械的なタッチで奏でられるモーツァルトは僕の心の静寂をうちやぶるのだった。大人になれば父のことも、兄を侍らせる母のことも、そしてグールドの良さも解することができるのだろうと思っていたのに、僕が理解するより先に父は海の彼方へと渡っていったし、彼はグールドのレコードを携えていったので、僕がグールドを耳にすることはもはやなかった。ただ耳の奥にかすかに残るグールドの鼻歌がいつまでもいつまでも渦巻いていた。

 母にとって兄は愛玩すべき人形であり、「私のかわいい小鳥」でしかなかった。決して己を脅かさず、従順で美しくあることを彼女は兄に求めた。そして表向きは兄もその盲目的な愛情に応じてはいたが、生前、母にどんなに愛されていても、その溢れんばかりの愛を兄は受けとめることはなかった。母の前では従順そうな様子を装い、もの云わぬ小鳥となって母の望みに応じながらも、兄の心に母の住まう理想郷はなく、美しい春のニンフたらんとする母を表向きには奉じながらも、妖と女神のはざまにある母に仕える巫覡にはなりえなかったのだった。

 僕にとって、幼い頃から兄という存在は不可思議なベールに包まれていた。言葉を発することはあっても、それはまるで一編の詩のように謎めいていたし、自我というものがあるのかどうかすら怪しまれた。彼の精神の均衡は母からの盲目的な愛情をそっと躱すことで保たれているようだった。声を荒げて母と対峙することは決してなかったけれど、兄の心に住まう人間は誰ひとりとしていないようだった。

 彼には生まれてこのかた友人というものがいたためしがなく、唯一の楽しみといえばフルートを奏でることだけだった。そのフルートさえも彼は愛さず、楽譜とともに無造作に机の上に投げ出されたそれを柔らかい布で手入れするのは僕の役目だった。

 ある時、まるであのふたりの儀式を垣間見た時のような衝動に駆られて、フルートの吹き口に唇を当てたが、たちまちラズベリーのような香りが僕の咥内に入ってきて、慌てて唇を離した。香りは否応もなく負の記憶を蘇らせた。群青のベルベットが敷かれたケースに鍵をかけるとともに、僕は己の中にわだかまる思いを封じこめた。

 長じてからも、春になれば母は空豆のスープをひと匙ひと匙掬って兄の口元に運んだが、彼はおとなしくそれを受けたのちは部屋へ下がって、翌朝まで居間へ降りてこないのだった。夜おそく、両親が寝静まったあとに兄がシャワーを浴びる音を耳にして、僕は兄の体を流れる空豆のスープの一滴に思いを馳せるのだった。季節がうつろい、空豆のスープがきのこのスープに変わっても事態は変わらなかった。シャワーの音に包まれて眠る夜が続いた。

 シャワーを終えれば、寝間着といっても名ばかりの、レースで編まれた母お手製の薄い衣を兄は纏う。湯上がりの唇には紅を差し、美しいレースに包まれて、かつて夢とうつつのはざまで兄は何を見たのか、そして今もどんな夢を見ているのか僕にはうかがい知れない。

 ただひとつだけわかるのは、眠っている間だけは母の妄執的な愛情から自由でいられるのだろうということ、翼をもがれた鳥が、それでもなお大空を求めるように、兄は必然的に眠りつづけることを選んだのだろうということだけだった。

 おそらく兄は違う星からやってきたのだろう。シャワーの音を聞きながら眠れぬ夜を明かす晩、僕は愚にもつかないことを考えていた。唇に真紅の口紅を塗って眠ることにどんな意味があったのか、僕にはわからない。ただ口紅によってその奥に潜む口内と、そこから紡ぎ出される言葉を封じていたのだろうと思う。

 いや、夜更けにひとり鏡に向かって口紅を塗るのは、溢れすぎた愛という名の邪気から身を守るための儀式だったに違いない。いにしえの貴人たちが陵墓の壁を朱で塗り固めたように、兄は自らの唇に魔除けを施したのだった。ひと夜の魔法は、翌朝になればすぐに解けた。

 だから兄が眠りについてからも、僕は欠かさずに兄の唇に口紅を塗った。水に濡れても落ちない真紅のティントを選び、詩集を朗読するのに飽いたときには、兄の本物の唇に色素が沈着していくのをじっと眺めていた。

 もはや兄の瞳がどんな色をしていたのか、兄の本物の唇が何色だったのかすら、僕は忘れかけようとしている。もしかしたら瞳は空色で、唇はすみれ色だったのかもしれない。幼稚園児が描いた絵のように本来の姿の輪郭はぼやけ、判然としない。このまま兄が眠りつづけている間に僕も年を取り、やがて死んでゆくのだろうが、それが五十年先なのか、それとも明日なのか、神様でもない僕には知りようがない。

