月にうれへてねをぞ泣く
ちょうど、
語りに熱の入っていた古典教諭そっちのけで、拘束から解放された生徒らは早々に授業の片付けを始めている。
「ああ、キリのいいところで鳴りましたね。じゃあ今日はここまで。あ、でも、能の“
起立、礼、と日直の号令が飛び、がたがたと椅子からはけて級友たちは休み時間へと移行していく。
重い足取りで、黒板の白い文字を消している祈子のもとへと向かっていった。
「せんせー」
呼び掛けると、すぐに振り向いた祈子が、目を合わせてあら、と声を上げた。
「
どうしたの? と無邪気に微笑みかけられて、和雲は舌打ちしたくなるほどの苦々しい気持ちを圧し殺しながら右手を差し出した。
「あー……。あの、これ」
「なあに?」
手渡したのは小さな鈴のついた自転車の鍵だった。祈子があ、と小さく叫ぶ。
「ありがとう!
ほら、彼が出張に行っちゃったから、と声を潜めて言う。
「ああ。困ってるだろうから、渡してやってくれって、兄貴に頼まれて。出張に行く前に、
「そうなんだ。ほんと助かったわ、ありがとうね」
にこりと、祈子が目を細めて微笑う。ほんのりと頬を染めて、照れ臭そうにするその姿はまるで
ぐっと、もう一度舌打ちをこらえて、和雲は目を逸らす。
「……先生」
「? どうしたの?」
「さっきの、藤原定家ですけど、おれが一番好きな
「そう? 川水くんは、どれが好きなの?」
「……『かきやりし その黒髪の すぢごとに うち臥すほどは 面影ぞたつ』ってやつ」
「かきやりし……」
――独り寝の夜には、あの人の面影が鮮やかにたって現われる。この手で掻きやったその黒髪が、ひとすじごとにくっきりと見えるかのように。
祈子が紅に染めた頬のまま、彼女よりもわずかばかり高い位置にある和雲の目を見上げた。
「ずいぶんと艶っぽい歌のチョイスね」
「せんせーには刺激が強すぎました?」
「こらっ」
大人をからかうんじゃありません、と笑って嗜めて、祈子は教材をまとめて抱えあげた。そして鍵についた鈴をちりんと鳴らしてみせる。
「これ、ありがとうね。本当に助かったわ」
そういって、もう一つ小さく微笑みを投げると、長い黒髪を揺らして教室を出ていった。
後ろ姿を見送って、和雲は今度こそ本当に小さく舌を打つ。
かきやりし黒髪のすぢごとに――それは果たして歌人の妄想だったのだろうか、それとも愛の想い出だったのだろうか。
どちらでもかまわないのだ、と虚構と現実の狭間で和雲は考える。
妄想であれ現実であれ、執着する心には違いない。心を
庵に降りしきる時雨と同じく、今も昔もずっと変わることなく。
高潔の内親王に懸想する歌人と、教師であり実兄の恋人である彼女に片恋する自分と。
まったく人の世の
テイカカズラ 玉鬘 えな @ena_tamakazura
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