君葛城の峰の白雲
「それら、
『玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする』
――命よ、どうせもう絶えてしまうものならばどうか今すぐにでも絶えてほしい。このまま生き永らえていたならば、人に知られてはいけないこの恋を、隠しとおせる自信がないから。
式子内親王は
彼女たちは代々、清らかな生活に身を置いて賀茂大神に仕え、任期を終えて退下したあとも独身を貫くのが慣例だったのです。
ところがこの式子内親王という人は、どうにも定家とただならぬ仲であったのではないかとの推測が浮かび上がってきます。源氏物語や伊勢物語にも例が見られるのですが、斎院のように恋を禁じられた立場の人も生身の人間ですものね。人並みに女として、殿方と恋に落ちることもきっとあったのだろうと先生は思います。
とはいえ、核心に触れる書き方をしているわけでは決してなく、そのような仲であったことが匂わされている程度。そして再三言っているように、残されている書物というものは虚構と現実が入り交じっているものなので実際にはどの程度の関係であったのかはあくまでも憶測の域を出ません。
だけれどもさきほどの百人一首にも採られている和歌。この命がけの和歌に対して定家の方にも激しくも密やかな恋の和歌がたくさん残っているのです。
『白玉の
――緒が絶えるという「緒絶の橋」の名を聞くだけでも辛い。あの人との仲が絶えぬかと憂い、真珠の緒が絶ち切れたように砕け散って袖に落ちる涙を見るにつけて。
緒絶の橋、とは
『思ふこと むなしき夢の
――人の思いは虚しい夢の中で絶えてしまうとしても、苦しくも命を繋ぎ止めている玉の緒だけは絶えないでくれ。
こちらのほうが、より式子内親王の
だけど先生は、定家の歌の中でもっとも激しくて式子内親王への熱い思いが込められているのは次の和歌じゃないかと個人的に考えているの。
『夜もすがら 月にうれへて
――一晩中、月に訴えて、私は声をあげて泣くのだ。命に逆らうこの恋に憂えているといって。
この句は、師でもある父親の
先生はそこに、彼のとても熱く強い思いと、おおやけに成就することのない恋への切なさを感じ取って、この定家という人と高潔の内親王にもしかするとあったかもしれない秘密のロマンスに思いを巡らせてしまうんです。
さて、だけれども。そんなふうに感じ入るのはもちろん先生だけではなかったようで。
現代に至るまでのたくさんの人々の間でこの二人のことは議題になってはいろんな説が囁かれてきたのです。
その一つ、有名なのがさきほど少し触れた“
どのようなお話かというと、冬の始め――そうちょうど今くらいの季節かな。北国からやってきた僧侶が京の都の千本というところへ差しかかったところ、おりからの時雨にみまわれ、近くにあった建物で雨を凌ぐことになりました。
雨宿りを始めてしばらく、どこからともなく数珠を携えた女が現れます。女が言うには、そこは“
『偽りの なき世なりけり 神無月
――この世には嘘偽りが多くありますが、時雨の次節になれば時雨が降る。これに偽りはなく。
定家のこんな歌に由来した建物の名前ではないかと、女と僧侶はそのような会話を続けます。僧侶は女から聞く定家の人物像に惹かれ、親身に話を聞いていました。すると女は定家卿の供養をしてはもらえないかと頼んできます。ついてきてほしいという女に案内され僧侶が訪れた先には、蔦葛が這い纏ってその姿を覆い隠されている古い石塔がありました。女が言います。
「これは式子内親王のお墓です。ここに纏わりついている蔦は“定家葛”と申します。
生前、身分違いな上に斎院である内親王とは結ばれるはずもなく、かといって深い契りが忘れられない定家卿の思いは妄執となってこうして今も絡みつき、互いに離れられずに現世で苦しみ続けているのです。
この恋に耐えられないなら、命さえも『絶えなば絶えね』と詠った内親王。そして、
『
――嘆こうとも恋焦がれようとも、今や逢う道もなく。あなたはまるで
と詠んだ定家卿。その強い思いが、こうして乱れた髪のように絡まり合い、もう逃れる術もない。どうぞお助けくださいまし」
そう言うなり消えてしまったその女こそが、式子内親王その人だったのですね。取り除いても取り除いてもすぐにまた這い纏う定家葛に、身も心も閉じられて哀れ成仏できずに現世をさまよっていたのです。
僧侶はさっそく、弟子とともに念仏を唱えて供養を始めました。月影に浮かび上がる内親王の真の姿。苦しい辛いと、遠い昔からの夢のごとき邪淫の妄執にがんじがらめの己の境遇を涙ながらに訴えます。
経をもって定家卿の執心を払い除け、自身の執心も捨てて成仏なさいませ、と僧侶がいう。経の力で葛がみるみるほどけていく、石塔も内親王も拘束から抜け出して自由になる。内親王は涙を流しながらも辛苦から解放された喜びを告げ、お礼にと僧侶に舞を舞ってみせるのでした。
だけど舞を終えると、顔を伏せて再びほろほろと涙を流し、
「かつては美しくもあったものですがこの世から消えたのち、定家葛に絡めとられ、醜いゆえに夜しか姿を表さぬ葛城の女神のようになってしまいました。私もそれに倣って、夢の覚めないうちに姿を隠すことに致しましょう」
と言うなり、墓標の影へと消えていきました。
すると、なんということでしょう! 僧侶らが見守るうちに、またもとの通りに定家葛が墓を這い纏い、あっというまにその姿は見えなくなってしまったのです。
あとには、時雨そぼ降る晩秋の荒れ野が広がるばかり――――。
ともに邪淫の妄執を……内親王は成仏よりも定家の愛欲の執着を
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