 僕はボードレールの詩を口ずさみながら、乱れ咲いたすみれの花を摘んで歩いた。薄紫の花びらを一枚一枚兄の眠る水槽に浮かべ、下の方に沈んだ種々の花の名残が腐乱しているのを眺める。

 僕ら兄弟の血には、おそらく腐った花びらが流れつづけているのだろう。この血が絶えてしまうのならばそれもいい。

 僕はふとかつてのフィアンセのことを思い出した。血縁者のいない人間として僕は世間を欺き、婚約者をもだましてきたというのに、勘の良い彼女は僕の言葉の端々から兄の存在を見抜いてしまい、苦し紛れに大病を患って隔離病棟で暮らしているとごまかしても信じはしなかった。長崎の古い教会群に魅せられて、建築学を専攻していた僕の講義ノートの隅に描かれた廃墟の見取り図を彼女はめざとく見つけ、試験前にノートを借りるという口実でコピーを取ったのだった。

 そしてある晩、廃墟の奥に鎮座するこの温室に忍びこんだ彼女は、そこで水槽に眠る兄の姿を見てしまったのだ。彼女は矢継ぎ早に僕に罵声を浴びせかけ、人殺しと叫んで気を失ったが、まったく失神した人間というものはたいがい重いもので、彼女を廃墟のホテルの外まで運ぶにはたいそう骨が折れた。

 彼女を抱きかかえて歩いている間、いずれ兄の亡骸を抱いて歩くことになるのだろうかと思いを馳せてみたが、おそらく失神した彼女よりは軽いに違いない。なにせ兄の体には、酸素と香水、かぐわしい血と肉、そして骨の他には何もないのだ。焔の中で花のような香りを匂い立たせながら燃える兄を幾度夢想したことだろう。華奢な骨の一本一本を拾い集めて砕き、四種の香水を振りかけて骨壷に収めれば、いよいよこの呪われた血でこの地を汚すものは僕ひとりということになる。

 兄は眠り続けることを選び、母は自ら命を絶ち、そして父は海の彼方へと去った。僕に残された道は一体なんだろう。時折頭をもたげる疑問がこの時も脳裏をよぎった。兄を守ることだけが僕に課せられた務めなのだと信じてはいても、呪われた血を滅ぼす誘惑は絶えず傍にあるのだった。

 それまで僕は両親と兄のいなくなった家に寝泊まりし、朝夕にこの温室を訪れる生活を送っていた。二階建ての古めかしい洋館はひとりで過ごすにはあまりに広くて、がらんと静まりかえった家の中に時折古時計の鐘の音が響くほかは、幽居と呼んで差し支えなかった。

 だがいつ新たな闖入者が温室に現れぬともしれないとなると、僕は気が気でなくなってしまい、このホテルの廃墟の一室に家財道具一式を持ちこんで、眠り続ける兄との奇妙な生活がはじまった。

 廃屋と化したホテルの一室は著しい黴に侵され、到底人の住める様子ではなかったが、ベッドのスプリングを入れ替え、新調したシーツをかぶせ、壁には本棚をしつらえて詩集を並べた。所々に転がった歯ブラシや、古びた石鹸の類、汚れた衣類やタオルを始末し、バスルームを掃除して、鏡を丹念に磨き上げ、なんとか人ひとりが暮らせる程度に改めるにはそれ相応の時間がかかったが、僕にとっては苦ではなかった。

 温室から名も知れぬ花を摘んで花瓶に活け、ベッドサイドに飾った。花は一週間も経たないうちに萎れていった。幾度となく花を変え、気まぐれに選んだ花瓶を変えてみても、あの日葬った「純粋」と「無垢」はついぞ僕の手元に戻ってこなかった。兄が眠りから覚めるまでに一体何本の花が枯れてゆくのだろう。ヴァイオリンは残してきた家の暖炉に焚べて燃やした。フルートは僕の思いとともにケースに閉ざして、兄の眠る水槽の傍に供した。

 僕は温室に野放図に群生する苺のジャムを煮て、毎朝トーストに塗って食べた。苺の季節が終われば、狂い咲きの薔薇の花びらを集めてジャムを作った。母の裸体に塗られたジャムと同じ味がしたとしても、あの日ふたりの密やかな儀式を破った僕は母に許されることはないのだろうし、僕もまた母を愛することはない。ときおり街へ出て紅茶とパンを買い求めるほかは、もっぱらこの温室の植物たちの恩恵を受けて生をつないだ。無聊を持て余してフランスの詩の数々を朗読するひとときだけが僕を慰めてくれた。

