箪笥に人権はないのですか?

 喋る箪笥。動く抽斗。謎の紙切れ。そして、理不尽な要求。


 件の桐箪笥の主張はただ一つ「私に書くことをやめろ」ということだ。


 正真正銘の絶筆。


 掌編をつづること、手紙を書くことはもとより、買い物リストを作ることも、チラシの裏で世界を夢想することすら許されない。仮にも文筆業を志してこの十数年を歩んできた身としては、生きるのを止めろと言われているに等しい。


 死にたいと思って死ぬ人間がいたとして、赤の他人に死ねと言われてやすやすと死ぬような人間が、果たしていま、に存在するものか。


「なるほど、お前が人間ではないことくらいは、まあ信じてやらんこともない」


 文机の端の方に追いやられていた灰皿を自分のひざの上に置き直して、私はわざとらしく煙を吐き出しながら言った。


「そ、そうですか、それは話が早くて助かります、では改めて自己紹介の程を――」

「それはもう要らん」

「は?」


「必要なくなったと言っているのだ。人間ではないということが分かった以上、お前の正体が宇宙からやって来た知的生命体だろうが、昔この家に住んでいた人間の怨念だろうが、どうだっていい。ただ興味があるのは――お前がどうやったらここから出ていってくれるのかということだ」


 私は煙草を箪笥の方へ差し向け、やや語気を強めてそう言った。


「ええ、ですから先生が筆を置くことをちかっていただければすぐにでも」


「……どうも箪笥という奴は物分りが悪いらしいな。いいか、ここは私の宿だ。そしてお前は無断でうちに転がり込んできた喋る箪笥だ。お前の行動は住居不法侵入罪に値する」

「は、その節は誠に無礼な所作であったとおびを――」

「本来であれば」


 私は箪笥の言葉を途中で遮った。


「本来であれば、しかるべき処へ突き出してやるのが筋だが、残念ながらいまの世界に箪笥を裁く法も、箪笥の身柄を保証する法もない。それは何故だか分かるか?」


 私は煙草を文机の角に押し付けた。セミが絶命したときのようなジッという音と共に、木の焼け焦げた匂いが鼻先に漂う。


「箪笥に、人権はないからだ」


 箪笥は黙って私の話を聞いているようだった。私は続けた。


「私はお前を粗大ごみとして出すことも出来るし、多少面倒だが工具を使って解体することだって出来る。箪笥に痛覚があるのか知らんが、ともかく、それが嫌なら身の程を弁えてとっととこの家から出て行け。今すぐに、だ」


 言い終えて、私は目の前の和箪笥の様子を覗った。話の内容が分かっているのか、分かっていないのか、箪笥は尚の事だんまりを決め込んでいる。


 まさか、とふいに私の背中を冷たい汗が伝った。相手の手の内を知らずに宣戦布告をしてしまったことが急に酷く迂闊うかつなことを仕出かしたように思われたのだ。


 平凡な和箪笥の姿をしているとはいえ、相手は仮にも、正体不明の化物である。

 箪笥が突然馬鹿みたいに笑いだし「身の程を弁えるのはどちらかな」などと不敵な台詞を吐いて私を金縛りに遭わせる可能性がないとは言えない。あるいは、大きくため息をついて「それならば仕方がないですね」と紳士的な口調でもっていきなり私の両腕を引き千切ろうとする可能性だって全くもってゼロではない。工具、と口走ったものの私の家には必要最低限のものしか備えていないので、当然ながら武器となるようなものもない。


 多少の戦力にはなるだろうと後ろ手にライターを握り締め、相手がどう出てくるかと固唾かたずを呑んでいると、箪笥がついに重々しく呟いた。


「……これでは、話が違う」


 来た。これは芳しくない反応である。私のライターを握る手がじんわりと湿った。


 箪笥がぎしりときしむ。その軋みは次第に大きくなり、畳を伝ってびりびりと座椅子を揺るがす震動もまた徐々に激しいものへと変わっていく。


 鋭利な第六感の告訴により、思わず私は立ち上がった。箪笥の軋みはいつしか部屋全体を揺り動かすマグニチュードへと変貌へんぼうしていた。卓袱台はその四足でもって軽やかなステップを踏み始め、文机はその鈍重さ故に中途半端な三連符を刻み始める。机上に寝転がっていた猫の文鎮が怯えたようにコツコツとい回り始め、オー・ド・トワレの香水瓶がフランス語の洒落たネーミングからは程遠い真っ黒な内容物を今にもぶちけようとした、ちょうどそのとき。


「これでは、話が違うではありませんか――兄者!」

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風が吹くと桶屋が儲かる世界で。 紫縁 @Yukari

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