 大学へは相変わらず通っていたけれど、講義を受ける最中も頭をよぎるのは眠りつづける兄の姿ばかりで、愛しいはずだったフィアンセに想いを馳せることはほとんどなかった。彼女とて人並み外れた美しい容貌をしていたし、夏になればつばの広い帽子にフリルが施された日傘、総レースのワンピースという出で立ちで僕の隣を歩いたものだが、まるで着せ替え人形を愛でるように彼女を愛しているのだということを悟ってしまってからは、祖母の形見の椿をあしらった総絞りの振袖を着せて白鶴の帯を締めさせたり、それとは打って変わってコム・デ・ギャルソンの漆黒のドレスを購って纏わせたものだった。

 買い与えられる服の数々に彼女は満足している様子だったし、着せ替え人形としては申し分なかったのだが、それを愛と呼べるのか、僕にはわかりかねた。一週間の間白い服しか着てはならないというドレスコードを与えれば、彼女は嬉々としてそれに応えてくれた。だが子どもがやがて人形に飽きるように、僕はフィアンセに倦み、先に述べたように彼女もまた僕の兄の存在を知って、自然と縁は途絶えた。

 彼女のみならず、兄もまた命ある人形であることには違いない。だが眠れる人形の方が安心していられるのは、そこに永遠が横たわっているからなのだろう。フィアンセもやがては年齢を重ね、蓄積されてゆく体脂肪によって体型は変化し、顔にはシワが刻まれてゆく。そうして変化していく人間の姿に僕は辟易しているのかもしれない。

 まったく身勝手なものだが、僕が愛しているのはフィアンセでも、そして兄でもなく、美しい人形なのだろう。だからいずれ兄が眠りから覚めれば僕はこの温室を燃やして呪わしい血を断つことになるだろうし、目覚めたばかりの兄に乱れ咲いたすずらんを煎じて与えないとも限らない。それまですずらんの香水を養分として生きつづけてきた兄が、生葉のすずらんを服して永遠の眠りにつけば、なんと美しいだろう。

 兄の命が自分の手に委ねられているということは、僕にとって最たるよろこびなのだった。水槽という祭壇に眠る兄を守りながら、僕はいつでも彼を殺してしまうことができる。

 だが兄との生活は思わぬ形で終わりを迎えた。ある時、外部から闖入者が紛れ込んだのだ。この廃墟と化したホテルをリノベーションして生まれ変えようとする市政の動きを聞きかじってはいたのだが、日々眠りこけている議員たちのなすことだ。三年、五年、七年先になるともしれないそのリノベーションも、やがて立ち消えになるだろうと僕は踏んでいた。

 しかしある日彼はやってきたのだった。ヘルメットと作業衣に身を固め、数多の資料を携えて。

「おい、そこに誰かいるのか」

 折しも僕は大学の講義から抜け出して、温室で兄に伸びる管に香水を注いでいたところだった。今日は薔薇の香水だ。母の一等のお気に入りで、手摘みのダマスクスローズから作られたのだと語っていた気がする。真偽は定かでないけれど。

 僕はフランス装の詩集を断ち切るペーパーナイフをいつも携えていた。ポケットから銀に光るナイフを取り出し、そっと背後に忍ばせて、僕は彼と対峙した。

「人がいるとは聞いていないぞ。不法侵入者だな」

「侵入者はあなたでしょう。ここはねむり姫の楽園なのだから。さしずめあなたはお姫様を掻っ攫いにきた山賊とでもいったところでしょう。お引き取りください」

「ねむり姫? 他にも誰かいるのか」

「ここに」

 僕は調査員を水槽へと誘った。眠れる兄は、生まれたての赤子がはじめて世界と対面するように目を開き、ぱくぱくと唇を動かした。言葉は発せられず、その表情には恐れもおののきもなく、まるで仮面のように静かだった。わずかに漏れる吐息はフルートの音色となり、天井の崩落した温室に空疎に響きわたった。

「ああ、とうとう目覚めたのですね、兄さん」

「いったいどういうことだ」

「あなたは山賊ではなく、ねむり姫を目覚めさせた王子様というわけだ。しかしながらねむり姫には眠っていただかなければならないのですよ。この血を絶やしてしまうために」

 僕は薔薇の香水を一息に干し、そして頸動脈にペーパーナイフを滑らせた。たちまち僕の体から大輪の薔薇が幾重にも幾重にも萌え出して、この温室を覆ってしまった。兄は再び眠りにつくだろう。そしておそらく闖入者は僕の養分となり、そして僕が包みこむ兄の糧となって息絶えてしまうに違いない。


 


 


 


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